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TOPIC 『死の贈与』第2章英訳からの訳
 
Subject 『死の贈与』第2章英訳からの訳7
Author イストラン [ 2162 to イストラン ]  7/3/Mon/2001   

 いかなる条件において、責任性というものは可能であるのか。というものがもはや超越的な客観対象ではなく、客観的物事の間の関係でもなく、他者への関係、他者への応答、つまるところ個人的善性と意図の運動の経験であるという条件のもとにである。今まで見てきたように、それは二つの断絶を、狂騒的な神秘 プラトニズム双方からの断絶を前提している。いかなる条件の上に、全ての計算を越えて善性は存在するのか。善性が己自身を忘れ、運動がそれ自体を断念する贈与の運動となり、故に無限の愛の運動となるということによってである。ただ無限の愛のみが、 無限となるために それ自身を断念することができる。他者を愛するために、有限の他者として他者を愛するために化身となることができる。この無限の愛の贈与は、誰かからやってくる。そして誰かに差し向けられる。責任性は代置不能の単独性を要求する。それでも、ただ死だけが、あるいはむしろ死への憂慮だけが、この代置不能性を与えることができる。そして、これを土台としてのみ、人は責任ある主体について、自己の意識としての魂について、自己自身などなどについて語ることができるのである。かくて、死すべきものの責任性への接触の可能性を、その代置不能性の経験を通して我々は演繹した。その代置不能性は近づきつつある死、あるいは死の接近が彼に与えるものである。しかし、かく演繹される死すべき者とは、客観的なへ関与するばかりではなく、無限の愛の贈与に、それ自身を忘れる善性に関与することを、その者の責任性が要求する、そういう者である。従って、一方では有限の責任ある死すべき者と、他方では無限の贈与の善性との間に、ある構造上の不均衡ないし非対称がある。はっきりした原因を課すことなしに、あるいは原罪の出来事への遡行なしに、この不均衡を考えることはできる。しかし、そうすれば不可避的に責任性の経験を罪への経験に変換することになる。私はこの無限の善性のレベルには決して存在しなかったし、またその程度にまで存在することもないだろう。また贈与の広大な広がりにも、一般に贈与としての贈与を限る(限らない in-define)べき枠のない広大さにも及ばない。この罪は原罪のように原初的である。およそ過ちが限定される前に、私は責任ある限りにおいて有罪なのである。私の単独性を、すなわち死と有限性を与えるものは、贈与の無限の善性に対して私を不等にするものであり、それがまた責任性の最初の現れなのである。罪は責任性に内在している。というのも、責任性はいつでもそれ自身に不等であるのだから。人は十分に責任あるということは決してない。人が十分に責任あるとならないのは、人が有限であるというばかりではなく、責任性が二つの矛盾する運動を要求するからでもある。それは己自身として応答することを、代置不能の単独性として応答することを、すること、言うこと、与えることへ答えることを要求する。しかしまた、善であり、善性を通して、人は己が与えるものの起源を忘却し、抹消することを要求する。 Patočka は、そのことを多くの言を費やして述べているわけではないし、彼やそのテキストの文字が許す以上に私は事を少し広げてしまっている。しかし、責任ある個の状況の中に、罪あり guilt とか罪 sin というものを、そして悔悛、犠牲、救済の探求を導き出すのは彼である。

責任ある人間はその者として、 自己 self である。たまたま引き受けることになったいかなる役割にも一致しない個である[内面の不可視の自己、根底において秘密なる自己]。これは運命の選択の神話を通してプラトンが表現していたことである[ キリスト教的神話であり、キリスト教を準備するものである]。彼は責任ある自己である。というのは、死と対面し、無と渡り合うことにおいて[「レヴィナス的」というより「ハイデッガー的」である]、ただ個々の我々だけが自身の中に実現しうるものを引き受け、それは個々の我々を代置不能にするからである。しかしながら、個体性は今や無限の愛へと関係づけられた。そして人が個体であるというのは、彼が罪ありだからであり、 いつでも その愛に関して罪ありだからである。[ Patočka は「いつでも」を強調する。ハイデッガーのように、なんらか特定の過ち、犯罪、罪を人が犯すことを待たない、原初的な罪ありを彼は定義する。それは責任性の概念の中にアプリオリに含まれている罪ありであり、「罪あり」とも「責任あり」とも訳せる原初的な Schuldigsein にアプリオリに含まれている罪である。]しかしハイデッガーは、原初的な 罪ある存在 Schuldigsein を分析するために、無限の愛への関与における不均衡というものに言及する必要を、少なくとも明示的に言及する必要を感じなかった。]それぞれの者は、罪の一般性へと彼を状況づけるものの唯一性 uniqueness によって個体として限定される。(116)


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Subject 『死の贈与』第2章英訳からの訳6
Author イストラン [ 2161 to イストラン ]  7/3/Mon/2001   

 責任性を信頼する「死の贈与」のハイデッガー、レヴィナスの分析において、この程度まで確認される同意と不同意の交差というものに立ち返ってみよう。我々が Patočka に発見するだろうものは、全く同じ要素なのであるが、それはしかしキリスト教からの主題の網によって重層的に決定され、かく根元的に変換されたものである。
 キリスト教的テーマが確認可能であるということは、たとえ Patočka が彼自身そう言われているにしても、このテキストが、その最後の言葉に、その最後の署名に至るまで本質的にキリスト教的なものであるということを意味しないのである。究極のところではそれはほとんどどうでもよいことである。このエッセイが関わるものが、諸神秘の、あるいはその体内化と抑圧の特定の歴史を解読することによる、ヨーロッパ的責任性の、またヨーロッパとしての責任性の、ヨーロッパ−責任性の系譜論であるからには、 Patočka のテキストは、責任性の歴史がキリスト教の歴史を通過する限り、この責任性の歴史を分析し、解読し、再構築し、脱構築しさえするということは絶えず言えることであろう(そして誰が別様に言い得ようか?)。さらには、これら二つの仮説の間での二者択一(キリスト教的テキストか否か。キリスト教的思想家としての Patočka かそうでないか。)は限られた関わりしか持たない。もしもそれがキリスト教に関わっているのであれば、それは同時に異教的であり、またその誇張的形態である。 Patočka が語り思考する場では、キリスト教は、それがそうであるべきだったもの、かつ未だそうでないものについて、思考しも語ることもないということである。
 キリスト教のテーマは、死の贈与としての 贈与 のまわりで展開するように見られる。死という類の測りがたい贈与、無限の愛(それ自体を無限に忘れる善性としての善なるもの)、罪と救済、悔悛と犠牲。これら全ての意味を生み出し、繋ぐものは、内的かつ必然的に言って、一つの論理であり、根底において(だから或る程度まで「論理」と呼ばれ得るのだが) 啓示の出来事あるいは出来事の啓示 である必要はない。そうした出来事自体ではなく、その出来事の可能性を考える必要がある。これが主たる差違である。それによって、このような言説を制度的ドグマとしての宗教に言及せずに発展させることができ、信仰箇条に極まることのない宗教的なものの可能性と本質に関する思考の系譜がそうした言説に可能となるのである。人がある種の差違を考慮に入れるならば、今日宗教として追究される多くの言説、自身哲学でないにしても、哲学的タイプの言説について、そういう言説を押し進めることなく、また与えられた宗教のドグマに対応するものをその組立によって教えるような 理論物 theologems を押し進めることなく、そういう言説についても同じことが言える。差違はわずかであり、不安定なものであるし、注意深い覚めた分析を求めるだろう。異なった観点、異なった帰結において、レヴィナスとマリオンの、恐らくはまたリクールの言説は、 Patočka と同じ位置にあるのである。しかし最終の分析ではこのリストには明確な限りがなく、諸差違を一度考慮に入れるならば、或るカントと或るへーゲル、もちろんキルケゴール、そして私はあえて挑発的な効果のために言うが、ハイデッガーもまた、この伝統に属しているのである。それはドグマについての非ドグマ的姉妹語を提起し、哲学的形而上学的姉妹語を提起することに成る伝統であり、いずれにせよ、或る 思考 を、宗教なしに宗教の可能性を「反復する」思考を提起するのである。(我々は他のところでこの巨大で棘のある問いに立ち戻る必要があるだろう。)
  宗教的主題の論理的宗教的演繹と呼んでもよいものが、己自身を忘れる善性としてのの贈与、無限の愛、死の贈与、罪、悔悛、犠牲、救済などの点で、どのように作用するのだろうか。そうした思考が、系譜論というスタイルで、責任性を可能にする条件に関する問いへの答えをどのようにして精錬するのか。その答えは出来事への 可能性 の論理的必然性に関わる involves[passe]。ただに責任性の概念のみが究極的にはキリスト教というものを、ないしもっと厳密にはキリスト教の可能性というものを創出することができる、あたかもそうであるかのように、全ては 生起する come to pass。逆に次のように結論することもできよう。この責任性の概念は底の底までキリスト教的であり、キリスト教という出来事によって創出されるのだと。キリスト教的出来事−−−罪、死の経験に結びついた無限の愛の贈与−−−が必然的と見えるのが、もっぱらこの概念の探索の結論としてであるならば、そのことによって意味されるのは、キリスト教のみが歴史を貫通する本来的責任性への接近を、 歴史としての 責任性、 ヨーロッパ の歴史としての責任性への接近を可能にしてきた、ということではないだろうか。論理的な演繹、ないし出来事に関知しないものか、あるいは啓示的出来事に関知するものかの間で成されるべき選択は存在しない。一方は他方を包含するのである。そして、 Patočka が、系譜論的歴史家のようにどの点まで歴史は到達したのかを述べつつ、これまで言及されたような宣言をなすのも、単純に信仰者として、あるいはドグマ、啓示、出来事を肯定するキリスト教徒としてではない。

魂の深淵なる深みの中に基礎づけるゆえに、キリスト教は今日に至るまで最も強力な道 means となっている。決して取って代わられることはないが、しかし徹底して思考されたわけでもないその道は、それによって人が己自身の頽廃に抗して戦うことが可能となる道である。


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Subject 『死の贈与』第2章英訳からの訳5[編集:6/27]
Author イストラン [ 2155 to イストラン ]  6/28/Wed/2001   

 人はここでハイデッガーに対するレヴィナスの抗議に関する原理を発見するだろう(これについては、現存在の不可能性の可能性としての死に関するハイデッガーの分析を再読するときに、我々は立ち戻る必要があるだろう)。レヴィナスが我々に想起させたいことはこうである。責任性というものは、まずは私自身のための私自身の責任性ではない。私自身の同性 sameness は他者に由来している。あたかもそれは他者に対して二番目のものであるかのようにである。他者の死のために、そしてそれに直面して、他者の前での私の責任性の位置から、責任あり死すべきものとしての私自身の同一性へとやってくるかのようである。まずもって 他者 が死すべきものであるからこそ、私の責任性は単独であり、 譲渡できない ものなのである。

他者の死に対して、私はその死において私自身を含めるほどにまで責任がある。このことはもっと受け入れやすい命題で示すことができる。すなわち「他者が死すべきものである限りにおいて私は他者に対して責任がある。」まずもって死と言えるのは他者の死である。("La Mort et le temps" 38)2



2 レヴィナスからの訳は私のものである−英訳者註

 どのような含めることがここで語られているのだろうか?いかにして人は別の人の死の中に含まれ得るのだろうか?「そうした死に私自身を含めること」ということで何が意味され得るのだろうか?それを思考し、あるいはそれを生きることを良識 good sense にさせない論理やトポロジーを追い払うことができるまでは、我々はレヴィナスの思考に接近する望みを持たないだろうし、 アデュー において、死が我々に教え[nous ap-prend]、与えることと取ること[donner-prendre]を越えて思考させるものを了解する望みも持たないだろう。 アデユー とは何か?何を アデュー は意味するのか?「アデュー」と言うことはどういうことなのか?どのように人は「アデュー」を言ったり聞いたりするのか?また我々はいかにして、死から出発して アデュー を考えるのではなく、逆に アデュー から出発して死を考えることができるのだろうか?
 我々はそうした転換移動をここでなすわけにはいかない。しかし思い出してもらいたいのであるが、レヴィナスは死の最初の現象を、ある文で「責任性のなさ」と定義し、そこでは「志向性は人間的であるものの奥義 secret ではない」と定義していた(責任性の起源を呼び出す過程でかくも多くの逆説的挑発的な相が現れる)。「人間の 存在コナトゥス ではなく、脱関与 disinterestedness であり、アデュー adieu である。」(25)
  アデュー というのは私には少なくとも三つの事柄を意味しえるように見える。
 1 与えられた挨拶ないし祝福(およそ規約的言い回しに先だって、「アデュー」というのは、「こんにちは hello」とか「お会いできます I can see you」とか「お目にかかります I see that you are there」を意味しえる。何か他のことを言う前に、私はあなたに話しかける。そしてフランス語のある状況では、別れのときよりも、出会いのときにアデューが言われるというようなことが起こる。)
 2 なにかしら永遠の別れ、離脱のときに与えられる挨拶ないし祝福(これは実際排除されることは決してできない)。この地上に再び戻ることなしの、死の瞬間において。
 3 ア−デュー a-dieu、それは神に対しての、神を前にしてのもの、何であれ他のものを前にしての、ないし他者への関係に対してのものであり、他のあらゆるアデューの中にある。他者へのあらゆる関係は、他のあらゆるものの前に、そして後に、一つのアデューでありうる。
 ここで我々が捉えることのできるのは、この定冠詞つきのアデュー the adieu(冠詞なしのアデュー adieu)という観念が、 現存在 自身の存在に関して、 現存在 の存在ないし非関与 nondifference の原初的かつ究極の問いに、どうやって挑戦するのか、ということだけである。レヴィナスがハイデッガーを責めているのは、 現存在 というものがその固有の死の特権的な位置から論じられているということからではない。そうではなくて、現存在がそれ自身に死を与えるのが、死を単純な無化として、非存在への移行として、つまるところは存在の問いという地平の中で死−への−存在として死の贈り物 gift を贈る inscribe ことへの移行としてであるからである。他方、他者の死は、あるいは他者のための死は、我々の自己と責任性を制定するのだが、存在の意味の了解ないし前了解よりももっと原初的な経験に照応しているはずである。「他のあらゆる経験よりも古いこの死への関係は、存在や無のヴィジョンではない。」(25)。
 最も古いものとはここでは他者であるだろう。他者 、あるいは他者 のための 死の可能性であるだろう。そうした死は、最初の契機においては、無化として与えられるのではない。それは犠牲の倫理的な次元で、 己自身を−死へ−押しやること あるいは 人の−死を、つまり 人の生を−供ずること として、責任性を制定する。
 Pato?ka は自分がよくその仕事を知っているハイデッガーに近くもあり、読んだかどうか不明のレヴィナスに近くもある。しかし彼の言うことはこの両者とは異なっている。この差違がわずかなものであり、二義的なものであるとしても、この差違は抑揚とか情念のレベルに還元されはしない。それら二人の思想家から彼を分離するものはそのキリスト教ということだけではない(議論のために、その言っていることからしてハイデッガーとレヴィナスはキリスト教徒ではないという、何かしら自明を通り越している仮定に従うことにしよう)。キリスト教につき従って、ヨーロッパの、その歴史、その未来に関するある種の観念 idea があって、それがまた Pato?ka を他の二人から区別する。そして Pato?ka のキリスト教政治学はキリスト教について何らか異教的なものを保持しているのであるから、その差違はある種の異教原理への向かっての決然たる動向ということすらできよう。状況は混濁している。多義的というのではなく、いやましに興味をそそることである。

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Subject 『死の贈与』第2章英訳からの訳4[編集:6/27]
Author イストラン [ 2148 to イストラン ]  6/26/Tue/2001   

 ハイデッガーは 何か確固たる事柄において ということを強調するわけだが、それは「或る明確な理由のために」ということであり、或る特定の観点からであって、全体的な観点からのものではない。私は他者に自分の死を提供できる。しかしそうしながら私は或る特定の状況で、何か部分的なものの代わりになり、またそういうものを救うのみであろう(尽くしがたい交換や犠牲が、犠牲の経済が存在するだろう)。絶対的な根拠の上で、絶対的な或る種のやり方で、私は他者をその死から解放することは決してないということ、彼の存在全体に作用する死から彼を解放することは決してないということを、私は知っている。死に関するこうした考え方は、人もよく知るように、 現存在の全体性 とハイデッガーの呼ぶものの分析に動機づけられている。死の与格 dative (他者 のために for 死ぬこと、他者 に to 己の死を与えること)は、代置を意味しない(のために for は、「他者の代わりに in place of」の意味における、のために pro ではない)。私は何でも他者に与えることができるが、不死だけはそうでない。彼女の代わりとなって彼女をその死から自由にしつつ死ぬという程度にまで至るこの 彼女の代わりに死ぬこと だけはできない。私の死が彼に少しだけ長く生きることを与えるというような状況で、私は死ぬことができる。彼を死の口から一時的に守るために、水の中、火の中へ自ら身を投げて誰かを救うことはできる。或る延命を確かなものにするために、文字通りないし比喩的に私は彼女に私の心臓を与えることはできる。しかし彼女の代わりに死ぬことはできず、彼女の死と引き替えに私の生を与えることはできない。先に言ったように、ただ死ぬべき者だけが与えることができる。今やこの読解に合わせなくてはならない。そういう死ぬべき者だけが死ぬべき者に与えることができるのだが、それは彼が何でも持っているが不死性だけは持っていないからである。不死性としての救いだけは持っていないからである。その点で、我々は明らかにハイデッガーの犠牲の論理の内にとどまる。この論理はおそらく Patočka のものではない。たとえ彼が或る程度までそれに従っているにしてもである。またレヴィナスのものでもないのである。
 しかしこれらの議論はその差違にも拘わらず、交差する。それらは死への了解的アプローチにおいて、単独性の経験として、責任性を基礎づける。全ての場合に、責任性の意味は「死を己に与える」様態として定義される。私は彼 のために 死ぬことはできる(私自身を彼のために犠牲にし、あるいは彼の面前で死ぬこと)が、他者 のために (彼に代わって)死ぬことはできないということがひとたび確立されれば、私の固有の死は代置不能性 irreplaceablility となり、それはもしも私が絶対的に私のものに到達しようと望むなら、引き受けなくてはならないものである。私の最初で最後の責任性、私の最初で最後の欲望は責任性の責任性たるものであり、それは誰も私に代わってすることのできないものへ私を関係づけるものである。 まさにこの 本来性 Eigentlichkeit の文脈こそが、 現存在 の可能性および自由としての私自身の可能性へと私を本来的に関係づける。『存在と時間』にとって本質的なことである、この主題の文字通りの解釈は、死の代置不能性という厳密な意味において了解され得る。

そうした、ために死ぬこと( Solches Sterben für )というのは、他者が己の死をほんのわずかでも取り去ることを決して意味することはできない( Dem Anderen...abgenommen sei )。(同上)



 この Abnehmen (取り去ること、取り除くこと)は、続く文章の Aufnehmen と比較されるべきである。これはもう一つ別の取ることであり、何かを自身に引き取ること taking upon oneself、引き受けること assuming、受け入れることである。他者から死を取り去ることもできず、この他者の方も私から死を取ることはできないのであるから、誰もに残された道は、己自身に 死を引き取ることである。誰もが自らの死を引き受けなければならない。つまり他の者が誰一人与えることもも取ることもできない、世界で唯一のことである。そこに自由と責任性とがある。フランス語にあるように、少なくともこの論理の見方からすれば、誰も私に死を与えることはできず、私から死を取ることもできない[personne ne peut me donner la mort ni me prendre la mort]。たとえ私を殺すという程にまで私に死を与えることができるにしても、その死はいまだ私のものであるということになるだろう。そして還元不能に私のものである限り、私は誰からも死を受け取ることはないだろう。かくて死ぬことは、取られたり、借りられたり、譲られたり、送られたり、約束されたり、伝達されたりすることはできない。そしてそれは私に与えられることはできず、だから私から取り去られることができない。死とは、与え−取る[donner-prendre]この可能性、実際には、 与えることと取ること を創設する同じ領域から自身を免除しているこの可能性ということになるだろう。しかしそのように表現することは、 与えること取ること が可能になるのは、死を土台としてのみ、その名においてであるという事実と矛盾することではまったくない。
 この最後の諸命題に我々を導く考え方は、その字義通りの場所を Patočka にもレヴィナスにもハイデッガーにも持っているわけではなく、 己に取る auf sich nehmen という意味の中で、 取り去ること abnehmen から 引き取ることaufnehmen への、 ハイデッガーのずらしから発している。人が 取り去る ことのできない(他者が私から取り、私のものを取ることができないのと同じく、他者に留保するために他者から私が取ることもできない)死、いかなる可能な代置も無効なそうした死、他者から取ることも他者に取っておくこともできない死は、自己自身に引き取られなくてはならない( auf sich nehmen )。 ために死ぬこと が意味する死は、いかにしても死が 取り去られ abgenommen、他者に免除され spare 得ることを意味しない、とハイデッガーはそこで言った。より直截には、「死ぬことは現存在たるものがそのときに自らへ引き取られなくてはならないものである」("Das Sterben muss jedes Dasein jeweilig selbst auf sich nehmen")(同上)。
 死への関係がことごとく解釈的了解であり、死への表象的接近方法であるという意味で、己自身を死に押しやり、己自身に死を与えるためには、死は自らに引き取られるべきである。人は 己自身に死を引き取りながら己自身に死を与えなくてはならない 。それは取り替え不能な、ただ私独りのものであり得るのだから。たった今述べたように、たとえ 死が取られも与えられもできない にせよ、そうである。しかし取られることも与えられることもできないという考えは、他者 から from と、他者 へ to と関わっている。であるからこそ実際、人は死を 己自身に upon oneself 引き取ることによってのみ、 それを 己自身へ to oneself 与えることができるのである。
 問いはこの「自己自身 oneself」へ集中する。死すべき、あるいは死につつある自己の同一性[le même]ないし自己自身[le soi-même]へと集中する。「誰が」ないし「何が」死をそれ自身に与え、またそれら自身に、あるいはそれ自身に死を引き取るのだろうか?ちなみに注意しておこう。我々がここで分析しているこれらの言説においては、死の瞬間というもので性的差違を考慮に入れる余地はないということである。想像を誘発するように、あたかも性的差違が死の面前で意味を持つということではない。性的差違は死−にいたる−までの up-until−存在となるだろう。
 自己の同性 sameness、死ぬことにおいて代置不能にとどまるものは、自己のそれ自身への関係としての同一性 identity の意味において、代置不能性としての死性 mortality というこの観念によって、それがそうであるところのものとなるだけである。ハイデッガーの展開する論理では、これは自己自身の問題ではない。 現存在 が憂慮し、その 各私性 Jemeinigkeit を気遣い、かく死−への−存在となるにいたる、そういう自己自身の問題ではない。 各私性 の自己が制定され、それ自身の固有のものになり、その代替不能性を理解するにいたるのは、死−への−存在においてである。自己自身の同一性は死によって 与えられ 、それを私に 約束する 死−への−存在によって 与えられる 。自己自身のこの 同一性 が還元不能に異なった単独性であり得る程度に応じて、他者のための死とか他者の死というものが意味を持ち得る。そうした考えは、いかなる場合でも、 各私性 の代置不能性における死−への−存在の自己自身を変えるものではない。事実それはそれを確固たるものにする confirm。 各私性 という死すべき自己自身が原初的なものであり、「導出不可能なもの nonderivable」である限り、それは呼び声(Ruf)が聞かれる場所であり、また責任性が登場してくる場所である。実際、 現存在 はその最初の契機 instance でそれ自体の同性においてそれ自体に応答する。それ自体の内において以外のどこでもないところから呼び声を受け取ることによってである。しかしながら、そのことで 現存在 に降りかかる呼び声が妨害されることはない。呼び声は 現存在上に upon それ自体 の内 inside から落ちる fall。それはそれ自体をそれの上に自動的に autonomously 押しつける impose。そうしたことはカント的な意味での自律の土台である。たとえば、「呼び声は私 から from 、それでも 私を越えたところから私を越えて from beyond me and over me やってくる。("Der Ruf kommt aus mir und doch über mich")。

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Subject 『死の贈与』第2章英訳からの訳3
Author イストラン [ 2138 to イストラン ]  6/18/Mon/2001   

  Patočka にとって、責任性の最初の覚醒は、そのプラトン主義的形態において死に関する転向 conversion に対応する。この責任性の形態から哲学が生まれる。そして同じ運動の中で哲学者が己自身の責任性へと生まれる。 そのようにして 存在へとやってくるわけであるが、その瞬間は、魂が死への準備において己を取り集めているだけではなく、身体から己を解放し、同時にデモーニックな狂騒的なものから己を解放する受容においてすら己自身に死を与えつつ、死を受け入れることを用意している、という瞬間なのである。死への移行によって、魂は己の自由へと到達する。
 しかし、 恐るべき神秘 は語るということで、 別の死 を告知する。それは死を与え、死を己に授与する別のやり方を告知する。このときには、「贈与」という言葉が発せられる。死を了解し、責任性へと接続するこの別のやり方は、他者から受け取られる贈与から発する。この他者は、絶対的超越において、私を見ずして見るのであり、接続不能にとどまりながら、その手の内に私を保つ。プラトン的転向を 今一度 in turn 転向するキリスト教的転向 conversion は贈与のシーンへの入り口に関わる。一つの出来事がを、自らを忘却する善性へと、己自身を告発する愛へと変換する贈与を与えるのである。

責任ある生は、最終的分析では、それ自身何かしらの 贈与 として考えられる。贈与されるものは、の性質を持ちつつも[つまり贈与の中心でプラトン的 を保持しつつ]、人が永久に服従しなければならない何か接近不能なものの諸相 traits を示してみせるわけで、それは最後の言葉を持った神秘の諸相なのである。(115,斜線は私の強調)



 与えられるもの、そしてこれはある種の死を表象しもするのだが、それは或るものではなく、善性それ自体であり、与える善性であり、与える行為であり、贈与の寄贈である。それ自体を忘れなくてはならないばかりではなく、与えられる者 donee にとってその源泉が到達不能にとどまる、そういう善性である。与えられる者は、贈与の不均等によって受け取るのであり、それが受け取るものは一つの死でもあり、与えられる死、他ならぬ一つの仕方で到来する死の贈与である。とりわけその到達不能性が与えられる者にとっては一個の命令となる善性である。それは、受け取る者に善性自体として己を与えると同時に一個の法としても与えるというふうにして、受け取る者を従える。いかにして法の贈与がただに責任性の新しい形象の出現にとどまらず、もう一つの種類の死の出現であるのかを理解するためには、自己の唯一性あるいは代置不能の単独性を考慮しなければならない。これを手段として、そしてここでそれは死へと接近するのだが、経験はあらゆる可能な代置を排除するのである。さて与えられる法を土台にした責任性の経験を持つということは、すなわち人の絶対的な単独性の経験を持ち、人の固有の死を了解するということは、同一の事態に極まる。死とはまさに誰も私に代わって体験も直面もできないものである。私の代置不能性は、だから死によって授与され、送られ、「与えられる」と言うことができる。それは同じ贈与であり、同じ源泉であり、こう言ってよければ、同じ善性、同じ法なのである。私が責任性へと呼び出されるのを感じるというのも、私の代置不能性、つまり私の単独性の場所としての死の場からである。この意味で、ただに死すべき者のみが責任ある者である。
 今一度、 Patočka の動きはある程度までハイデッガーのそれと比較可能となる。この動きは『存在と時間』でハイデッガーが死−への−存在を扱う章から、意識( Gewissen )、呼び声( Ruf )、呼び声を前にした責任性、そして原初的な罪( Schuldigsein )としての責任性すら登場する章への移行である。実際彼は死が代置不能性の場所であることを示唆してもいる。誰も私のために死ぬことはできない。この「私のために」が私に代わって、私の代わりにを意味するならばである。「 Der Tod ist, sofern er 'ist', wesenmässig je der meine 」(「その本質からして、死はいやしくも「ある」限り、あらゆる場合に私のものである。」
 この定式は、犠牲に関する或る考察に先立たれているのだが、その考察は自ら展開しつつもあらかじめ己を除外しながら、基本的にはレヴィナスがいつでもハイデッガーに向ける反論を予感している。すなわち、 現存在 の実存を通して、彼は「彼自身の死」を特権化している。1 ハイデッガーは犠牲というもののいかなる例も与えていないが、しかし人はありとあるその類のことを想像することができる。宗教的政治的共同体の公的な場において、家族という半公共的な場において、お互いの関係における秘密の場で(神のために死ぬこと、国のために死ぬこと、子供ため、愛する者のために死ぬこと)。他者 のために 自らの生を与えること、他者 のために 死ぬことは、ハイデッガーの主張によれば他者の代わりに死ぬことを意味しない。逆に、死ぬこと−いやしくもそれが「ある」限り−が私のものであり続ける程度において、私は他者のために死ぬことができ、あるいは他者に私の生を与えることができる。この代置不能性ということを抜きにしては、自己の贈与はないし、考えることができない。こういう風な言い方でハイデッガーは定式化したのではない。しかしこのように翻訳することでハイデッガーの思考を裏切っているとは思えない。というのも、ハイデッガーの思考はレヴィナスのそれと同様に、絶えず犠牲の基礎的かつ土台となる可能性に注意を払っているのだから。再び、代置不能性の問いを強調しつつ、ハイデッガーは犠牲の不可能性ではなく、可能性の条件としてそれを定義する。

1 Emmanuel Levinas, "La mort et le temps[Death and Time]," L'Herne 60 (1991),42.

誰も他者の死ぬことを彼から取り去ることはできないKeiner kann dem Anderen sein Sterben abnehmen )。もちろん、「他者のために死に赴くこと」はできる[この句は引用符の中にある。そのことわざのような性質のゆえにである。他者のために死ぬこと("für einen Anderen in den Tod gehen")]。しかしそのことが意味しているのはいつも、他者のために、「何か確固たる事柄において」(für den Anderen sich opfern "in einer bestimmten Sache")、自らを犠牲にする、ということである。(§47,240,[284])


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Subject 『死の贈与』第2章英訳からの訳2
Author イストラン [ 2137 to イストラン ]  6/18/Mon/2001   

 しかしまだもう一つの概念がここに立ち戻られているのであって、それも決定的な仕方でであるが、それは力 force( síla )の概念である。 Patočka が不信を表明する全てのこと、非本来性、技術、倦怠、個人主義、仮面、役割というものは、「力の形而上学」( Metafyzika s&iactue;ly,125 )からやってくる。力は存在の現代的形象である。存在は己を計算可能なものとして規定されうるようにせしめる。そしてこの力の形象 の下に隠された 存在へと関係する代わりに、人は己を量化可能の力 power として考えるのである。 Patočka は力としての存在の定義をこう述べるわけだが、その図式はハイデッガーが自らの技術論で使ったものと似ている。

人は存在(Bytí)への関係に在ることをやめ、代わりに威力ある力 powerful force に、最も威力あるものの一つになる。[この最上級( jednou z nejmocnějších )で意味されるのは、実際、人が諸力の中の最も強いものとしての世界の諸力との同質的な関係に自らを置いたということである。]とくに一つの社会的な実体として、人は巨大な伝達者となり、永遠のために蓄積され閉じこめられる宇宙的な諸力を送り出すことになる。純粋な諸力の世界の中で、彼は大きな蓄積機となるのであり、それは一方で、存在し作り直すためにこれら諸力を酷使し、他方では、同じ理由でその同じサーキットの中へ差し込まれる。彼は蓄積され、量化され、酷使され、操作されるが、それは他の諸力のシステムと同様である。(124)



 この記述はまずもってハイデッガー的に見える。「存在とはの中に保護されている」とか「とはかくて存在の最も極端な退行と見なされる」のような他の多くの究明のように、ハイデッガー的に見える。力による存在の隠蔽とか、実体による存在の隠蔽に関しても同じことが言える。ハイデッガーへの唯一の明示的言及が奇妙に符丁化された coded 形態を取るにしても、 Patočka はこのような読解から引き下がることはない。まるで何某かの理由で名指されるべきではないかのように、ハイデッガーは単に ほのめかされる が、それに対して同じ文脈で同様の指摘をするために、ハンナ アレントのような人が名指されることになる。たとえば、「実体によって還元される存在のこのヴィジョンは、信用されることも注意を払われることもなく現代の偉大な思想家の仕事の中に現れている」となっている。そこにハイデッガーは存在するのであるが、注意を払われていない。彼は見られうるが、見られていない。ハイデッガーは盗まれた手紙のように存在する。彼は語るように見えるが、多くの言葉でではない。我々はこの盗まれた手紙の回帰を手短に目撃することになる。
 しかしながらハイデッガーが決して同意しないであろう表明もあるのであって、たとえば、この力の形而上学を「神話」として、ないし再び非本来的なフィクションとして提示するくだりである。「力の形而上学は従って創作的なもの、非本来的なものである[fiktivní a nepravá−非真理]」ハイデッガーは、実体の形象ないし様態での存在の形而上学的限定や、存在の歴史が 神話創作 として発展するとは決して言わなかったであろう。そうした言い方は、ハイデッガー的というよりはニーチェ的である。また、そうした形而上学がそれ自体に関して「非真理」であるとか「非本来的」であるという風にも言わなかったであろう。
 ところが、もしも(本来的な)隠蔽を、それを暴露し展開するたんなる身振りによって、つまり見んがために見たり見られるようにする(これがハイデッガーの好奇心の定義だが)というたんなる身振りによって隠蔽する(非本来的な)隠蔽の論理にしがみつくのであれば、そのとき人は、奥義 secret というものの論理の一例をここに持つのである。それは晒されることよりも良い仕方では決して守られることがない秘密 secret である。隠蔽はこの種の特別な隠蔽による以上にはうまく隠蔽されない。この種の特別な隠蔽は、それを暴露し、覆いをはぎ取り、裸のままにするという見せ物を作ることで成立する。存在の神秘は、この非本来的な隠蔽によって隠蔽されるのであり、それは、力としての存在を暴露し、その仮面の背後で、またそのフィクションやそのシミュラークラムの背後でそれを見せるということで成り立つのである。従って、 Patočka がポーの「盗まれた手紙」を持ち出しても驚くことがあるだろうか。

力 force はかくて存在の最も極端な退行と見なされる。それは、E.A.ポーの話の中で求められる文字のように、実体の完全性という形式で眼前にあるよりも、もっと安全な場所にはないものである。すなわち、この実体の完全性というのは、相互に組織し相互に解放する諸力であり、そのとき人は例外なく全てのもの、全ての神秘を奪われる。
 実体によって還元されるこの存在のヴィジョンは、信用もされず注意を払わられることもなく、偉大な現代の思想家の仕事の中に現れている。(125)



 ハイデッガー 自身 、そして彼の著作が、盗まれた手紙と似てくるのである。彼は隠蔽の戯れの解釈者、手紙をさらす者に相似でありうるもの、というだけではない。彼ないしそれはまた、ここで存在とか手紙[ l'etre ou lettre ]と呼ばれるものの場所にいる。ハイデッガーとポーが同じ覆いのもとに発見され、良かれ悪しかれ、死後に同じ文字の歴史の中に折り畳まれるのはこれが初めてではない。 Patočka はこの策略に警告を発しつつ、またハイデッガーの名を覆いの中に保ち、他のトリックを隠すためにあるトリックを遂行しつつ、再び同じことをするのである。
 死の事実が「盗まれた手紙」の劇中にとって本質的なものであるのだから、我々は 死の了解 へと連れ返されるわけで、すなわち、 己自身に死を与える 仕方に連れ返されるのである。そしてそれはこの異教的エッセイにあって基調的な衝動を刻印しているように見える。
 我々がここで死の了解と呼んでいるものは、 meletē thanatou における関心、不安な気遣い、魂への慮(epimeleia tēs psykhēs)にも関係し、同様に、様々な文化での、また特定の瞬間での解釈的態度によって死に与えられる意味にも関係するのであって、たとえば、狂騒的な神秘、そしてプラトン的 アナバシス 、それから 恐るべき神秘 の中で、それぞれの時代に異なった接近方法を与えつつ、死を様々に了解するのである。死への接近方法ないしその了解は、この了解的接近方法で示唆される死の意味へと分かち難く関係している一方で、予期の経験を意味している。それはいつでも、やってくるのを見ることができないものがやってくるのを見ることであり、純粋で単純な仕方では己に与えることが決してできないだろうものを己に与えることである。そのたびに、自己は異なった意味を死に与え、授けることで、また自己が己に与え、事実単純には我有化 appropriate できないものを再我有化することで、死を予期するのである。

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Subject 『死の贈与』第2章英訳からの訳
Author イストラン [ 2136 new post ]  6/18/Mon/2001   


彼方:死を−受け取るために与え、教えそして学ぶこと



* この章の表題は、フランス語では "Au-delà: donner à prendre, apprendre à donner - la mort." である。【英語版訳者】

この語りは系譜論的であるが、単純に記憶の作業というわけではない。それは 証言する bears witness 。倫理的政治的行為において、今日のため、明日のためにである。まずそれは今日起こっていることについて考えることを意味する。この語りの組成は系譜論的回り道をするのだが、それは神秘と狂騒的神秘化の現代ヨーロッパ的回帰を述べるためである。しかしとりわけこの神秘や神秘化を告発し、非難し、それと戦うためである。
 そのエッセイの表題が指し示しているように、 Patočka は、なぜ技術文明が衰退(úpadková)にあるのかと問う。答えは明瞭であるように見える。この非本来性への墜落は狂騒的デモーニックなものの回帰を指し示している。通常の思考に反して、それは再び現出するデモーニックなもののある形態を引きずり起こす。もちろん、技術文明はまた無関心と倦怠を強めることで中性化もするのであるが、そのゆえに、そして事実その程度に応じて、デモーニックなものの回帰を可能にしてしまうのである。倦怠の文化と狂騒的な文化の間には親近性が、あるいは少なくとも共時性がある。技術の支配はデモーニックな無責任性を強め、後者の性的な意味は強調されるには及ばない。それは技術的な水平化効果に協同して作用する倦怠の背景に抗して生ずる。技術文明は、禁欲主義のお馴染みの効果とともに、またそれに伴う個人主義とともに、倦怠を創出する程度にまで、狂騒的なものの高揚ないし再発を創出するのみであって、なぜなら責任ある自己の神秘的な代置不能の単独性を「水平化」あるいは中性化するからである。技術文明の個人主義は、まさに単独の自己についての誤解を頼りにしている。それは 役割 へ関係する個人主義であり、 ペルソナ へのものではない。それはキャラクター[ personnage ]に関係するものであり、人格 person へのものではない。 Patočka はある解釈−とくにブルクハルトのもの−を想起させるが、それによれば現代文明は、ルネッサンス以来展開してきたように、その神秘が社会的仮面の背後に隠れ続ける単独の人格によりも、 演じられる役割 へと己を関係づけるものである。
 可能な選択肢は混乱している。個人主義は社会主義あるいは集団主義となる。それは単独性の倫理や政治を装う simulate。自由主義は社会主義と結合し、民主主義は全体主義と結合する。そしてこれら全ての形象は、ただ役割の客観性を除いて、あらゆることへの同一の無関心を共有する。全てのものにとっての平等性、ブルジョア革命のスローガンは量化可能の役割の平等性となるが、それは人格の平等性ではない。
 仮面についてのこの批判は、明らかに伝統へと取って返す。とくに原初的本来性という名において技術を告発する際にである。プラトンからハイデッガーまで途切れることなく見えるその論理がいかに一貫しているか、そのことに Patočka は疑いなく何か鈍感である。そして、演じられる役割が代替不能の自己を社会的仮面の背後に隠しているのとまさに同じく、技術−科学的客観性によって生まれる倦怠の文化が神秘を隠している。「最も洗練された発見は、発見されるものの背後に控え、我々に明かされるものの背後に控える 神秘(Tajemství) の増大へと導かない限り、退廃的である。(123)
 この言説の論理を概観してみよう。それは非本来的な隠蔽(これは技術に共通する意味、役割演技、個人主義、倦怠である)を批判するが、そうするのは暴露としての啓示や真理の名においてではない。そうではなくて、もう一つの隠蔽の名においてであって、そこでそれは差し控える[dans sa réserve même]ことにおいて、覆われた神秘を保っている。非本来的な隠蔽、仮面をつけられた役割は、それが覆いを取り、見せつけ、暴露し、展示し、好奇心をかき立てると主張するほどに、それほどに倦怠にある。全てのものの覆いを取るのだということによって、それは隠す。何を隠すのかと言えば、その本質が隠されてあり続けるもの、つまり人格の本来的な神秘である。本来的な神秘は、神秘 であり続け なくてはならない。そして私たちがそれに接近するのも、もっぱらそれを真実そうであるようにさせ、覆われ、引き下がり、隠蔽されてあるようにさせる限りにおいてである。「神秘」「本質的神秘」という語は、 Patočka の論文では繰り返し現れる。その論理と調子は、少なくともますますハイデッガー風に見える。

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