| Subject |
責任性と秘密と死の贈与の接点としての神の不均衡なまなざし |
| Author |
イストラン
[ 2088 to イストラン ] 5/25/Fri/2001 |
以下は Ja.Derrida, Donner la mort の英訳からの訳。第一章の終わり。
Patočka はハイデッガーの考えと言語を実によく知っているので、そのほのめかしは全く意識的に意図されているのである。彼は至高の存在について語る。それは己の内から、そのまなざしのうちに私をつかみ、私に関すること全てを確定し、そのようにして私を責任性へおもむかせるものとしての神である。至高の存在としての神の定義、この存在−神学的命題は、ハイデッガーが 現存在 の原初的な本質的な責任性について語るときに、拒否するものである。呼び声( Ruf )を土台にして、根源的に責任あるものとして、有責なもの( shuldig )として、あるいはいかなる特定の過ちよりも前に、そして確定された負債よりも前に負債を負うものとして、この責任性は経験される。呼び声の内にあっては、 現存在 はまずもってそれを見たり、ないしそれに語るいかなる確定された存在へも責任を負ってはいない。慮の経験として、原初的に責任ある−存在ないし有責−存在( Schuldigsein )における 現存在 の原初的な現象として、ハイデッガーが呼び声、呼ぶことの意味(Rudsinn)と名づけるものを彼が記述するとき、そこで提起される実存論的分析は、いかなる神学的展望をも越えて行くことが主張されている(§54,269[313])。この原初性は、 良心 に語りかける声の起源、ないし意識、ないし死すべき意識がその前に立つまなざしの起源としての至高の存在へ 現存在 が関係することを何も意味してはいない。実際、それはそのような関係を排除する。何度か折に触れて、ハイデッガーはカント的法廷の表象を記述する。その 前で 、あるいは その視野において 、意識は像( Bild )として現れざるをえない。そこでこの法廷の権能は、少なくとも存在論的見地からは剥奪される(§55,271[316];§59,293[339])。他方、 現存在 を呼ぶ沈黙の声は、いかなる可能な同一化からも免れている。それは絶対的に規定されない indeterminate。たとえ「呼ぶ者の特定の不確定性や、呼ぶ者が何であるかをそれ以上確定することの不可能性が何ものでもない」( "Die eigentuemliche Unbestimmtheit und Unbestimmbarkeit des Rufers ist nicht nichts" )(§57,275[319])としてもである。責任性の起源は、いかにしても、至高の存在へと原初的に還元されるものではない。しかしそこに神秘はないのである。いかなる秘密もないのである。この非規定化 indetermination と非規定性 indeterminacy にはいかなる神秘も存在しない。声が沈黙したままであるという事実、その声が誰か特定の者の声ではなく、いかなる規定され得る同一性の声でもないという事実は、 良心 の条件である(これは道徳的意識とルースに翻訳されるが、我々は責任ある意識と呼ぼう)。しかしこのことは声が一つの秘密であり「神秘的な声」であることを決して意味するものではない( "geheimnisvolle Stimme" )(§56,274[318])。
そういうわけで Patočka は慎重にハイデッガーと逆のやり方を取る。誰かからやってくる、すなわち私を射し貫き、私を所有し、その手とそのまなざしの中に(たとえこの不均衡を通して私が見ることができなくとも。つまり私が見ることがないというのが本質的なことだが。)私を捕まえておく絶対的存在のような人物からやってこないような真の責任性ないし義務というものは存在しない、そのように彼は疑いなく確信している。この至高の存在、この無限の他者がまず私を超えて across やってくる。それは私の上に落ちる fall upon me(ハイデッガーもまたその源泉が規定不能に留まる呼び声は私の上に落ちながら、私を横切る across ようにして私から発すると言っている−"Der Ruf kommt aus mir und doch ueber mich[57,275(320)])。私の責任性の起源を至高の存在に課しながら、一見するとハイデッガーに逆らっているように見えるが、 Patočka はまた彼自身にも逆らっているように見える。というのも、彼は至るところでキリスト教を民衆のプラトニズムと述べることにおいてニーチェは正しいと言っている。なぜなら「キリスト教の神は何か明らかなものとしての超越の存在−神学的概念を強化する」から。ところが他方ではキリスト教と存在−神学の間には「原理上の深い差違」がある。この矛盾を避けるために、彼はある至高の存在への言及を止めない必要があるだろう。ハイデッガーが、ハイデッガーのみがそれに与え、そして彼がその概念を正しいものにしようとするそういう意味で、至高の存在はすべての存在−神学から区別される。疑いなくこれが Patočka の言説の暗黙のプロジェクトなのである。
責任性の地下的 crypto ないし 神話的系譜論は贈与と死の二重の解きほぐし難くからまり合った糸で織られている。つまりは 死の贈与 である。私にとっては到達不能のままに、そのまなざしと手の内に私を捕まえるときに、神が与える贈与、恐るべき神秘 のひどく不均衡な贈与のみが、私に応える respond ことを可能ならしめる。そして私に死を与えることで[en me donnant la mort]、死の秘密を、死の新しい経験を与えることで、私を責任性 responsibility へと赴かせる。
この贈与についての、死の贈与についての言説が、犠牲についての、他者のために死ぬこと についての言説であるか否かということは、我々が現在分析しなければならないことである。とくに、責任性の秘密に突入するこの探求は、優れて歴史的かつ政治的なものである。それはヨーロッパ的政治のまさに本質と未来に関わる。
ポリス とそれに対応するギリシャ的政治学のように、プラトン的契機は狂騒的神秘を体内化しようとして無駄に終わる。それは己を神秘なきモーメントとして紹介し 提示する。プラトン的 ポリス のモーメントを、それが体内化する狂騒的神秘 からも、また それを抑圧するキリスト教的 恐るべき神秘 からも 区別するものは、前者の場合、人はあけすけに秘密は許されないだろうと宣言するという事実である。プラトニズム に先だつ もの、あるいはプラトニズムに 続く もの(デモーニックな狂騒的神秘あるいは恐るべき神秘)の中に、秘密のための場所が、神秘 mysterium ないし神秘的なもののための場所が存在する。しかし、 Patočka によれば、哲学の中にも、プラトン的伝統の政治学の中にもそのようなものはない。政治学は神秘的なものを排除する。そのときから、ヨーロッパにおいて、そしてギリシャ−プラトン的起源の政治学を継承する現代ヨーロッパにおいても、そこに存在するものはなんであれ、秘密のあらゆる本質的可能性であるとか、秘密に捧げられるべき責任性を可能にするあらゆるものを、無視し、あるいは抑圧し、あるいは己から排除しているのである。その地点からすれば、狂騒的なもの(ギリシャ的な意味での)から 全体主義的なもの totalitarian への不可避的な移行に直面するのに、ほとんど何も必要ではない。そうした移行を開くことによって起こる単純なプロセスである。いくつかの帰結は最も深刻なものとなるだろう。それらはもう一つの検討に値する。
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第一章完