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JOACHIM
[ 2158 to JOACHIM ] 7/2/Mon/2001 |
如何なる条件下において責任(応答可能性)があり得るのだろうか。それは以下の条件下においてである。すなわち、『善性』が客観的な超越でも、客観的な事象の間の関係でももはやなく、他者への関係、他者への応答、つまり個人的な善性の経験と意志的な活動であるという条件下において。こうしたことは、すでに見た通り、狂騒的な神秘との断絶とプラトニズムとの断絶という二重の断絶を前提とする。如何なる条件下において、計算の彼岸に善性があるのか。それは以下の条件下においてである。すなわち善性が自らを忘却し、運動が自己を放棄する贈与運動、無限の愛の活動であるという条件下において。自己を放棄し、<有限となる>ためには無限の愛が必要であり、他者を、有限の他者としての他者をこのようにして愛するためには具現化されることが必要である。無限の愛のこうした贈与は、誰かから出来し、誰かへと差し向けられる。責任は掛け替えのない単独性を必要とする。ところで、我々が責任ある主体を、自己や自我などについての意識としての魂を、語ることを唯一可能にするこの掛け替えのなさ(irremplaçabilité)、これを唯一与えることができるのは死であり、むしろ死の懸念なのである。従って我々は、人間(=死すべき者)が己れの責任へ到達する可能性を、近しい死、死へのアプローチによってもたらされる彼の掛け替えのなさの経験によって、演繹した。しかしこうして演繹されたこの人間とは、その同じ責任によって、客観的な一種の『善』だけでなく、無限の愛の贈与や自己を忘却する善性にも向き合わなければならない人なのである。有限で責任を負うべき人間と、無限の贈与の善性との不均衡、不調和がある。我々はこの不均衡を思考することができる。しかもこの不均衡に、啓示された大義を割り当てることもなく、或いはこれに原罪という出来事を起源として与えることもないやり方で。むしろこの不均衡こそが不可避的に、責任の経験を有罪性(culpabilité)へと変容させるのである。というのも私は、この無限の善性に、贈与の膨大さに、ある贈与を贈与一般として定義(無=定義)する無辺の膨大さに、かつて一度も見合ったこともなければ、これからも一度も見合うことはないであろうから。この有罪性は、その名を持つ罪と同じく原的である。ある特定の過ち全体に先だって、つまり責任を負うべきである限りにおいて私は有罪なのだ。私に単独性を与えるもの、すなわち死と有限性(finitude)、こうしたもの自体が、責任への初めの呼び声でもある贈与の無限の善性に対して、我々を不釣り合いにさせるのである。有罪性は責任(応答可能性)に内在している。というのも責任とは常にそれ自身に対して不釣り合いであり、人は決してそれほど多くは責任を負うことができないからである。我々がそれほど多く責任を負うことができないのは、我々が有限であるからでもあるが、同時に責任が二つの相矛盾する運動を必要とするからでもある。つまり、我々は、自分自身である限りにおいて、掛け替えのない単独性である限りにおいて、自分がなし、言い、与えるものごとに責任を負わねばならないのだが、しかし同時に、善である限り、善性による限り、我々は自分が与えるものごとの起源を忘却し抹消しなければならないのだ。Patočkaはこうしたことをこういう形では言っておらず、私が、彼或いは彼の手紙の少し遠くから(un peu loin de lui ou sa lettre)引き出している。しかし責任ある個人の状況から、有罪性と罪―――そしてそれゆえ悔恨、供犠、救済の探求―――を演繹しているのはPatočkaその人である。
それ自身として責任を負うべき人間とは、彼が担うことがあり得るような如何なる役割にも相当しない自我や個人である[内的で不可視の自我、要するに秘密の自我]。―――このことは、プラトンが運命の選択の神話[前キリスト教的であり、従ってキリスト教を準備させる神話]で表現している。それは責任ある自我である。というのも、死と直面することで、そして無によって自らを理解することで[レヴィナス的というよりハイデガー的主題だ]、この自我は、ただ各人のみが己れにおいて実現しうるようなものごとを、そこにおいて各人が掛け替えのない存在となるそこを、自らの上に引き受けたからである。しかし今や、個体性は無限の愛との関係に置かれ、人間は個人となる。というのも、この愛に対して彼は有罪で、常に有罪であるのだから[Patočkaは常にを強調する。ハイデガーと同じく、彼はそこで、我々が或る特定の過ち、犯罪、罪を犯したということすら期待しないある原的有罪性を、すなわち、責任の中に、有罪性によってと同じく責任によっても翻訳しうるような原的責任存在Schuldigseinの中に包み込まれた<ア・プリオリ>な有罪性を定義している。ただしハイデガーにとっては、原的責任存在を分析するために、無限の愛に関する不均衡を、少なくとも明示的には参照する必要はない]。各人は、罪の一般性において彼を位置づけるものの唯一性によって、個人として規定される。(o.c., p. 116)