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TOPIC 『全体性と無限』(レヴィナス)[編集:7/26]
 
Subject 超越は否定性にあらず[編集:8/1]
Author イストラン [ 2258 to JOACHIM ]  8/10/Fri/2001   

>お久しぶりです。ユダヤ教って基本的に文言主義だからじゃないですかね。

 ああユダヤ教というのがありましたね。それにしてもこの言説の位置というのは実に不可解です。なんでも言説が寄り添ってしまう感じです。次のBは分離と言説なので、どばっと出てくるのですね。

 ところで『猿の惑星』とかご覧になったら観想などお聞かせください。ひどいと言われているんで見に行こうかなと。

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トピック= 2216 宛先= 2257 同宛先= 返信=
 
Subject 超越は否定性にあらず[編集:8/1]
Author JOACHIM [ 2257 to イストラン ]  8/9/Thu/2001   

> つぎに、なぜかこの超越・無限への関係の中に、善良さと並んで言葉というのが登場してきます。一方で、いかなる交渉にも先だつところの無限への視点というのがあり、これは無限が隔たりを意味する以上、通常であれば、非言語的な事態が、つまりは<沈黙>というのが出てきて当然であると思うわけです。にもかかわらずレヴィナスは言葉をこの超越連関に絡めてます。これはどういうことか。


お久しぶりです。ユダヤ教って基本的に文言主義だからじゃないですかね。言葉の中に神の痕跡があり、その痕跡を通じて辛うじて、神との関係なき関係をもつことができるという発想が、ユダヤ教を通じてレヴィナスにもあるんじゃないでしょうか。いつながらぬるいレスばかりですんまそーん。最近不眠症でちょっと辛いです。
 

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トピック= 2216 宛先= 2245 同宛先= 返信= 2258
 
Subject RE:無限の観念としての超越
Author イストラン [ 2255 to イストラン ]  8/9/Thu/2001   

 もう一つ思ったのは

> 無限の観念を抱くことはまた倫理的連関であり、教えが外部から他動性として到来する。この他動性あるがゆえに、無限の観念をはみ出す無限が自我の自発的自由を揺るがし、主観的なものの超克にいたる。

 この部分に関してですが、ここで主観的なものの超克と表現される事態です。

 これは哲学/宗教的欲望と呼びたい。主観的なものの超克とは、どこにでも見られるではないですか。ガタリの主観性の解体とか、あるいはこう言ってよければ精神分析とか。私を隅から隅まで分析してくれたらもっと自由になることができるかも知れないという願望が精神分析を支えたんではないのかな。あるいはひょっとするとベンヤミンのコンステレーションというのもそうかも知れない。私の苦悩はやがて星座になるだろう、とか。これは単なる空耳。

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トピック= 2216 宛先= 2254 同宛先= 返信=
 
Subject 無限の観念としての超越
Author イストラン [ 2254 to イストラン ]  8/9/Thu/2001   

 要約したものに関して適切な論評を加えることができません。
 受動能動性にからめれば、ここでレヴィナスは自我に関して<他動性>と形容し、他が自発的自由を揺るがすという表現をしてますので、ある根本的な受動性というのを、この<他に対面する自我>に見ているのでしょうね。
 自我の自発的自由の上に他をもってこなくてはならない。善良さは、ここで直接には無限の観念と接続するわけですが、この受動性という位置から見ると、なるほど自発的自由では獲得できない意味の層を見せているような気がします。善良さとは、なんらかの限界のうちでとまどっているようなもの、私は決して完全者ではないということではないか。
 ハイデッガーも善良さについては、「およそ善なる人間でなくして私は善であると誰が言えようか。しかるに善である人間がそのようなことを言うだろうか」などと言っていたような記憶があります。イエス・キリストは「私が善なる者なのではない。善なる者は神である。」と言っていた。
 レヴィナスのこの語りは、善良さというものを隔たりと組み合わせている。そういう点ではハイデッガーも同じではないか。無限の隔たりは善なるものとの無限の隔たりでもあるのではないだろうか。などと思いました。



********
 レヴィナスは漠然と了解された宗教的超越を融即パルティシパシオンと規定し、到達点に埋没してしまうことと見ている。
 これに対して哲学的超越は同と他の関係であるが、それはデカルトの我思うの状況を見ればわかるだろうと言う。

 デカルトの我思うは、その内に無限を内包し得ないという形で、無限の観念という関係を結ぶ。無限の観念は、観念されたものが観念をはみ出している。

 超越者はこの無限の観念を我々に残しつつ、この観念から無限に遠ざかる。そういう意味で外部にある。

 これは一般に、対象性と超越の差異としても考えられる。対象性の隔たりは所有の隔たりであるが、無限の隔たりは絶対的外部へと向かう。

 このようなことは、他にアリストテレスやプラトンの能動知性に見られる。そこでは観念されたものが観念をはみ出すのだ。

 「神の憑依は孤独な、あるいは内的な思考(後にわれわれはこの内的思考を「エコノミックな」思考と呼ぶであろう)の終焉であり、新しきものおよび本体ヌーメーヌの真の体験の始まりである」

 無限の観念という一見空疎なものを具体化する用語がある。それは、いかなる所有によっても鎮められることがない<欲望>である。それは私利私欲を完全に捨てた欲望、善良さである。この欲望は一つの関係を前提とする。

 「この関係においては、<同>のうちで遂行される自我の<否定性>、権力、支配が<欲望をそそるもの>によって停止してしまう。このような事態は、肯定的に述べるなら、自分の所有物としての世界を<他者>の贈与しうるということ、言い換えるなら、顔と向かい合うこととして生起する。なぜなら顔と向かい合うこと、すなわち<他者>に向かう私の方位は、何も贈与することなしには他人と関わることのできない寛大さに一転する場合のみ、視線の貪欲さを失い、善良さと化しうるからである。寛大さというこの関係が諸事物を媒介として確立されるや否や、諸事物は共有物、言い換えるなら、それについて何かを語りうるものと化す可能性を獲得する。つまり寛大さという関係は言説の関係なのだ。私の内なる<他人>の観念をはみ出しつつ<個人>が現前する仕方、この仕方をわれわれはここで顔と呼称する。」

 他者の顔は、形象を超えて、観念を超えている。顔は中性的な真理ではなく、表出としての真理の概念を与える。言説を通して他者に<近づく>ことは自我の容量を越えて<他者>を受容することであり、無限の観念を抱くとは、このような仕方で<他者>を受容することである。

 無限の観念を抱くことはまた倫理的連関であり、教えが外部から他動性として到来する。この他動性あるがゆえに、無限の観念をはみ出す無限が自我の自発的自由を揺るがし、主観的なものの超克にいたる。

 顔の概念はまた、私の権力から独立した意味の概念へと導き、所有や権力にも訴えることなき外部性を、プラトン的想起の内在性には還元されえないものを提起する。

 さらにそれはバークリや現代存在論でも実現されない直接的なものの記述を可能にする。ハイデッガーのように、存在者は存在の開けのうちで開示されると言う場合、それは存在者が存在という媒介を通っているということである。
直接的なものは、言語における命法、対面である。

 われわれは祈りや神秘や最後の時の高揚という超越的な哲学と、他なるものが同に包摂される内在の哲学とにはさまれつつ、エコノミック的実存という地上的実存を展開する過程で、<他>との関係を記述する。この関係は、神や人間の全体化にも歴史の全体化にも行き着くのではなく、無限の関係として、自我に対して超越している他との関係に至る。

 「私は歴史に依存することなき絶対であるようなポイントを他者のうちに見出す。...人間が真に<他者>と接するとき、人間は歴史から引き剥がされているのだ。」

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Subject 形而上学は存在論に先行する
Author イストラン [ 2250 to イストラン ]  8/3/Fri/2001   

 レヴィナスの語りは観想の二つのレベルの区別から始まる。存在論的光の中での存在者の了解を支配する存在論的観想と、倫理的形而上学的観想と。そしてハイデッガー批判へ向かう。このハイデッガー批判は有無を言わせずという感じで、なんら譲歩するところがない。そして、倫理性の強調をハイデッガー存在論をバネにして展開する。つまりハイデッガー存在論には倫理性というものが存在しないという。自由というものは存在するが、それは正義に、他者への責務に先立っている。それは存在という匿名の権力、という意味での僭主制、全体性に導くだろう。これは逆にしなければならないのだと。

 結論部分でも再びレヴィナスは言語性を強調する。

「本書では、言説のうちに他性とのアレルギーなき関係を認め、そこに<欲望>を看取すべく努めるつもりである。...具体的に言うなら、われわれは<自我>と<他者>からなる社会、すなわち言語と善良さが匿名の共同体に吸収されることをなんとしても阻みたいのである。」

 そして、その倫理性は一種の暴力として捉えられているようである。
「他性とのアレルギーなき関係はいかなる暴力をも踏み越えた暴力によって、つまり自我を全面的に審問する暴力によって自我に刻印される。」と。

 ハイデッガーでは問いの対象が、かかる人格的存在者ではなく、非人称の世界である存在、つまり人称や非人称の世界を越えた存在が中心となるが、レヴィナスではそうした捉え方は「顔がない」と拒否されるのだ。

 私はハイデッガーの魅力というのを、その自由と必然性との統一に見てきた。キルケゴールが「自由が自らを囚徒となすという存在の秘儀」(『不安の概念』)と呼ぶものが、ハイデッガーで時間性にからめられ、<被投的企投>となる受動能動態に計り知れない魅力を見ていたのだが、レヴィナスはそうした<自由と服従の弁証法>は<同>の優越を前提にしていると言う(下記赤線部分参照)。そうだろうか。


以下結論部分の前までのほとんど写し
******************************************

 観想には二つのレベルがある。存在論の観想と形而上学の観想と。

 同と他の衝撃的遭遇が緩和されるのは、第三の媒介を通してなのだが、その媒介は、ときに概念であったり感覚であったり存在(の意味)であったりする。存在の場合はその光のうちで存在者の了解が可能となる。存在を中心にする存在論における観想は、形而上学的欲望の驚異を放棄した道である。

 一方、存在論ではない形而上学に特有の観想は、同を審問する。同の審問とは、私の自発性の審問である。それは他者によって起こる。これを倫理と呼ぶ。

 「他者の異邦性とは、他者を自我、私の思考、私の所有物に還元することの不可能性であり、それゆえ他者の異邦性はほかでもない私の自発性の審問として、倫理として成就される。」

 西洋哲学は主として存在論である。その存在論は、他者から何も受け取らない自由、同の永続性としての理性、そうした自由としての認識というものを構成要素にしている。認識とは他なるものを中立化し包摂する自由の顕示である。他を中立化することで他は主題ないし対象となり、照明されることで他からその抵抗が奪われる。

 ソクラテス的な真理の意味は、自己性としての同の自我中心性に立脚している。この意味で哲学は自我論である。

 バークリーの観念論は対象の性質の中で事物の本質が体験されると考え、体験自身との合致が思考(主観)と存在するもの(客観)との合致と化している。

 現象学においてはわれわれと存在者との非合致から了解可能性が出現する。しかしその非合致を引き起こす存在は、あくまで光であり、その光によって理性は実存者を占拠してしまう。

 ハイデッガー的存在論は、存在者に対する存在の優位を主張することで、一個の存在者である誰かとの倫理的関係を、非人称的存在との関係に従属させる。そして正義を自由に従属させる。

 確かにハイデッガーの自由は恣意的専横的自由ではなく、真理の本質によって作動する存在への服従から生じるとはいえ、自由と服従とを真理という概念において折り合わせる弁証法は、あくまで同の優位に立つものである

 他なるものとの関係にもかかわらず、他なるものに対して自我を維持し、自我の自足性を確たらしめることが自由の定義である。われ思うはわれできるに帰着する。それは実在を搾取する。

 ハイデッガーは技術以前の力として所有の権力を高揚せしめるが、その際には自然の気高い風景があり、自然の存在論となっている。その風景、それは非人称の、顔のない寛大な母である。

 ハイデッガー存在論は、他者との関係を存在一般との関係に従属させ、存在論の帝国主義、僭主制へと導かれる。それは土俗信仰する魂の状態、大地への根づき、従属した人間の主人にささげる賛美にまでさかのぼる。存在者に先立つ存在ということは、また正義に先立つ自由である。

 そういうわけで、存在と存在者、存在論と形而上学、同と他という諸項の関係を逆にしなければならない。

 ***********************

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Subject 超越は否定性にあらず[編集:8/1]
Author イストラン [ 2245 to イストラン ]  8/1/Wed/2001   

超越は否定性にあらず

 この節は、前の節で言われていたかの自同者の内在的項である<身体><家><労働><家政/エコノミー>というものが、その世界の世界性が否定的なものの作動する場として再把握されている。

 これらは同の内部にとどまっている。それは世界の他性を含意するが、異邦人の他性ではない。その内在場で、人は不平を言い、此岸を拒み、他のところを望むが、その他のところは依然として此岸に付着したままである。

 レヴィナスの言葉をもっと卑近な言葉にしてしまえば、この世界を越えた絶対的な他の世界が、それは世界と言えないのであるが、とにかくそういう場所があるのだ、ということになる。

 人はこの世界で他なるものと向き合い、それと交渉し、それと戦い、それと慣れ、それと親しむのだが、こういうことによっては、いわば処理しえるような他としか付き合うことはない。これが<同の内部にある他>といわれるものだろう。

 いかにこの同と結びついてしまった他が、全体としての同と他を構築していようとも、それを超えて、全体性の彼方に向かう無限への欲望の道が、形而上学の道があり、その道は同と他の内在的な交渉であるところの、<否定的関係と肯定的関係>を超えている。

 この無限との関係は、完全性と結びついている。「不完全なものの観念に対する完全なものの観念のデカルト的優越性は何らその価値を失うことがない。」不完全さを否定して完全さを目指すというのではなく、完全性はもとから概念をはみ出し、隔たりを指示している。

 ウイもノンもない。肯定も否定も超えている。それは否定性が作動する内在場としての世界のことである。このことは「超越の関係は弁明の口を封じることも、自己放棄、恍惚と化すこともない」という表現に滑り込まないだろうか。弁明とは自己の肯定であり、自己放棄とは自己の否定であろうから。

 *********************************

 ところでこれまで読んできての違和感が二つあるのですが、その一つはこの他性の内容が、あるところでは神としての絶対他であり、あるところでは他者の他性であったりするわけです。そうすると、神を前にしての各個人の孤立化とそれによる至高性への超越、というイメージではなくなります。他性の他の中に、いっそくとびに神も同胞としての他者も含められてしまう。これは違和感のあるところではないですか。

 つぎに、なぜかこの超越・無限への関係の中に、善良さと並んで言葉というのが登場してきます。一方で、いかなる交渉にも先だつところの無限への視点というのがあり、これは無限が隔たりを意味する以上、通常であれば、非言語的な事態が、つまりは<沈黙>というのが出てきて当然であると思うわけです。にもかかわらずレヴィナスは言葉をこの超越連関に絡めてます。これはどういうことか。

 この節の最後にも言葉への示唆があって、「形而上学的関係は否定的関係にも肯定的関係にも先行しており、この関係によって、はじめて、諾と否を最初の言葉とすることなき言語が創設されるのだ。」とあります。

 <諾と否を最初の言葉とすることなき言語>というのは魅惑的表現ですね。しかし言語でなくたっていいではないかとも思うのです。たとえば態度であるとか。ことさらに言語というものにこだわるのはなぜなんだろう。

 またこのレヴィナス感覚からニューエイジ批判につなげようと思えばつながると思うのですが、そういうためにするようなことはとりあえずやめておきたい。

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Subject 全体性の破産
Author イストラン [ 2239 to イストラン ]  7/30/Mon/2001   

 「自我とは自同性の最たるものであり、自己同定という原初的な営みなのだ」としても、その自己同定は、私とは私である、というものではない。その自己の同定の仕方は、「一個の自我と一つの世界との具体的な関係を起点として」考えなければならない。

 この世界という項目が出てくるおかげで、レヴィナスの文章は、何か他なるものとの交流の過程での自己同定というものを述べることができる。彼が使っているヘーゲルの言説で、このレヴィナスの自己同定というものに匹敵するのは、おそらく行為というものだろう。弁証法の別名であった行為性も、弁証法という形容もレヴィナスは取らない。

 彼は世界を「自我にとって疎遠かつ敵対的なもの」と呼ぶが、その疎遠で敵対的なものを自我は我が家として、そこに住み込み、「滞留」するのであるという。滞留はなお一個の形容でしかなく、「自己同定の契機」は「身体、労働、所有、家政」となっているのだから、ほとんどすべての項目が入っている。

 さてこの他なるもの(世界)と自我との関係は、対立ではない。もし対立であれば、同と他とは一つの全体の中で考察されるだろうし、そうなれば、形而上学的欲望(非合致)は裏切られることになるだろう。

 さらにまた表象でもない。そうであれば他は同に解消されてしまうだろう。自我の同は、絶対他への隔たりを埋めることはできない。絶対他に対して、日常的他は、形式的なものであるが、絶対他は同のいかなる帝国主義にも先行している。がその他は同を制限することはない。

 絶対他は他者と呼ばれる。それは異邦人である。われわれとは、我という自同者が多数集まったものではなく、<自同者と他人>であり、その連関は言語である。

 自我から他人への関係が、言説、善良さ、欲望の関係である。欲望は他への関係をまるで悟性の総合作用のように統一するのではないし、言説もまた、自我と他者の根底的な分離を維持する。

 存在内に他性が生起するためには思考と自我が必要なのだが、思考が全体性を破産させるのではなく、いかなるカテゴリーにも組み込まれることのない他の面前に思考がさらされるときに、全体性は破産する。

 「同と他のあいだに確立されながらも全体性を構成することのない絆、われわれはこの絆を宗教と呼ぼうと思う。」

 このような全体性を免れる他は、また歴史性の共通平面からも逃れる。同が歴史である。他は歴史ないし体系を拒む。「キルケゴールが考えていたのとはちがって、自我が体系を拒むのではなく、他が体系を拒むのだ。」

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Subject 逆説的ミステリ
Author ALRDTP [ 2237 to JOACHIM ]  7/30/Mon/2001   

実はまだ読んでいません。それはアナーキズムをテーマとした逆説的ミステリだったと思います。追加になりますが、同じチェスタトンの「詩人と狂人たち」もほとんど文学作品と言っていいミステリで、ブラウン神父シリーズ同様優れた作品です。創元推理文庫にはあと「ポンド氏の逆説」というのもありました。チェスタトンは西部なんかも絶賛してる保守主義の作家ですが、そのセンスは西部とは雲泥の差です。

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Subject ハイデガー
Author JOACHIM [ 2236 to ALRDTP ]  7/29/Sun/2001   

笠井潔は前から興味あるのですが、なかなか読む機会に恵まれません。

ところで、『木曜日の男』はブラウン神父シリーズとは別なんでしょうか?

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トピック= 2216 宛先= 2235 同宛先= 返信= 2237
 
Subject ハイデガー
Author ALRDTP [ 2235 to イストラン ]  7/29/Sun/2001   

この「哲学者の密室」はハイデガーの思想がトリックに直結してるらしく、ハイデガーを読んでない私にはちょっと手がでません。だいたい笠井潔は「現象学的本質直観
を駆使して謎解きを行う謎の日本人」が探偵役なので推理過程がよくわかりません。話としてはおもしろいんですけど。

ixtlanさんにはチェスタトンの「ブラウン神父シリーズ」を推薦します。寓意的でトリックも優れているし、文章もうまいのでいつも読み返しています。

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トピック= 2216 宛先= 2232 同宛先= 返信= 2236
 
Subject 哲学者の密室
Author イストラン [ 2232 to ALRDTP ]  7/29/Sun/2001   

>笠井潔の矢吹駆シリーズではリヴィエール教授がレヴィナスをモデルとしてるのですが、この二人の対話をとばして読むミステリファンが多いそうです(私もです)。でも ixtlanさんなら対話も楽しめそうですね。

 そうですか。ミステリーですか。いっとき読んだことがあるのですが、赤毛のレドメイン家とか黄色い部屋の謎とか皇帝の嗅ぎタバコ入れとか。古いでしょ。古今東西のミステリーの至宝というと何になるんでしょうね。

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トピック= 2216 宛先= 2229 同宛先= 返信= 2235
 
Subject 哲学者の密室
Author ALRDTP [ 2229 to イストラン ]  7/28/Sat/2001   

笠井潔の矢吹駆シリーズではリヴィエール教授がレヴィナスをモデルとしてるのですが、この二人の対話をとばして読むミステリファンが多いそうです(私もです)。でも ixtlanさんなら対話も楽しめそうですね。

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Subject 不可視のものへの<欲望>
Author イストラン [ 2228 to イストラン ]  7/28/Sat/2001   

 他者とか他なるものとか、他への視線とか、そういう言い方にはなんだかそれだけの意味しかなくてつまらないと思っていたのですが。

 ここでいわれる他というものは、まず欲望の他なるものへの運動とも言うべきもので、どのような満足によっても満足されない欲望、絶対欲望というのが形而上学の欲望である、となっています。

 そうなると、他のイメージもまたがらりと変わりますね。

 「欲望は、あたかもわれわれが死に赴くかのように、予期しえない絶対的他性に向かうのだ。欲望する存在が死すべき存在であり、<欲望されたもの>が不可視のものである場合、欲望は絶対的なものとなる。」

 「<欲望>は絶対的<他>への欲望である。充たされる飢え、癒される渇き、鎮められる情欲の埒外で、形而上学はこれらの充足を超えた<他>を欲望する。」

 「観念と合致しえない他性は絶対的他者の他性、<至高者>として理解される。...不可視のもののために死ぬこと---これこそが形而上学である。」

 この次元では、視覚の観念と事物との合致は否定される。がゆえに、非合致としての無限という線がつながるのでしょう。

 そしてまた、この形而上学の次元には倫理が、レヴィナスによれば人間と人間ではないものとの「あるかなきかの差異」が導入されます。

 してみると、欲望-他-倫理というのがからまり合っている言説世界に足を踏み入れるということになるわけで、その欲望は「何の欲望でもない」と言える。この欲望が外への他なるものへの動向という意味からして、<無私>につながり、そして無私は善へとつながる。

 これはある点で、つまり実体化拒否という点で、『存在と時間』の意志未来に似ている。「決して追い越すことができない未来」としての死に与えたハイデッガーの仮面は全体性というものだった。しかしレヴィナスはそれを無限に比すれば妥当しないものであると見なしているようだ。全体性と無限、このうち、倫理につながるのは無限の方であると。

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Subject 『全体性と無限』(レヴィナス)[編集:7/26]
Author イストラン [ 2216 new post ]  7/26/Thu/2001   

 昔ぺロッと見て、まともには読まなかったレヴィナスのこれについて、メモ書きしてみたいと思います。

 それにしてもなんと魅力的な本なのだろうか、今から思うと。

「本書は主観性擁護の書として提示される。とはいえ、本書は全体性に抗する単に利己主義的な反抗のレヴェルで主観性を捉えているのでも、死に臨む不安を通して主観性を捉えているのでもない。そうではなく、無限の観念のうちに根拠を有するものとして、本書は主観性を捉えているのである。」

「本書は<他者>を迎接するものとして、歓待性として主観性を提示するであろう。歓待性としての主観性のうちで、無限の観念は成就される。志向性においては思考と対象が合致したままであるが、それがために、志向性は意識をその根源的次元で定義するには至らない。志向性としての知はどれもみな非合致の典型である無限の観念を前提としているのだ。」

 むむむ。しかしこれはカントの所謂統制性とどこが違うのだろう。決してたどり着けない、アドルノ系の用語を使えば融和というものの表象。

「無限の表象ならざる無限の観念が、ほかでもない現実活動性そのものを支えているのだ。現実活動性の対立概念とみなされている観想的思考、知、批判もまた無限の観念という同じ基盤を有している。無限の観念それ自体はというと、それは無限の表象ではなく、現実活動性と観想双方に共通の源泉なのである。」

 これもまたすさまじいといえる。理論と実践という、かのデリダですら異質的であると譲歩する大分割を、その根源で無限性は捉えるだろうというのである。

 「観想的思考は形而上学的外部性への希求という大望と方を並べることがない。本書は示すように、倫理的諸関係は超越をその極限まで推し進めるのだが、それは倫理の本質がその超越的志向に存しており、しかもすべての超越的志向がノエシス-ノエマ構造をもつわけではないからである。」

 「形而上学的超越を起点とするとき、観想と実践との伝統的対立は消失してしまう。形而上学的超越とは絶対的に他なるものあるいは真理との関係が確立される場であり、この超越の王道が倫理なのである。」

 ということは、形而上学は外部への欲望であり、その欲望は実践と理論の彼方にある無限と接続して、かつこの超越の道を倫理が辿るであろうということになる。

 このような確固とした倫理への意味付与は、サルトルやハイデッガーには見られることがない。

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