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TOPIC 西田幾太郎について
 
Subject 西田幾多郎
Author ぶっち [ 2876 to さだまさと ]  11/28/Wed/2002   

はじめまして。私も西田哲学に共感し、勉強をしているのですが、なかなか難しくてはかどりません。

> 西田幾多郎関係では、第1巻の『西田幾多郎』および、後に出る『経験と自覚』、『場所』の三つの論集は必携です。

全集に収められているものは、これまで文庫本で出版されたものと同じと考えていいのでしょうか?現在、「西田幾多郎を読む」を読んでいるのですが、これも全集に収められているのでしょうか?西田哲学に関連して、これまで出版されていなくて、新たに追加された論文はあるのでしょうか?

よろしくお願い致します。

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トピック= 2003 宛先= 2291 同宛先= 2875 返信=
 
Subject 西田幾多郎
Author ぶっち [ 2875 to さだまさと ]  11/28/Wed/2002   

はじめまして。私も西田哲学に共感し、勉強をしているのですが、なかなか難しくてはかどりません。

> 西田幾多郎関係では、第1巻の『西田幾多郎』および、後に出る『経験と自覚』、『場所』の三つの論集は必携です。

全集に収められているものは、これまで文庫本で出版されたものと同じと考えていいのでしょうか?現在、「西田幾多郎を読む」を読んでいるのですが、これも全集に収められているのでしょうか?西田哲学に関連して、これまで出版されていなくて、新たに追加された論文はあるのでしょうか?

よろしくお願い致します。

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トピック= 2003 宛先= 2291 同宛先= 2876 返信=
 
Subject 西田幾多郎
Author さだまさと [ 2291 to イストラン ]  9/12/Tue/2001   

上田閑照著作集の刊行が始まりました。岩波書店の回し者ではないですが、日本の哲学に興味あるなら是非、お買い求め下さい。
西田幾多郎関係では、第1巻の『西田幾多郎』および、後に出る『経験と自覚』、『場所』の三つの論集は必携です。
西田関係の解説書は数あれど、一番信頼の置けるのは、やはり上田閑照です。
京都学派最後の一人として、百年に近い伝統の一つの完成が見られます。

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トピック= 2003 宛先= 2115 同宛先= 返信= 2875 2876
 
Subject Re4:自己否定とは何か
Author イストラン [ 2115 to さだまさと ]  6/10/Sat/2001   

そうですね。どうも有り難うございます。
中沢というその名前から蕁麻疹が出てくるので、あの人のは読まないつもりでいましたが。

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トピック= 2003 宛先= 2114 同宛先= 返信= 2291
 
Subject Re4:自己否定とは何か
Author さだまさと [ 2114 to イストラン ]  6/10/Sat/2001   

中沢新一が西田幾多郎と田辺元についての本を出しましたね。
確か『フィロソフィア ヤポニカ』(ちょっと違うかもしれませんが)という題名です。
伊藤整文学賞を取るなど、評判はまあまあなようです。
お読みになられましたか?
個人的には、西田幾多郎についての部分が最晩年の思索が深まってきた時期についての言及が抜けているのでちょっと甘いかなと思いますが、専門家も、「哲学的に見るものはないが西田・田辺解釈としてはなかなか面白い」と言っていました。
お暇なら、お読みになられたどうでしょうか?

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トピック= 2003 宛先= 2019 同宛先= 返信= 2115
 
Subject Re4:自己否定とは何か
Author イストラン [ 2019 to さだまさと ]  4/22/Sun/2001   

NHKラジオ第二では「こころをよむ」のコーナーで「西田幾太郎の思想」をやっていたのですね。

 それでそのテキストを買ってきて、第14回「行為的直観とは何か」を読んでみました。
 その中では「純粋経験」を「行為的直観」と読み替えていました。つぎにその行為的直観の成立条件として「主体的自己の絶対的な自己否定」なるものが出ていました。

 実は、yahooで禅の坊さんとお話をしたときにも(お話というよりは罵倒合戦のようなものだったのですが)、自己を滅却する、という方向が出てきまして、どうもこの「自己否定」のイメージがピンとこないのです。

 西田はこの自己否定ということにどういうニュアンスを込めていたんでしょうね。行為的直観というのはまだわかるというか、ポイエーシスが例に取られているから、なんとなくついていけるのですが。自己限定と言われれば、これは行為性そのものの印象に近いです。ヘーゲルの、行為とは否定である、というのをそのまま持ってくればつながりますし、絶対無の、いわば地のようなものから図としての個体的行為が出現するというイメージはわかりやすいです。ただそれだと自己否定という線にはつながりにくいと思います。

 自己否定という表現自体が西洋的文脈にはあんまりのらないふうな感じです。

> むしろ、自己の根柢に徹底した自己否定を置くことは非常に重要でしょう。
> そこでは、あらゆる自己の正しさが相対化されます。

 やや。ちょうど『相対主義の極北』なるものをJOACHIMさんから薦められて読んでいるのですが、上の相対主義は行為と正しさの相対主義につながるのですね。ふむふむ。


> あらゆる自己の行為は否定され得ます。もちろん、どうせ何やっても否定されるのだ、と言う開き直りは間違いです。そうではなく、自分が正しいと思っている行為が間違い得るものだということ、間違い得るかもしれないがあえてその正しさを行うということ、そういった自己の引き受け方はとても重要だと思います。

 それだと厚みが出てきますね。往々にして禅的なものは大安心とか言って、絶対の境地を目指し、最終解脱のようなものが絶対の真理の在処として傍目には見えてしまいますでしょ?これがときにどうにも鼻もちならない独善的な態度に見えるわけでして。まあ話をそういう心理的なものに直結させてはいかんのかも知れないですが。

 『相対主義の極北』では、プロタゴラスの相対主義をプラトン的解釈から奪還しなくてはならないとあって、その守るべき相対主義のメルクマールの一つに<不可知論>というのがありました。これは話を現実的にする一項目かもしれないと思っています。

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トピック= 2003 宛先= 2012 同宛先= 返信= 2114
 
Subject Re3: 西田幾太郎について
Author さだまさと [ 2012 to イストラン ]  4/20/Fri/2001   

非常に大雑把に言えば、あらゆる意識や行為、言語に対する経験の優位です。
ただしこの経験は、いわゆる純粋経験で、判断やあるいは認識以前の、つまりあらゆる主観的所作が働く以前の、意識の立ち現れです。
大森荘蔵の『新人間悟性論』(うろ覚えな書名ですが……)でも、似たようなことが言われて、いわゆる「立ち現れ一元論」と名付けられていたような。
ただし大森荘蔵は「立ち現れ」以上のことは言いませんでしたが、西田はさらに一歩進んで、その立ち現れの意識を絶対無の自己限定とか名付けたわけですが、基本はこの純粋経験です。この言語化以前の経験をいかに言葉にするかが西田の永遠の課題でした。

ちなみに、僕としても、西田の社会論国家論は少し弱いと感じております。
西田自身は日露戦争当時から国家の在り方に非常に疑問を持っていて、太平洋戦争に対してもずっと批判的でした。憲兵隊に捕まりそうだ、ということまで言われていました。
しかし、戦争に対する大きな批判勢力が西田周辺にできるどころか、開戦当初は、西田の弟子達の多くも戦争を肯定していたのです。
全体主義的愛国主義的社会に対して批判的であったにもかかわらず、西田の理論ではその社会に対する批判や変革は出てこなかったのです。
その点は克服されてしかるべきでしょう。
しかし、人間の実存について、世界内にいる人間の在り方について深く考えた彼の理論全体が間違っていたのではありません。
むしろ、自己の根柢に徹底した自己否定を置くことは非常に重要でしょう。
そこでは、あらゆる自己の正しさが相対化されます。
あらゆる自己の行為は否定され得ます。
もちろん、どうせ何やっても否定されるのだ、と言う開き直りは間違いです。
そうではなく、自分が正しいと思っている行為が間違い得るものだということ、間違い得るかもしれないがあえてその正しさを行うということ、そういった自己の引き受け方はとても重要だと思います。
また、そのような自己否定の極致に他者を見ていることも、他者問題がクローズアップされている現代においてヒントになるかもしれません。

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トピック= 2003 宛先= 2010 同宛先= 返信= 2019
 
Subject Re2: 西田幾太郎について
Author イストラン [ 2010 to さだまさと ]  4/19/Thu/2001   

> このような絶対無の場所が自己を自己の内に映すことによって、有無の場所が出て来きます。働くものが出て来ます。 働くものの根柢には見るものがるとは、こういう意味です。見るものが見ることによって、働くものが出て来るのです。 即ち、述語となって主語とならないような意識の野は、それ自体としては無ですが、あらゆる主語を包んでいるのです。包んでいるから、自己を映す時、主語が働くのです。 働くものを見るものが包んでいるのです。見るものがあるから、働くのです。

 どうも有り難うございます。されどずいぶんそこまではいろいろありそうです。カントにしろ、ハイデッガーにしろ、ある種有限性といったものにとりつかれていると思うのですが、上のように全体的包括的な<見ること>が容易に彼らから出てこないということ、これは留意したいところです。限界というのかな。神がいるせいかも知れません。

 そこで、大変申し訳なくも、西田を読んだことのない私などにとっては『昭和思想史』(鷲田)で紹介された西田の紹介文も「ふむふむさもありなむ」と読んでしまうのです。それはどういう紹介文かといいますと、読んでいてまるでニューエイジ風とも言いたくなるような文なのです。ちょっとそれを引用してみます。

 「しかし、以上のような「個の働く」否定即肯定の自己形成は、どのような可能性を持ちうるのだろうか。世界の初めと終わりに触れ、高貴と平俗を通底するような「絶対現在的意識」たる歴史意識としてあることが宗教的立場であるとするのは、一個のコトバとしてならば理解可能である。しかし、固定する内容を持たない、すべての立場が否定される、「立場なき立場」であり、一切の立場がそこから出てくる「立場の立場」に立つということは、一切が是にして一切が否であるという、融通無碍の見地に立つことと変わらないのである。現前で進行する日本帝国の戦争行為をあるべきでない非真の国家行為として否定しつつ、しかし歴史的現在としての必然的な自己表現に他ならないものとして肯定する、という論理だからである。」

 私は西田を知らないからこの評論が正しいかどうかわかりません。けれども、言いたいことはよくわかります。


> その意味で、西田は直観主義といえますが、主観やその他の存在が直観するのではなく、無が自己を直観するというものです。

 直観主義というのがこの場合、何に対しての主義なのか、そこのところが今少しはっきりとなりませんか。たとえば、行為に対する認識の優位とか。そういう平凡な対置ではなくて、とするならどういう意味合いにおいて、何を否定してなのか、とか。

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トピック= 2003 宛先= 2009 同宛先= 返信= 2012
 
Subject Re: 西田幾太郎について
Author さだまさと [ 2009 to イストラン ]  4/18/Tue/2001   

書き方が悪かったですね。
見るもの即ち意識の野とは、自己の中に自己を映すものです。自己を無にして、自己を映す事が見ることです。
その為、絶対無の場所が真の意識の場所といわれます。
有の場所にあっては、全てが尽くされない。ハイデガー的に言えば、全体性の開示は、存在が無にさし込まれなければならないのです。
そこで、有に対する無の場所というものが考えられますが、それは有の否定としての無、相対的な無です。
そこで、有と相対的な無がさらに於てあるような絶対無の場所が考えられるわけです。
このような絶対無の場所が自己を自己の内に映すことによって、有無の場所が出て来きます。働くものが出て来ます。
働くものの根柢には見るものがるとは、こういう意味です。見るものが見ることによって、働くものが出て来るのです。
即ち、述語となって主語とならないような意識の野は、それ自体としては無ですが、あらゆる主語を包んでいるのです。包んでいるから、自己を映す時、主語が働くのです。
働くものを見るものが包んでいるのです。見るものがあるから、働くのです。
その意味で、西田は直観主義といえますが、主観やその他の存在が直観するのではなく、無が自己を直観するというものです。

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トピック= 2003 宛先= 2003 同宛先= 返信= 2010
 
Subject 西田幾太郎について
Author イストラン [ 2003 new post ]  4/16/Mon/2001   

スレッドを独立させます、さださん。

>働くものは主語が述語に於てあって可能になる、つまり意識の野=見るものの内に働くものが出てくるわけです。

 とするならば、この二つ、つまり<働く/個/主語>と<見る/意識野/述語>とは相互補完的な静的な印象を受けますね。同時にそれら二つが出てくるのであって、見るの方の特権性はないのですか。

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トピック= new post 宛先= 同宛先= 返信= 2009


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