INDEX   投稿順一覧   最初の投稿   トピック内新規投稿   ツリー表示
TOPIC 『存在と時間』第1節〜第四節
 
Subject 『世界内存在』(ドレイファス)[編集:2/25]
Author イストラン [ 2648 to イストラン ]  2/26/Mon/2002   

 ドレイファスの『世界内存在―存在と時間における日常性の解釈学』を、そのさわりの部分、つまりここで今分析している部分を見てみたのですが、これはどうしようもない類に分類できると思います。ハイデガー研究をしている人から見れば「笑ってしまいます」の部類になるのではないか。

 なによりも言っていることが勝手な解釈すぎる。22ページの表では、探求されるものとして、「誰」「何」が挙げられているが、「誰」は「現存在という性格を持った存在者」だとされる。「何」は「他のあらゆる種類の存在者」であるとされる。しかし探求において暴露されるものを示しているのがこれだというならば、それは違う。第二節で言われたこととは、問いの構造は三分枝(問われているもの、問い掛けられるもの、問いただされること)になっているということだが、そのうちの「何」(Gefragtes, Erfragtes)とは、存在ないし存在の意味である。

 また探求の種類として、「存在的」「存在論的」が区分され、「存在的」とは「存在者に関わる」、「存在論的」とは「存在の仕方にかかわる」となっているが、これも違う。
 「存在的」が「存在の仕方」に関わらないならば、どうして現存在の存在規定が存在論的に存在することだとなっているのだろうか。
 また存在論的とは、もっと普通の意味で、学的ということであり、存在的とは学以前の、学を必要としない実践的理論的態度に関して言われることである。少なくとも、この段階ではそうである。この段階での話に、後になって出てくる<解釈性>というのをあやふやに接木するわけにはいかない。

 さらに驚いたことに、23ページに出てくるハイデガーの引用は、それ自体間違っている。「すなわちこの現存在という存在者が、それ自身「直接的に」把握されうるという意味においてではなく、この存在者の持っている存在の種類がまさに「直接的に」提示されているという意味においても」
 
 こんなことが言われているわけがない。ここで「存在の種類」となっているのは「存在様態」と普通は訳される、Seinsart である。

 ここまでの段階で注意しておかねばならないのは、<現存在><実存><存在的><存在論的><実存的><実存論的>というような言い方は、それが出てくる文脈なしに、理解できるわけではないこと、ドレイファスのやり方は、そうした文脈を無視して、勝手にあれやこれや自分流儀でこじつけているように見えるということである。

 「われわれは今や、現存在の特別な存在の仕方、すなわち実存に含まれることがらを取り出して考えることができる。文化と文化制度は、その存在の仕方としての実存を持っており、それぞれの個人もまた実存を持っている。」(25)

 こういうことをハイデガーが言っているとは思えない。実存とは、現存在という特殊な存在者が己の存在に対して態度を取り、関係を持つその存在であり、この存在者の本質が、他の存在者の本質のように、「それは〜である」というふうな本質規定を許さず、「そのつど己自身のものとして、おのれの存在であらねばならない」という状況における、その「ある」を意味する(12)。

 こういう規定で出てくる<実存>を、文化とか文化制度のもつ存在であるとみなすことができるだろうか。

 先に行って出てくる解釈性とか、あるいは根拠のない例示をたくさんひねくりだすおかげで、ドレイファスの説明なるものは、全然説明にはならず、むしろハイデガーの言うことを「隠蔽する」。存在様態とは何か、実存とは何か、どうしてこういうものが出てくるのか、また記述の不分明な点、すべてこうした実際の読解にあって作動しているものが、「ハイデガーの言わんとしたしたことはこうである」という、整合性と意味を求める性急な解釈によって、押しやられてしまうだろう。
 悪い意味でのアメリカ哲学の範例を見ているような感じだ。

返信(引用有)   返信(引用無)   全スレッド   ツリー表示   最新20   新規投稿   削除   編集
トピック= 2562 宛先= 2562 同宛先= 2563 2575 2610 2647 返信=
 
Subject 第四節
Author イストラン [ 2647 to イストラン ]  2/26/Mon/2002   

 表題に言われている「存在問題の存在的優位」というのは何なのか、それが非常に曖昧である。確かに次のような表現はある。

 「しかし実存論的分析論は、それ自身としては、結局のところ、実存的に、言い換えれば存在的に根をおろしている。哲学的・研究的に問うこと自身がそのつど実存する現存在の存在可能性として実存的につかみとられているときにのみ、実存の実存性を開示する可能性が成立し、また、十分に基礎付けられた存在論的問題性一般に着手する可能性も、それととともに成立する。だが、かくして存在問題の存在的優位もまた判然となったのである。」(14)

 これは、われわれの問いが「実存的につかみとられている」ときにのみ、存在理論の進展も成立する、という見ようによってはかなり異様な見解である。
 これはキルケゴールにあるような、実存の語りが実存可能性によって限定され、実存的気分のもとでなされるべきだという見解と歩を合わせている、キルケゴール、ハイデガー独特の正当化ではないだろうか。

 表題についてはこれで済ますことができるのだが、この節は「存在問題の存在的優位」ということを「現存在の存在的優位」とすり替えないし、敷衍している面がある。これについてはそういうすり替えを主題とせずに、むしろ生と学との対立ないし接合という側面で話をまとめておきたい。

 「諸学は人間の諸態度としてこの存在者の存在様式をもっている。人間というこの存在者をわれわれは述語的に現存在と表現する」(11)という確認であるが、この確認は、学をも超越する存在の語りというものを予想させる。学を現存在の存在様式にしてしまうことによって、あらゆる学に先立って現存在に存在を問い正すべきである、という存在の語りを狙っている。

 また「現存在が存在的に際立っているのは、むしろ、この存在者にはおのれの存在においてこの存在自身へとかかわりゆくということが問題であることによってなのである。」(12)ということによって、現存在とその存在との特別な関係が提示される。それは<存在体制 Seinsverfassung>と呼ばれ、日本語では「関わる」とか「態度を取る」とか訳される関係である。この関係はまた「存在了解」とされ、「己の存在の己自身への開示」とされ、かくて現存在は「存在論的に存在している」(12)となる。

 そして、この存在体制における現存在がそれへと態度を取っている当の存在が実存と命名される。「現存在がそれへとこれこれしかじかの態度を取ることができ、またつねになんらかの仕方で態度を取っている存在自身を、われわれは実存と名づける。」(12)

 ところで、この実存については、実存は実存であり、それはそれ自体で充足しているとされる。「実存の問題は、つねに、実存すること自身をつうじてのみ決着をつけられるべきなのである。」(12)

 しかし、この実存というのは無言のものではない。「そのさい指導的な現存在自身の了解をわれわれは実存的了解と名づける。」つまりここで、なるほど実存は学とは独立し、それ自体で充足したものであるというイメージがあるにも関わらず、<了解性>が現存在の規定になってしまっているので、この<実存>にも当然了解されていることがあるだろう、というふうになっているのだ。

 ひとたび、このように実存が実存了解となると、理論的な視点への繰り込みは自然に流れる。「この存在的な関心事のためには、実存の存在論的構造が理論的に見通されている必要はない」(12)のだが、それでも、この実存に性がつけられ、<実存性>となることによって、存在論への道、あるいは存在の理念のもとに配されることになるのである。

 「この実存性の分析論は、実存的了解という性格を持っているのではなく、実存論的了解という性格を持っている。」(12)
 「この実存性をわれわれは、実存する存在者の存在体制と解する。しかしそうした存在体制という理念のうちにはすでに存在の理念がひそんでいる。」(13)

 ここまでの道行きをまとめると、つぎのようになるだろう。

 ハイデガーはまず、学を現存在の存在様態とした。そしてこの存在様態を存在へとかかわり、存在を了解し、存在論的であるとした。しかるに、現存在にとって己の存在は実存である。そのつど己の存在でなければならない特殊な意味での存在であるこの実存は、同時に二つのことに道を開く。ひとつは学など必要としない、実存的、存在的なものが確かにあるという認容である。他方、実存性は実存論的分析論の主題であり、それは存在論的であり、また実存性の理念のうちにはすでにして存在の理念が潜んでいる、とされる。

 しかしこういう説明の仕方は、実存というものを学の外側に定位させながら、つまりわれわれには<学外の生>というものへ視線を向けさせながら、同時にそれを内部に引き込んでいる。

 こうした流れの最後に、冒頭に挙げた、「実存論的分析論は実存的存在的な根を持つ」という命題が登場し、これで「存在問題の存在的優位が示された」となるのである。

 以上の話には、学の理念と生の理念との接合ないし乖離という場面が見られる。これらを何らかの整合性をもって解釈するよりも、われわれにとって興味深いのは、こうした語りを通してハイデガーが、ある点では生へと視線を注ぎ、ある点では学的視線に乗り、
というような揺れの中にあるということである。そしてその揺れは、また実践と理論という同じく揺れている語りに反映してくると思われる。

返信(引用有)   返信(引用無)   全スレッド   ツリー表示   最新20   新規投稿   削除   編集
トピック= 2562 宛先= 2562 同宛先= 2563 2575 2610 2648 返信=
 
Subject 第三節
Author イストラン [ 2610 to イストラン ]  2/22/Thu/2002   

 第三節はそれが諸科学を「根本諸概念」によって規定されているとする点では、かなり眉唾な話であろう。私はこのような話を「そうである」と肯定する人の気が知れない。

 がしかしそれはそれとして(置いておく、というのはある人にとっては不快かも知れないが)

 「根本諸概念とは、一科学が主題とせる諸対象一切の根本には事象領域なるものが存し、これが先行的でありまたしたがった一切の実証的探求を先導しつつあるのだという了解を得させるような諸規定のことである。」

 このような根本諸概念の探求は、探求されるべき存在者をその存在の根本体制(Grundverfassung)にもとづいて解釈することであり、具体的にはプラトンやアリストテレスだったとハイデッガーは考えているのである。

 だから、諸科学に存在論が先立ち、その存在論にはしかしながら存在問題が、つまり「そもそもあるとは何であるか」という問題が先立つ、ということになり、これが第三節の表題「存在問題の存在論的優位」ということが示していることである。

 ここには難しいことは何もない。ただ、存在論は存在の意味を前提にする、ということである。

返信(引用有)   返信(引用無)   全スレッド   ツリー表示   最新20   新規投稿   削除   編集
トピック= 2562 宛先= 2562 同宛先= 2563 2575 2647 2648 返信=
 
Subject 「存在と時間」第八節まで
Author イストラン [ 2591 to アトレイユ ]  2/17/Sun/2002   

>「存在と時間」第八節まで、つまり「序説」まで読み終えたのですが、どうも訳が悪いのか、どうもペダンティックでついて行けない感じです、正直言って。

 どこが違和感を感じるのか言っていただければその部分で反応できるとは思うのですけど。
 ここで例と記述について言えば、例というのはほとんど意味を持っていないと考えた方がいいです。
 それよりも、ハイデッガーの語源趣味というものをまともに受け取ることができるかどうかで、彼はドイツ語の中にバラバラになっている表象をある統一構造のもとにもたらしたいと思っている。
 
 我々は意識していないのだが、我々が使っている言語はすでに存在を統一できる観点から語っていたという認知。これは日本語に翻訳するときに、どうしようもなく語源趣味と見えているところでしょうね。
 
 一例をあげれば、Befindlichkeit という言葉がありますが、これは「ある状態、状況にある」と訳しましょうか。これをハイデッガーは、感情、情動、気分にひっつけるのですが、日本語で言えば「気」のようなこの言葉が原初的な「存在の開示」を示すとされます。そういう解釈、つまり「気」がどうして「開示」に結びつくのかということには、 finden 発見するという意味がへばりついていると思えます。

 『存在と時間』は、フッサールの造語的表現とは違って、言葉それ自体を無限に信じているように見える、というのが私の印象です。それはまた彼の明示的な説、つまり人は伝統の中からこそ真なるものに接近しうるという態度に対応するものなのでしょう。

返信(引用有)   返信(引用無)   全スレッド   ツリー表示   最新20   新規投稿   削除   編集
トピック= 2562 宛先= 2589 同宛先= 返信=
 
Subject 「存在と時間」第八節まで
Author アトレイユ [ 2589 to イストラン ]  2/16/Sat/2002   

「存在と時間」第八節まで、つまり「序説」まで読み終えたのですが、どうも訳が悪いのか、
どうもペダンティックでついて行けない感じです、正直言って。いや、難しいことを言っているのなら私には難解で読めませんと正直にお手上げするのですが、難しくないことまでわざわざ抽象的に書いているとしか思えない。例えば、ある表現に対してひとつ具体例を挙げている個所があるのですが、そんな簡単なことをわざわざこんな回りくどい言い方をする必要性がどこにあるのか、といった感じで、しかもほとんどが具体例無しで書かれているので、詩の世界ならばこれでも許されますが、哲学の世界でこういうことをされると、それならまだマラルメ
でも読んだ方がいいって感じです。こういうのは相性の問題っていうのもあるのかも知れませんね。この文章が難なく読めるイストランさんはすごいですね。訳を変えてみますが、それでも同じだったら、ちょっと考えてしまいます。せっかくお薦めいただいて申し訳無いのですが。

返信(引用有)   返信(引用無)   全スレッド   ツリー表示   最新20   新規投稿   削除   編集
トピック= 2562 宛先= 2569 同宛先= 返信= 2591
 
Subject 第二節
Author イストラン [ 2575 to イストラン ]  2/15/Thu/2002   

 第二節は、これがすでにしてハイデッガーだというようなものでしょう。真理というものは、伝統的にある表現の形に沿って考えられてきた。〜は〜である、という形の断言文のまわりに構築された真理性。それに対して、J.L.オースティンは命令などの表現を取り上げ、言説とそれを言う者の力に注目した。真理性は力の表出のひとつのタイプになった。しかし、それでもその発語内的力の中に入れてなかった現象があって、それがハイデッガーの注目する<問い>という表現である。すでに1912年から、この<問うということ>への興味が言われています。

 「けれども、たいていの場合、言語の記述心理学的な研究の成果は過小評価すべきではない。とりわけ私の考えるのは、疑問の問題であって、これは純粋に論理学的には解決されえないし、純粋に心理学的にも解決されえないのである。」(『初期論文集』、創文社、31)

 これは論理と心理に関して言われていて、ここでは関係ないのですが、問いというのは、『存在と時間』においては挿話的なものではなく、かなり本質的に動いている現象だと思えます。

 われわれは問うということを存在と結びつけて、しかも両者がからみあって結びついていると考えることはないでしょう。問いはいつでもなんにでもへばりつくのですから、ことさら存在や存在問題に結びつく必然性はないですものね。

 しかし存在了解がほとんど<生きる>に等しいのではないか、という<ほとんど>ぐらいなら、<存在了解=生きる>はほとんど<存在を問う>に等しいのではないか、という気分になるものです、これを読んでいくと。

 まず、問いには1)問われているもの Gefragtes 2)問い掛けられている者 Befragtes 3)問い確かめられたもの Erfragtes という三つの構造契機がある、とされます。

 私が注目しているのは、これらが全部受動態であること、そして、ここの議論をみていくとこの受動態に関して、能動性と受動性の関係が曖昧模糊になってしまうということです。その曖昧模糊の中から出てくることは、循環的に見えるかも知れないがそうではないとハイデッガーは言いますが、わたしは何をもって「循環的ではない」とハイデッガーが称しているのか、いまだわかりかねます。

 第一の問われているものは存在である。しかし、「探すということはすべて、その先行的方向を、探されている当のものの方から定められている」(5)という具合になる。これは、他ならぬ我々が問う、というその行為の能動性が「あらかじめなんらか規定されている」というなんらか受動的な事態によって導かれているということでしょう。これがいわゆる「循環的に見える」という事態なんでしょうか。どうやら、先のページを見ると(8)、これが「循環めいたものなら、ある」というその「めいたもの」となりそうです。

 第二の、問いかけられた者、これは他ならぬ我々が問う、ということそのことによって、まったく直接的に、問いかけられたという受動性を能動性にしてしまう。問いかけられた者はまた問う者でもある。これがいわゆる「循環的に見える」という事態なんでしょうか。たぶんハイデッガーはそうは言わないでしょう。ハイデッガー的言説ならそう言うかもですが。

 「われわれ自身がそのつどそれで在りまたなかんずく問うという存在可能性を有するところのこの存在者を、術語上われわれは、現存在 Dasein として言い表す。」(7)

 現存在が置かれた状況というのは、循環的かどうかはいざ知らず、上のような「問うことにおける受動能動」というようなものであった、と私は認知しているのです。

 三番目の項である、問い確かめられること、Erfragtes とは、概念にまでもちきたらす、、はっきりさせるということであって、これは存在というものがすでに何らか了解されていること、そして、その曖昧な平均的な存在了解を精練し、はっきりとした洞察とする、そういう文脈の中にある。

 そしてこの曖昧な存在了解からはっきりした存在了解への途、それが後に登場する前存在論的から存在論的へ、という道なのですが、これはこれだけ取り上げるならば別に問題となることではないと思います。

 さらに、この第二節の状況全体をつぎのようにまとめてみてもよい。つまり、われわれは現存在として、すでに存在をぼやっと知っているという状況で問いを提起する。その知っていることを現存在に問い正してみよう、というふうに。われわれはわれわれ自身に問いを向けながら、平均的に知っていることを通して、そうではない知や真理にいたるのであるが、この過程は問いの連続なのであり、問いそのものを問うことによって、あるいは問いというものの程度を上げることによって、より真理に近い存在了解を得ることができるのだと。

 しかし、この問いを発することが「存在者そのものの存在様態にほかならぬのだから、その発問作用において問われている当の事の方から、すなわち存在から、本質的に規定されている」(7)とハイデッガーは言ってしまいます。

 問題の循環議論はここから始まり、ハイデッガーは「そんなことは明らかにひとつの循環ではないか」と言うのです。

 「まず存在者を彼の存在において規定せざるをえず、次いでこの存在にもとづいてはじめて存在如何の問いを提起しようと思うとは、これが循環作用でなくてなんであろうか?」

 ハイデッガーの答えは、そもそも存在への問いとは、論証の循環とは関係がなく、演繹的な基礎づけでもなく、ある種の「前提」なのであって、これは覆われたものを取り除く<露呈 freilegung>なのであるというものです。

 しかし循環めいたものはなきにしもあらずとハイデッガーは言います。「一存在者の存在様態たる「問うこと」に対する、「問われた当の事」の注目すべき『逆位―ないし先行関係』ということなら存する。」(8)

 つまり、先に取り上げた、問うことが問われているものから規定される、ということ。しかしながら、これは、問うことが根無しの能動性ではなくて、いつでも問われたもの=存在から誘発され、導かれているのである、というふうに見るならば、ホッとする事態かも知れませんね。

返信(引用有)   返信(引用無)   全スレッド   ツリー表示   最新20   新規投稿   削除   編集
トピック= 2562 宛先= 2562 同宛先= 2563 2610 2647 2648 返信=
 
Subject 「明日どうしよう」の敷衍
Author 山田 [ 2572 to イストラン ]  2/13/Wed/2002   

>そういう言い方はハイデッガーはしません。むしろ未来に生きることができるのだろうか、という言い方をします。「現在に生きる」というのはラム・ダスとかチョギアム・トゥルンパのような人たち、ようするにニューエイジの発想です。それが悪いと言っているのではないけれど。
☆:未来に開かれゆく存在の可能性ということですか・・・「現在」にこだわる私は、やはりニューエイジかな、と改めての気づきですね。もちろん、それが悪いとは思っていませんが。。。

> たいして違いませんが、私の取り上げた文脈では自己触発とは認識とはさして接続しない事態です。それは意識と接続します。
☆:う〜ん、どーでしょー?むしろ「直観」にちかいものでしょーか・・・

>実存とはハイデッガーの趣旨では未来に近いということです。
>「不安のもとともなっている他者」というのはハイデッガーにはない考え方です。
☆:なんだか、ハイデガーについて、私の理解は全くトンチンカンなよー(-_-メ)なので、ちょーどアトレイユさんが、「存在と時間」を読んでいらっしゃるよーなので、しばらくお二人のやり取りを拝聴することにしますね。_(._.)_

>キルケゴールについて彼が書いたことは、通常キルケゴールが紹介される文脈、つまり実存主義的個体主張型文脈に対して、それをずらした、ということでしょう。どのような閉じこもった言説も、それ自体で社会に開かれた視線を持っているということ。その読解は半端なものではなく、キルケゴール言説総体を相手にしている、この「ずらし」と「総体性」に関して、そういうことをカスタネダ相手にできんもんかな、これが言いたかったことです。
☆:たしかに「ずらし」は、もとの総体全般をぐらつかせますね。
<社会に開かれた視線>というので、以前隣の掲示板でおっしゃっていた、カスタネダの修行ひとつひとつをいったんバラバラにして、新たに意味づけするといったよーなことなど思い浮かんだりしましたが。。。

返信(引用有)   返信(引用無)   全スレッド   ツリー表示   最新20   新規投稿   削除   編集
トピック= 2562 宛先= 2571 同宛先= 返信=
 
Subject 「明日どうしよう」の敷衍
Author イストラン [ 2571 to 山田 ]  2/13/Wed/2002   

>はたして我々は「現在」に生きることができるのでしょうか?

 そういう言い方はハイデッガーはしません。むしろ未来に生きることができるのだろうか、という言い方をします。「現在に生きる」というのはラム・ダスとかチョギアム・トゥルンパのような人たち、ようするにニューエイジの発想です。それが悪いと言っているのではないけれど。


>「自己を対象化した」場合、「認識」と「自己触発性」とどう違うのでしょー?(+_+)

 たいして違いませんが、私の取り上げた文脈では自己触発とは認識とはさして接続しない事態です。それは意識と接続します。


>☆:ああ、これが「現在」に近いということでしょーかね・・・

 実存とはハイデッガーの趣旨では未来に近いということです。


>自己の「存在了解」において<不安>の楚ともなってる他者や環境世界の捉え方が問題だ・・・ということでもありますね(?)

 「不安のもとともなっている他者」というのはハイデッガーにはない考え方です。

>アドルノという名前はよく聞くけれど、どんな思想家か知らないです。また、くそ面白くもないかもしんないけど(..)・・・よかったら簡単に教えてくらはい。

 私はアドルノについてどんな思想家かを人に教えるようなことはできません。キルケゴールについて彼が書いたことは、通常キルケゴールが紹介される文脈、つまり実存主義的個体主張型文脈に対して、それをずらした、ということでしょう。どのような閉じこもった言説も、それ自体で社会に開かれた視線を持っているということ。その読解は半端なものではなく、キルケゴール言説総体を相手にしている、この「ずらし」と「総体性」に関して、そういうことをカスタネダ相手にできんもんかな、これが言いたかったことです。

返信(引用有)   返信(引用無)   全スレッド   ツリー表示   最新20   新規投稿   削除   編集
トピック= 2562 宛先= 2570 同宛先= 返信= 2572
 
Subject 「明日どうしよう」の敷衍
Author 山田 [ 2570 to イストラン ]  2/13/Wed/2002   

私もお仲間に入れてもらおーっと。ずーっと過去にハイデガーを読んだ記憶が、ほんのり甦ってきたよーな、そーでないよーな。でも「哲学の証言:言いたい放題」だから気にしなくていいかな・・・よろぴく。

>明日私はどうしよう、生きていられるだろうか。こんなふうに私は私の存在を気遣うのですが、別に気遣う必要はないのに、気がついたら気遣っていた、という感じでしょうか。
☆:このことは、まさに「時間」と関わって生きているということですね。ある意味で我々は、過去を未来に投射しているのですが、はたして我々は「現在」に生きることができるのでしょうか?<気がついたら・・・>ということは、時間に無自覚ということなのでしょーか。(-_-)

> 主観とか客観というような対立では、自己と自己を対象にしていることを認識的にしか表現できない。
☆:私は、ず〜と以前にこの掲示板で、イストランさんが書いておられた「自己触発性」という言葉が、いまだにどうも気にかかっているんです。「自己を対象化した」場合、「認識」と「自己触発性」とどう違うのでしょー?(+_+)

>生きるということはそういうことでは表現できない。己の存在がすでにして己の存在への関係であり、この関係にさらに関係するというような自己と自己との間の距離。この距離が埋まり、自己の存在にもっとも接近する有様をさしてハイデッガーは実存と呼んだと思います。
☆:ああ、これが「現在」に近いということでしょーかね・・・

>では離れているとはどういうことか。それは実存頽落ということになる。そして多くの人がひきつけられたのは、こちらの実存頽落の話ではなかっただろうか、と邪推します。
☆:私は、少数派かな〜(^^ゞ  自己の「存在了解」において<不安>の楚ともなってる他者や環境世界の捉え方が問題だ・・・ということでもありますね(?)

>(でもその主観と客観という野蛮な言語を最大に酷使してキルケゴールを解釈したアドルノがいる。あの『キルケゴール』はとても手が届かない。ああでもいつかカスタネダに関してあれの爪の先くらいのものが書けたらなぁ、というのが望みです。)
☆:アドルノという名前はよく聞くけれど、どんな思想家か知らないです。また、くそ面白くもないかもしんないけど(..)・・・よかったら簡単に教えてくらはい。。。(..) 主観と客観で、キルケゴールをねぇ〜

返信(引用有)   返信(引用無)   全スレッド   ツリー表示   最新20   新規投稿   削除   編集
トピック= 2562 宛先= 2564 同宛先= 2566 返信= 2571
 
Subject 「存在と時間」から「存在の革命」の前に
Author イストラン [ 2569 to アトレイユ ]  2/13/Wed/2002   

>不本意でしょうけど、ラジニーシです。

わはは。そうか、がくり。それは私の言葉全体の印象なんでしょうね。


>ヘーゲルに対して批判的な言説をされている理由も分かりました。

 いやぁ批判するだけのものはないです。ヘーゲルは昔『大論理学』とか『精神現象学』とか読んだときに、これはあかんとなったわけですが、それは言ってることが支離滅裂ではないか、という月並みな反応なんです。メタバシスもいいかげんにしてくれというような。

>確かにヘーゲル哲学には、この第六節で言われているような部分が無くもないという気がします。

 それはどういうことでしょうか。ヘーゲルに関してたいしたことが言われてましたっけ?

 ところで、この節で印象に残っているのは次のデカルトについての記述です。

 「この偏見によって次の世代は、存在問題を手引きとする『情意 Gemuet』の主題的な存在論的分析論を怠ると同時に」(原書25)

 Gemuet を情意と訳してよいのかどうか検討してませんが、松尾訳(勁草書房)に拠ってます。一般的に感情とか気分とかをどう扱うのか、ということについての話になりそうです、次の私の投稿は。

返信(引用有)   返信(引用無)   全スレッド   ツリー表示   最新20   新規投稿   削除   編集
トピック= 2562 宛先= 2568 同宛先= 返信= 2589
 
Subject 「存在と時間」から「存在の革命」の前に
Author アトレイユ [ 2568 to イストラン ]  2/13/Tue/2002   

>>誰かさんの口調にものすごくそっくりなんですけど。自覚してます?
>
> 誰ですか?私の知らない人なら自覚しようもないですが、はて。

不本意でしょうけど、ラジニーシです。今は色々おっしゃってますが、かつては結構イカレた
のではないですか?でもないですか?でも私はあの語り口調は結構好きですよ。

ところで、「存在と時間」は、今、第六節ですが、ハイデガーの哲学史観がよく分かる部分です。ハイデガーにおけるヘーゲルの位置付けがよく分かりました。現代思想の先駆けであると
いうこともよく分かりました。イストランさんはキルケゴールもかなりお好きなようですので、ヘーゲルに対して批判的な言説をされている理由も分かりました。確かにヘーゲル哲学には、この第六節で言われているような部分が無くもないという気がします。ただ、ヘーゲルの場合、歴史とは即ち哲学史であるわけですから、哲学とは哲学史の総括であるのは仕方が無いことですね。

返信(引用有)   返信(引用無)   全スレッド   ツリー表示   最新20   新規投稿   削除   編集
トピック= 2562 宛先= 2567 同宛先= 返信= 2569
 
Subject 「存在と時間」から「存在の革命」へ
Author イストラン [ 2567 to アトレイユ ]  2/13/Tue/2002   

>誰かさんの口調にものすごくそっくりなんですけど。自覚してます?

誰ですか?私の知らない人なら自覚しようもないですが、はて。

返信(引用有)   返信(引用無)   全スレッド   ツリー表示   最新20   新規投稿   削除   編集
トピック= 2562 宛先= 2566 同宛先= 返信= 2568
 
Subject 「存在と時間」から「存在の革命」へ
Author アトレイユ [ 2566 to イストラン ]  2/13/Tue/2002   

>明日私はどうしよう、生きていられるだろうか。こんなふうに私は私の存在を気遣うのですが、別に気遣う必要はないのに、気がついたら気遣っていた、という感じでしょうか。

んー、返事に困りますね・・・。

>(でもその主観と客観という野蛮な言語を最大に酷使してキルケゴールを解釈したアドルノがいる。あの『キルケゴール』はとても手が届かない。ああでもいつかカスタネダに関してあれの爪の先くらいのものが書けたらなぁ、というのが望みです。)

誰かさんの口調にものすごくそっくりなんですけど。自覚してます?

>>したがって、彼の言うところの「存在の革命」は思惟形式の革命にならざるを得ない、彼にとって真にラディカルな革命は観念の革命しか無い、ということになるわけです。
>
> 思惟の革命ではなく、思惟形式の革命なんですか。

いいところを突いてくれました。これについては新しくスレッドを立てて書きます。

返信(引用有)   返信(引用無)   全スレッド   ツリー表示   最新20   新規投稿   削除   編集
トピック= 2562 宛先= 2564 同宛先= 2570 返信= 2567
 
Subject 「明日どうしよう」の敷衍
Author イストラン [ 2564 to アトレイユ ]  2/12/Mon/2002   

明日私はどうしよう、生きていられるだろうか。こんなふうに私は私の存在を気遣うのですが、別に気遣う必要はないのに、気がついたら気遣っていた、という感じでしょうか。

 主観とか客観というような対立では、自己と自己を対象にしていることを認識的にしか表現できない。生きるということはそういうことでは表現できない。己の存在がすでにして己の存在への関係であり、この関係にさらに関係するというような自己と自己との間の距離。この距離が埋まり、自己の存在にもっとも接近する有様をさしてハイデッガーは実存と呼んだと思います。では離れているとはどういうことか。それは実存頽落ということになる。そして多くの人がひきつけられたのは、こちらの実存頽落の話ではなかっただろうか、と邪推します。

(でもその主観と客観という野蛮な言語を最大に酷使してキルケゴールを解釈したアドルノがいる。あの『キルケゴール』はとても手が届かない。ああでもいつかカスタネダに関してあれの爪の先くらいのものが書けたらなぁ、というのが望みです。)


>したがって、彼の言うところの「存在の革命」は思惟形式の革命にならざるを得ない、彼にとって真にラディカルな革命は観念の革命しか無い、ということになるわけです。

 思惟の革命ではなく、思惟形式の革命なんですか。

返信(引用有)   返信(引用無)   全スレッド   ツリー表示   最新20   新規投稿   削除   編集
トピック= 2562 宛先= 2563 同宛先= 返信= 2566 2570
 
Subject Re: 『存在と時間』第1節〜第四節
Author アトレイユ [ 2563 to イストラン ]  2/12/Mon/2002   

>この大地、この天空、土と草の匂い、ある人への思慕、野心、闘争、特別な思いのへばりついた物、思わず頬を摺り寄せたくなるような犬の顔、突然の拒否、恥じらい、記憶の蘇り、日々の忘却、そういったもろもろの事態を<生>と呼んでおく。

ほーう、イストランさん、なかなかの詩人じゃありませんか。私は詩心の無い思想通の人はあまり好きじゃないのでして。
全然関係無いのですが、ホイットマン、大好きです。

> たぶんハイデッガーはこんなことを言おうとすればできただろう。「明日どうしようか」というのは、存在了解であると。無理かもしれないな。

わかるような、わからないような、です。
存在しているということは絶えざる矛盾を抱えているということであって、それらを日々感じることによって我々は日々、自身の存在性を確認=了解している、と。
全然違ったら許してください。まあ、哲学の証言というものは、彼が何を言いたかったかではなくして、彼の言葉に触発されて自分は何を考えるか、そこにしかない、のでしたよね?(笑)

でもって、この「存在である」ということは許し難い屈辱であって、存在とは自身を存在と思うことによって存在なのであって、この存在の罠からいかにして逃れるか、というのが埴谷雄
高なわけでして。したがって、彼の言うところの「存在の革命」は思惟形式の革命にならざるを得ない、彼にとって真にラディカルな革命は観念の革命しか無い、ということになるわけです。

返信(引用有)   返信(引用無)   全スレッド   ツリー表示   最新20   新規投稿   削除   編集
トピック= 2562 宛先= 2562 同宛先= 2575 2610 2647 2648 返信= 2564
 
Subject 『存在と時間』第1節〜第四節
Author イストラン [ 2562 new post ]  2/11/Mon/2002   

この大地、この天空、土と草の匂い、ある人への思慕、野心、闘争、特別な思いのへばりついた物、思わず頬を摺り寄せたくなるような犬の顔、突然の拒否、恥じらい、記憶の蘇り、日々の忘却、そういったもろもろの事態を<生>と呼んでおく。

 『存在と時間』はそういうことを記述しているわけではないのだけれども、そこに接続はするかもしれない。

 存在とは最も普遍的で、定義しようがなく、自明な概念である。だからといって存在への問い、または存在の問いが退けられてよかろうか。むしろこの問いが答えがないのと同時に、問いそれ自体からして、曖昧である。だから問いを立てよう。という具合に始まるのであるが、あとまで尾を引く「存在了解 Seinsverstaendnis」についてこんなことが言われていた。

 「われわれはその都度ひとつの存在了解のうちに生きており」

 こんな風にして、生きるということが存在を了解することと同義になってしまうのだ。

 たぶんハイデッガーはこんなことを言おうとすればできただろう。「明日どうしようか」というのは、存在了解であると。無理かもしれないな。

返信(引用有)   返信(引用無)   全スレッド   ツリー表示   最新20   新規投稿   削除   編集
トピック= new post 宛先= 同宛先= 返信= 2563 2575 2610 2647 2648


Complete


Eleutheria ver.1.6 / 2004.12 by www.eleutheria.com