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TOPIC 『声と現象』第四章
 
Subject 記号が持つ反復性を現前性から奪回すること[編集:12/14]
Author イストラン [ 2453 to イストラン ]  12/15/Fri/2001   

 第四章のあらすじ

 フッサールは<指標すること>と<表現すること>の区別の過程で、<孤独な言表>あるいは<内面的言表>なるものに<指標することのない表現>というものを見た。

 この内面的言表においては、私は私自身に何ものを指標、伝達しない。そのことは二つの意味を持っている。一つは内面的言表に関して、もう一つは言表する主観の作用に関してである。

 まず最初の事柄について考察しよう。内面的言表における指標があるように見えても、それは単に表象、想像されているにすぎないということである。

 一見してあるように見えている、内面での自己から自己への語りは、自己が自己へ話しかけ、伝達することを<表象しているだけだ>と言われているが、これは指標、伝達することを、<現実の指標、伝達すること>と<想像の指標、伝達すること>に分けることに等しい。が、そうした区別は、表象することを二次的な、現実に付け加わる偶発時にする。

 しかし、フッサール自身がそのことに反する理論的手段を提起している。表象することとしてのrepresentationは、記号一般の本質、つまり反復構造である。ただの一度しか行われないような記号は、そもそも記号ではない。それは意味するものの同一性を通じて意味されるものが同一であることを必要とし、この形式的同一性のおかげで記号や言語がそれとして機能する。このイデア性は、<表象すること><再現前すること><代理すること>としてのrepresentationを含む。

 そういうわけで、このrepresentation性に根源的に関わることなしに<現実の>言表を開始するわけにはいかない。

 もちろん、フッサールが指標することを脱落させて、<孤独な内面的言表>に向かう過程で露呈させようとしているのは、まさに表現のそうしたrepresentaion性ではあるのだが、それは<表現>だけに向かっていて、<記号一般>に向かっているのではない。

 しかし、記号一般が、言語一般がほかならぬこのrepresentationであるのだから、これが表現に関してであろうと、指標、伝達に関してであろうと、<実際の言表>と<表象の言表>の区別は怪しくなってくる。

 しかし、<実際>や<現実>と、<表象>や<想像>との区別、<端的な現前>と<反復>との区別をあくまで成そうとすることにおいて、フッサールは、現前を救い、「記号や反復を還元ないし導来しようとする根強い願望」を持つ。

 これに対してわれわれが、記号においては、<現実>と<representation>との間に区別があるのではないと主張することは、ある意味で記号を抹消させることである。つまり記号が現実の表象、再現前、代理であるというそういう区別の抹消である。

 われわれの試みは、表象の二次性を、現前の一次性と対置させるのではなく、表象そのもののrepresentation性が持つre性から表象と記号を同一の平面で再解釈しようとすることである。

 「こうしてわれわれは――フッサールの明確な意図に反して――Vorstellung[表象]そのものを――そしてそのものとしてのかぎりで――反復の可能性に依存させ、そして最も端的なVorstellung[表象]つまり現前(Gegenwaertigung)を再現前(Vergegenwaertigung)の可能性に依存させるにいたる。われわれは<現在の現前>を反復から派生させるのであって、その逆ではない。」(101)

 フッサールにおけるイデア性の契機とは、意味するものの同一性、意味されるものの同一性、対象自体の同一性であった。これは同一なるものの反復の可能性にほかならない。「その存在は反復力に依存する」。「それゆえ、存在はフッサールによってイデア性として、すなわち反復として規定されている、とわれわれは言いうるのである。」(102)

 このように存在をイデア性と規定することは「一つの評価」であり、「哲学の根源的決定をそのプラトン的形式において蘇生させる一つの倫理的、理論的行為」である。

 しかしそうした存在を反復から解釈するという、フッサールの中にあった契機は、それとして発展せずに、現前の形而上学に結びついてしまう。存在をイデア性と規定することが、逆説的な仕方で、存在を現前と規定することと合体してしまう。

 一つには、純粋なイデア性が、表象の前に立てるという現前の形式で、現前するイデア的対象の持つイデア性となる、ということであるが、それだけではない。
 <源泉-点>としての、<生ける現在>としての<今>を出発点にする時間性だけが、イデア性の純粋さを、同じものの反復を無限に開くことを可能にするといった形で、このイデア性としての存在が、現前としての存在と合体するということである。現象学の<原理の原理>とは実にこのことに他ならない。

 このことはまた、別様に解釈されることができる。現前、現在は超越論的生の普遍的形式である。この形式はいかなる一定の存在者にも関わらず、それによって影響されることもない。

 「してみれば、私の死(私の消滅一般)への関係こそが、現前、イデア性、絶対的な反復可能性としての存在のこの規定のうちに隠されているのである。記号の可能性とは、死へのこの関係なのである。形而上学における、記号の規定とその抹消は、死への関係の隠蔽である。しかるに、この関係が記号作用を生じさせていたのである。」

 これをもしも、私の死の可能性についての体験が、私に影響を与えるというならば、死は<私はある>にあとから付け加わるだけにすぎない。しかし、<私はある>は根源的に私自身の可能な消滅への関係である。<私はある>は<私は死すべきものである>。私は不死であるは不可能である。<私はあるところのものである>は、死すべきものの告白である。だから、<私はある>から<私は考える>への動きは、<考える不死の存在>への動きであり、現前とイデア性との根源が、それが可能にする現前とイデア性へのうちに身を隠す動きである。

 かくのごとくに、記号の還元(抹消)は、想像の還元(抹消)と合体した。確かに想像作用に関してフッサールは、その独特の位置を追及したが、それにしても、想像を再現前に分類することに疑いを抱いていない。それゆえ、想像作用は中和化的ではあっても、それは「現象学的中和化の格好の補助用具」にすぎず、純粋な中和化であるのではない。想像は現実存在措定への第一次的連関を内臓している。

 ところでイデア性を開く純粋反復力と、経験的知覚の想像的再生を解釈する能力とは、無縁ではありえない。

 この点について『論理学研究』第一部が表現と想像に与えた規定はわれわれを面食らわせる。

 まず、純粋な表現は想像表象として考察される。そして、仮構によって分離された内面性の領野によって、私が私に伝達されるのは仮構であるとされる。そして、孤独な内面性においては、純粋に表現的な非伝達的言表が想像ではなく、実際に起こると考えられている。
 であるならば、われわれはこう想定する。伝達においてもまた、表現的な核というものが働いており、そこでは仮構的なものと実際的なもの、イデア的なものと現実的なものとの厳密な区別がなされている。だから実際性とか現実性とかは、この仮構性において、あとから表現に付け加わるのだと、われわれは想定する。そして、フッサールは、純粋な内面的表象性の内部で、ある型の言表を、実際に表象的なものとして認知するが(純粋客観的テオリア)、ある型の言表はまったく仮構的なものにとどまるとしている。

 ところが、「すべての記号一般が根源的に反復的な構造を持っている」ことをわれわれがひとたび認めるならば、仮構とか実際とかの一般的区別は曖昧になる。「記号は根源的に仮構によって働きかけられている」(109)であるなら、指標であろうと表現であろうと、外面的言語と内面的言語を区別したり、実際的言語と仮構的言語を区別するための確かな基準も存在しない。

 フッサールにとっては指標作用が表現にとって<外的>であることを証明するため、そのような区別が必要だったのだが、いまや、その現象学にとって不都合な帰結が露呈されている。

 第二の事柄に移ろう。記号に関することは、また話す主観の作用についても妥当する。フッサールは仮構の伝達とともに、仮構の伝達者を想定する。「ただ自己自身を話し手、伝達者として表象している」にすぎないのだと。実際の伝達者としの私に、表象上の伝達者としての私が付け加わるにすぎないのだと。

 しかしながら、記号作用一般の根源に反復を想定している立場から言えば、「主観は話すことについての表象を自分に与えないでは、話すことができない」と言わねばならない。だから自己表象のない実際の言表などない。また実際の言表のない言表表象もない。

 「言表は言表表象との根源的な統一を予想している。言表は自己をルプレザンテする。言表は言表のルプレザンタシオンである。もっと的確にいえば、言表こそが自己のルプレサンタシオンというもの[la representation de soi]なのである。」(110)

 フッサールの言うことをそれとして認めるならば、つぎのように結論しなくてはならなくなる。主観が内面性において自己に語るのが単なる表象であるなら、つまり<実際には>そんなことはないというなら、意識は、自分に話しているという<思い込み>に侵食され、体験の真理は<非真理>である。

 ところがそんなふうにはなっていない。意識の体験は<自己への現前>である。ある絶対的な近さにおいて経験は自己にしか関係しない。その沈黙のうちで自己自身の現前を反省しうるような体験に、言語とルプレザンタシオンは「あとから付け加わる」というふうになっている。事実フッサールは『イデーン』第一巻において、それ自身についての反省の可能性が属する現前の体験について語っている。だから記号は、現前一般の根拠である<自己への現前>に無縁であるということになる。また、<直観><知覚>の名のもとに見られる現前に、記号が無縁であるということになる。

 フッサールは言うだろう。表現の内面性においては、指標、伝達することが<できない>。それができないのは<無用、無駄>だからである。そしてそのような伝達をする<理由がない>、<根拠がない>。根拠がないのは<目的がない>からである。

 また、内面的伝達の無目的は、現前の同一性における<無―他性><無―区別>である。そしてそれは現前の<絶対的近さ>と絶対的瞬間性に結びついている。孤独な心的生の内面における表現にとって、指標、伝達、告知が必要ないのは、それが「同じ瞬間にわれわれによって体験されている」からでもある。一つの<まばたき>と同じように、分割不可能だとフッサールは言うのである。

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Subject 『声と現象』第四章
Author イストラン [ 2452 new post ]  12/15/Fri/2001   

 第三章まではかつてここで要約したので、これからそれ以後の話に取り組みたいと思います。

 それにしても第四章はいちばん難解というか曖昧というか、フッサールを読んでいる人にはヴィヴィドなんでしょうけれども。ここで止めた人は第五章から続きを読んであとで振り返ったほうがいいかも。わたしはそうでした。

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