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TOPIC 『論理学の哲学』(S.Haack)
 
Subject 論理の範囲
Author イストラン [ 2702 to イストラン ]  3/20/Tue/2002   

 論理の範囲を厳密にどうやって限定するのかということには一体どんな意味があるのか。こう問うことはもっともなことである。しばしばこの問題は哲学的テーゼにとっては核心的なものと考えられてきた。論理主義 の事例は興味或る例となる。
 論理主義とは、算術は論理に還元できるという(ライプニッツによって示唆され、フレーゲによって詳しく研究された)テーゼである。すなわち、算術的陳述は純粋に論理的表現 terms の中で表現され、算術的定理は純粋に論理的な公理から導出可能であるというものである。 或る式の集合が、説明される意味で、或るほかの式の集合に還元されるときに、これが「論理への算術の還元」とみなされるのか否かということは、前者の集合が適切に算術を表現しているのか否かということに依存し、後者の集合が「純粋に論理」として妥当に記述されるのか否かということに依存する。論理主義の場合、この両者に関する疑いの余地がある。ゲーデルの不完全定理が示していることは、算術の真理をいかなる公理の集合からも導出できないということ、だからなおさら、いかなる純粋に論理的なシステムからも算術を導出することはできないということであることは強調されてしかるべきである。あるいは現在の視点にとっては、ペアノの算術の公準をフレーゲが還元したところの公理なるものは、「純粋に論理的」なものではなく、それが集合論的な原理を含むのであるから、数学的である。たとえばクワインは(1970 pp.64ff)、集合論は論理の一部と見なされるべきではないと主張する。しかし彼の根拠は説得的であるとはいえない。彼は、別様の集合論が存在すると指摘する。けれども別様の論理というものも存在する(第9、12章参照)。そして彼は集合論が持っている重々しい存在論的関与に反対する。しかしながら、存在論的関与に関して彼の用いる判断基準には疑問がある(第4章参照)。
 したがって、哲学的理論の運命が論理の境界確定に依存するように見える一つの事例がここにある。けれども、これまで論理の範囲の問題とみなしてきたもののようなプラグマティックな問題に、論理主義の真理が依存しているなどということは、とてもがっかりするようなことではあるまいか。もう少し深く立ち入り、算術が真に純粋に論理的であるかどうかがなぜ問題だと考えれられるべきかを問うならば、そうではないと思う。本当に重要な問題は、あるいは私にそう思える問題は、まるで論理の範囲がキーポイントであるかのように問いを表現することによって曖昧模糊としたものになっている。なぜフレーゲは算術が論理に還元されることを示すことが重要であると考えたのだろうか。論理主義への動機は、少なくとも部分的には認識論的である。フレーゲの考えによれば、論理の原理とは、自明性であり、それゆえもし算術の法則が論理の原理から導出可能であることが示され得るならば、それは従って認識論的に確実であることが示されることになり、いわば無垢性 innocence を獲得することになるのである。しかしながら、フレーゲの論理は(あるいは「論理」は)無矛盾ではないことがわかった。ラッセルのパラドックス(第8章参照)がそこで導かれる。この非無矛盾性の発見に対するフレーゲの応答は、問題の公理が他のものと同じようにまったく自明であるとは彼自身考えていなかったということを認めるようなものである。これはまた自明性の概念についての健全な懐疑を引き出すような意見表明である。しかし現今の関心事に対してこの話はどう関わってくるのか。フレーゲの土台となるもの、それが論理であれなんであれ、それは彼が考える認識論的立脚点 standing を持ってはいなかったのだから、彼のプログラムの認識論的な視点は、論理の境界確定に関する決定にもかかわらず、失われているということである。

少なくとも、今や一つのことだけははっきりさせねばならない。形式的システムが論理としてみなされるのかどうかということは、深く困難な哲学的問題に関わる問いである。論理における哲学的問題の拡がりが最初から明らかであることは良いことである。というのも形式的論理の主たる価値である厳密さはまた己に権威的な雰囲気を与えがちであるから。これがまた論理的システムの複数性をなぜ私が主張するのかという理由にもなる。別の選択肢との間で決定するときに、人はしばしば形而上学的あるいは認識論的先行概念を認知する必要にせまられるが、これはさもなければ暗黙のうちにとどまっているだろうものである。


 フレーゲは準備段階として第一の完全に仕上げられた形式的論理システムを構築した。これは彼の望んだところによれば、その論理的公理から算術に関するペアノの公準を実際に導出することによって論理主義の真理を確立せんとするものであった。彼は1879年に論理的機構を発展させ、1884年に算術的表現の妥当な論理的定義を、1893,1903年にその派生物 derivations を与えた。数学の論理主義哲学に対する直截的導入に関してはCarnap 1931 を参照。

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Subject 論理の範囲
Author イストラン [ 2698 to イストラン ]  3/19/Mon/2002   

 にもかかわらず、「疑わしきは罰せず」ポリシーに従って私が含めているシステムを排除するためのいくつかの議論を見ることは教育的であろう。ダメットの論ずるところでは(1973, pp.285-8; また Kneale and Kneale 1962 p.610)、認識「論理」は本当は論理ではない。なぜなら信念や知識というものはどうしようもなく曖昧な概念だからである。論理の形式化に対する動機の中にある重要な要素は、厳密さを増大させることであって、たとえ曖昧性が論理的活動からの概念を絶対的に妨害するか否かについてはなお議論があるとしても、論理学者の不動の選択からすれば、曖昧性は通常避けられることである。もちろん、「でない」「かつ」「あるいは」「もし〜ならば」に関する論理学者の扱いは、すでにして、非形式的否定や連言などのどうでもよくはない純化 tidying-up に関わる(第三章§2を参照)。思うに問題は、たんに「知る」や「信じる」が曖昧であるかどうかではなく、それらの曖昧性がどうしようもないものなのかどうか、つまりそれらは必然的に組織化に逆らうものなのかどうかということである。文献において見出される認識論理(Hintikka 1962)がなにか失望させるものであるということには譲歩しなければならない。その一つの根拠にダメットは注意を促す。sがpを信じており、qがpに続くと、sはqを信じるということに、人は一つの公理を見る傾向がある。信念に関する通常の曖昧な概念は、換言すれば、おそらくは「論理的信念」と呼ばれる論理的代役に取って代わられる。これによって形式的に興味あるシステムの構成が可能になるのだが、それは信念についての非形式的な議論への関与を極めて厳しく制限するのである。
 また他の人、たとえばレスニエウスキー Leśniewki の示唆するところによると、多値論理システムは論理と見なされるべきではない(Rescher 1969 を見よ)。いくつかの多値論理システムが純粋に形式的な興味から、またコンピューター技術のために考案され探求されてきたことは本当である。しかしまた本当でもあり重要でもあのは、ルカシェヴィッツ Lukasiewicz やボクヴァー Bochvar のようなパイオニアたちは極めて明晰に、自分たちは古典的機構にとって代わるものとしての論理システムを提起しているとみなしていたということである。それでも、依然として形式システムが論理性を主張するのは、それがある種の解釈を持つということに依存していると、私は認めなくてはならない。多値論理システムを除外するために与えられるだろう根拠は、それが真理の理論あるいは真理保持者たちの理論の中であまりに根本的な変化を要求するということであり、このラディカルさは古典的、二値論理と比べて劣るものではない。この種の議論にどれだけの重みを与えるのか、それは明らかに、ありうべき真理の概念に関しての多値性の意味 effect をどれだけ根本的に信じるかに拠っている(関連する議論については、Haack 1974 第三章)。
 認識論理と多値論理に対しては、その論理としての身分を、私は疑わしきは罰せず原則から見る。しかしながらどちらの場合も、惹起された疑いはいくつかの考察に基づいており、私はその考察の重要性については譲歩する。認識論理の場合は、新しい演算子の曖昧性を除去することの困難、多値論理の場合は、新しい価値の妥当な解釈を与えることの困難である。これらの考察が重要だというのも、それによって、認識論理や多値論理が、目的と解釈という観点から、古典論理に対して持つ類縁性の強さを問題にされるということである。しかしこれらのシステムを論理として認めることに私は傾いているのである。もちろん同時に、古典論理に対する代替物として、その信用性を容赦のない精査にかけながらであるが。こうした寛容さは、古典的システムとの類似性を使って論理を描写する手続きに内在する保守主義に対抗する一助となるだろう。

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Subject 論理の範囲
Author イストラン [ 2697 to イストラン ]  3/18/Sun/2002   

 しかしながら、トピック中立性という考えや、それに関係する形式と内容の区別の持つ漠然としたところは、必ずしもいかがわしいものではない。先に述べたように、論理が特別の「本質的な性質」を持つことは疑わしい。たとえば、様相論理が論理の範囲内に含められるほどに古典的な論理であると判断するとき、「必然に」とか「可能的に」という副詞が「新しい論理的語彙」だと見なされるほど十分にトピック中立的であるという考えを暗に信頼しているのである。であるから、トピック中立性という考えは、どんな形式的システムが古典的論理と適切に類同的であるかということに対する直感を強めることに役立ちうるのは確かなことである。論理と他の形式的システムとの間のどこに線を引くかということは、他の場合よりもある場合にはもっと疑わしく、もっと紛糾してくる、ということも重要なことである。たとえばある種の数学的理論、とりわけ、集合論は、応用において非常に一般的であり、また論理に対して強い近親性を持つように見える。認識論理や偏向論理は標準的論理形式主義よりも、主題に関してより特殊的であるように見え、そこに含めようという主張はそれほど強くはない。要するに、「数学的」形式主義の排除 exclusrion について疑いを持てばもつほど、その応用が一般的となり、「論理的」形式主義の包摂 inclusion について疑いがあればあるほど、その応用は一般的でなくなる。これが示唆することは、トピック中立性というものが正しいやり方では in the right way 漠然としたものである、ということである。
 これらの考えは即座に重要なものであることがわかる。次章で論証の妥当性がその形式に依存するものであるというテーゼを論じるときに、形式と内容の区別をもっと詳細に究明してみよう。論理がその特性としてトピック中立的であるという考えは、第十二章で、論理における一元論対多元論の問い、つまり唯一の正しい論理があるのか、様々な論理が異なった言説領域でそれぞれに適切であるのかという問いに取り組むときに、関わってくる。
 しばしば、純粋形式的メタ論理的判断基準が、他の形式的システムから論理を区分するものだと言われる。たとえば、ニール Kneale の勧める見方によれば、ただ完全なシステムだけが論理の範囲に入ることを許される。そうした判断基準を結論とすれば、私の寛容なリストは制限されることになるだろう。二階の述語計算は通常の意味では完全ではないのだから、これらの基準からすれば排除される。この提案は厳密さという点では分がある。しかしそれはどんな合理的根拠を持つのかと問うてみる権利はある。なぜゆえに、完全性がシステムの論理性の基準でなくてはならないのか。ニール(1956 pp.258-9)は次のように論じている。理論が不完全であることは、その基礎的概念が完全には形式化できないことを示している。そして論理の本質的に形式的な性質からすれば、その範囲からこの理論を除外することを正当化する。興味深いことに、あるシステムが「純粋に形式的」であることとして、完全性を提起するわけであるが、彼は完全性の正確な考えをより曖昧なトピック中立性と結合させている。しかしニールの議論が「形式的」に関する多義性に依存しているのではないか、というおそれがある。集合論の不完全性がその基礎的概念、メンバーであることを「形式的」ではないものとして示すことの意味とは、単純に言って、この概念は、それと本質的に関わるすべての真理を生み出す公理や規則のセットによっては完全に特性づけられることができない、ということである。そうした概念が属しているのは論証の形式ではなく内容であるという意味で、それが「形式的」ではないというふうに考えなくてはならないことになるのはなぜか、これは明らかではない。
 私の感覚では、良く動機づけられた well-motivated 形式的判断基準への期待はそれほどあてにならない(しかし19ページを参照されたい)。別の事例がこの予感を支持するであろう。もしも推論の導きとして、非形式的論証の評価手段として論理の役割に特別の重みを置くならば、論理的システムが決定可能であることの要求だとか、ある論理式が定理であるかどうかを決める機械的手続きが存在することへの要求において、何らかのポイントを見るかもしれない。しかしこのことは、命題計算は決定可能だが、述語計算はそうではないというふうにして、論理の範囲を実際上、かなり厳格に制限することになるだろう。

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Subject 論理の範囲
Author イストラン [ 2695 to イストラン ]  3/16/Sat/2002   

 代数や幾何あるいは生物学、物理学の公理化というシステムと、形式論理との間に区別を設けることがここでの意図である。この境界確定は「論理の本質的な性質」についての深いアイデアにもとづくものではない。実のところ、そうした「本質的な性質」なるものが存在することは疑わしい。しかし、それはまったく恣意的かというとそうではない。論理の哲学に関する著者たちが、論理について語るときに通常持っている考えに、合理的に照応するものであることを望む。そして、それは少なくとも次のようなプラグマティックな根拠を持っている。
 これらの「標準的」ないし「古典的」論理(かつ基礎的形式論理の授業で教えられる論理)として知られる形式的システムは、確かに論理として見なされなくてはならない。またこれらに類似した形式的システムを論理として承認することも適切であろう。私がそうした「類似の」システムに含める体系の中には、古典的論理の拡張があり、このシステムは新しい論理的語彙を加えたが(様相論理における「必然性」と「可能性」、時制論理における「〜が事実であった it used to be the case」「〜が事実であるだろう it will be the case that」、義務論理における「べき ought」と「てもよい may」、認識論理における「知る」と「信じる」、偏向論理における「好む prefers」)、同時にその新しい語彙のために新しい公理や規則を加える。あるいは親しまれた論理的操作を新しい項目に適用する(命令文、疑問文)。また古典論理からの逸脱、つまり同じ語彙を使用しながら異なった(通常は、より制限された)公理や規則を伴うシステムがある。そして帰納論理があり、これは論理的帰結に類似しているが、それより弱い支持 support の概念を形式化することを目標とする。これらのシステムが古典的論理と類似していることの内には、たんなる形式的類似性ではなく、目的や志向された解釈の類似性もあるのだが、それはこれらのシステムを論理として見なすことを自然なものとする。(他の考え方をすると、伝統的アリストテレス論理から始めることもできただろう。それの拡張が現代の「古典的」論理であり、同様の類似プロセスによってそこから発展したのだ。)
 しかしながら、システムが古典的論理と十分似ているという考えは明らかにかなり漠然としたものである。これでは論理の範囲があまりプラグティックでない、もっと適切に言えばファッション的に限られているだけではないかと理性的に疑うことができる。
 論理とは主題から距離をとって、論証の妥当性自体に関わるものだという伝統的な考え方、ライルが手際よく、論理とは「トピック中性的」だと表現した考え方は、論理の範囲を限るための原理を提供するものと思われる。この説明では、主題に関係なく推論に適用可能であるシステムが論理と見なされるだろう。これは共感してもよい捉え方であるが、ただ、先に始めた古典論理との類似性という観点に比べて、本当にもっと適切なものであるかどうかという疑いが残る。まず形式的システムがしかじかの主題についての推論に「適用可能」だということは、一体何を意味するのだろうか。おそらく、その原理は推論について真理であることが意図されている。では、「主題とは無関係に」ということで何を理解すべきなのだろうか。示唆となるかも知れないのは、命題計算、述語計算が主題とは無関係である一方、たとえば代数は数についてのものであり、トピック中性的ではない、ということである。しかしこのことからは、「について」についての奇妙な問いが生じる(一階の述語計算は「個体について」のものだろうか)。さらに、論理がその主題とは無関係に推論に適用可能なのは、その内容よりも形式に関わるからだということも示唆的なことである。この考え方は有益ではあるが、まだ正確なものではないと思う。どうやって論証の形式とその内容とを区別するのだろうか。時制論理は時制文に適用可能である。命令論理は命令文に適用可能である。そして文の時制や法が内容というより形式に関わるものと見なされるのは怪しむべきことではない。がしかし、他の事例はそれほど直線的ではない。一つの文が信念についてのものであるということは形式の問題であるが、数についてのものであるということは内容の問題である、などということを明らかにする前に、そもそも形式という観念がもっと洗練される必要がある。

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Subject 論理の範囲
Author イストラン [ 2691 to イストラン ]  3/15/Fri/2002   



 2 論理の範囲

 科学の哲学の問題の中には科学の範囲についての問いがある。どのような知の領域(あるいは知)が科学とみなされるのか。たとえば錬金術、占星術、社会学、心理学は真実の科学なのか。ある探求領域を含んだり、あるいは排除することには、どのような根拠があるのだろうか。同様に、論理の哲学の問題の中にも、論理の範囲についての問いがある。したがって論理の哲学の範囲についての問いがある。論理とは何か。どのような形式システムが論理のシステムなのか。どういうわけでそうなっているのか。
 どこかから始めなければならない以上、形式システムについての直感的考えは当然のものとみなすことにする。しかし形式論理について話すときに、私が描いている形式的システムの幅については指摘しておこう。
 はじめに、解釈された形式システムと解釈されていない形式システムを区別することが大事なことである。解釈されていない形式システムは記号の集まりにすぎない。したがって、それはたとえば数学や物理の理論の形式化と比べて、形式論理として見なすことはできない。形式システムが論理となりえるのは、思うに、一つの解釈を持つことに依存する。その解釈によって、妥当な論証のカノンを具体化しようとしているものとみなすことができる、そういう解釈である。私は多値「論理」を論理とみなすが、それは解釈を持つからであり、その解釈に従って価値が「真理価値」となり、変項が命題となり、操作子が否定や連言となる。(それらはたとえば電子回路上では別の解釈を持つであろう。論理的解釈と電子的解釈の同型性はコンピューターの動作にとって重要なことである。参照:Rescher 1969 p.61)であるから、論理としての多様な形式主義について語る際には、それらの通常の解釈に対する暗黙の訴えをすることになるだろう。
 どの形式主義を論理と見なすのかを決定するにあたっては、とりあえず、いかなる懐疑にも懐を開く寛容のポリシーをもって採用することにした。とはいえ、結果として、なぜ私が含めたシステムが除外されるべきなのか、という議論には何らかの注意を払うことにする。このポリシーの根拠は、一つには、よく出来た有益なシステムであるかどうかをまともに問うときに、ある形式システムを「本当は論理ではない」ものとして無視する危険を軽減することにある。たとえばクワインは、抽象的、内包的対象―固有性 properties の存在論に荷担するものがあるとして、二階の述語計算を排除したが、そういうクワインはこの種の危険に陥ったのではないかと思う。(同様に、芸術の悪しき作品についての問いを回避するように仕向けるような、芸術作品が何たるべきかという定義についても、私は信用しない。)ともあれ、形式論理の中に含めるのは以下のものである。

 「伝統的」論理   アリストテレス的三段論法 Aristotelian syllogistic
 「古典的」論理   二値命題計算、述語計算 2-valued sentence calculus predicate calculus
 「拡張的」論理 'extended' logics
   様相論理 modal logics
   時制論理 tense logics
   義務論理 deontic logics
   認識論理 epistemic logics
   偏向論理 preference logics
   命令論理 imperative logics
   修辞論理(問い論理)erotetic(interrogative) logics
 「逸脱的」論理 'deviant' logics
   多値論理 many-valued logics
   直観主義論理 Intuiitionist logics
   量子論理 quantum logics
   自由論理 free logics
 「帰納的」論理 'inductive' logics

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Subject T 「諸論理の哲学」
Author イストラン [ 2688 to イストラン ]  3/14/Wed/2002   


哲学の数学的代用物は存在しない。― クリプキ、1976


 1 論理、論理の哲学、メタ論理

 私が理解している論理の哲学の本分というのは、論理によって生じる哲学的問題を探求することである。科学の哲学の本文が科学によって生じる哲学的問題の探求であるように。そして数学の哲学が数学によって生じる哲学的問題の探求であるように。
 論理の中心的関心事は、妥当な論証 argument を非妥当な論証から分けることである。そしてお馴染みの命題、述語計算のような形式的論理システムは、妥当性の厳密なカノン、純粋に形式的な標準を与えるように意図される。そこで論理学の企図から生じる哲学独特の問いには次のようなものがある。論証が妥当であるとは何を意味するのか。一つの陳述 statement が別のものに続いて生じるとは何を意味するのか。陳述が論理的に真であるとは何を意味するのか。妥当性は何らか形式的システムと関連したものして説明されるべきなのか。あるいは形式的システムが表象しようとする外-システム的観念 idea が存在するのか。妥当であることは良い論証であることと関係があるのか。形式的論理システムは非形式的な論証を評価する際に助けとなるのか。たとえば、どのように「そして」が「&」となるのだろうか。また「p」や「q」は何を表していると考えるべきだろうか。一つの正しい形式論理があるのだろうか。「正しい」とはそこで何を意味しているのか。どのように妥当な論証ないし論理的真を認知しているのだろうか。どの形式的システムが論理と見なされるのか、そしてそれはなぜか。いくつかのテーマが繰り返される。つまり論理の範囲と目的、形式的論理と非形式的論理の関係、異なった形式的システムの間の関係。
 論理の哲学の領域は、メタ論理と関係してはいるものの、区別される。メタ論理は形式的論理システムの形式的な特性に関する研究である。それが含んでいるのは、たとえば、システムの無矛盾性 consistency 、完全性、決定性に関する証明(ないし反証)である。論理の哲学は同様に形式的論理システムに関する問いに関心を持つが、純粋に形式的というより哲学的な問いに関心を持つ。標準的な二値的、多値的命題計算を例として取り上げると、いかなる意味で、もしそんなものがあるとすれば、いかなる意味で多値論理学は二値論理学の代替物となるのだろうか、ということが哲学者の知りたいことである。もしそういうものがあれば、どのような根拠においてなのか。あるいはまた、仮に多値システムが採用される場合、真理の概念がどうなるのか、などである。メタ論理的な帰結は、この種の問いに答えるにあたって役立つだろう。多値論理がまともな代替物であるための十分とはいえないが、おそらく必要な条件はそれが無矛盾であるということである。(たいていの)多値論理が二値論理に含まれる(つまりその定理は二値論理における定理であるが、逆ではない)ということは、多値論理の相対的な身分の問題にとっては重要なことである。第二の違いは、論理の哲学が形式論理についての問いに占拠されるわけではないということである。非形式的論証、そして形式的システムと非形式的システムの間の関係もまたその領域内にある。実際、形式的システムの発展は論理研究の深みと厳格さを非常に増したが、非形式的論証はしばしばそうした発展にとって欠かすことのできない第一歩となる。そして非形式的論証の体系化に成功することは、その有用性の一つのテストとなる。現代形式論理学のパイオニアの一人だったフレーゲが『概念記法』(1879)を発展させるように促されたのは、ドイツ語よりも曖昧さの少ない、負担の少ない手段で厳密な代数的証明を適切に与えようとしたからである、ということは重要なことである。
 「論理の哲学」という言い方は、思うに「哲学的論理」に比して好ましい。後者は不幸にも論理への特有の道があるという印象を与えがちである。むしろ論理に関する特有の哲学的問題があるといえる。(「哲学的論理学」とは異なり、「哲学的科学)とか「哲学的数学」という言い方にはならないことは見て取れる。)しかしながら、私が挙げた事例によって、一つの形式的論理学ではなく、その複数性が存在するということが示された。そこで、「論理の哲学」よりも「諸論理の哲学」という方がよいとも望んでいる。

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Subject 『論理学の哲学』(S.Haack)
Author イストラン [ 2684 new post ]  3/12/Mon/2002   



フレーゲ『概念記法』の公刊以来、前世紀においては論理体系の発展ならびに研究が巨大な進展を見せた。この進展の多様性はその大きさと同じく印象的である。その発展では、大きな分野を四つ区別することができる。その内二つは形式的なものであり、もう二つは哲学的研究である。(1)標準的論理学的機構の発展、これはフレーゲ Frege 、ラッセル Ruseell とホワイトヘッド Whitehead による構文論と述語計算の提示、後に、ポスト Post やウィトゲンシュタイン Wittgenstein 、レーヴェンハイム Löwenheim、ヘンキン Henkin の研究による意味論の供給、チャーチ Church やゲーデル Gödel の研究に見られるメタ論理学的研究である。(2)非標準的計算の発展、これにはC.I.ルイス Lewis が始めた様相論理、ルカシェヴィッツ Lökasiewicz やポスト Post による多値論理学、ブラウアー Brouwer による直観主義論理学がある。(3)これらと並んで、非形式的議論へ体系を適用する哲学的研究がある。文結合子と量化子、真理や論理的真理の研究である。(4)そして形式化の目的と可能性に関わる研究があり、それは形式的言語の哲学的意味について楽観的なカルナップ Carnap 、クワイン Quine のような人たちによるもの、記号論理を哲学的に関係づける提示に対して懐疑的なF.C.S.シラー Schiller やストローソン Strawson のような人たちによるもの、また主導的なものに対して論理学のより心理的力動的な概念を求めるデューイ Dewey のような人によるものがある。
 これらの発展が系統的なものであるというより並行的なものであるという事実には、何がしか哲学的な意味があると思う。「非標準的」論理学が標準的体系とともに発展してきたこと、そして特定の形式的体系に対してばかりでなく、そもそも形式化自体の希求に対する批判がいつでも存在してきたことを想起するのは為になる。
 先に区分した四つの分野における発展は、もちろん相互に独立していたわけではないし、私はそれらの相互作用において哲学的な意味を見る。たとえば、様相論理学と多値論理学双方の主たるアイデアのいくつかが早くも1880年にマッコール MacCalll によって予期されていたにしても、それらの体系的形式的な発展が登場するのは、1918年、『プリンキピア マテマティカ Principia Mathematica 』における非様相的計算の正典的形式化の後であり、1920年、二値論理のための真理表意味論の供給後のことである。しかしながら、非標準的計算の発展への動機は、古典論理の拡張、変容の可能性に対する数学的主張に由来するばかりではなく、哲学的批判にも由来している。様相論理の場合、含意を考えるための実質的条件法 materiial conditional の要求に関して。多値論理の場合、あらゆる命題が真であるか偽であるか、という想定に関して。そして、非標準的論理の一つの発展は別のものを促進した。たとえば、含意に関する直感的アイデアを、様相論理が形式化することに成功したことに対する疑いは、関与論理 relevance logics の発展に導き、様相体系の数学的主張が、類推論理、認識論理 epistemic、義務論理 deontic、時制論理 tense の発展を鼓舞した。あるいは、多値論理に対する哲学的動機が超価値 supervaluations のアイデアへと導いた。形式的な革新の方は、元来標準的計算から発した哲学的な問いに新しい次元をもたらした。たとえば、様相述語論理の可知性 intelligibility が問われたときに、量化子の解釈とその単純項 singular term への関係という問題が新しく先鋭化された形で出てきたように。あるいは、多値論理体系が提起する両価性への挑戦には、そもそも論理というものが文章、陳述、命題を扱うのかどうかに関する古き懸念が含まれていたことが分かったように。明示的にせよ、暗黙のうちにせよ、しばしば新しい形式体系は多かれ少なかれ根本的に挑戦を受け、形式論理学の目的と希求についてのいくつかの想定を受け入れてきた。たとえば関与論理は、実質的条件法、厳密条件法の妥当性を問うただけではなく、妥当性 validity の古典的概念そのものを問う。直感主義論理の際立った特定は一部分、数学に対する論理の優越という「論理学者の」想定に対する挑戦に由来する。曖昧論理 fuzzy logic は、形式化が曖昧さと妥協するのではなく、それを正すか避けるかするべきだという伝統的原理と絶縁する。そして最後の例が想起させることだが、しばしば新しい形式的発展が克服することを望んでいるのは、形式論理の支持者および批判者がその内在的限界とみなしたものなのであって、それはシラーやストローソンが強調するような、語用論的な相を扱うことができないという不可能性であり、この語用論的な相は非形式的推論の受容性に影響を与え、おそらくは、少なくとも部分的には、モンタギュー Montague が始めた「形式的語用論 formal pragmatics」によってその不可能性を克服する。
 この著作で私の関心とするところのもの、それは論理の歴史ではなく、論理の哲学である。しかし自分の戦略は、これまで素描した形式的問題と哲学的問題の相互作用に関する歴史への視点からのものである。まず、標準的論理機構 apparatus が発するいくつかの問題を考察することから始める。それは文結合子 sentence connectives、文記号 sentence letters、量化子、変項 variables、個体定項、妥当性 validity の概念、真理、論理的真理、これらの解釈である。第九章からは、これらの問題が形式的革新、「拡張された」「逸脱した」論理学を動機づけるその仕方の考察に向かい、それはまたこれらの新しい形式主義が今度は哲学的問題の再評価に導くその仕方の考察に向かう。そして結論として、最終章では、いくつかの問いとともに、またかなり少ない解答とともに、論理の形而上学的かつ認識論的位置、形式的言語と自然的言語の関係、推論に対する論理の関与について考える。
 加えて、この著作が持つ二つの回帰するテーマもまた歴史的な観点を反映している。論理における生き生きとした哲学的問題であると私がみなしているのは、次の二つの考察によって焦点を当てられるものである。(1)論理体系の複数性。(2)形式的計算が非形式的議論の評価に影響する仕方。他の論理の実在という点からみると、論理の認識論的位置に関する問いに対して合理的に根源的なスタンスを取ることが要求されるということ、形式的結果の解釈はデリケートな作業であり、そこでは形式化の目的に対する思慮深い注意が望ましいということ、これが私が主張するだろうことである。
 
 私が書こうとした本は、論理が提起する哲学的問いへの導入として有益であろうようなものであり、基礎的形式論理を把握し、哲学的問題をある程度知っているが、論理の哲学に関して予め知っているわけではない学生にとって分かるであろうようなものであった。しかし、単純な解答を与えたわけではないし、単純な問いすら与えるものではない。論理の哲学における興味深い問題は、複雑で難しいものである。その代わり、始めに提起しようと試みたのは、専門的事項を説明し、特殊事例を使って最高度に一般的な問題を素描することであった。この目的のために、主題に不慣れな人のために、テキストで使用される馴染みがないだろうと思われる項目の語彙集を用意した。また文献については各人の発見に資するようにいくつかの示唆を与えた。他方、もっと遠くへ進む人のために、豊富な(怖気づかせたくはないが)参考文献一覧を含めた。私の学生たちの反応からすると、単純化しすぎることは望ましいことでもまた必要なことでもないと信じていいように思われる。望んだのは学生にとって有益であるような著作を、同時に教師にとっても興味深いテキストを作ることであった---結果においてその望みが不可避的に欠落することを恐れるのだが。
 著者が前もって推し進めた見方を変えたのかどうか、あるいはどのように変えたのか、これについて不確実であることは、思うに腹立たしい。しかし他方、著者の以前の間違いについて繰り返し議論されることはうんざりさせる。したがって、妥協の産物として、『逸脱する論理』で進めた考えを、どこで、そしてどのように私が変化させたのかを、ここで手短に指摘する。第一に、論理の位置に関する形而上学的問題と認識論的問題との区別をかなり明確にした、と望む。そしてこのことによって、一元論対多元論の問いと、改定性 revisability の問いの区別をより注意深く行うことになり、また『逸脱する論理』で、ある種の混乱の内に想定された一元論よりも、条件つき多元論の方を支持することになった。第二に、量化子の代案的な解釈に関する存在論のための帰結が何かしら私の想定していたものより直線的なものではない、ということを評価することになった。このことにより、量化子と単純項との相互的な役割について、もっと微妙な、少なくとももっと複雑な説明に導かれることになった。しかしあえて言うなら、いくつかの古い間違いを見逃したことになるだろうし、加えて新しい間違いをすることになるだろう。

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