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『世界内存在』(ドレイファス)[編集:2/25] |
| Author |
イストラン
[ 2648 to イストラン ] 2/26/Mon/2002 |
ドレイファスの『世界内存在―存在と時間における日常性の解釈学』を、そのさわりの部分、つまりここで今分析している部分を見てみたのですが、これはどうしようもない類に分類できると思います。ハイデガー研究をしている人から見れば「笑ってしまいます」の部類になるのではないか。
なによりも言っていることが勝手な解釈すぎる。22ページの表では、探求されるものとして、「誰」「何」が挙げられているが、「誰」は「現存在という性格を持った存在者」だとされる。「何」は「他のあらゆる種類の存在者」であるとされる。しかし探求において暴露されるものを示しているのがこれだというならば、それは違う。第二節で言われたこととは、問いの構造は三分枝(問われているもの、問い掛けられるもの、問いただされること)になっているということだが、そのうちの「何」(Gefragtes, Erfragtes)とは、存在ないし存在の意味である。
また探求の種類として、「存在的」「存在論的」が区分され、「存在的」とは「存在者に関わる」、「存在論的」とは「存在の仕方にかかわる」となっているが、これも違う。
「存在的」が「存在の仕方」に関わらないならば、どうして現存在の存在規定が存在論的に存在することだとなっているのだろうか。
また存在論的とは、もっと普通の意味で、学的ということであり、存在的とは学以前の、学を必要としない実践的理論的態度に関して言われることである。少なくとも、この段階ではそうである。この段階での話に、後になって出てくる<解釈性>というのをあやふやに接木するわけにはいかない。
さらに驚いたことに、23ページに出てくるハイデガーの引用は、それ自体間違っている。「すなわちこの現存在という存在者が、それ自身「直接的に」把握されうるという意味においてではなく、この存在者の持っている存在の種類がまさに「直接的に」提示されているという意味においても」
こんなことが言われているわけがない。ここで「存在の種類」となっているのは「存在様態」と普通は訳される、Seinsart である。
ここまでの段階で注意しておかねばならないのは、<現存在><実存><存在的><存在論的><実存的><実存論的>というような言い方は、それが出てくる文脈なしに、理解できるわけではないこと、ドレイファスのやり方は、そうした文脈を無視して、勝手にあれやこれや自分流儀でこじつけているように見えるということである。
「われわれは今や、現存在の特別な存在の仕方、すなわち実存に含まれることがらを取り出して考えることができる。文化と文化制度は、その存在の仕方としての実存を持っており、それぞれの個人もまた実存を持っている。」(25)
こういうことをハイデガーが言っているとは思えない。実存とは、現存在という特殊な存在者が己の存在に対して態度を取り、関係を持つその存在であり、この存在者の本質が、他の存在者の本質のように、「それは〜である」というふうな本質規定を許さず、「そのつど己自身のものとして、おのれの存在であらねばならない」という状況における、その「ある」を意味する(12)。
こういう規定で出てくる<実存>を、文化とか文化制度のもつ存在であるとみなすことができるだろうか。
先に行って出てくる解釈性とか、あるいは根拠のない例示をたくさんひねくりだすおかげで、ドレイファスの説明なるものは、全然説明にはならず、むしろハイデガーの言うことを「隠蔽する」。存在様態とは何か、実存とは何か、どうしてこういうものが出てくるのか、また記述の不分明な点、すべてこうした実際の読解にあって作動しているものが、「ハイデガーの言わんとしたしたことはこうである」という、整合性と意味を求める性急な解釈によって、押しやられてしまうだろう。
悪い意味でのアメリカ哲学の範例を見ているような感じだ。