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TOPIC 『死の贈与』第2章
 
Subject 最終回:有限性と無限の愛の狭間で
Author JOACHIM [ 2158 to JOACHIM ]  7/2/Mon/2001   



 如何なる条件下において責任(応答可能性)があり得るのだろうか。それは以下の条件下においてである。すなわち、『善性』が客観的な超越でも、客観的な事象の間の関係でももはやなく、他者への関係、他者への応答、つまり個人的な善性の経験と意志的な活動であるという条件下において。こうしたことは、すでに見た通り、狂騒的な神秘との断絶とプラトニズムとの断絶という二重の断絶を前提とする。如何なる条件下において、計算の彼岸に善性があるのか。それは以下の条件下においてである。すなわち善性が自らを忘却し、運動が自己を放棄する贈与運動、無限の愛の活動であるという条件下において。自己を放棄し、<有限となる>ためには無限の愛が必要であり、他者を、有限の他者としての他者をこのようにして愛するためには具現化されることが必要である。無限の愛のこうした贈与は、誰かから出来し、誰かへと差し向けられる。責任は掛け替えのない単独性を必要とする。ところで、我々が責任ある主体を、自己や自我などについての意識としての魂を、語ることを唯一可能にするこの掛け替えのなさ(irremplaçabilité)、これを唯一与えることができるのは死であり、むしろ死の懸念なのである。従って我々は、人間(=死すべき者)が己れの責任へ到達する可能性を、近しい死、死へのアプローチによってもたらされる彼の掛け替えのなさの経験によって、演繹した。しかしこうして演繹されたこの人間とは、その同じ責任によって、客観的な一種の『善』だけでなく、無限の愛の贈与や自己を忘却する善性にも向き合わなければならない人なのである。有限で責任を負うべき人間と、無限の贈与の善性との不均衡、不調和がある。我々はこの不均衡を思考することができる。しかもこの不均衡に、啓示された大義を割り当てることもなく、或いはこれに原罪という出来事を起源として与えることもないやり方で。むしろこの不均衡こそが不可避的に、責任の経験を有罪性(culpabilité)へと変容させるのである。というのも私は、この無限の善性に、贈与の膨大さに、ある贈与を贈与一般として定義(無=定義)する無辺の膨大さに、かつて一度も見合ったこともなければ、これからも一度も見合うことはないであろうから。この有罪性は、その名を持つ罪と同じく原的である。ある特定の過ち全体に先だって、つまり責任を負うべきである限りにおいて私は有罪なのだ。私に単独性を与えるもの、すなわち死と有限性(finitude)、こうしたもの自体が、責任への初めの呼び声でもある贈与の無限の善性に対して、我々を不釣り合いにさせるのである。有罪性は責任(応答可能性)に内在している。というのも責任とは常にそれ自身に対して不釣り合いであり、人は決してそれほど多くは責任を負うことができないからである。我々がそれほど多く責任を負うことができないのは、我々が有限であるからでもあるが、同時に責任が二つの相矛盾する運動を必要とするからでもある。つまり、我々は、自分自身である限りにおいて、掛け替えのない単独性である限りにおいて、自分がなし、言い、与えるものごとに責任を負わねばならないのだが、しかし同時に、善である限り、善性による限り、我々は自分が与えるものごとの起源を忘却し抹消しなければならないのだ。Patočkaはこうしたことをこういう形では言っておらず、私が、彼或いは彼の手紙の少し遠くから(un peu loin de lui ou sa lettre)引き出している。しかし責任ある個人の状況から、有罪性と罪―――そしてそれゆえ悔恨、供犠、救済の探求―――を演繹しているのはPatočkaその人である。

 それ自身として責任を負うべき人間とは、彼が担うことがあり得るような如何なる役割にも相当しない自我や個人である[内的で不可視の自我、要するに秘密の自我]。―――このことは、プラトンが運命の選択の神話[キリスト教的であり、従ってキリスト教を準備させる神話]で表現している。それは責任ある自我である。というのも、死と直面することで、そして無によって自らを理解することで[レヴィナス的というよりハイデガー的主題だ]、この自我は、ただ各人のみが己れにおいて実現しうるようなものごとを、そこにおいて各人が掛け替えのない存在となるそこを、自らの上に引き受けたからである。しかし今や、個体性は無限の愛との関係に置かれ、人間は個人となる。というのも、この愛に対して彼は有罪で、常に有罪であるのだから[Patočkaは常にを強調する。ハイデガーと同じく、彼はそこで、我々が或る特定の過ち、犯罪、罪を犯したということすら期待しないある原的有罪性を、すなわち、責任の中に、有罪性によってと同じく責任によっても翻訳しうるような原的責任存在Schuldigseinの中に包み込まれた<ア・プリオリ>な有罪性を定義している。ただしハイデガーにとっては、原的責任存在を分析するために、無限の愛に関する不均衡を、少なくとも明示的には参照する必要はない]。各人は、罪の一般性において彼を位置づけるものの唯一性によって、個人として規定される。(o.c., p. 116)

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Subject 宗教的責任の系譜学
Author JOACHIM [ 2157 to JOACHIM ]  7/2/Mon/2001   



 責任における「自らに死を与えること」についてのハイデガーとレヴィナスの分析を、一致において或いは不一致において、これまで交差させることを可能にしていたものから再び出発しよう。それらの分析の総ての要素を、我々はPatočkaにも見出すことができっようが、しかしそれらは重層決定(surdéterminés)されており、従ってそれゆえ、キリスト教的な諸テーマの網の目への参照によって根本的に変形されている。
 キリスト教的諸テーマを確認可能であることが意味するのは、このPatočkaのテクストが、その最後の言葉において或いは最後の署名において、キリスト教的本質をもっているということではない。たとえPatočka自身がそうだと言いうるとしても、このテクストはそうではない。結局そんなことは問題ではない。様々な神秘の歴史、それらの合体あるいは抑圧についてのある解読を通じてこの本で問題なのが、ヨーロッパにおける責任あるいはヨーロッパとしての責任、ヨーロッパ的責任(responsabilité-Europe)であることを斟酌すれば、Patočkaのこのテクストが分析するものは、この責任の歴史を、それがキリスト教のある歴史を経由する―――誰がそれに異議があろうか―――かぎりにおいて解読し、再構成あるいは脱構築さえするのだと、更に我々は言うことができるであろう。その上、この二つの仮説(テクストがキリスト教的であるかそうでないか、Patočkaがそうであるかそうでないか)のどちらかを選ぶことで得られる正確さは限られたものだ。というのもキリスト教があるにしても、それは異端的であると同時に誇張的なのだから。キリスト教がそうであらなければならなかったであろうが未だそうなっていないところのものを、未だ口にすることも考えることもしていなかったであろう場合において、キリスト教が語ったり考えたりしているのである。
 キリスト教的な諸テーマは、死の贈与、ある種の死の際限なき(=主題なき)贈与としての贈与の周囲に取り集められうる。諸テーマとは、無限の愛(無限に忘却される善性としての『善(Bonté)』)、罪、救済、悔恨、そして供犠である。これらの間の様々な意味作用を内的かつ必然的な仕方で産み出し結びつけるものとは、詰まるところ(そしてそれゆえ、我々はなおもそれを、或る程度まではある種の「論理」と呼ぶことができるのだが)、<啓示という出来事あるいは出来事という啓示>を必要としないある種の論理なのだ。この論理は、出来事そのものではなく、ある出来事の可能性を考えることを必要とする。ある主要な差異が、創設された教義神学としての宗教に準拠することのないある言説を手中にとらえ、信仰箇条でないような宗教的なものの可能性と本質についての思考する(pensant)系譜学を提起することを可能にする。こうしたことは、必要な変更を加えるならば、今日、宗教の言説たらんとする多くの言説、哲学そのものではないにせよ哲学的類型をもつ言説たらんとする多くの言説、しかも或る特定の宗教の教説に相当するようなことをその構造自体において告げ知らせる命題や神学素を提起することもない多くの言説に当てはまる。差異はここでは微妙であり、一定しないので、繊細で用心深い分析を必要とするであろう。様々な資格や意味において、レヴィナスあるいはマリオンの言説、恐らくはリクールの言説もまた、Patočkaの言説とともにこの状況を共有している。しかし結局こうしたリストにはきりがないし、多くの差異を考慮しつつも以下のように言うことができよう。すなわち、キルケゴールは言うまでもなく、カントやヘーゲルと呼ばれる人々も、挑発を込めて敢えて言うならハイデガーまでも、一つの伝統に属しているのだと。教説の独断的でない模造品(doublet)、哲学や形而上学の模造品、いずれにせよ宗教を持つことなく宗教の可能性を「反復」する思考する模造品であるような伝統に属しているのだと。(我々は後で、この巨大で恐るべき問題に立ち戻らねばならないだろう)
 我々が名指したばかりの宗教的諸テーマ(自己を忘却する『善性』としての『善』、従って無限の愛、死の贈与、罪、悔恨、供犠、救済などとしての『善』)とも言うべきものの論理的=哲学的演繹はどのように作用するのだろうか。それは、如何なる条件下においてある種の責任(応答可能性responsabilité)が可能となるのかという問題に対する応答réponse(=回答)を、系譜学的な文体において練り上げることによってである。この応答は、出来事の可能性の論理的必要性を手渡す(passe)。あたかも、要するに責任という概念の唯一の分析がキリスト教を、より正確にはキリスト教の可能性を、産み出すことができるかのように万事は進行する(tout se passe)。しかし逆に、以下のように結論しよう。すなわち、責任というこの概念は隅々までキリスト教的であり、キリスト教の出来事によって産み出されているのだ、と。というのも、この概念の唯一の検査がキリスト教的出来事を必要とするなら、それだけでこのことは、キリスト教だけが、歴史としての歴史、ヨーロッパの歴史としての歴史における或る本来的な責任への到達を可能にしたということを意味するのではないだろうか。我々はもはや、論理的あるいは非出来事的な演繹と啓示的な出来事との間で選択をする必要はない。一方が他方を含み込んでいるのだ。そして、歴史に関する物事を確認する系譜学的歴史家ならそうするように、Patočkaが以下のように言明しえたのは、単に信徒として、教説や啓示や出来事を肯定するキリスト者としてなのではない。



 魂の深遠な掘り下げにおけるこの基礎付けによって、キリスト教は今日までにおいて最も力強い跳躍を表現している。決して未だ越えられてはいないが、同時に未だ徹底して思考されていないこの跳躍が、人間をして堕落に抗して戦うことを可能にしているのだ。(p.117)

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Subject 呼び声とアデュー
Author JOACHIM [ 2151 to JOACHIM ]  6/27/Wed/2001   

 これら最後の諸命題へと我々を導くもの、Patočkaにもレヴィナスにもハイデガーにも文字通りの形では見あたらないもの、それは、それでもハイデガーの元にあるAbnehmen(取り去ること)から、auf sich nehmen(担うこと)としてのAufnehmen(受け取ること)への移行である。人がAbnehmen(他人が私の死を取り上げたり取り除いたりできないのと同じくその他人から我々が死を抜き取るべく取り上げることの)できない死、可能な代替物を持たない死、他者によっても(de l'autre)他者からも(à l'autre)取り上げることのできない死、それは自分で引き受けなければならないものなのである。ハイデガーが言ったように、「誰かのために死ぬこと」は如何なる場合においても、他者から取り上げられたり、取り去られたりしうるということは意味しない。ハイデガーは正鵠を期すべく以下のように語っている。

 死ぬということは、Daseinがその都度自分自身で引き受けなければならない。

 死への関係全体が死を解釈する懸念なのであり、死を表象するアプローチなのだという意味において自らに死を与えるために、死を引き受けなければならない。死を引き受けつつ死を自らに与えなければならない。というのも死とは、固有なものとして掛け替えのないものとして私のものであるからだ。しかも我々が前述したように、<死は取り去されることも与えられることもない>のだが、それでも死を引き受けつつ、自らに与えなければならないのだ。しかし死は、他者によってあるいは他者から、取り上げられることも与えられることもないのだから、そういうわけで我々は、死を(<自らの上に>)引き受けつつ自らに与えることしかできない。
 かくして問題は、この「自分自身」に、つまり死すべき者あるいは瀕死の者の、同じものとか自分自身とかに集中する。「誰」が、「如何なる人」が、彼あるいは彼女自身で死を引き受けるのだろうか。序でに指摘しておけば、我々がここで問いに付している如何なる言説においても死の契機(瞬間)は、性差を斟酌したり刻印したりする余地を残していない。もちろんそうしたことを考えるのは蠱惑的ではあるのだろうが、しかしこれらの言説においては、あたかも死を前にしては性差などももはや物の数には入らないかのようなのだ。つまり、それは性差の究極の地平であり、性差の終末なのであろう。ということは性差とは、死=に=至る=存在(être-jusqu'à-la-mort)なのであろう。
 自分自身のもつ同じもの(le même du soi-même)とは、死ぬことにおいて掛け替えのないこの同じものとは、それがあるところのものではない。つまり、掛け替えのなさとして自分自身を自らの可死性へと関係づけるもの以前にあるような、自分自身における自己への関係としての同じものではない。ハイデガーが展開する論理においては、気遣いの中で死を懸念した後で死=へ=向かう=存在に至るような、そのような自己自身やDaseinは存在しない。その都度私であることJemeinigkeitという自分自身が構成され、自らへと至り、自らの代替不可能性へと至るのは、まさにこの死=へ=向かう=存在においてなのである。自己自身の同じものが<与え>られるのは、死によってであり、死がそうしてくれるのだと私に約束する死=へ=向かう=存在によってである。自己自身のこの同じものが、断固として他と異なる単独性として可能である限りにおいてのみ、他者のための死あるいは他者の死が何らかの意味をもつのである。いずれにせよ、一つの意味は、死=へ=向かう=存在の自己自身を、その都度私であることの掛け替えのなさへと移動させるのでは決してなく、それとは逆に、その自己自身をその掛け替えのなさにおいて確認するのである。<その都度私であること>というこの死すべき自己自身が根源的かつ微分不可能であるかぎりにおいて、まさにそれは、呼び声(Ruf)が聞かれ、従って責任(=応答可能性)が始動する場所なのである。Daseinはまずもって、自己自身の責任を、事実、彼自身の同じもの性(mêemté)の責任を負わねばならないので、他ならぬ彼自身からの呼び声を受け取る。とは言えやはり、呼び声は彼の上に落ちてくるのだ。つまり呼び声は、彼の中から彼の上へと落ちてくるのだ。呼び声は自律的な仕方で、自らを彼に強いてくる。従ってそれは、例えばカント的な意味における自律性の根源でもあるだろう(「呼び声は私の中から私の上へやって来る」p.275, 57)。
 レヴィナスの反論の大元はこの場所にこそ位置づけられるであろう(我々は後でこの大元に戻らねばならないだろうが、それはDaseinの不可能性の可能性としての死に関するハイデガーの分析を読む時になるであろう)。レヴィナスが喚起せんと欲するのは、責任とはまずもって、自分に対する自分の責任ではなく、自己の同じもの性は他者を通じて確立されるのであり、それはあたかもレヴィナス自身において、この同じもの性は、他者の死にとっては、他者の死を前にしては二次的であるかのようだということである。というのもこの同じもの性は、他者を前にした私の責任から、責任があり死するであるとしてこの同じもの性自身へとやってくるのだから。何よりもまず、他者とは死を免れない存在であるという理由によってこそ、私の責任は単独であり「譲渡不可能」なのだ。

 死へと我が身を投ずるまでに私が責任を負うべきなのは、他者の死に対してである。このことを、おそらくはより受け入れやすい命題において示されよう。すなわち「他者が死を免れない限りにおいて私は他者に責任がある」と。他者の死、これこそが本源的な死(mort première)なのである。(o.c., p. 38)

 ここで問題になっているのはどのような我が身の投入なのか。いかにして他者の死に対して身を投ぜよというのか。いかにしてそうしないでいるべきなのか。「他者の死へ我が身を投ずる」とは何を意味しうるのか。良識(bon sens)がそうしたことを考えたり生きたりすることを妨げている論理や位相をはぐらかさしてしまわないかぎり、レヴィナスのこの思考にも、与える=取り上げるということの彼岸おいて死が我々に考えることを教える、与えるもの、すなわちアデュー(l'adieu)にもアプローチするチャンスは全くなくなるであろう。アデューとは何なのか。アデューは何を意味するのか。「アデュー」と告げることとは、どういうことなのか。いかにして「アデュー」を告げ、「アデュー」を聞くべきなのか。しかもl'adieuではなくadieuを。そしてアデューから死について思考し、その逆ではないのはなぜなのか。
 ここで、はぐらかしへと身を投ずる(s'engager)ことは我々にはできない。しかしレヴィナスが、死という最初の現象を、「応答のなさ(sans-réponse)」と定義していることは喚起しておこう。こうした定義をしているのは、「志向性は人間の秘密ではない」からと言明しているある一節においてである(責任の起源へと注意を向けさせる道程において、逆説的で挑発的な言葉がたくさんある)。「人間の存在(esse)は意志(conatus)ではなく、デザンテレスマン(無私無欲、関心のなさ、弁済)でありアデューである。」(o.c., p. 25)

 私の推測では、<アデュー>は少なくとも三つのことを意味しうると思います。

1. もたらされる挨拶あるいは祝福(事実確認的な言語そのもの以前に、<アデュー>はまた、「こんにちは(bonjour)」「私は君の存在に気づいている」「君がそこにいるのを私は気づいている」を意味しうるのであり、他の何を君に話すより前に私は君に話しかける―――そしてフランス語においてある場所では訣れに際してではなく出会いに際してアデューを言い合うということもある。)
2. 別れや立ち去りに際して、しかも時には永訣のために(それは決して避けられないのだから)もたらされる挨拶あるいは祝福。
3. ア・デュー(L'à-dieu)、すなわち何よりもまず、そして他者との関係全体において、他のアデュー総てにおいて、神へと向けられていること或いは神の御前にいること。他者との関係総ては、まずもってそしてそして詰まるところ、一つのアデューであろう。

 ここで我々は垣間見るだけしておいたが、アデューについてのこの思考(アデューという言葉についての思考)はまた、存在すなわち、Daseinが己れ自身の存在に対しての無関心ではないということの問題、そうした問題の原初的で究極の特徴にも異議を申し立てる。レヴィナスがハイデガーを非難するのは、単に彼がDaseinにとっての己れ自身の死の特権性から出発していることによってだけでなく、ハイデガーが単なる無化、非=存在への移行として自らに死を与え、しかもそうすることで、与えられた死を、死=へ=向かう=存在として、存在の問題の地平へと書き込むことによってでもある。ところで他人の死―――あるいは他人の身代わりの死―――は、我々の自我と責任を創設するのだから、存在の意味の理解あるいは先=理解よりも一層根源的な経験に相当するということになろう。

 「死との関係、経験一切より古いその関係は、存在あるいは無の光景(vision)ではない」(p. 25)

 最も古いもの、ここではそれは、他者であろうし、他者を通じて(de l'autre)或いは他者のために(pour l'autre)死ぬという可能性であろう。この死はまずもって、無化としては与えられない。その死は、供犠の倫理的次元において、自ら=に=死=を=与えることとして、あるいは<自らの死を、すなわち自らの生を差し出すこと>として、責任を創設する。

 Patočkaが熟知していたハイデガーと同時に、Patočkaが読んでいたかどうか定かでないレヴィナスにもPatočkaは近いのだが、しかし両者とは別のことを語っている。この差異は取るに足らない二次的なものにも映るが、単に語調や悲壮感におけるものではない。同時にそれは、歴然としたものにも見える。彼をハイデガーやレヴィナスから分かつのは単にキリスト教という差異だけではない(少なくとも、単純に言ってハイデガーとレヴィナスが、彼らの語ることの本質に関しては、キリスト教に馴染みのないのだとする仮説に甘んじる振りをしておこう、もちろんこの仮説は決して明白なものではないのだが)。他の二者からPatočkaを区別するのはまた、キリスト教とともに、ヨーロッパや、その歴史や未来についてのある種の観念でもある。Patočkaのキリスト教的政治学が、何か異端的なもの、それどころか、ある種の異端的原理への断固とした傾向を保持しているので、状況は、曖昧と言わないまでも、かなり錯綜している。そしてそれゆえ一層興味深いのだ。

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Subject [削除:6/27]呼び声とアデュー
Author JOACHIM [ 2150 to JOACHIM ]  6/27/Wed/2001   

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Subject ハイデガーの供犠の論理
Author JOACHIM [ 2141 to JOACHIM ]  6/24/Sun/2001   

前回の最後の引用がえらくまちがっていたので、そこから訳し直しました。



<何人も他者から彼自身の死ぬことを取り去ることはできない。>誰かが「他者のために死へ赴くこと」(かなり格言的な特性をもっているのでこの文は括弧に入れてある)、他者のために死ぬこと、はできる。しかしそれはここでも、「ある特定の場合(in einer bestimmten Sache)」に一人の他者のために自らを犠牲にする、ということを意味する。(p. 240)

 ハイデガーは<ある特定の場合>を強調している。つまり、何かある限定された物事のために、全体的でない個別的見地から、といことを。私は自分の生全体を他者のために贈与したり、自分の死を他者に提供することができるが、しかしそうだとしても、個別の何らかの状況において、部分的な何かの身代わりになったり、その何かを救い出したりすることでしかないだろう(非全体的な贈与の交換、或いは贈与のエコノミーはありうる)。私は、他者の死が他者の生全体に影響を及ぼしているのだから、私は彼の死から彼を解放することは決してないだろう、ということをある絶対的な、絶対に確実な知によって私は知っている。なぜなら、この死に関する言説は、知っての通り、ハイデガーが<現存在の全体性Daseinsganzheit>と呼ぶところのものによって導き出されているからである。それはまさに、「(他者の)ために」が<死へ>を意味するというところの問題である。死の与格(他者の<ために>死ぬ、自分の生を他者<に>贈与する、という場合の)は代替(他者の代わりに、という意味でのpourあるいはpro)を意味しない。根本的に不可能な何かがあるとすれば、―――そして総てはこの不可能性によって意味をなすのだが―――それはまさに、「他者の代わりに死ぬこと」の意味における<他者のために死ぬこと>なのだ。私は、不死性をのぞいて総てを他者に与えることができるが、この不死性、とはすなわち、他者の代わりに死ぬことで他者を彼自身の死から彼を解放するほどまでに<彼のために死ぬこと>である。私の死が彼に幾ばくかの余命を与えるというある状況下において、彼のために私は死ぬことができ、彼を一時的に死から救い出すべく火の中水の中へと我が身を擲つことによって、私は誰かを救うことができ、彼に何らかの長寿を保証するために、字義においても転義においても私の心(蔵)を彼に与えることができる。だが、彼の代わりに私が死ぬことも、彼の死と引き替えに私の生を彼に与えることもできない。ただ死すべき者(=人間)のみが贈与することができるということは上述した。今や以下のように付言しよう。すなわち、不死性をのぞいて、不死性としての救済をのぞいて、彼が総てを与えることができるがゆえに、死すべき者は何人かの死すべき者にのみ贈与ができるのである。―――しかもここで我々は確かにハイデガーの供犠の論理に則っているが、それはかくもハイデガーの論理に従って見えるPatočkaのものでもなく、レヴィナスのものでもない。
 しかしこれら三者の論理はそれぞれの差異にも関わらず交錯している。というのもそれらは、死への懸念的アプローチにおいて、責任(=応答可能性)を、単独性の経験として根付かせるのだから。責任の意味は常に、「死を自らに与える」という一つの様相として告知される。私は他人のために(他人の代わりに)死ぬことができない以上、にもかかわらず私が彼のために死ぬ(彼のために、彼の目の前で、私が自らを犠牲にするという形で)以上、私自身の死とは、絶対的に私に固有なものに私が到達しようとするなら私が引き受けざるを得ない掛け替えのなさなのである。私の最初にして最後の責任、最初にして最後の意志、責任に対する責任は、何人も私の代わりにできないことを私に関係づける(送り返す)。従って<本来性(Eigentlichkeit)>という固有の場所もまた、気遣いにおいて、Daseinの自由と可能性として、私固有の可能性に私を本来的に関係づける。『存在と時間』の本質的テーマ―――これに字義通りに見合うもの(littéralité)を、死の掛け替えのなさを口にする者のもっとも近くで、我々は取り戻すことができる。

 しかしこのような「身代わりに死ぬこと」は、他者から取り去られたものだということを意味するのでは断じてない。

 このAbnehmen(取り去ること)に後続の文におけるAufnehmenが対応している。すなわちそれは、ある別の作法で取り去り(prendre)、引き受け(prendre sur soi)、担い(assumer)、受け入れる(recevoir)ことである。私は他者から彼の死を取り上げることはできないし、逆に彼も彼で私から私の死を取り上げることができるわけでもないのだから、自分固有の死を引き受けることが各々の責務となる。各々が担わなければならない。それこそが、自由であり、責任であり、固有の死であり、すなわち、この世で唯一、何人も<与える>ことも<取り上げる>ことができないものなのである。というのも、少なくともこの論理においては、何人も私を殺す(=私に死を与える)ことも私の命を救う(=私から死を取り上げる)こともできない、とフランス語でなら言えるからである。たとえ人がこの意味で私に死を与え、それが詰まるところ私を殺すことになるのだとしても、この死は常に私の死であったことになるだろうし、私はそれを誰から受け取ったわけでもないことになるだろう。というのもこの死は断固として私の死であり、死ぬことは決して、運び去られたり、貸借されたり、転移されたり、委ねたり、保証したり、譲渡したりはしないからである。そして人が私に死を与えることができないのと同様に、私から死を取り去ることはできない。死は、<与えること=奪うこと>の可能性であろう。従ってこの可能性は、それ自身、この可能性が可能にすることから、すなわちまさに<与えること=奪うこと>から免れている。死とは、<与えること=奪うこと>の経験そのものを宙づりにするものの謂いであろう。それどころか、以上のことは、死からのみ、その名においてのみ、<与えること>も<奪うこと>も可能となるということなのである。

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Subject 死の贈与・死による贈与
Author JOACHIM [ 2134 to JOACHIM ]  6/18/Sun/2001   



 責任への第一の覚醒は、プラトン的な形式の下で死の経験への一つの転向に相当する。哲学がこの責任の中で生まれ、同時に哲学者が自分固有の責任に目覚める。そのものとして哲学者がやってくるのは、魂が、死の教練をする準備作業へと己れを集めるだけでなく、また、ダイモン的なもの(démonie)や狂騒的なもの(orgiasme)と同時に肉体から魂を解放する受容において魂が死を自らに与えつつ、死を受け入れる準備ができている時である。魂は、死を通過することで、自己固有の自由へと至る。
 <恐るべき神秘(mysterium tremendum)>は別の死の端緒、言うなれば自らに死を与える別の作法の端緒となる。この時、「贈与」という語が口にされる。死、すなわち責任さえも懸念するこの別の作法は、他者から授与される贈与である。そしてその他者とは、その絶対的超越において私に見られることなく私を見、私には手の届かないままに私を手づかみにする。<今度>はプラトン的転向を転向させるキリスト教的「態度変更」であるが、それは贈与の闖入である。『善性(Bonté)』そのものを忘れた『善性』、愛そのものを放棄した愛へと『善(Bien)』を変化させる贈与を、この出来事は贈与するのだ。

 その時、Patočkaの言に拠れば、「責任ある生」は何かの<贈与>として考えられる。その贈与とは、つまるところ、『善』の性格を具有しながら(それゆえ、この贈与の中にプラトン的な<アガトン>を保持しながら)も同時に、人間が永久に服従している到達不可能なものの諸特性、すなわち最後の言葉を保持する(総てを打ち負かす)神秘の諸特性を呈しているのだ。(p.115 強調デリダ)

 贈与されるもの―――そしてそれもまた、ある種の死ではあるのだが―――それは何らかの事物ではなく、善性そのもの、贈与者としての善性、死を与えること、あるいは死の贈与なのだ。この善性は、自分自身を忘却していなければならないが、かといってその源泉は依然として授与者にとって到達不可能である。この授与者は、非対称において、一つの死でもあろう贈与、授与される死、他ならぬしかしかの方法で死ぬことの贈与を受け取る。それはとりわけ、その到達不可能性が授与者を支配するようなある種の善性なのだ。つまりその善性は、授与者を自らに服従させ、善性であると同時に掟(loi)として彼に自らを与える。この掟の贈与が、責任の新たな形象の出現であると同時に別の死の出現であるのは、如何なる点においてなのかを理解するためには、自我の単一性、掛け替えのない単独性を考慮に入れなければならない。この単独性によって―――以下のものこそまさに死へのアプローチなのだが―――実存が、可能な代替物全体から自らを解放する。ところで、贈与された掟から責任を経験することと、絶対的な単独性を経験し、自分固有の死を懸念することとは、同じ経験である。というのも死とは、まさに、何人も私に代わって耐えることも立ち向かうこともできないものなのだから。私の掛け替えのなさは、死によって授与され、委ねられ、こう言ってよければ、贈与されるのだ。それは同じ贈与、同じ源泉であり、同じ善性や同じ掟であるとすら言うべきかもしれない。私の掛け替えなさの場所、私の単独性の場所としての私の責任から、私は自分が自分の責任へと向かうよう呼びかけられるのを感じる。その意味で、死すべき者(=人間)だけが、責任を担いうる(応答することができる)。
 またもや、Patočkaの身振りはハイデガーの身振りに或る程度まで似ている。『存在と時間』においてハイデガーは、死=に向かう=存在(l'être=pour=la mort)を扱った章から、良心(Gewissen)、呼び声(Ruf)、呼び声を前にした責任、さらには根源的有罪性としての責任すら扱った章へと移ってゆく。しかも彼は、死は私の掛け替えのなさの場所であると、しっかりと記していた。誰も私のために死ぬことはできない。この「私のために」が、私に代わって、私の代わりに、を意味するとすれば。「死は、それが「存在」する限り、本質的にその死はその都度私の死である。」(p.240)
 この定式の前に、犠牲についての考察がなされていた。この考察は、反論に自らを晒し、予め反論から自ら解放することで、反論を準備する。そしてその反論とは、レヴィナスがハイデガーに対して差し向け続けるであろうところのものである。すなわち、<現存在>の実存において「自分固有の死」を特権化したであろうハイデガーに対して。ハイデガーはこの考察において犠牲の如何なる例も提示していないが、宗教的あるいは政治的共同体の空間において、家庭という半ば私的な空間において、(神のために死ぬこと、祖国のために死ぬこと、我が子たち或いは愛する者を救うために死ぬことなどの)決闘=双数関係の秘密において、およそあらゆる種類の犠牲を想像することができる。ハイデガーは力説するのだが、他者の<ためpour>に自らの生を贈与すること、他者の<ためpour>に死ぬこと、それは他者の代わりに死ぬことではない。反対に、死が「存在」する限りそれが私の死であるという限りにおいて、私は他者のために死を<贈与>すること、すなわち他者に自らの生を与えることができるのである。この掛け替えのなさという範囲においてしか、自己の贈与はないし、考えることはできない。ハイデガーはこのような言葉で定式化していないが、しかしレヴィナスの思考と同じく、犠牲の原理的かつ措定的な可能性に対して常に注意深かったハイデガーの思考をこのように翻訳しても、彼を裏切ることにはならないと私には思われる。ここでもまた、この掛け替えのなさを強調した後で、ハイデガーはそれを犠牲の不可能性の条件ではなく可能性の条件として規定している。

 <何人も他者からその生を取り去ることはできない。>誰かが「他者のために死へ赴くこと」(かなり格言的な特性をもっているのでこの文は括弧に入れてある)、他者のために死ぬこと、はできる。しかしそれはここでも、「ある特定の場合」に一人の他者のために自らを犠牲にする、ということを意味する。(p. 240)

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Subject [削除:6/17] [ 2132 ] [ to J ] 実験その2
Author J [ 2132 to J ]  6/17/Sat/2001   

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Subject [削除:6/17]  [ 2131 ] [ to JOACHIM ] 実験
Author J [ 2131 to JOACHIM ]  6/17/Sat/2001   

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Subject おお
Author JOACHIM [ 2127 to イストラン ]  6/16/Sat/2001   


 すでに訳されていたのですね!助かります。英訳からの邦訳を見ると自分の誤訳がよくわかります(苦笑)。dans sa mesureのニュアンスを取り損なっていたり、de plus en plusを、何をまちがったかplus ou moinsの意味で訳していたり、と。それから、一つだけ英語原文が気になる部分がありました。それは、イストランさんが、「この語りの組成は系譜論的回り道をするのだが」と訳されている部分です。フランス語では、La mise en perspective du recit suit un detour genealogique ...となっていまして、いまいちよくわからなかったのです。


 ああ、そうそう、英語原文が知りたいところがもう一つありました。それは、さっき投稿してしまった今日訳した部分で、パトチカがポーに言及している部分が引用される直前のパラグラフです。このパラグラフの最初の文が、長い条件節をもつ長文になっていまして、問題はその次の二文です。「秘密はその展示によってのみ、秘められる。隠蔽を晒し、暴露し、裸にする振りをすることであるこの種の隠蔽によってのみ、隠蔽は隠蔽される。」と私がごまかした辺りです。しかしデリダの文章は、訳すのがつらいですね。(−−;

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Subject 削除[編集:6/18]
Author イストラン [ 2126 to JOACHIM ]  6/16/Sat/2001   

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Subject 力の形而上学と盗まれた手紙
Author JOACHIM [ 2124 to JOACHIM ]  6/16/Sat/2001   

 続きです。原文p.41の最後のパラグラフからp.44の第2バラグラフまで。狂騒的神秘の現代的回帰を説明する概念として、今度は「力の形而上学」をデリダは挙げて、ハイデガーと比較している。その後、Patockaがポーの『盗まれた』手紙を引用にしていることに着目し、そこからまた死の問題に接続される。・・・しかし、このポーの短編を死の問題につなげるには、どう考えてもにラカンの「『盗まれた手紙』に関するセミネール」を媒介しないと無理だと思うのですが、デリダは何の断りもなく持論を展開しています。
 なお凡例として、原文のイタリックは<>で、大文字は『』で、ギュメによる引用は「」で、とりあえず表記することにしました。あとアクセントは出せないのでつけていません。


*******『死の贈与』******



まさにここで、もう一つの概念こそが最も決定的な回帰を形成しうるであろう。その概念とは力のことだ。非本来性、技術、個人主義、仮面、役割、およそPatockaがその信用の失効をもくろむ総てのものは、「力の形而上学」とでも言うべきものに属していよう。力は、存在の近代的形象となった。存在は、計算可能な力として規定され、人間は、力というこの形象の<下に隠れた存在>へ自らを関係付けるどころか、自らを数量化可能な力(潜在性=puissance)として表象する。Patockaは、技術に関する幾つかのテクストの中で、力としてのこの存在規定を、ハイデガーの図式と類似した図式に従って記述している。

人間は『存在』への関係であることをやめて、ある種の力強い力、最も力強い力の一つとなった。[この最上級がまさに意味するのは、人間が均質な仕方で世界の様々な力の間に、力の内の最強の力として自らを配置するということだ。]人間は、その社会的存在者において、発信者としての地位となったのであり、こうして長きに亘って備蓄され連鎖された宇宙的な力を解放する。人間は、純粋な力の世界において多大な蓄積者となったのであり、存在し自らを再生産するためにこれらの力を利用する一方、まさに同じ理由から、この同じ回路の中に接続され、他の如何なる状態にある力とも等並に備蓄され、数量化され、利用され、操作される。(p. 124)

上記の叙述は、「『力』の中に『存在』は避難する」とか「かくして『力』は存在の究極の退却である」といった他の定式化と同じく、一見してハイデガー的であるように見える。それは、存在者による存在の隠蔽としての、力による存在の隠蔽についても同じである。そのことをPatockaは隠していないとも言えるが、ハイデガーへの唯一の参照箇所は、奇妙な形で隠匿された(crypt*e)様子を呈している。ハイデガーに関しては、まるで彼が名指されてはならないかのように、単に名前が挙げられているだけであるが、他の人々、例えばハンナ・アレントは、同じ文脈の中で同じ方向(=意味)へ赴くべく名指されている。例えば以下のように。「存在者によって除去された存在という光景は、人に信用されることも注意を払われることもないが、同時代の大思想家の作品において提示されている。(p. 125)」そこにいるのはハイデガーだが、誰も彼に注意を払わなかった。彼の姿はありありと立ち現れているのに、誰も見ていない。盗まれた手紙のように、その存在を告げられることなく、ハイデガーがそこにいる。
しかしまた、ハイデガーなら決して賛同しなかったであろうような幾つかの図式もある。例えば、この力の形而上学を、神話や非本来的な虚構として提示するような図式がそうだ。「それゆえ、力の形而上学は虚構的かつ非本来的である。」存在者の形象や方法における存在の形而上学的諸規定や存在隠蔽の歴史が、<神話>や<虚構>として展開されるなどとは、ハイデガーなら決して口にしなかったであろう。それ(=Patockaのテクスト)はハイデガー的であるよりニーチェ的であるようだ。そして、そのものとしての形而上学に関して、ハイデガーなら決してその形而上学が、それ自身「本物でない(non-veritable)」とか「非本来的(inauthentique)」であるとは言わなかったであろう。
とは言え、暴露あるいは展覧し、見るために見る、あるいは見せるために見る(「関心」についてのハイデガー的定義である)といったことにその内実がある単なる身振りによって(本来的)隠蔽を隠蔽する(非本来的)隠蔽という論理に甘んじるなら、ここに秘密についての一つの論理の例を持っていることになる。秘密はその展示によってのみ更に秘められる。隠蔽を晒し、暴露し、裸にする振りをすることであるこの種の隠蔽によってのみ、隠蔽は更に隠蔽される。存在の神秘は、存在を力として展示し、存在をその仮面、その虚構、その見せかけにおいて提示する非本来的隠蔽によって隠蔽される。ここでPatockaがポーの『盗まれた手紙』を喚起するのを目にしたとして、それは驚くべきことだろうか。

 こうして『力』は、『存在』の究極の退却である。この退却がE.A.ポーの短編小説において探される手紙のように安泰であるのは、様々な種類の存在者全体の下で一目瞭然である場合のみである。すなわち、事物そのものも秘密そのものなく、人間を含め相互に組織化し合い解放し合う様々な力の下で、一目瞭然である場合にのみ安泰なのである。
 存在者によって除去された存在という光景は、人に信用されることも注意を払われることもないが、同時代の大思想家の作品において提示されている。(p. 125)

 ハイデガー自身が、ハイデガーの作品が、一編の盗まれた手紙のようなものとなる。それた単に、ハイデガーが手紙の展示としての隠蔽ゲームの解釈者であるというだけでなく、ここで存在(l'etre)や手紙(lettres)と呼ばれているものの位置においてもそうなのである。ハイデガーとポーが、否応なく文芸=手紙(lettres)の歴史の中へと、一緒に包み込まれ折り込まれるのは初めてのことではない。Patockaは更なる付け足しをしているのだ。というのも、彼は今度は沈黙することで、この隠蔽(escamotage)を、隠蔽についての隠蔽を、ハイデガーの名前の隠蔽を、我々に告げているからだ。
 『盗まれた手紙』というゲームにおいて死の場所は本質的なので、こうして我々は再び、<死への懸念>へ、すなわち、この異端的エッセイに主要な運動を与えているように見える、自らに死を与える作法というものへと導かれる。
 ここで死への懸念と我々が称するものは、解釈態度によって死に当てられた意味と同様に、死の教練における気遣い、不安な配慮、魂による慮りをも目標としている。そしてこの解釈態度というのは、様々な文化において、相異なる契機において、例えば狂騒的神秘において、ついでプラトン的アナバシスにおいて、さらに<恐るべき神秘>において、その都度様々なアプローチ(approche)をとりながら、様々に死を懸念(apprehende)する。死へのアプローチ(apprehension)あるいは懸念(approche)は、この懸念的アプローチにおいて描かれる死の意味と同様に、この意味と分かちがたく、先取り=予期の経験をも指し示している。それは常に、その訪れが目に見えないものが訪れるのを見る方法であり、恐らく自らに端的に与えることは決してできないものを自らに与える方法なのだ。その都度、自我は死を先取りするが、死に別の価値を与え、授与することによって、我有化できないものを実際に自らに与え、それを実際に再我有化することによって、先取りするのである。

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Subject 削除[編集:6/18]
Author イストラン [ 2123 to JOACHIM ]  6/16/Sat/2001   

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Subject そういえば、イストランさん・・・
Author JOACHIM [ 2121 to JOACHIM ]  6/15/Fri/2001   

私、htmlテクストに暗いんです。イタリックやアクセントの出し方教えてください。特にPatockaのcの上の記号とか、フランス語のアクセントとかお願いします。

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Subject 『死の贈与』第2章
Author JOACHIM [ 2120 new post ]  6/14/Thu/2001   

 第1章の方ももう少しじっくり吟味したいのですが、同時進行で第2章も少し訳し始めてみました。イストランさん、訳し方の点で色々とお気づきの点があればご指摘ください。なんか内容があやふやなまま訳したところが多いので。

フランス語原文pp.40-41の内容です。






死の贈与(第2章)

第2章 彼岸:死―――を、つかみ取らせるべく与えること、与えることを学ぶこと

 Patckaの叙述は系譜学的なものであるが、かといって単に記憶という行為に値するというだけではない。それは、倫理的=政治的行為がそうするのと同様に、明日のためにそして今日のために「証言」している。第一に肝要なのは、今日起きていることを考えることだ。系譜学的な迂回の後で、その叙述の概覧が続き、今日のヨーロッパにおける狂騒的神秘あるいは狂騒的神秘化の現行の回帰を叙述している、いやまずもってそれを告発し、慨嘆し、それと戦っているのだ。
 このエッセイの表題が示すように、Patckaは、なぜ技術文明が衰退しつつあるのかを自問する。答えは明白なように見える。つまり非本来的なものへの頽落が、狂騒的なもの或いはデーモニアックなもののある種の回帰を形成しているためだ。一般的な考えに反して、現代技術(modernit* technique)は何物をも中性化せず、ある種の形をとったデーモニアックなものを再浮上させる。確かに無関心と倦怠において中性化しもするのだが、しかしまさにそれによって、そしてその限りにおいて、現代技術はデーモニアックなものの回帰を召喚するのである。倦怠の文化と狂騒的なものの文化との間に、ある種の近似性か、いずれにせよ共時性がある。技術の支配は、狂騒的な無責任性を助長するが、性的重みはそこから想起される必要はない。しかもこの技術の支配は、科学技術による平均化と相伴う倦怠という基礎に基づいている。技術文明は、耽美主義や個人主義というよく知られたその諸効果によって、狂騒的なものの増長や再増長(=召集?recrue)を引き起こすが、それは、この技術文明が責任ある主体の、掛け替えのない或いは神秘的な単独性を<平均化>し、中性化するがゆえに人々を退屈させるというもっぱらその限りにおいて、そうした事態を引き起こすのである。かような技術文明の個人主義は、単独な自我に対する無理解そのものに依拠している。これは、「役割」の個人主義であり、「人格」の個人主義ではない。換言するなら、人格(personne)の個人主義ではなく、仮面(masque)或いはペルソナ(persona)、登場人物(personnage)の個人主義とも言えよう。Patockaは幾つかの解釈―――とりわけBurckardtの解釈―――を喚起している。それらに拠れば、近代個人主義はルネッサンス以来発展してきており、それは、社会的な仮面の後ろにその秘密が隠されているそうした単独な人格よりもむしろ、果たされる役割に関心を持っているということになるようだ。
 かくして全ての二項対立は掻き乱される。個人主義は社会主義あるいは集産主義となり、単独性の倫理や政治を装う。リベラリズムは社会主義に、民主主義は全体主義につながり、そしてこれら総ての形象は、役割の客観性ではないものに対する同じ無関心を共有している。ブルジョワ革命のスローガンであった万人の平等は、人格ではなく役割の、客観的あるいは数量化可能な自由になる。
 仮面あるいは見せかけに対する批判が、真理や根源的本来性の名の下に、技術の告発に結びつけられる時にとりわけ、この批判がある伝統へとつながるのは明らかである。恐らくPatockaは、その論理がプラトンからハイデガーまで揺るぎないように見える恒久性に対して、十分に敏感ではないように思われる。そして果たされる役割が、社会的仮面の下に掛け替えのない自我を隠蔽するのと同様に、技術=科学的客観性によって生み出された倦怠の文明は、神秘を隠蔽する。「最も洗練された発見の数々は、発見されるものの後ろに、我々の前に露わになるものの後ろに避難する『神秘』(Myst*re)を高揚するに至らないだけに、いっそう退屈なのである。(p. 123)」
 この文章の論理を形式化してみよう。これは、ある開示または暴露に関わるある真理の名の下にではなく、その留保そのものにおいて、覆われた秘密を保持するもう一つの隠蔽の名の下に、ある種の非本来的隠蔽(これが、技術、役割、個人主義、倦怠が共通して意味するところのものだ)を批判している。非本来的隠蔽、仮面をつけた役割という隠蔽が退屈させるのは、この隠蔽が暴露し、提示し、晒し、展覧し、好奇心を掻き立てようとするからである。総てを暴露することによってこの隠蔽は、その本質が隠されたままにとどまるもの、つまり人格の本来的神秘を隠蔽する。本来的神秘は、「神秘的なまま」であらねばならないし、神秘を真に神秘がそうである通りの状態、つまり、覆われ、脱去し、隠れたままにしておくという形でしか、我々は神秘に近づいてはならないのだ。暴露の暴力は、非本来的な仕方で本来的隠蔽を隠蔽する。<神秘>あるいは<本質的神秘>という語は幾度もこのエッセイの最後の方のに回帰してくるが、その語調と論理は、少なくとも幾分かはハイデガー的である。

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