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イストラン
[ 2162 to イストラン ] 7/3/Mon/2001 |
いかなる条件において、責任性というものは可能であるのか。善というものがもはや超越的な客観対象ではなく、客観的物事の間の関係でもなく、他者への関係、他者への応答、つまるところ個人的善性と意図の運動の経験であるという条件のもとにである。今まで見てきたように、それは二つの断絶を、狂騒的な神秘 と プラトニズム双方からの断絶を前提している。いかなる条件の上に、全ての計算を越えて善性は存在するのか。善性が己自身を忘れ、運動がそれ自体を断念する贈与の運動となり、故に無限の愛の運動となるということによってである。ただ無限の愛のみが、 無限となるために それ自身を断念することができる。他者を愛するために、有限の他者として他者を愛するために化身となることができる。この無限の愛の贈与は、誰かからやってくる。そして誰かに差し向けられる。責任性は代置不能の単独性を要求する。それでも、ただ死だけが、あるいはむしろ死への憂慮だけが、この代置不能性を与えることができる。そして、これを土台としてのみ、人は責任ある主体について、自己の意識としての魂について、自己自身などなどについて語ることができるのである。かくて、死すべきものの責任性への接触の可能性を、その代置不能性の経験を通して我々は演繹した。その代置不能性は近づきつつある死、あるいは死の接近が彼に与えるものである。しかし、かく演繹される死すべき者とは、客観的な神へ関与するばかりではなく、無限の愛の贈与に、それ自身を忘れる善性に関与することを、その者の責任性が要求する、そういう者である。従って、一方では有限の責任ある死すべき者と、他方では無限の贈与の善性との間に、ある構造上の不均衡ないし非対称がある。はっきりした原因を課すことなしに、あるいは原罪の出来事への遡行なしに、この不均衡を考えることはできる。しかし、そうすれば不可避的に責任性の経験を罪への経験に変換することになる。私はこの無限の善性のレベルには決して存在しなかったし、またその程度にまで存在することもないだろう。また贈与の広大な広がりにも、一般に贈与としての贈与を限る(限らない in-define)べき枠のない広大さにも及ばない。この罪は原罪のように原初的である。およそ過ちが限定される前に、私は責任ある限りにおいて有罪なのである。私の単独性を、すなわち死と有限性を与えるものは、贈与の無限の善性に対して私を不等にするものであり、それがまた責任性の最初の現れなのである。罪は責任性に内在している。というのも、責任性はいつでもそれ自身に不等であるのだから。人は十分に責任あるということは決してない。人が十分に責任あるとならないのは、人が有限であるというばかりではなく、責任性が二つの矛盾する運動を要求するからでもある。それは己自身として応答することを、代置不能の単独性として応答することを、すること、言うこと、与えることへ答えることを要求する。しかしまた、善であり、善性を通して、人は己が与えるものの起源を忘却し、抹消することを要求する。 Patočka は、そのことを多くの言を費やして述べているわけではないし、彼やそのテキストの文字が許す以上に私は事を少し広げてしまっている。しかし、責任ある個の状況の中に、罪あり guilt とか罪 sin というものを、そして悔悛、犠牲、救済の探求を導き出すのは彼である。
| 責任ある人間はその者として、 自己 self である。たまたま引き受けることになったいかなる役割にも一致しない個である[内面の不可視の自己、根底において秘密なる自己]。これは運命の選択の神話を通してプラトンが表現していたことである[ 前 キリスト教的神話であり、キリスト教を準備するものである]。彼は責任ある自己である。というのは、死と対面し、無と渡り合うことにおいて[「レヴィナス的」というより「ハイデッガー的」である]、ただ個々の我々だけが自身の中に実現しうるものを引き受け、それは個々の我々を代置不能にするからである。しかしながら、個体性は今や無限の愛へと関係づけられた。そして人が個体であるというのは、彼が罪ありだからであり、 いつでも その愛に関して罪ありだからである。[ Patočka は「いつでも」を強調する。ハイデッガーのように、なんらか特定の過ち、犯罪、罪を人が犯すことを待たない、原初的な罪ありを彼は定義する。それは責任性の概念の中にアプリオリに含まれている罪ありであり、「罪あり」とも「責任あり」とも訳せる原初的な Schuldigsein にアプリオリに含まれている罪である。]しかしハイデッガーは、原初的な 罪ある存在 Schuldigsein を分析するために、無限の愛への関与における不均衡というものに言及する必要を、少なくとも明示的に言及する必要を感じなかった。]それぞれの者は、罪の一般性へと彼を状況づけるものの唯一性 uniqueness によって個体として限定される。(116) |