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TOPIC 『死の贈与』(デリダ)
 
Subject 責任性と秘密と死の贈与の接点としての神の不均衡なまなざし
Author イストラン [ 2088 to イストラン ]  5/25/Fri/2001   

以下は Ja.Derrida, Donner la mort の英訳からの訳。第一章の終わり。

  Patočka はハイデッガーの考えと言語を実によく知っているので、そのほのめかしは全く意識的に意図されているのである。彼は至高の存在について語る。それは己の内から、そのまなざしのうちに私をつかみ、私に関すること全てを確定し、そのようにして私を責任性へおもむかせるものとしての神である。至高の存在としての神の定義、この存在−神学的命題は、ハイデッガーが 現存在 の原初的な本質的な責任性について語るときに、拒否するものである。呼び声( Ruf )を土台にして、根源的に責任あるものとして、有責なもの( shuldig )として、あるいはいかなる特定の過ちよりも前に、そして確定された負債よりも前に負債を負うものとして、この責任性は経験される。呼び声の内にあっては、 現存在 はまずもってそれを見たり、ないしそれに語るいかなる確定された存在へも責任を負ってはいない。慮の経験として、原初的に責任ある−存在ないし有責−存在( Schuldigsein )における 現存在 の原初的な現象として、ハイデッガーが呼び声、呼ぶことの意味(Rudsinn)と名づけるものを彼が記述するとき、そこで提起される実存論的分析は、いかなる神学的展望をも越えて行くことが主張されている(§54,269[313])。この原初性は、 良心 に語りかける声の起源、ないし意識、ないし死すべき意識がその前に立つまなざしの起源としての至高の存在へ 現存在 が関係することを何も意味してはいない。実際、それはそのような関係を排除する。何度か折に触れて、ハイデッガーはカント的法廷の表象を記述する。その 前で 、あるいは その視野において 、意識は像( Bild )として現れざるをえない。そこでこの法廷の権能は、少なくとも存在論的見地からは剥奪される(§55,271[316];§59,293[339])。他方、 現存在 を呼ぶ沈黙の声は、いかなる可能な同一化からも免れている。それは絶対的に規定されない indeterminate。たとえ「呼ぶ者の特定の不確定性や、呼ぶ者が何であるかをそれ以上確定することの不可能性が何ものでもない」( "Die eigentuemliche Unbestimmtheit und Unbestimmbarkeit des Rufers ist nicht nichts" )(§57,275[319])としてもである。責任性の起源は、いかにしても、至高の存在へと原初的に還元されるものではない。しかしそこに神秘はないのである。いかなる秘密もないのである。この非規定化 indetermination と非規定性 indeterminacy にはいかなる神秘も存在しない。声が沈黙したままであるという事実、その声が誰か特定の者の声ではなく、いかなる規定され得る同一性の声でもないという事実は、 良心 の条件である(これは道徳的意識とルースに翻訳されるが、我々は責任ある意識と呼ぼう)。しかしこのことは声が一つの秘密であり「神秘的な声」であることを決して意味するものではない( "geheimnisvolle Stimme" )(§56,274[318])。
 そういうわけで Patočka は慎重にハイデッガーと逆のやり方を取る。誰かからやってくる、すなわち私を射し貫き、私を所有し、その手とそのまなざしの中に(たとえこの不均衡を通して私が見ることができなくとも。つまり私が見ることがないというのが本質的なことだが。)私を捕まえておく絶対的存在のような人物からやってこないような真の責任性ないし義務というものは存在しない、そのように彼は疑いなく確信している。この至高の存在、この無限の他者がまず私を超えて across やってくる。それは私の上に落ちる fall upon me(ハイデッガーもまたその源泉が規定不能に留まる呼び声は私の上に落ちながら、私を横切る across ようにして私から発すると言っている−"Der Ruf kommt aus mir und doch ueber mich[57,275(320)])。私の責任性の起源を至高の存在に課しながら、一見するとハイデッガーに逆らっているように見えるが、 Patočka はまた彼自身にも逆らっているように見える。というのも、彼は至るところでキリスト教を民衆のプラトニズムと述べることにおいてニーチェは正しいと言っている。なぜなら「キリスト教の神は何か明らかなものとしての超越の存在−神学的概念を強化する」から。ところが他方ではキリスト教と存在−神学の間には「原理上の深い差違」がある。この矛盾を避けるために、彼はある至高の存在への言及を止めない必要があるだろう。ハイデッガーが、ハイデッガーのみがそれに与え、そして彼がその概念を正しいものにしようとするそういう意味で、至高の存在はすべての存在−神学から区別される。疑いなくこれが Patočka の言説の暗黙のプロジェクトなのである。
 責任性の地下的 crypto ないし 神話的系譜論は贈与と死の二重の解きほぐし難くからまり合った糸で織られている。つまりは 死の贈与 である。私にとっては到達不能のままに、そのまなざしと手の内に私を捕まえるときに、神が与える贈与、恐るべき神秘 のひどく不均衡な贈与のみが、私に応える respond ことを可能ならしめる。そして私に死を与えることで[en me donnant la mort]、死の秘密を、死の新しい経験を与えることで、私を責任性 responsibility へと赴かせる。
 この贈与についての、死の贈与についての言説が、犠牲についての、他者のために死ぬこと についての言説であるか否かということは、我々が現在分析しなければならないことである。とくに、責任性の秘密に突入するこの探求は、優れて歴史的かつ政治的なものである。それはヨーロッパ的政治のまさに本質と未来に関わる。
 ポリス とそれに対応するギリシャ的政治学のように、プラトン的契機は狂騒的神秘を体内化しようとして無駄に終わる。それは己を神秘なきモーメントとして紹介し 提示する。プラトン的 ポリス のモーメントを、それが体内化する狂騒的神秘 からも、また それを抑圧するキリスト教的 恐るべき神秘 からも 区別するものは、前者の場合、人はあけすけに秘密は許されないだろうと宣言するという事実である。プラトニズム に先だつ もの、あるいはプラトニズムに 続く もの(デモーニックな狂騒的神秘あるいは恐るべき神秘)の中に、秘密のための場所が、神秘 mysterium ないし神秘的なもののための場所が存在する。しかし、 Patočka によれば、哲学の中にも、プラトン的伝統の政治学の中にもそのようなものはない。政治学は神秘的なものを排除する。そのときから、ヨーロッパにおいて、そしてギリシャ−プラトン的起源の政治学を継承する現代ヨーロッパにおいても、そこに存在するものはなんであれ、秘密のあらゆる本質的可能性であるとか、秘密に捧げられるべき責任性を可能にするあらゆるものを、無視し、あるいは抑圧し、あるいは己から排除しているのである。その地点からすれば、狂騒的なもの(ギリシャ的な意味での)から 全体主義的なもの totalitarian への不可避的な移行に直面するのに、ほとんど何も必要ではない。そうした移行を開くことによって起こる単純なプロセスである。いくつかの帰結は最も深刻なものとなるだろう。それらはもう一つの検討に値する。

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第一章完

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Subject 死を前にした苦悩と希望と
Author イストラン [ 2085 to イストラン ]  5/21/Sun/2001   

以下は J.Derrida,Donner la mort の英訳から(29-31)

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 まず最初に、不可能でありかつ不可避的な移行、プラトニズムからキリスト教への移行の謎がある。転倒ないし抑圧の瞬間に、ある特権的状態が、不安定で、多様な、何かしら亡霊的 spectral 歴史的形象(それはいやましに魅惑的かつ刺激的なものである)を与えられることに気づいて驚いてはいけない。それは新プラトン主義と呼ばれる。とりわけ、この新プラトン主義をローマの政治権力に結びつけるものである。しかし Patočka は、新プラトン主義の政治的輪郭にばかり言及しているわけではない。それだけではなく、或るものではないが、しかし恐らくは最も決定的な逆説の在処へ、つまりは 贈り物ではない贈与 gift that is not a present へ暗に言及する。到達不能のもの、提示不能のもの、結果として秘密にとどまる何かあるものの贈与である。この贈与の出来事は、贈与の本質なしに本質を秘密性へと結びつける。というのも日の光のもとで認知されうるような、認知へと運命づけられた贈与は、即座にそれ自体を無化するであろう。贈与は、もしも秘密 それ自体 が語られ told うるならば、それ自身秘密である。秘密性は、秘密の最後の言葉である贈与の最後の言葉である。
 プラトンからキリスト教への移行に関わる議論は、「一方で本来的なもの、責任あるものの二元性にもとづき、他方で尋常ならざるもの、狂騒的なものにもとづいた、魂の新しい神話を輝かせること」への言及のすぐ後に続いている。 Patočka がそこで述べるように、「狂騒的なものは排除されるのではなく、規律に服され、支配されるのである」。

 ポリス−キウィタスの終焉とともに、社会的文脈における超越の上にも基礎づけられたローマ的君主の地位が新しい責任性の問題を提起するときに、この主題は多大なる重要性を帯びる。そうした責任性とは、その自由において平等なる人々の共同体ではもはやありえない国家 Stateに対する責任性である。そのときから、自由は平等者(同胞)の間の関係によってではなく、超越的な神への関係によって規定される。このことは新しい問いを提起し、そして新しい解決を可能にする。最終的な分析において、ローマ帝国の社会的な問題は、魂のプラトン的概念によって可能にされた基礎の上に統合される。
 新プラトン主義の哲学者、背教者ユリアヌスは、帝国の玉座の上に座って− Quispel が明らかにしたように−狂騒と責任性の規律の関係において、重要な挿話を代表している。キリスト教は さらなるもう一つの転倒 によって以外には、このプラトン的解決を乗り越えることが不可能であった。責任ある生は、それ自体その出来事において何かしらの 贈与 と考えられた。その何かは、結局は神の性格を持ちつつ、人が永久に従属する 触れることのできない(neprístupnébo) ものの相貌 traits を表すことになるのだが、これは最後の言葉を持つ神秘の相貌である。キリスト教はプラトンとは異なって、自分を忘れる善性として、また己を否定する(何ら狂騒的ではない)愛として、善を理解する。(115,私の強調)



 「贈与」という語を強調しておこう。一方で、自己を諦めることに関する否定、贈与の放棄、善性の放棄、贈与するために己を退却させ、隠し、実際に犠牲にしなければならない贈与の寛容さの持つ放棄。他方で、贈与を犠牲の経済へ変換させる抑圧。この二つの間には、秘密の親近性がないだろうか。この二つが異なっているのと同様にお互いに近しい二つの可能性の混交の、避けがたい危険がないだろうか。この怖れの中で与えられるものは、恐怖の実際のおののきの中で与えられるものは、死それ自身以外のものではない。死にとっての新しい意味、死の新しい理解、新しい道であり、そこで己自身に死を与え、己自身を死へと押しだす[ se donner la mort ]。プラトニズムとキリスト教の差違は、とりわけ「死の面前での、恒久の死の面前での転倒」であり、「それは、これ以上ないほどお互いに近しく同盟した苦悶と希望との間で生きること、罪の意識の内でおののくこと、悔恨の犠牲において己の全き存在をさしだすこと」であるだろう(117)。そのようなものが、プラトン的の形而上学、倫理学、政治学(すなわち「体内化された」狂騒的神秘)と、キリスト教的責任性の 恐るべき神秘 との間にある抑圧の様式の内で、また抑圧の限界の内で機能している断絶 rupture なのである。

従属させられるばかりではなく、極端な場合には完全に抑圧されるものにとどまる狂騒的なものではもはやない。その代わりに 恐るべき神秘 である。 恐るべき というのは、これからのち責任性は、人間のまなざしにとって接近可能な本質、の中に存在するのではなく、至高の、絶対の、接近不能な存在、我々を外側からではなく、内側の力によって抑える hold in check 存在への関係の内に存するからである。(116)


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Subject 恐るべき神秘はギリシャローマ的政治からの離脱の焦点である
Author イストラン [ 2071 to イストラン ]  5/13/Sat/2001   

以下はJ.Derrda,Donner la mort の英訳から

 私が言ったことは Patočka の精神に忠実であるものの、それはまたその異教性という観点そのものに関して異教的である。逆説は実に人格 the persono とキリスト教的 恐るべき神秘 に関して Patočka の主張することから直接に解釈され得る。しかしまたそれに抗して、不適切な主題化について彼が語るときに、完成され得る主題化の究極の適切性に彼が訴えているようにみえるということにおいても、逆説は解釈され得る。他方で、主題化という主題は、ときに主題的意識 thematic consciousness の現象学的モチーフとなるものは、否定されないとしても、少なくともその関連性において、より根元的な責任性の形態によって限界づけられている。その根元的な責任性の形態は非対称的に私を他者のまなざしへと晒すものである。そこでは、私を見守るもの[ce qui me regarde]として、私の眼差しはもはやあらゆる事物の測りではない。思考に養分を与えながら、それでも思考を主題化へともっていかない、そういう奇妙な概念の一つがこの責任性の概念なのである。それは主題 theme としても説 thesis としても己を表すことはない。それは見ることを己に与えずして[sans se donner à voir]与えるのであり、現象学的に直観され得る「見られるという事実」によって、人格の中で己を表すことはない。この逆説的な概念はまた秘密 secret というタイプの構造を持っている。これはある種の宗教的実践のコードでは神秘 mystery と呼ばれる。責任性の修練は、どれほど居心地の悪いものであろうとも、逆説、異教、秘密という以外の選択を残さないように見える。もっと深刻なことには、それはいつでも改宗や背教の危険を冒さなくてはならない。伝統や権威、正統性、規範、教義に関して、異なった創発的な断絶なしには、責任性というものは存在しない。
 私を、何であれ私に関係するものを、私の見ることのない眼差しへと関係させ、私に命令するが私からは秘密にとどまる眼差しへと関係させるこの非対称、不均衡は、 Patočka によれば、キリスト教的神秘において確認されるのである。驚愕させ、恐れさせる神秘、 恐るべき神秘 である。そうした恐怖は、プラトン的責任性を 善 agathon へと関係させる超越的経験の中には存在しない。またそのようにして制定される政治学の中にも存在しない。しかしこの秘密の恐怖は、主体が客体と満足して結んでいる関係を乗り越え、それに先立つものである。
 他者のまなざしへと人が晒されるときに生ずるこの深淵の非対称に言及することは、まずもって独特の仕方でキリスト教から由来しているモチーフなのであろうか?たとえそれが不適切に主題化されたキリスト教であっても?福音やユダヤ教、イスラム教の「前」ないし「後」になんらか同じようなものを少なくとも表現しているものを見つけることができるかどうかという問題は脇に置いておこう。 Patočka が書いていることを読むことに限るならば、その見解ではキリスト教は、そして彼が決して袂を分かとうとはしないキリスト教的ヨーロッパは、責任性のこの深淵の深さを測るもっとも強力な手段であり続ける。たとえ、それが思考されないものにとどまるものの重み、とりわけその頑迷なプラトニズムの重みによって限定されているにしてもである。

魂の深淵的深みの中でのその土台(základ)によって、キリスト教は今日に至るまでもっとも強力な手段を代表している。いまだ代替されることなく、しかしまた未だ考え抜かれていないのであるが。それによって人は自身の衰退に抗して戦うことができる。(117)



 ここで次にように理解するべきであろう。キリスト教が未だ考え抜かれていないと言うことで、 Patočka はそうした仕事が試みられるべきであると意図している。それはより完全な主題化によってばかりではなく、政治的歴史的着手 setting-in-train によって、政治的歴史的行動によってもである。そして彼はそうしたことをメシア的終末論の、それでも現象学から遊離できないメシア的終末論の論理に従って唱道するのである。何かが到来していない、それはキリスト教に到来していず、またキリスト教によっても到来していない。キリスト教に未だ到来せず、起こってもいないものはキリスト教である。キリスト教はまだキリスト教に至ってはいないのである。歴史において、また政治的歴史において、そしてまずもってヨーロッパの政治において、いまだ生じていないものは 恐るべき神秘 によって告知された新しい責任性の完遂 fulfillment である。いまだに本来的なキリスト教的政治が存在しないのは、プラトン的 ポリス の残骸があり続けているからである。最終的に 恐るべき神秘 を完遂するために、キリスト教的政治はより決定的、より根元的にギリシャ−ローマのプラトン的政治と断絶しねばならない。この条件でのみ、ヨーロッパは未来を持ち、一般的に未来というものがあることになるだろう。なぜなら、 Patočka は、約束について語るよりも、過去の出来事や事実について語ること少ないからである。約束はすでに成された。そうした約束の時は 恐るべき神秘 の経験と、それを制定する 二重の抑圧 を規定する。二重の抑圧、それによって、恐るべき神秘は己の内に、プラトニズムに体内化された狂騒的なもの 、プラトニズム自体を、 両方とも 抑圧し、かつ保持するのである。
  Patočka のテキストの内に潜んでいる、それでも爆発的なものは ある根元的な仕方で 拡張され得る。というのも、それはある種のキリスト教に関して、またある種のハイデッガー主義に対して異教的だからである。いやそればかりか、重要なヨーロッパ的言説全てに対して異教的である。その極限まで受け取られれば、このテキストの示唆することは、完全にキリスト教的になり、 恐るべき神秘 が主題化されるまでは、ヨーロッパはそれであるべきところのものにはならない、ということである。また来るべきヨーロッパはもはやギリシャ的、ギリシャ−ローマ的、あるいはローマ的ですらないものであるだろうということである。 恐るべき神秘 の最も根元的な契機は、ヨーロッパに関してそれほど新しいもの(あるいは古いもの)であるがゆえに、それについて語られる際にかくも共通して喚起されるギリシャないしローマの記憶から自由になるのである。その記憶との結びつき一切を裁ち切り、それに対して異質的であるほどに自由になるのである。アテナイ人やローマ人から解放されたヨーロッパの秘密とは何であろうか?

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Subject 責任性のアポリア/理論と実践/知と不知
Author イストラン [ 2059 to イストラン ]  5/8/Mon/2001   

以下J.Derrida,Donner la mort の英訳から

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 しかし Patočka は物事を正統的キリスト教へ向け換えるために、そうするわけではない。彼自身の異教は、少々挑発的に言えば、他の異教と交わる。すなわち、ハイデッガー的反復が自らの仕方でキリスト教に作用する際の、そうしたよじれ、逸脱である。
 二度三度 Patočka はプラトニズムの典型を告発している。それはプラトン的政治学の典型であり、ヨーロッパキリスト教の中心にある。というのもつまるところ、ヨーロッパキリスト教は、プラトニズムの転倒の流れにあって、それを十分に抑圧することはなかったからであり、いまだその言葉をささやいているからである。この意味で、そして政治的観点から、民衆のプラトニズムとしてのキリスト教というニーチェの考えは今一度強化されるだろう(つい先ほど述べたように、ある程度まで「正しい」と見なされる)。
 A 一方で Patočka にとっては責任ある決定−することは、知へと従属する。

プラトン的解決をいつも非難しつつ、確かに、キリスト教神学はその重要な要素を採用している[それは狂騒的なものを非難するが、しかしそれは、 宇宙の智 sophia tou kosmou としての知の形而上学を基礎としているのであり、この知は世界の秩序の知であり、倫理と政治が客観的知へと従属している]。責任性自体を知の客観性へ従属させるプラトン的合理性、プラトン的欲求は、秘密裏にキリスト教的概念に影響を及ぼし続けている(v podzení)神学はそれ自身「自然の」土台に依拠し、自然の実現と解される「超自然の」存在に依拠している。



 「責任性を知の客観性へと従属させること」は明らかに Patočka の観点では責任性の割引である。そしてどうやったらこのほのめかしに賛同しないでおれるだろうか。責任ある決定は知を根拠になされるべきであると言うことは、責任性の可能性の条件を確定しているように見える(学や意識なしに、していることを知らずして、またその理由を知らずして、その見方や条件を知らずして、責任ある決定をなすことはできない)。と同時に、それはまたこの同じ責任性の不可能性の条件を確定しているようにも見える(もしも決定−することがそれが従い発展されることに同意する知へと分類されるならば、そのときそれはもはや責任ある決定ではない、それは認知装置の技術的作動であり、理論的なものの単純で機械的な作動である)。かくて 責任性のアポリア は道徳性と政治の歴史を通して、プラトン的パラダイムとキリスト教的パラダイムの間の関係を確定するだろう。
 B そのため他方、 Patočka はキリスト教的終末論のパースペクティブの中に自らの倫理的、法的、とくに政治的言説を刻み込むものの、キリスト教において何か「思考されていない」ものとしてとどまるものを何とか素描する。倫理的であれ宗教的であれ、責任性に関するキリスト教的意識はそれが抑圧するプラトン的思考について反省することはできない。そして同時に、それはプラトン的思考が体内化する狂騒的神秘について反省することもできない。そのことは、まさに全ての責任性の場所と主体であるもの、すなわち 人格 person の定義において現れる。 恐るべき神秘 のキリスト教的「転倒」ないし「抑圧」を記述したすぐ後で、 Patočka はこう書いている。

最後の分析で、魂[キリスト教的神秘における]は、どれほど(プラトン的神のように)高められたとしても、ある 客体 object への関係ではない[どれほど高められてもというのは、従って魂が、プラトニズムでのように、ギリシャ的 ポリス やローマ的 キウィタス の理想的秩序を治めもする超越的神への関係であるということである]。そうではなくて、魂はある人格への関係なのである。この人格は、己の眼差しの内に魂を固定するが、それは同時に魂の眼差しの範囲を超え続けている。この人格が何であるかを知ることに関しては、そうした問いは、キリスト教のパースペクティブの内では未だに適切な主題的展開を受け取ってはいないのである。



 この主題化の不適切性は責任性の境界線上で止まる。それは責任ある人格とは何 であるか、彼が何 であるべきか を主題化しない。つまり他の人格の眼差しへと魂がさらされることを主題化しない。その人格は、超越的他者としての人格であり、それは私を見るのだが、私−と言う−主体なしに、他者へと達することができ、魂を見、そして私の眼差しの範囲内に魂を保つところのものである。そして忘れないようにしよう。責任性が何であるか、ないし何 であるべきか に関する不適切な主題化は 無責任な 主題化でもあるということである。責任があるということが何であるかを知らないということ、またそれについての十分な知も、意識もないということは、それ自身責任性の欠如である。責任あるがためには、責任があることが何を意味するのかに応答し、返答する必要がある。歴史の最も信頼すべき持続性において、責任性の概念が意味してきたのはいつでも、行為、すること、 実践 praxis であり、単なる意識や単なる理論的理解を越える 決定 であったというのが本当であるならば、同様にその同じ概念が要求するのが、それ自身 意識的に なされる決定や行為、つまり何がなされるのか、何をすべきか、行為が意味していること、その原因、その目的等々についての知や理論に伴われている決定ないし答えるべき責任ある行為であった、ということも本当である。責任性に関する議論においては、あまりに多くの「きれいな意識」の傲慢さを避けることができるならば、この理論的意識(これはまた定立的 thetic 主題的 thematic 意識でなければならない)と、「実践的な」意識(倫理的、法的、政治的)とを結びつける原初的な還元不能な複雑性 complexitiy を、人はいつでも考慮に入れなくてはならない。十分な概念化ないし主題化なしに人が責任性を要求するところではどこでも、 ということはどこでも、無責任性のある部分がそれ自身をほのめかしているということを、我々は絶えず想起するべきである。人はアプリオリかつ非経験的に どこでも と言うことができる。というのは、たった今言及した理論的なものと実践的なものとの複雑な結びつきがまったく明らかに還元不能であるならば、この二つの結びつけれた秩序の間の異質性もまた、ひたすらに還元不能だからである。従って、責任性の現動化 activating (決定、行為、 実践 )はいかなる理論的ないし主題的決定にも先だって、またそれを越えて生ずる。それは決定しなければならないだろう、がそれなしにである。自由の実践的概念の条件となるだろうような知から独立してである。我々は従って次のように結論するべきである。責任性の概念の主題がいつでも不適切であるというばかりでなく、それがいつでも不適切なのはそれがそうなっていなくてはならないからであると。そして、ここで責任性について言われることは、同じ理由によって自由や決定についても言われる。
 責任性の行使と、その理論的ないし教条的主題化とすら言えるものとの間にある、我々が同定した異質性は、確かにまた、責任性を 異教 へと、選択、選定、愛好、意向、偏向、つまり決断としての hairesis へと結びつける。しかしまたこの語は、それらの偏向に対応する派 school (哲学的、宗教的、文学的)としての hairesisi も意味していた。そしてついにはカトリック教会語彙中の固定した意味での異教になり、またもっと一般化され、教義からの離反を意味し、公式かつ公的に宣言された教義やそれに統治される制度的共同体の内部での差違やそこからの差違を意味するようになった。さてこの異教が、公的ないし共通して宣言されたものから差違や離反や離れてあることを標しづける程度に応じて、その可能性そのものにおいて、責任性の本質的な条件であるにとどまらなくなる。逆説的にも、それはまた責任性をあるタイプの秘密の持つ抵抗とか異議 dissidence へと運命づける。それは責任性というものを分離し[tient la responsabilité à l'écart]、秘密の内に保つ。そして責任性は分離しているものを固持し[tient à l'écart]、秘密を固持する。
 異議、差違、異教、抵抗、秘密というように、キルケゴールが与えた強い意味での逆説的な、かくも多くの経験がある。実際それは秘密を責任性にむすびつけることになる。この責任性 responsibility は、もっとも説得力のある、また説得された 定見 doxa によれば、 応答すること responding に存する。従って、他者の前で法の前で、もし可能なら公的に、己に対して返答し、己の意図、目的に対し、そして責任ありと考えら得る行為者の名において、他者に返答するということである。この責任性と応答することとのつながりは、すべての言語に共通しているわけではないが、チェコ語には存在する(odpovědnost)。

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Subject その2/ハイデッガーのようにキリスト教を存在論化する Patočka
Author イストラン [ 2024 to イストラン ]  5/2/Wed/2001   

 2 この 魂の配慮 epimeleia tēs psykhēs を喪としての秘密や秘密としての喪の精神分析的経済に関連づけることが誇張でないのであれば、この経済をハイデッガーの影響から分けているのがその本質的なキリスト教であると言うことができよう。ハイデッガーの思想は単にキリスト教から己を絶えず分離することではない(これは一つの動向 gesture であり、どれほど複雑であろうとも、反−キリスト教的暴力の信じがたい解放へと結びつけられる必要がいつでもある動向である。その暴力はナチズムのもっとも公的かつ明示的イデオロギーに代表されるが、今日人が忘却する傾向にある。)同一のハイデッガー的思考が、とくに『存在と時間』で、存在論的レベルの上に、脱キリスト教化してきたキリスト教的テーマやテキストを反復することで成立している。そこではそうしたテーマやテキストは、その原初的な可能性を存在論的に回復する道の途上で突然停止する、存在的な、人間学的な、不自然な試みとして提示される(そうした原初的な可能性とは、たとえば、頽廃状態 status corruptionis、本来的なものと非本来的なものないし人 One への頽落との差違、あるいはまた、配慮 sollicitudo や慮 care、見ることの快楽や好奇心について、時間の本来的あるいは世俗的な概念について、ウルガダ聖書や聖アウグスティヌスやキルケゴールについて、などなどである)。 Patočka はこれとは逆の、しかし対称的な動向を示す。それはだから同じ所に行き着く。彼はキリスト教の歴史的テーマを再存在論化し、啓示ないし恐るべき神秘に、ハイデッガーがそこから取り除こうとする存在論的内容を帰すのである。

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Subject 秘密性と責任性の結合/その1
Author イストラン [ 2023 to イストラン ]  4/27/Fri/2001   

J.Derrida,"Donner la mort"の英訳 The Gift of Death,21-22

************************
 この暗号 crypto- ないし神秘 mysto−系譜 genealogy の本質的に政治的な次元が鮮明になってくる。プラトン的秘密性からキリスト教的 恐るべき神秘 の秘密への移行において問題になることを、それが述べているように見えるのである。このことを調べるために、秘密性と責任性を結びつけるこの系譜の三つの重要なモチーフを区別する必要がある。
 1 忘れてはならないことであり、まさに政治的な理由でそうなのだが、それは、体内化され、抑圧される神秘は決して破壊されない、ということである。この系譜は一つの公理を持っている。つまり、歴史はそれが埋めたものを決して消し去ることはないということである。それが暗号化する encrypt あらゆるものの秘密を、秘密の秘密を、己の内に保っている。これは守られた秘の秘なる歴史なのである。そのために、系譜はまた経済/摂理 economy でもある。狂騒的な神秘は無際限に回帰する。それはいつでも作動している。すでに見たようにプラトン主義においてばかりではなく、キリスト教でもそうであり、啓蒙 Aufklarung の、また一般的に世俗化の空間においてすらそうである。 Patočkaの言うことから、我々は今日のために、また明日のために、一つの政治的なレッスンを学ぶようにと励まされる。熱狂や熱情という形で、さもなければ我々の内なる神の現前として知られる聖なるものの回帰を、あらゆる革命が、無神論的であれ宗教的であれ、証言するということをそれは考えさせる。「狂騒的洪水の新しい発生 rise」、永遠に切迫した、そして責任性の放棄に呼応することについて語りながら、 Patočka はフランス革命の最中に保たれた宗教的熱情を例に取っている。聖なるものと秘密の間の親和性を、そして入信儀式での犠牲の実践を考えるならば、すべての革命的熱情は、まるで犠牲の儀式か秘密の効果であるかのようなスローガンを作り出すと言えるかも知れない。 Patočka はそれほど明言しているわけではないが、デュルケームからの引用はそういう方向を指しているように見える。

神として己自身を制定したり神を創出する社会の傾向性は、フランス革命の最初の数年間ほど顕著になったことはない。実際当時、一般的な熱狂の影響下で、本性上純粋に世俗的な物事が大衆の見解によって聖なる物事へと変換されたのだ。それらは父なる国、自由、理性であった。

 

 そして、この『宗教生活の原初形態』からの引用に続けて Patočka は言っている。

これはもちろん熱狂である。理性の崇拝にもかかわらず、それは狂騒的な性格を保っている。それは責任性への個人の関わりによって教導されず、あるいは不十分にしか教導されていない。狂騒への新しい堕落の危険が差し迫っている。(121)

 

 そうした警告はまさに喪の一つの形をもう一つの形に対立させる(これがあらゆる経済の逆説ないしアポリアである)。克服に対しての憂鬱、あるいは憂鬱に対しての克服、一つの抑鬱形態に対するもう一つの抑鬱形態、そして同じことに帰着するが、一つの抑鬱形態が抑鬱への抵抗の形態に対置される。人はプラトン的克服によってデモーニックな狂騒から脱出するが、このプラトン的克服から今度はキリスト教的「逆転」という犠牲、改悛によって逃れる。つまりキリスト教的「抑圧」である。

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トピック= 1953 宛先= 1953 同宛先= 1954 1955 1959 1971 1977 1988 1995 2004 2020 2024 2059 2071 2085 2088 返信=
 
Subject Re:プラトン的体内化からキリスト教的抑圧へ
Author イストラン [ 2022 to イストラン ]  4/25/Wed/2001   

secretum の意味として分離、隔離、孤独、秘密が羅和辞典にありました(田中秀央、1966)。

 しかしこうやってみると、ヨーロッパ哲学がいかに言語を大事にしているかということがひしひしと伝わってきます。我が国で同じようなことをしようとすると、ほぼ無理なんではないか。我が国の言語でもこういうことができるのだろうか。人という字はお互いに支え合っているとかいうような象形文字の解読以外に。

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Subject Re:プラトン的体内化からキリスト教的抑圧へ
Author イストラン [ 2021 to イストラン ]  4/25/Wed/2001   

 ようやっと話が見えてきたように想います。

 まず Patočka が、プラトン主義における狂騒的神秘の体内化を指摘し、これが狂騒性を、あるいは狂乱性を無化するものではないとした。

 つぎにデリダが、そうは言うものの、 Patočka の線にのっかると、キリスト教は、このプラトン主義が体内化した狂騒性を今度は抑圧したのだと言う。ここで Patočka の方は抑圧ではなくて、反転ないし逆転と言うのだがデリダはそれを抑圧と読んでいる。

 それにしても、
「この責任ある自由は同時に一つの政治学なのであり、実際西洋の政治学にあって、いまだ部分的には不可触の基礎なのである。」

 というのは一体どういうことなんだろうか。

 それから前にJOACHIMさんに指摘された部分、出てきました。私は注意していなかったのだけれども、例の表象性の部分は秘密と結びついて相当な論になっていますね。

 「秘密 secretum とは、その意味が分離(se-cenere)に向かっているもので、より一般的には意識的主観が自らの内に保つ客観的表象に向かっている。その表象は主観が知っているものであり、たとえ主観がその表象を宣言し、公言しなくとも、どうやって表象するかを知っているものである。責任ある主観の意識として魂の自由を構成する支えになるのが 秘密 secretum である。」

 こういう論があったとは。

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トピック= 1953 宛先= 2020 同宛先= 返信= 2022
 
Subject プラトン的体内化からキリスト教的抑圧へ[編集:4/26]
Author イストラン [ 2020 to イストラン ]  4/25/Wed/2001   

以下はJ.Derrida,"Donner la mort"の英訳 The Gift of Death の訳です(18-21)

**********************

しかしながら、もしそれが死と死への勝利を祝うものであるならば、この超克 triumph が標しづけるものは、喪を強いられる生き残る者たちが、フロイトの指摘するような、ほとんど狂気の maniacal やり方での生存ないし「超存 superexistence」[sur-vie]の喜びを体験するときの祝福の瞬間でもある。責任性と自由の、 Patočka がそれらの「支配 reign」と呼ぶこの系譜において、自由な責任ある自己の勝ち誇る肯定は、死すべき、あるいは有限の存在者の側では、実際狂気のごとく表現されるのである。こうして同一の否認のもとに、それは他者から、あるいは自己から、一つの秘密以上のものを隠すであろう。すなわちそれが隷属化させ、従属させ、体内化した狂騒的神秘の秘密であり、またその克服の経験そのものにおいて拒否し、否定する己の可死性 moratlity の秘密である。
 かくてそうした系譜は実際多義的に見えるのである。そのような哲学的ないし哲学−政治的な絶対的自由の出現の解釈は(「魂は絶対に自由であり、己の運命を選ぶ」[115])、わかりやすく自明であるように見える。しかし、それは事態の気がかりな評価をさらけ出す。というのは、狂騒的デモーニックな眠りから目覚める責任ある自由に対する暗黙の賞賛にもかかわらず、 Patočka はこの不寝番 vigilance の中に一つの「新しい神話」を認めるからである。体内化され、教導され、平定され、隷属化されても、狂騒的なものは無化されたわけではないのだ。それは地の下で、責任ある自由の神話を動機づけることを止めない。そして、この責任ある自由は同時に一つの政治学なのであり、実際西洋の政治学にあって、いまだ部分的には不壊の基礎なのである。それはそうした自由の動機づけを止めず、二度目の転回あるいは改宗、すなわちキリスト教の後でもそうであり続ける。

そのようにして魂の新しい輝く神話が誕生する。それは一方で 本来的なものpravé)、責任あるもの、他方で異常なもの、狂騒的なものという二つのものの二元性に基づいている神話である。狂騒的なものは 排除されるのではなく、教導され、隷属化させられているnení, odstraněno, ale akázněno a učiněno služebným)。(115、私の強調)


  ここでも、また他のところでも、Patočka の言説全体を通してハイデッガーへの近接性を認めることができる。しかし彼らの間の差違は、明示的であれ暗黙のものであれ、それでも意義あるものである。本来性 authenticity というテーマ、慮の間の結びつき the links among care、死への存在、自由、責任性、自我論的主観性の発生や歴史、そうした全ての観念は確かにハイデッガー的な臭いを持っている。しかし、この系譜は、それぞれのエポックの境界を曖昧にさせる、より以前の神秘の体内化を考慮に入れるときに、そのスタイルにおいてハイデッガー的とは言い難いものがある。何が何でも Patočka に特別な継承を課すことなど望まなければ、彼の系譜の傾向はフッサール的ハイデッガー的というよりもニーチェ的であると言うことができよう。その上 Patočka はニーチェを引用する。ニーチェにとってはキリスト教とは人々のプラトン主義であった(116)。そのような考えはある程度まで「正しい」と Patočka は注記している。違いは無視できないものの、それ自体としては であり、人がニーチェにおいて出くわす深淵についての恐るべき思考の中に潜んでいる。
 もしも狂騒的なものが包み込まれたままであり、もしもデモーニックなものが存続し、責任ある自由の新しい経験の中で体内化され、支配されているならば、この責任ある自由は決してそれであるところのものにはならない。それは決して純粋で本来的なもの、絶対的に新しいものとはならないであろう。プラトン的哲学者は面と向かって死を「見る」ことにおいて、動物より良い位置にいるわけではない。魂の配慮 emimeleia tēs psykhēs死の教練 meletē thanatou へ結びついた実存の本来性、死へ向かって/死を超えて見守る配慮である魂の配慮された慮 the concerned caring といったものを想定することにおいて、彼は動物より良い位置にいるわけではない。秘密性や神秘の二重化が、ハイデッガーの実存的批判の主導線を形づくるもろもろの境界をぼやけたものにするのは、まさにこの可能性を通してである。まずはそれ自身におけるデモーニックな神秘がある、と言うことができよう。それから、この神秘を、隠された、体内化された、封印された、しかし活かしている秘密の構造がある。これが自由な責任性の構造の中で主張されるが、自由な責任性は、この神秘の彼方へ行くと主張し、実際それに成功する。だがそれは、神秘を従属化させ、手なづけているだけなのである。責任性の秘密は、秘密を守り、あるいはデモーニックなものの秘密を「体内化し」、かくてそれ自身の内に、非責任性あるいは絶対の無意識の核を保存することに存する。この核を Patočka は後に「狂騒的非責任性」と呼ぶことになる。
  Patočka がプラトン的哲学者と同定する契機を仮定すると、我々はおそらく神秘なるもの mystery と、より厳密には秘密 secrecy と呼ばれてしかるべきものとの間の意味的差違を回復することができる。秘密 secretum とは、その意味が分離(se-cenere)に向かっているもので、より一般的には意識的主観が自らの内に保つ客観的表象に向かっている。その表象は主観が知っているものであり、たとえ主観がその表象を宣言し、公言しなくとも、どうやって表象するかを知っているものである。責任ある主観の意識として魂の自由を構成する支えになるのが 秘密 secretum である。要するに、デモーニックな 神秘 mystery から覚醒すること、デモーニックなものを乗り越えることは、秘密 の可能性に到達し、秘密を守ることに関わっている。なぜならば、それはまた、己自身への関係の個体化へと接続し、融解 fusion の共同体から自身を分離するエゴへと接続することに関わっているからである。しかしこれは単純に或る秘密を別の秘密で置き換えることを意味する。特別の経済が、嬉々として、神秘を秘密へ犠牲に捧げる。それは偽装の歴史としての真理の歴史の中で起こり、クリプトロジー cryptology ないし一般的 神秘学 mystology である系譜の中で起こる。
 従ってこれら全ては神話形態的、神話創成的 体内化 から出てくる。 Patočka が言うことを形式化し固定し、それでも望むべくはそれを裏切らずにということであるが、私は次のように主張したい。最初に彼はデモーニックな神秘と狂騒的非責任性のプラトン的体内化を簡単に述べている。しかし人はそれ以上進んでこう言うことはできないだろうか。この体内化は、まさに Patočka がキリスト教的 反転 reversal と呼ぶ瞬間に、今度はある種のキリスト教によって 抑圧されて いるのだと。そのように、体内化 incorporation抑圧 repression という二つの経済を、あるいは二つのシステムを持った一つの経済を区別するように人は誘惑されるだろう。

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トピック= 1953 宛先= 1953 同宛先= 1954 1955 1959 1971 1977 1988 1995 2004 2023 2024 2059 2071 2085 2088 返信= 2021
 
Subject Re:すみません!
Author イストラン [ 2017 to JOACHIM ]  4/22/Sun/2001   

了解です。まあ第一章は2回ぐらいは読んだんですが、読む度に横道にそれていくんです、頭が。それが面白いのですが、そのうちゆっくりと。

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トピック= 1953 宛先= 2016 同宛先= 返信=
 
Subject すみません!
Author JOACHIM [ 2016 to イストラン ]  4/21/Sat/2001   

ちょっと時間がなくて、デリダについてゆっくり考えられません。ごめんなさい。そのうち書きます。

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トピック= 1953 宛先= 2005 同宛先= 返信= 2017
 
Subject Re:死に直面すること/戦いの哲学
Author イストラン [ 2005 to イストラン ]  4/17/Tue/2001   

 どうも話がゆるやかに流れているようで、たとえば、ファウスト伝説の<救済>という、傍目から見て<知性の渇望>と見えるものの後に、なぜ死というものがやってくるのか、よく分からないということがあります。

 Patočka とハイデガーの近親性
 プラトン的な哲学者の死の克服/との関係
 魂/永遠の生、責任性、自由

 そこまでは前回の話から隔たってはいませんが、

 昼と夜の秘密の同盟
 対立物の結合
 戦争と死の贈与
 英雄的な行為 aristeia が持つ危険の自由への欲求
 人間的可能性の極限

 という辺りから戦いの哲学という相に入っていき、

 前線 front 戦い の歴史的形象
 敵の 同定敵との 同化
 超人と神的なるもの(テイヤール ド シャルダン)
 単一の身体/単一の力(ユンガー)

などで戦いの無条件の威力ないし善性というような表象が出てくる。

 こうしたこと全てについてデリダはまだ何も云っていません。Patočka がハイデッガーに似ている、彼がユンガーとかテイヤール ド シャルダンとかを引用している。そして彼はそこに「西洋的人間性の歴史が持つ還元不能の意味」を見つけたと思っている、という指摘のみ。

****************
訳の面から面白いと思ったのは、

「者はそのとき自分自身を神的なものとして想像することができる。彼は唇に笑みを浮かべ、己の指から多彩色の糸をぶら下げているのである。」

 という句でなにやら本歌がありそう。

 それから註の philopolemology なる言葉で、これは何と訳したらいいのやら。「Heidegger's Ear: Philopolemology( GeschlechtIV)」
となっているのですが。「好戦論」とでもしたらよいのでしょうか。

 「ハイデッガーの耳」はもしかして『ハイデッガーの耳伝』とかいう訳になっているのでしたっけ?

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トピック= 1953 宛先= 2004 同宛先= 返信= 2016
 
Subject 死に直面すること/戦いの哲学[編集:4/17]
Author イストラン [ 2004 to イストラン ]  4/17/Tue/2001   

以下 J Derrida, Donner la mort の英訳 The Gift of Death の訳(15-18)

新プラトン主義では、この考えが、エロスの誘惑を全て乗り越えた真の哲学者の見方の内で、デモーニックなものを押さえ込まれた領域にするに至る(エロスは偉大なるデーモンである)[エロスはこうして押さえ込まれるが、無化されるわけではない]。そこから、哲学者はまた魔術師でもあるという帰結が出てくるが、これは驚くべきことかもしれない。プラトン的哲学者は魔術師である[ソクラテスや彼のデーモンを考えよ]。すなわちファウストである。 Gilles Quispel [ Patočka はテキストでいつもその『世界宗教としてのグノーシス』に言及する]というオランダの概念史家は、ファウスト伝説、一般的に謂うところのファウスティズムの主たる起源をこのことに見ている。その「無限の希求」はファウストをとても危険なものにするのだが、それはまたついには救済の可能な手段を表象しているのである。(114-15)



 この死への配慮 concern、死を見張り続ける覚醒、死と面と向き合う意識は、またの名を自由という。ここで再び、本質的な区別を無視する欲求なしに、我々は、それ自身においてそれ自身によって( 本来的に eigentlich )受け取られた死−への−存在の配慮と、自由すなわち責任性との結びつきに、ハイデッガーが記述する 現存在 のそれと類似した構造を見ることができる。 Patočka は決してハイデガーから遠いところにいるわけではない。とくに、次のように続けるときには。

もう一つ重要なことがある。プラトン的な哲学者は死を克服する triumph over のだが、それは彼がそれから逃走せず、じかに面と向き合うという意味においてである。その哲学は 死の教練 meletē thanatou であり、死への配慮である。魂の配慮は生の真正なる配慮( pravá )になる死への配慮と不可分のものである。(永遠の)生はこの死と直面する出来事から生ずる。それは死を克服すること( přemožení )から生ずる( おそらくそれはこの「克服」以外のものではない )。それでも、このことがとの関係と結びつけられるとき、との同化やデモーニックな、狂騒的なものからの解放と結びつけられるとき、それは責任性の支配を意味し、それに伴って自由の支配を意味するのである。魂は絶対的に自由であり、己の運命を選ぶのである。(115,私の強調)



 「責任性の支配、それに伴っての自由の支配」ということがおそらくは死の克服 triumph 、換言すれば生の克服から成っているという事実を暗に示すことの意味は何だろうか( 死の克服に関する全ての伝統的な形象をひっくり返してシェリー Shelley なら 生の克服 と言うだろう)。 Patočka は括弧の挿入箇所で、これら全てのこと、いわゆる永遠の生、責任性、自由というものは おそらく この克服 以外のものではない とすら言っている。さて克服は戦いの痕跡となっている retains traces。それはまるで基本的に分離できない二人の敵たちの戦いにおいて勝利が勝ち取られたかのようである。後日、戦いを祝い commemorates(もうひとつの目覚め)、戦いの記憶を保つ祝祭の日に知らせが記録する rings out。この 戦い polemos について Patočka はこの 異教的エッセイ でしばしば語り、かなりの重要性を付与している。「20世紀の戦争と戦争としての20世紀」に関するエッセイはそうしたものの一つである。リクール Ricœur はフランス語版序文で、「奇妙な、そして多くの点で驚くべき」と判断している。それは暗さの逆説的現象学に関わるが、また昼と夜の秘密の同盟にも関わっている。対立物のそうした結合は Patočka の政治的思考では本質的な役割を演じているのである。もっとも彼はエルンスト ユンガー Ernst Jünger( Der ArbeiterDer Kamph als inneres Erlebnis )や、テイヤール ド シャルダン( Writings in the Time of War )しか引用しないのであるが。その言説は同時にハイデッガーの複雑で多義的な、ヘラクレイトス的 戦い polemos に近く、かつて見られることがないほど近い。そして私の見るところでは、リクールが序文で言っている以上にそう見える。ただしここでは究明できない本質的な差違があるのだが。8

8 この問題については次のもので扱っている。「ハイデッガーの耳 Philopolemology( Geschlecht IV)」 in John Sallis,ed., Reading Heidegger: Commemorations (Bloomington: Indiana University Press,1993)


 戦争はさらなる死の贈与[la mort donnée]の経験である(私は敵に死を与える。そして「私の国」に自分を捧げることで自分の生を与える)。 Patočka はヘラクレイトスの 戦い をこんな風に解釈している。その戦いは「生の延長」であるよりもむしろ、暗さ Darknessの優位を表象し、「英雄的な行為 aristeia が持つ危険の自由への欲求、人間的可能性の極限におけるその卓越したものを表象する。快適な生の短い延長に、死すべきものの記憶の中での持続する名声を取り換えようと、我々のもっとも良きものがひとたび決断するときに選択する可能性なのだ」(146)。この 戦い は敵たちを統一する。それは対立したものを一緒にする(ハイデッガーはしばしば同じことにこだわる)。 第一次世界大戦が行われたところのような 前線 front はこの 戦い の歴史的形象を与える。それはあたかも顔と顔を極端につきあわせる近接において統合されるようにして、敵たちを一緒にするのである。前線の例外的かつ困惑的な賞賛は、おそらく別のタイプの喪を予想するのであって、それはすなわち、とくに第二次世界大戦の戦中戦後におけるこの戦線の喪失であり、敵を同定し identify、とくに敵 に同化し identify with さえするそうした対立の消失である。第二次世界大戦後、 Patočka がカール シュミット Carl Schmitt の流儀で言うように、人は敵の顔のイメージを失っている。人は戦争を失い、おそらくはそれから政治の可能性そのものを失っている。この敵の 同定 は、前線の経験においていつも 敵との 同化にとても近くあり続けるのだが、それは何ものにもまして Patočka を困惑させ、魅惑していることなのである。

テイヤール ド シャルダンが前線を超人と神的なるものにするときに、同じ気分とヴィジョンがそこにある。攻撃するとき、対立する部隊は単一の身体に溶け込み、単一の力となる、とユンガーはあるところで言う。そして彼はつけ加える。「単一の身体−何という奇妙な類比だろう。彼自身の価値を敵の価値と同じく前提し、理解する者は誰でも全体の中でかつ同時に部分の中で生きることになるのだ。そうした者はそのとき自分自身を神的なものとして想像することができる。彼は唇に笑みを浮かべ、己の指から多彩色の糸をぶら下げているのである。」この二人の思想家が、かくも深くお互いに異なっていながらも、前線というそうした内密な経験を持ち、双方とも異なった観点から 戦い polemos としての存在というヘラクレイトス的ヴィジョンに至る類比に達するということは偶然のことだろうか。実際、そこに人は西洋的人間性の歴史が持つ還元不能の意味を見つけることはないだろうか。それは今日一般に人類史という意味になっている意味の相ではないだろうか。(146)


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Subject Re:死の教説と神秘/秘密の歴史
Author イストラン [ 1997 to JOACHIM ]  4/14/Sat/2001   

>むむむむ、パトチカもプラトンも見直さずにデリダのこのテクストを読むとだんだんわけわかんなくなってきました(笑)。せめてパイドンくらい復習しようかしら。

 岩波全集の訳者解説では、イデア説の認識論について説明がありまして、それによると、イデアの想起というものも単なる超越的な話ではなくて、ぼやっとしたものが徐々に姿を現し、形を成していくというのが想起説なんであるとかいうふうになってましたが、まさに今の私達の状況がそうではないでしょうか。


>Cette discipline devient aussi la philosophie, ou la dialectique, en tant qu'elle peut s'enseigner, justement comme discipline, a la fois exoterique et esoterique : c'est aussi celle de l'exercice qui apprend a mourir pour acceder a la nouvelle immortalite :という風に、コロンで終わっています。

 これの英訳です。

Secondly, this discipline is also philosophy, or the dialectic, to the extent that it can be taught, precisely as a discipline, at the same time exoteric and esoteric; as well as that of the exercise that consists in learning to die in order to attain the new immortality, that is, meletē thanatou, the care taken with death, the exercise of death, the "practicing (for) death" that Socrates speaks of in the Phaedo.

 う〜む。あんまり哲学と弁証法を分ける必要はないのでは、と今回訳したところを見て思いますが...それにしても c'est aussi でしたか。ならば簡単ですね。

> 敢えてディアレクティケーと訳したのは、此の語の語源がギリシャ語で「議論する技術」という意味らしくて、多分、学科や教科としてのdisciplineとはこのことだろうと思ったからです。あと顕教的かつ密教的というのは、どこにかかるかいまいちよくわかりません。それに、「顕教的」には一般に公開されている、という意味があるので、学科として「教えられうる」の意味には対応しますが、ここでどうして「密教的」と言う必要があるのかわかりません。まあ死の練習に密教的な部分があると言われればそうかもしれませんが。

 そうですね。discipline は<教える/学ぶ>の系列を喚起しますが、同時に実践というものを喚起すると思います。この場合、実践とはなにやら死を前にしての実践ということであるらしく、ゆえに<教える/学ぶ>に足すところの<習う><練習する>に加えて、なんだか秘教的になってくると思われます。このldiscipline というのを「教練」と訳しています。

> イストランさんのthat of exercizeは、原文ではcelle de l'exerciceでまったく同じ形になっていますが、私は同格ととりました。つまり、that=disciplineの説明であるという風に。「死を伴った慮」はcareの後、どういう風にdeathがかかっているのか英語の方教えていただけますか。ここはなんでこんなややこしい言い方しないといけないのか、不明ですよね(笑)。

 これは私のミスです。おそらく take care of に deal with がくっついたようなものなのでしょう。この the care taken with death は。


>で、ここのForですが、単に「というのも」と訳していいのではないでしょうか。単に全文の根拠を挙げているだけのようです。なおフランス語は、「自己を表象する意識(conscience representative de soi)」の関係詞ouから。

 有り難うございます。確かに言われてみれば、通常の for で押し通せそうですね。ただ含蓄が多いせいで、意味としては薄くなっているい for のようですが。


>フランス語原文から試訳すると、
>「(この自己を表象する意識において)秘密は、今度はsecretum、つまり分離された、区別されたの意味においての秘密だが、(もしそのような意味に受け取るなら)秘密は或る客体的な表象として保たれうるであろう。というのも、我々がここまで辿ってきた筋の一つは秘密の歴史であり、意味と言う語がギリシャ語の神秘なるもの、地下的なるもの crypticからラテン語の secretum へ、そしてドイツ語の Geheimnis へと差異化される歴史であるからだ。」

 ふむふむ、こっちの方がよいようです。


> 形容詞のsecretを調べるとフランス語のsepareつまり英語のseparateが語源として出ていました。イストランさんもそういう意味で訳しておられるようなので私も自信を持てました。

 いやそういう意識はなかったです。ためになります。調べてみましょう。

 それにしても、ずいぶんと意味が重なってきましたね。
 秘密 secret
 神秘 mytery
 cryptic 地下、埋められたもの、隠されたもの、謎めいたもの
 
 確かに日本語でも神秘の中に秘密の秘が入ってますが、どうも訳していて苦しいです。単に「秘密」と訳すと、軽いのです。語感が。
 また単に「神秘」と訳すと、いやそうではないんだ、なにか違う、と思ってしまいます。そういう思いを起こさせるのもデリダ効果なんでしょうか。

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トピック= 1953 宛先= 1990 同宛先= 1991 返信=
 
Subject Re:魂の見張り
Author イストラン [ 1996 to イストラン ]  4/14/Sat/2001   

 訳はいい加減でしょう。
しかしだんだん言ってることがぼやっとながら浮かび上がってきたような。

 責任性の言説の根底に、「起きる」ということが、意識がある。あるいは<起きる>と責任性が同時に生起する。魂は死に際して喪の作業と似たようなことをする。

 この言説は責任性を行為性に一挙に結びつけることはしない。また責任性というものを共同体との関係(つまり Verbindlichkeitとしての、共同体への結びつきやそれからの離反という関係)からも思惟しない。

 魂というのも、それは幾層にも自己が自己に堆積させてきたものらしい。魂の起源は夢だという説があるが、ここでは魂は責任性/意識の堆積であり、かつ不可視の場であり、かつ最初から哲学するモノである。
 
 

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トピック= 1953 宛先= 1995 同宛先= 返信=
 
Subject 魂の見張り[編集:4/14]
Author イストラン [ 1995 to イストラン ]  4/14/Sat/2001   

以下はJacques Derrida,Donner la mort の英訳からの訳(pp.13-15)
【】は私が挿入した語
********************************************************

 ソクラテスは『クラテュロス』でそうしたように aïdēs-haidēs を再び利用した後で psychē の或る不可視性を思い起こさせている。不可視の魂は(aides は「見えない者」「盲目」も意味する)死へと赴くのであるが、そこは不可視の場所なのであり、それもまた Hades(Haidēs)なのである。そうして aïdēs の不可視性はそれ自身秘密ということの形象であるのだ。

真理はむしろこうである。出自において純粋であり、何ら肉体の墜落を引きずってはいない魂は[別の言葉で言えば、ソクラテスが記述するこの不可視の魂の分離、この自己の秘密化によって、魂は可視的肉体から退き、己自身の内に己自身を集める assemble が、それはその内的な不可視性の中で己自身の隣に存在するためである−分離と不可視性は実際、秘密性の基準である]、生の間決して意図的には肉体と結合を持たず(ouden koinōnousa autō en tō bioō hekousa einai)、魂はそれを忌避しており(pheugousa)、自身で自身に集められている gathered(synethroismenē hautēs eis heautēn)[レヴィナスが『パイドン』に言及するときは、しばしば死に関する様々なテキストでするように、いつでも、この己自身に魂が集まることを重要視するが、それはその死への関係において自己が自己と同定される契機としてである]。そしてそうした抽象を魂の永遠の学習(hate meletōsa aei touto)としている。これら全てのことが意味するのは、魂が哲学の真の弟子であったということである(he orthōs philosophousa)。従って、魂は実際いつでも不平を言わずにいかに死ぬかを実習してきたのである(kai tō onti tethnanai meletōsa rhadiōs)。というのもそうした生は死の実習 practice ではないか(ē ou tout'an eie meletē thanatou)?



 この正典の文章は、哲学の歴史においてもっとも引用され、あるいは少なくとも呼び出されてきたのであるが、詳細な読解に付されることは希である。ハイデッガーは引用していないし、いかなる場合でも『存在と時間』には一度も引用されていない。慮とか死−への−存在に割かれた文章においてすらである。これは驚くべきことであるかも知れない。というのもまさに【プラトンの】それが慮 care の問題であり、「見張り−続けること」に関わり、実存において己自身へと関係するものの自己への関係を構成する死への憂慮に関わっているからである。さらに次の事実は強調してもしすぎることはない。最初にそこにあるのはpsychēではなく、その後その死に関して配慮されるために、それを見守るために、その死の見張りになるためにやってくるのも、実は 魂psychē ではない。そうではなくて、魂はただ己自身を区別するのであり、この死の教練 meletē tou thanatouの経験で己自身のうちへと集まるだけである。それは自己への関係として、自己の取り集め assembling としての死ぬことへの配慮 concern 以外のものではない。それはそれ自身に振り返るだけである。己自身を集めるという意味で、また死への配慮を通して、一般的に自己の意識という意味で、己自身を目覚めさせ、意識的になる[s'éveiller]という意味においてである。そしてpsychē あるいは個人的な責任のある自己の構成における神秘や秘密に関して Patočka がここで語るのは全く正しい。というのもまさにこうして魂は己自身を己自身に想起させながら己自身を分離するからであり、その不可視性そのものとなるからである。ゆえに最初からそれは哲学していた philosophized ことになる。哲学は偶然に魂にやってくるものではない。なぜならそれは死の見張り vigil であり、それは死へと for 凝視し watches out、死を超えて over、あたかも魂の生そのものを超えて over そうするかのように凝視するからである。生としての、生の息吹としての、pneumaとしての 魂 psyche は、ただにこの死への配慮された予期から出現する。この見張りの予期はすでにして仮の喪【通夜】に、不寝[veillée]としての見張り[veille]に似ている。
 しかし新しい秘密という出来事を標すこの見張りはその教練の中に、それが従属させ眠り込ませている狂騒的秘密を合体/体内化させている。デモーニックな、あるいは狂騒的な神秘を包み込むこの合体/体内化のゆえに、哲学はそれが責任性に応じるときですら魔術 thaumaturgy なのである。

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トピック= 1953 宛先= 1953 同宛先= 1954 1955 1959 1971 1977 1988 2004 2020 2023 2024 2059 2071 2085 2088 返信= 1996
 
Subject 訂正
Author JOACHIM [ 1991 to JOACHIM ]  4/12/Thu/2001   

×我々がここまで辿ってきた筋の一つは秘密の歴史であり、意味と言う語がギリシャ語の神秘なるもの・・・

       ↓

○我々がここまで辿ってきた筋の一つは秘密の歴史であり、秘密という語の意味がギリシャ語の神秘なるもの・・・

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トピック= 1953 宛先= 1990 同宛先= 1997 返信=
 
Subject 死の教説と神秘/秘密の歴史[編集:4/12]
Author JOACHIM [ 1990 to イストラン ]  4/12/Thu/2001   


むむむむ、パトチカもプラトンも見直さずにデリダのこのテクストを読むとだんだんわけわかんなくなってきました(笑)。せめてパイドンくらい復習しようかしら。


ところで、


> この文のおしまいの方に(いや前かもですが)英語では as well as that of the exercize that consists in learning to die ...とつながっています。この as well as をどうしていいのか適当にはしょったのです。この部分の原文をお願いできますか?この後も実は端折りました。


イストランさんってフランス語もOKなんですか?たのもしいです。引用しますね。Cette discipline devient aussi la philosophie, ou la dialectique, en tant qu'elle peut s'enseigner, justement comme discipline, a la fois exoterique et esoterique : c'est aussi celle de l'exercice qui apprend a mourir pour acceder a la nouvelle immortalite :という風に、コロンで終わっています。

 たぶんas well asは「同様に」の意味でしょう。フランス語原文では、コロンで一度切ってから同格風に繋いでますね。こちらの方がわかりやすそうです。問題は前半部です。言ってる内容は単純なのでどう訳してもそれほど意味は変わらないのですが、どの語がどの語にかかっている、とか文法的に辿ろうとするとちょっと面倒ですね。今度は私からお願いしたいのですが、この文章の英訳をここに掲載してもらえますか?
 en tant queは、御存じかもしれませんが、名詞や節にかかって「〜として(の)、〜である限り(の)」という風になります。で、主語のcette disciplineにかけてもいいのですが、一旦コンマで区切った後にou la dialectiqueが来ていることからして、en tant qu'elleは、la dialectiqueだけにかかっているのではないかな、と。そしてjustement以下もen tant queと同格になっていると思うのですがどうでしょうか。
 つまり、「教えられるとなる」と「厳密に修練として」が並列の関係にあるのではないか、と。私はあまり読解力がない方なので英訳を観れば一発で結論が出そうで、怖いのですが・・・私がフランス語原文を読むかぎりでは、

「またこの修練は哲学であり、あるいはこの修練が教えられうるものかぎりにおいてのディアレクティケー、つまり厳密に修練(あるいは教科・学科)としてのディアレクティケーであり、このディアレクティケーは、顕教的であると同時に密教的なのである。またそれ(この修練)は、新たな不死性へと至るために死ぬことを学ぶ練習という修練である。つまりそれ(exerciceの同格と受け取って)は、melete thanatou、死に囚われた心配り、ソクラテスが『パイドン』で語っている「死の練習をすること」である。」


 敢えてディアレクティケーと訳したのは、此の語の語源がギリシャ語で「議論する技術」という意味らしくて、多分、学科や教科としてのdisciplineとはこのことだろうと思ったからです。あと顕教的かつ密教的というのは、どこにかかるかいまいちよくわかりません。それに、「顕教的」には一般に公開されている、という意味があるので、学科として「教えられうる」の意味には対応しますが、ここでどうして「密教的」と言う必要があるのかわかりません。まあ死の練習に密教的な部分があると言われればそうかもしれませんが。
 イストランさんのthat of exercizeは、原文ではcelle de l'exerciceでまったく同じ形になっていますが、私は同格ととりました。つまり、that=disciplineの説明であるという風に。「死を伴った慮」はcareの後、どういう風にdeathがかかっているのか英語の方教えていただけますか。ここはなんでこんなややこしい言い方しないといけないのか、不明ですよね(笑)。次の段落では、素直にle soin a apporter au mourirとなっていて、apporter le soin a Aで、「Aに気を配る」の意味なので、「死へ向けられた配慮」という風にわりと素直な意味になるようです。


>それによって、今度はラテン語の secretumsecernereから)の意味における秘密、分割、分離、区別されたものが、客観的な表象 representation として保たれることができるのである。我々がここで辿っている筋の一つは、この秘密とその差違化した意味の歴史であり、それは神秘なるもの、地下的なるもの cryptic のギリシャ的な意味からラテン語の secretum へ、そしてドイツ語の Geheimnis へと至るものである。


で、ここのForですが、単に「というのも」と訳していいのではないでしょうか。単に全文の根拠を挙げているだけのようです。なおフランス語は、「自己を表象する意識(conscience representative de soi)」の関係詞ouから。

ou le secret, au sens cette fois du secretum(se cernere) separe, discerne, pourrait etre garde comme une representation objective. Car un des fils que nous suivons ici, c'est cette histoire du secret et de sa semantique differenciee, du mystique et du cryptique grec au secretum latin et au Geheimnis allemand.

フランス語原文から試訳すると、
「(この自己を表象する意識において)秘密は、今度はsecretum、つまり分離された、区別されたの意味においての秘密だが、(もしそのような意味に受け取るなら)秘密は或る客体的な表象として保たれうるであろう。というのも、我々がここまで辿ってきた筋の一つは秘密の歴史であり、意味と言う語がギリシャ語の神秘なるもの、地下的なるもの crypticからラテン語の secretum へ、そしてドイツ語の Geheimnis へと差異化される歴史であるからだ。」

 形容詞のsecretを調べるとフランス語のsepareつまり英語のseparateが語源として出ていました。イストランさんもそういう意味で訳しておられるようなので私も自信を持てました。「客体的な表象」と敢えて訳したのは、自己反省する意識というところから、自己を対象として表象することだろうと理解して、対象、客体の意味でとりました。
 で、どの程度「というのも」の意味になっているのかいまいちわかりませんが、要するに前文で言ったことを、補足的に説明しているんでしょうね。あと、mystiqueとcryptiqueは共にギリシャ語語源の言葉で、それぞれ「奥義を伝授された」や「隠された」を意味し、それがラテン語のsecretumになると「分離された」の意味になるのは確かに面白いですね。ドイツ語の語源はちょっとわかりません。大きめの辞書をお持ちなら語源誰か調べてください。

 
 ええっと、以前、性起運動と代補のことがでましたが、デリダの代補や差延はかなりの部分をハイデガーの性起運動から得ているようです。というのもデリダの脱構築は、一見二項対立を解体するもののようですが、パロールとエクリチュールが、すでに原エクリチュールを前提としているという議論からもわかる通り、二項対立を、より普遍的な運動の痕跡としてとらえているからです。

 私の論文のことは掲示板上では言いにくいですが、ベンヤミンも使ったけど主にフランス文学関係です。それではまた明日!

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トピック= 1953 宛先= 1988 同宛先= 返信= 1991 1997
 
Subject Re:借りました!
Author イストラン [ 1989 to JOACHIM ]  4/12/Thu/2001   

 おお、それはよかったです。ぜひコピーされてください。

ところでお言葉に甘えて。
12頁ぐらいのところにある下の文ですが、

「第二に、この修練が顕教的でありかつ秘教的であり、厳密に修練として教えられるとなると、それは哲学あるいは弁証法ともなり、」

 この文のおしまいの方に(いや前かもですが)英語では as well as that of the exercize that consists in learning to die ...とつながっています。この as well as をどうしていいのか適当にはしょったのです。この部分の原文をお願いできますか?この後も実は端折りました。

 次に、やはりここだけの話ではないのですが、接続詞 for の使い方です。
13頁のお仕舞い、今回訳した最後の文、

「我々がここで辿っている筋の一つは、この秘密とその差違化した意味の歴史であり、それは神秘なるもの、地下的なるもの cryptic のギリシャ的な意味からラテン語の secretum へ、そしてドイツ語の Geheimnis へと至るものである。」

 この文は接続詞 For で始まっています。これも端折りましたが、この文章もお願いしたいのですが。

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トピック= 1953 宛先= 1986 同宛先= 返信=
 
Subject 死の教説と神秘/秘密の歴史[編集:4/12]
Author イストラン [ 1988 to イストラン ]  4/12/Thu/2001   

J・デリダ『死の贈与』(Donner la mort)の英訳 The Gift of Death から。
今のところ訳語が定まっていません。たとえば conversion は「転換/改宗」など。
***********************************************************************

別の様相が先立つものに結合されている。プラトン的「転換/改宗 conversion」は自体へのまなざしを可能にする。このまなざしはと同じく不変の永遠なるものである。の探求である魂の新しい神秘は、魂の内的対話という形態で生ずる。この対話と解きほぐし難く結ばれている不死性は、そういう風に諸神秘の不死性とは異なるのである。それは史上初めての、個人の不死性である。というのも内的だからであり、それ自身の実現から分離できないからである。魂の不死に関するプラトンの教説は、狂騒的なものと責任性との対立の結果である。責任性は狂騒的なものに打ち勝ち、それを従属化された契機として、己自身の内に合体/体内化する。ちょうどエロスが己を理解するのは、己の起源が肉の世界、洞窟とか影とかではないと理解し、その絶対的な要求と厳格な修練 disciplineを伴うへの上昇の手段であると理解してから後のことであるように。(114, 私の強調)



 こうした修練 discipline の概念はたくさんの意味を覆っている。それらはここでは等しく基本的であるように見える。第一に、訓練あるいは実習 exercise であり、狂騒的神秘を管理し続けるために必要な仕事の観念である。それは奴隷や召使いのような、まさに従属化の中で管理を作動させるために必要なものであり、還元すれば一つの秘密を別のものに仕えさせることによって、その秘密を作動させるために必要な観念であるが、この観念はまたエロスのデモーニックな神秘を新しいヒエラルキーの中に置くためのものでもある。第二に、この修練が顕教的でありかつ秘教的であり、厳密に修練として教えられるとなると、それは哲学あるいは弁証法ともなり、その実習は新しい不死性を獲得するために死ぬことを学ぶことから成り、つまりは死の教練 meletē thanatou であり、死を伴った慮 care、死の実習、ソクラテスが『パイドン』で語る「死(への)実習」ということである。
 『パイドン』はあからさまに哲学と名づけている。それは死の注意深い予期である。死ぬことを耐えるために持たれる慮 care である。死を受け取り、与え、あるいは己自身に死を与える最善の道への瞑想である。死の可能性、そして不可能性としての死の可能性の見張り vigilの体験である。
 まさにこの観念、つまりこの meletē ないし epimeleia、正しくも「慮 care」とか「憂慮 solicitude」と訳しているこの観念は、ある気分を開示し、見張りを開始するが、その中にハイデッガーが『存在と時間』で与えた意味での Sorge(「慮 care」)が記入されるだろう。6とくに、cura の伝統に従いながらもプラトンの名は出さずにハイデッガーが言及しているのを考えよう。彼がそこで喚起しているのは、ウルガタ、セネカの 憂慮 sollicitudo、ストア派の merimna 以上のものではないが(§42,199[243])、プラトンの meletē と同じく、それらは慮 care、関心 concern、そして憂慮 solicitude を意味する。
  Patocka が遠回しに言及しつつ分析も引用もしない『パイドン』の有名な段落(80e)は、従属化する内化というものを記述している。魂が己に集まる運動、その内面に向かって身体から自由になること、そこで魂は自身に自身を想起するために己の内へと退行し、その間近に be next to あるために、そして想起というこの身振りにおいて自身を保つために退行するのだ withdraw。この転換/改宗は魂を回転させる。そしてそれ自身の上にそれ自身を積み上げる ammass。syn という接頭辞におけるようなそうした取り集めの運動が意識−に−成ること coming-to-conscience を告知するのであり、自己の表象的な意識を告知するのである。それによって、今度はラテン語の secretumsecernereから)の意味における秘密、分割、分離、区別されたものが、客観的な表象 representation として保たれることができるのである。我々がここで辿っている筋の一つは、この秘密とその差違化した意味の歴史であり、それは神秘なるもの、地下的なるもの cryptic のギリシャ的な意味からラテン語の secretum へ、そしてドイツ語の Geheimnis へと至るものである。

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トピック= 1953 宛先= 1953 同宛先= 1954 1955 1959 1971 1977 1995 2004 2020 2023 2024 2059 2071 2085 2088 返信= 1990
 
Subject 借りました!
Author JOACHIM [ 1986 to イストラン ]  4/11/Wed/2001   

図書館から借りてきました。GW明けまでは所持できます。
特に原文についてお知りになりたいことがあれば言ってください。
私はちょっとイストランさんの邦訳と見比べながら読んでみます

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トピック= 1953 宛先= 1981 同宛先= 返信= 1989
 
Subject Re:犠牲、自死、贈与の経済はいかなる関係にあるか[[編集:4/10]
Author イストラン [ 1981 to イストラン ]  4/10/Tue/2001   

以下の註の箇所

>たとえば『盗まれた手紙』、『公証人バートルビー』、『カーペットの図柄』、 The Aspern Papers である。それらは秘密と責任性の混合した問いに関する最近のセミナーの主題である。

この The Aspern Papers はどういうことなのかわからなかったので、とりあえずそのまま原文(英訳)どおりに並べておきました。

 ポーについては第二章で Patočka 自身が触れているという箇所が出てきます。

 オイゲン・フィンクの扱いからすると、Patočka がフィンクを参考にしているのでしょうか。よくわかりません。

>そして責任性の系譜学の中で意義深い特徴となる事柄において、それは内化 internalization、個体化、主体化/従属化 subjectification によって標されるだろう。合体/体内化の運動そのものの中で魂が己に倒れ込むときの、己自身に対する魂の関係である。

 この部分もそうですが、今回は訳が難しかった。

 しかしまだこの段階はしつこくも「合体/体内化」の話だな、というぐらいは意識してます。この後にキリスト教がプラトン主義を「抑圧する」の話が出てくるんでしょう。

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トピック= 1953 宛先= 1977 同宛先= 返信= 1986
 
Subject RE:プラトン主義が体内化し、キリスト教が抑圧するもの
Author イストラン [ 1979 to JOACHIM ]  4/10/Tue/2001   

今回からアクセント記号をHTMLを利用して出してみたんですが、本文だけコピー/ペーストすると、čなんてのが出てしまうかもです。これは Patocka の c のなんとかいう奴です。
 

%もしかするとネットスケープでは出ないことがあるかも。あるいはそういう方がおられたら言ってください。

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トピック= 1953 宛先= 1976 同宛先= 返信=
 
Subject Re:続き、愉しみにしてます!
Author イストラン [ 1978 to JOACHIM ]  4/10/Tue/2001   

>デリダがなぜ「秘密」を、「断絶」とか「回転、紆余曲折、変形、振り返り、曲がり」とか「喪のプロセス」とか「死の形象」とかを孕んだものと考えていたかがわかるように思うのですが・・・ちょっとわかりやすいところで強引にまとめすぎたかもしれません。イストランさんの方でお気づきのことがあればまた教えてください。

 はい。ここまでのところはほとんど Patočka の説をまとめているという感じなのですが、上の JOACHIM さんのまとめはデリダの線の予告になっているのかもですね。全体的に Patočka の論を先鋭化させていることらしいので。

> キリスト教の「恐るべき神秘」は、先立つ神秘を抑圧しつつ取り入れるわけですから、二重の意味でs'emporterとはこのような意味かなと思ったわけです。

 なるほど。中に引き込むということは確かに合体 incorporation につながりそうです。

> 今日、図書館で借りようとして、別の調べ物中に貸し出し時間をすぎてしまいました。また来週にでも。ちなみに私も、神秘主義とは言わないまでも、宗教的なものには関心があります。言語と神性について論文を書いたほどですので。

 そうだったんですか。言語と神性というと、たとえばベンヤミンの言語観とかも入りますか?

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トピック= 1953 宛先= 1974 同宛先= 返信=
 
Subject 犠牲、自死、贈与の経済はいかなる関係にあるか[編集:4/10]
Author イストラン [ 1977 to イストラン ]  4/10/Tue/2001   

以下のものはJ・デリダ著『死の贈与』(Donner la mort)の英訳 The Gift of Death(The University of Chicago Press,1995)のPP.10-11の和訳です。
 []は英訳者がフランス語原文を参照しているものです。
************************************************

 というのもこのことは数ある主題の内の一つというわけではないからである。責任性の歴史としての秘密の歴史は死の文化に結びついている。換言すれば、死の贈与あるいは与えられる死[la mort donnée]の様々な形象に結びついているのである。5。フランス語で 死を与えること donner la mort とは何を意味しているのだろうか。いかにして人は 自身に 死を与える[se donner la mort]のだろうか。その人自身の死に対して責任を取りながら死に、自殺するのだが、また他者に己自身を捧げ、他者のために死に、かくて恐らくはソクラテスやキリストや他の人たちが様々にそうしたように、己自身に死を与えることで人の生を与え、死の贈与を受容する、そういう風にして死ぬことが、この自身に死を与えることの意味だとすれば、それはどういう風にしてなのだろう。そして Patočka もまた自分のやり方でそうなのだろうか。 自身に死を与える ことは、また死を解釈すること、その表象を与え、形象を、それの形象、意味、方向を与えることであり、そういう意味ではいかにして人は己自身に死を与えるのだろうか。あるいは単にもっと一般的に死の可能性に関係させつつ(いかなる配慮、関心、了解のもとに?)、そしてハイデッガーに従えばこれは不可能性の可能性ということになるわけだが、そうして人が己自身に死を与えるということはいかにしてなのだろうか。 自身に死を与えること と犠牲との間にはどのような関係があるのだろうか。そして己自身を死へと赴かせることと他者のために死ぬこととの間には?犠牲、自死、贈与の経済の間にある関係とは何だろうか。

  秘密というものに関する文献は、ほとんどいつも死の形象を扱う場面や筋をめぐって構成されている。別のところでしばしば私が「アメリカ的」例を持ち出して示そうとしていることである。たとえば『盗まれた手紙』、『公証人バートルビー』、『カーペットの図柄』、 The Aspern Papers である。それらは秘密と責任性の混合した問いに関する最近のセミナーの主題である。


 プラトン的責任性が狂騒的神秘に勝利する合体の運動とは、それによって個体的魂の不死が確証される運動である。これはまたソクラテスに与えられる死であり、彼が与えられ、受容する死である。換言すれば『パイドン』で、己の死に意味を与えるための、いわば己自身にそれへの for it 責任性を引き受けるためのすべての言説を展開したときに、彼が己自身に与えるところの死である。
 洞窟のアレゴリーに関して、そしてフィンクに従い、 Patočka はこのように言っていた。

プラトンの説明、とくにそのドラマティックな場面は、伝統的な諸神秘とその狂騒的な実践の 逆転 reversal(obráceni) である。これらの実践はそれ自体、責任性と狂騒的神秘の協調というよりも対立へ向かっている。洞窟とは諸神秘の集積のために地下に残されたものである。それは地母の膝である。プラトンが始めた新しい思考は、純粋な「光の道」へ出発するために地母の膝と縁を切る欲望に関わっている。従って狂騒的なものを完全に責任性へ従属させる subvordinate(podřídit)というものである。プラトンにおいて魂の道が直接に永遠性へと、永遠性の源、「善」である太陽へと向かうのはそのためである。(114, 私の強調)



 従ってこの従属化は、それが精神分析的な意味に解されようと、あるいは自己の内にそれが超出し、乗り越え、とって代わる[relève]ものと同化し、それを保持する統合という、もっと広い意味に解されようと、「合体/体内化」という形態を取るのである。他の神秘による神秘の合体は、一つの不死性の他の不死性への、一つの永遠の他の永遠への合体/体内化に至る。この不死性の包み込みはまた死の二つの否定、二つの否認の間の取引である。そして責任性の系譜学の中で意義深い特徴となる事柄において、それは内化 internalization、個体化、主体化/従属化 subjectification によって標されるだろう。合体/体内化の運動そのものの中で魂が己に倒れ込むときの、己自身に対する魂の関係である。

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トピック= 1953 宛先= 1953 同宛先= 1954 1955 1959 1971 1988 1995 2004 2020 2023 2024 2059 2071 2085 2088 返信= 1981
 
Subject RE:プラトン主義が体内化し、キリスト教が抑圧するもの
Author JOACHIM [ 1976 to イストラン ]  4/9/Mon/2001   

どうやら私はまだここの使い方がよく把握できていないようです。

「続き、愉しみにしてます」と題して書いたものが、「RE:納得しました(笑)」の直後に来てしまったので妙にわかりにくいですね。

 イストランさんの邦訳は、全部打ち出して熟読させていただいてます。パトチカって愛嬌のある名前ですね。



 追伸 ALRDTPさん、お久しぶり、そしておかえりなさい!

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トピック= 1953 宛先= 1972 同宛先= 返信= 1979
 
Subject 続き、愉しみにしてます!
Author JOACHIM [ 1974 to イストラン ]  4/8/Sun/2001   

イストランさんの翻訳を眺めつつ思ったことを書いてみます。


 まず最初の方で述べられていることは、『法の力』を思い出させます。この著作においてデリダは、「脱構築は正義である」という高橋哲哉が惚れ込んだあのテーゼを打ち出していることで有名ですが、要するにデリダに拠れば、法と正義は一致しないんです。法というのは閉じられた体系であり閉域です。そして法措定的暴力と法維持的暴力が絶えず機能しているこの法の中で、常に法が横滑りしてゆくような、つまり既成の法を解体しつつ新たな法へと移行してゆくような、そういう運動の中に正義を見るわけです。こうなってくると正義とは差延だと言っているようなもので、そうした正義は実体として存在するものでもなければ、主体的決断において掴みとれるものではないし、そして何より、こうした正義ほど、法制化にそぐわないものなわけです。たとえ脱構築的なものであるにせよ、倫理や道徳として打ち立てたりはせず、あくまで他なるものの要請という言い方にとどめるのがデリダらしい。そういう意味では、高橋哲哉のデリダ解釈は少し人間主義的すぎます。

 要するに以上のことは、法とは限定された閉域であり、正義とは常に他なるものに向かって開かれたものということです。おそらくこれと、「歴史性」と「責任性」を巡る『死の贈与』の議論は、パラレルですよね。「歴史性というものが一つの神秘でありつづける」ということを全肯定してしまえば、我々は何も真なるものや正しいものを認知しえない事を全肯定してしまえば、「無責任性」に陥ってしまう。しかし「その歴史性は認知されねばなら」ない。ここで歴史を「全体化」しても「細部に見失」っても、結局は歴史性が抹消されてしまう。我々は認知し責任性を遂行せねばならないが、同時に「歴史は決定可能な対象でもなければ支配されることが全面的に可能なものでもない」。そこから、歴史は、一方で「知や確実性を越え、絶対的な危機の中への賭けである他者との交わりを通した宗教的信仰」という神秘的側面をもちながら、「知や与えられた規範の外側でなされ、それゆえ不決定なものの試練そのものを通してなされる絶対的な決断の経験における責任性」をも兼ね備えていなければならないということになる。


 ところで以上のことから先取りしつつ指摘しておきたいのは、デリダにとって正義が実体的なものでも人間的なものでもなかったのと同じく、「神秘」や「秘密」もまたそうしたものではないのではないかということです。デリダが注目しているのは、差延が実体に先立ち実体を産出する運動であったのと同じく、「三つの神秘(狂騒的・プラトン的・キリスト教的)」の間の「二つの転換」という運動のようです。まあ、先立つ神秘をヘーゲル的にすっきり止揚してしまうのではなく、抑圧しつつ基づくというある種の葛藤状態を保持しつつ、あるいは痕跡として先立つ神秘を保持しつつ、(より責任性へと結びつく)新たな神秘を提示している。デリダが結局のところキリスト教的な神秘で終わるのかどうかはわかりません(多分さらに何らかの形でこの神秘の差延が行われるのでしょう)が、とにかく、「秘密とは、あるいは歴史性自体として認知されるべきものとは、ここでは、これら二つの転換と三つの神秘との関係である」と言っているところからしても、この差延的運動を「秘密」としているように思われます。そうすると、デリダがなぜ「秘密」を、「断絶」とか「回転、紆余曲折、変形、振り返り、曲がり」とか「喪のプロセス」とか「死の形象」とかを孕んだものと考えていたかがわかるように思うのですが・・・ちょっとわかりやすいところで強引にまとめすぎたかもしれません。イストランさんの方でお気づきのことがあればまた教えてください。





ところで、

> おっしゃっていることが今少し分からないのですが、私の訳はその「この語の二重の意味において」という部分をまともに理解することは諦めているのです。


 私が簡単にまとめすぎているかもしれませんが、s'emporterの二重の意味ということで私が考えたのは、要するに一方で語源的にも正当化されているようなem(ここから)+porter(運ぶ)=emporter(運び去る)という意味があるわけです。そして他方で、この動詞が通常はもっていない意味ですが、emを「ここから」ではなく「〜の中へ」の意味にとってemporterを運び込むみたいな意味にとっているのではないか、ということです。というのも、英語でもあるように、in、imやen、emにはそういう意味がありますね。フランス語で言えば、demenagerがde(離脱)+menage(家)で「(旧居から出て)引っ越す」ことを意味し、emmenagerがem+menageで、「(新居に)引っ越す」ことを意味するというふうな具合です。英語のembody(「中に」のemと「体」のbody)なんてまさにその典型ですね。
 キリスト教の「恐るべき神秘」は、先立つ神秘を抑圧しつつ取り入れるわけですから、二重の意味でs'emporterとはこのような意味かなと思ったわけです。


 今日、図書館で借りようとして、別の調べ物中に貸し出し時間をすぎてしまいました。また来週にでも。ちなみに私も、神秘主義とは言わないまでも、宗教的なものには関心があります。言語と神性について論文を書いたほどですので。(^^)

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トピック= 1953 宛先= 1973 同宛先= 返信= 1978
 
Subject RE:納得しました(笑)
Author イストラン [ 1973 to JOACHIM ]  4/8/Sun/2001   

> やはり!するとリクールを出しているのもデリダなんですね。「恐るべき神秘 mysterium tremundumはある異質な秘密から己を取り入れ、かつ同時に、それと袂を分かつ」という辺りからして、ハイデガーの性起と脱性起の運動を思い出させますよね。立ち現れつつ立ち退くというあの二重の運動。

リクールについては何も云ってなかったような。1956は私のメモです。ツリー画面でご覧になっていない方にはほんどにご迷惑をおかけしました。
 生起と脱生起の運動というのは思い至りませんでしたね。なんというのか、代補?の理屈を想起しました。しかしハイデッガーとデリダという考えてみると、一番考えるべきところをすっぽかしてますので、私は、よくわからないと同時にいちいち新鮮な思いでJOACHIMさんのお話を伺っております。
 JOACHIMさんにいろいろ教えて貰う所存です。今回訳した場面は、精神分析の話がありまして、ああそうかそういう風になっているのかという風でしたね、そういう一般知識がないのです。

> で、「恐るべき神秘 mysterium tremundumはある異質な秘密から己を取り入れ、かつ同時に、それと袂を分かつ」という部分を読んでいてふと気付いたのですが、デリダはs'emporterのemに、「〜の中に」の意味を見出しているんじゃないでしょうか。つまり「恐るべき神秘」が、己を中へと運び、かつ、己を外に運び去るという二重の状態であることを示すために、s'emporterという動詞を使ったのだということではないかと思うのですが。これは、過去の神秘を基盤としつつ(取り込み)同時に抑圧する(排除)という後の文脈とも繋がりますね。

 おっしゃっていることが今少し分からないのですが、私の訳はその「この語の二重の意味において」という部分をまともに理解することは諦めているのです。ですから、そういう考察が必要だと思います。


> 私も明日、フランス語版を図書館で借りて来ようかしら。

 ぜひに。どこかでコピーしてきてください。フランス語原文を見ないとしょうもないような言葉のはしばしがあって、そこら辺は適当です。


>ちなみに、講談社から出てる高橋哲哉の解説書は、donner la mortの話が途中でdonner le tempsのエコノミーの話の中に回収されて、前者の著作の内容がいまいちはっきりわからないですね。使えません(笑)。

 それは、思い入れが違うのかもですね、神秘主義に対する。私の場合、この本はカスタネダやグルジェフ系にとってはとても根幹的な、極めてどうしようもなく基本的な問題に触れているという感じがありまして。さっさと読みたいのですが、訳がないので、ほんとにまあリビドーの赴くままです。

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トピック= 1953 宛先= 1969 同宛先= 返信= 1974
 
Subject RE:プラトン主義が体内化し、キリスト教が抑圧するもの
Author イストラン [ 1972 to イストラン ]  4/8/Sun/2001   

メモ

incorporate は最初の方では「合体」としましたが、体内化で一般化することはやめます。
 それにしても、今のところまだ鮮明ではない。
 焦点となっているのが公式的には「秘密」ということらしいのですが、体内化し、抑圧したものは「狂騒」ですよね。狂騒 orgia がなぜ秘密と関連づけられているのか。神秘からはせいぜい「酩酊」とか「トランス」という風には接続できても、「秘密」に行くかなぁ。
 まあ、以前Visionquest掲示板の方に来ていた人は、「私たちだけが知っている神秘」というふうに、秘密的な態度になっていましたし、そうなりやすいことは世間の風潮としてあるとはいえ...
 このあとは死の贈与について話が少し詳しくなります。ちょうど入りかかる箇所まで訳しました。

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トピック= 1953 宛先= 1971 同宛先= 返信= 1976
 
Subject プラトン主義が体内化し、キリスト教が抑圧するもの
Author イストラン [ 1971 to イストラン ]  4/8/Sun/2001   

以下は『死の贈与』 Donner la mort の訳(ただし The Gift of Death,1992 から)
***********************************************************************

 オイゲン・フィンク Eugen Fink の権威を借りれば、Patocka がここで記述しているのは地底というまさにプラトン的洞穴学の空間であり、その地底の上に狂騒的神秘 orgiastic mystery が構成されるのである。洞窟は地母になり、 Patocka の言うように「狂騒的なものを責任性に」(podridit orgiasums zodpovednositi,114)「従属させる」ため、人はそこから己を最終的には引きずり出さねばならない。しかしプラトンのアナバシス anabasisは狂騒的神秘から非神秘への移行を与えるものではない。それは一つの神秘の別の神秘による従属化であり、一つの秘密から別の秘密への転換/改宗 conversion である。というのも善 Goodへの永遠のまなざしへ向かうプラトン的転換を Patocka は「魂の新しい神秘」と呼ぶからである。今度はその神秘がもっと内的なものになっている。それは「魂の内的対話」という形態を取る(同上)。それはへの魂の関係によって責任性へと最初に目覚めることに対応しはするものの、この意識−に−至ること coming-to-conscience は、それでも神秘的な要素を保持しているのであって、いまだ神秘の形態を取り、そしてこのときは認知されず、明言されず、否定されるのである。
 このことがその例示となる法則を人はすでに認めることができる。プラトンのアナバシスに従う者たちのように、秘密につけ込む capitalize on 責任性の歴史を貫いて、最初の転換はそれが妨げるように見える何かをその内に保持している。この保守的な断絶の論理は、諦めるものを保存する犠牲の経済に似ている。それは交替 sublation[releve]とか、止揚 Aufhebung の経済を想起させる。そして同時にそう見えるほど矛盾的ではなく、否定され、乗り越えられ、埋められたものを保っているという抑圧の論理を想起させるのである。抑圧は破壊しない。システムの内で、ある場所から別の場所へと何かを移すものである。それはトポロジカルな操作でもある。実際、 Patocka はあるタイプの精神分析用語に訴えている。彼が分析する二重の転換(つまり狂騒的神秘からプラトン主義的、新プラトン主義的神秘へ転回し、そして後者をキリスト教的な恐るべき神秘へ転換させること)において、初めの神秘は続くものによって「従属させられる」(podrazeno)が、決して排除されるのではない。この位階的従属化をもっとよく記述するために、 Patocka は「合体 incorporation」とか「抑圧」と言うのである。それが狂騒的神秘を己の内に従属させ、服従させ subjects 、躾けつつ、保持するプラトン主義の場合には、合体(privteleni)と言われ、そしてプラトン的神秘を保持するキリスト教の場合には抑圧(potlaceni)と言われる。
 従って、全てのことはまるで転換が喪のプロセスに極まるかのように起こるのである。人がその死を堪え忍ばなければならないものを自身の内に保つという意味での、喪失に直面する喪のプロセスである。そして秘密の新しい経験と神秘の分け前としての責任性の新しい構造が登場するまさにそのときに、人が内に保つものとは、埋められた記憶であり、あるいはより古い秘密の地下室 crypt である。
  Patocka のフランス語訳で遭遇する、この合体とか抑圧という言葉をどの程度まで我々は文字通りに受け取ることができるのだろうか。精神分析的言説の中で、とくに喪の理論の中でそれらが持っている概念的輪郭を、彼はそれらの言葉に与えようとしたのだろうか。たとえそうではないとしても、これらの言葉の精神分析的な読解をテストに、少なくとも経験 experimental basis にかけてみることはできよう。あるいは精神分析的読解でなくとも、「合体」とか「抑圧」という語に対応する精神分析的概念を説明する解釈学は可能であろう。というのもとくに我々の分析は秘密というモチーフに集中するからである。そうしたモチーフは合体という概念に感染 immune しないままであることはできない(とくに喪の作業に関して、絶対の秘密へと必然的に連合する死の形象に関しては)。そしてまた抑圧という概念へも感染するわけであるが、それは秘密というもののあらゆる効果の特権的プロセスとしてである。この二つの場合に Patocka が分析するような責任性への歴史的転換は、ある運動をよく記述するわけで、その運動によって二番目の神秘の出来事が最初のものを破壊しないということになる。反対に、位置的な移動と位階的な従属化を結果として持った後、それは無意識に最初のものを内に保っている。一つの秘密は同時に別の秘密によって囲いこまれ、飼い慣らされる。こうしてプラトン的神秘は狂騒的神秘を体内化し incorporates、キリスト教的神秘はプラトン的神秘を抑圧する
 要するにそれが、あたかも告白されるようにして「認知される」必要のあるだろう歴史なのである! Patocka が神秘 mystery について語るところで秘密 secrecy について語ることを避けるためには、秘密とは、あるいは歴史性自体として認知され分析されるべきものとは、ここでは、これら二つの転換とこれら三つの神秘(狂騒的、プラトン的、キリスト教的)との関係である、と言いたくなる誘惑に人は駆られる。認知されるべき歴史とは体内化と抑圧の秘密であり、それは一つの転換ともう一つの転換との間に起こる。それは転換の時に関わり、そこで賭けられているものこそ、すなわち死の贈与なのである。

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トピック= 1953 宛先= 1953 同宛先= 1954 1955 1959 1977 1988 1995 2004 2020 2023 2024 2059 2071 2085 2088 返信= 1972
 
Subject 納得しました(笑)
Author JOACHIM [ 1969 to イストラン ]  4/7/Sat/2001   

 やっと主旨がわかりました。デリダを少しは読んでいるつもりなのに、えらく恥をかいてしまった感じです。タイトルの意味をそのまま受け取って、Patockaを論じているのはデリダだと考えるべきだったのですね。いやはや。てっきりイストランさんが持論を展開しておられるのかと思って驚きました。


> デリダはPatockaという人の言説をハイデッガーと比較しているようですよ。そここで似ていると。

 やはり!するとリクールを出しているのもデリダなんですね。「恐るべき神秘 mysterium tremundumはある異質な秘密から己を取り入れ、かつ同時に、それと袂を分かつ」という辺りからして、ハイデガーの性起と脱性起の運動を思い出させますよね。立ち現れつつ立ち退くというあの二重の運動。

> History can be neither decidable object nor a totality capable of being mastered, precisely because it is tied to responsibility, to faith, to the gift. To responsibility in the experience of absolute decisions made outside of knowledge or given norms, made therefore though the very ordeal of the undecidable; to religious faith through a form of involvement wiht the other that is a venture into absolute risk, beyond knowledge and certainty; to the gift and to the gift of death that puts me into relation with the transcendence of the other, with God as selfless goodness, and that gives me what it gives me through a new experience of death.
>
> to the gift and to the gift of death を敢えて分割し、関係節を短くしてみたんですが、あるいはしつこく「贈与と死の贈与へと結びつけられている」とした方がよかったかもです。
>

 いえ、よくよく訳を読むと、丁寧に訳してあったので原文と見比べてやっと意味がわかりました。お騒がせしてすみません!要するに途中からit is tiedを省略して和訳してあったわけですね。itは歴史ですよね。最後のwhat it gives meのitは死の贈与でいいんでしょうか。多分、歴史は、フッサールのやったようにリニアなものではなくて、痕跡や証言として常に既に死や不在に媒介されつつ我々の元にやってくる、ということが関わっているようですが・・・この辺を十分に論じるだけの準備と読み込みはまだ私にはできていません。


> むむむ。gets carried away ということで、運び去られている、という感じでしょうか。s'emporte をこういう風に受動態にしているのです。
> 抑圧しながらそれを基盤にしている、キリスト教的本来的神秘はプラトン主義的神秘を基盤/背景 fondにしながら、それを抑圧する、という印象です。抑圧するという面では、おっしゃるような能動的ニュアンスが出てくると思います。
> しかしどうも s'emporter が出てくる必然性がわかりませんが。


 うーん、s'emporterは逆上するというようなパトス的なニュアンスはここにはあまり入っていませんでした。これも私の読み間違いですね。イストランさんの仰る通り、「運び去られる」という風に訳せば、英訳にも原文にも忠実になると思います。で、どうして二重の意味なのか、ということですが、初め、語源的に考えると何が二重なのかわかりませんでした。語源的にはenは「この場所から」でporterが「運ぶ」です。
 で、「恐るべき神秘 mysterium tremundumはある異質な秘密から己を取り入れ、かつ同時に、それと袂を分かつ」という部分を読んでいてふと気付いたのですが、デリダはs'emporterのemに、「〜の中に」の意味を見出しているんじゃないでしょうか。つまり「恐るべき神秘」が、己を中へと運び、かつ、己を外に運び去るという二重の状態であることを示すために、s'emporterという動詞を使ったのだということではないかと思うのですが。これは、過去の神秘を基盤としつつ(取り込み)同時に抑圧する(排除)という後の文脈とも繋がりますね。

 私も明日、フランス語版を図書館で借りて来ようかしら。ちなみに、講談社から出てる高橋哲哉の解説書は、donner la mortの話が途中でdonner le tempsのエコノミーの話の中に回収されて、前者の著作の内容がいまいちはっきりわからないですね。使えません(笑)。

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トピック= 1953 宛先= 1966 同宛先= 返信= 1973
 
Subject あいや
Author イストラン [ 1966 to JOACHIM ]  4/7/Sat/2001   

>Patockaは読んだことがないのですが、このエッセイはデリダのDonner la mortの影響下に書かれているということですよね?(ちがったら訂正してください)
>
>
> 非常に丁寧なレジュメで、エッセイの内容がなんとなくわかった気もするのですが、

 ちょっと私の方が誤解してしまいましたか。「このエッセイ」というのが何を指しているのかわからないのですが、ともあれこれは Patockaのエッセイでも私のエッセイでもなく(1956は私のメモですが)、デリダの『死の贈与 Donner la mort』の訳です。

 ところが英訳を訳していまして、その中にフランス語が[]に入れてあります。そこで、いろいろと複雑怪奇になっていますが。

>Patockaの語る「死の贈与」もやはりイサク奉献というエピソードに即した意味で使われているのでしょうか。あるいはーーー恐らくこちらの方だと思うのですがーーーハイデガーやデリダがよく言うような、すでに我々が死んでいるとか、不在に晒されているという事実に即しているのでyそうか。

 う〜む。これ読んだのが1年前でおまけに論が進むにつれて訳がわからなくなってしまいましたし、Patockaという人が何を考えていたのか整理がついていませんが。デリダはPatockaという人の言説をハイデッガーと比較しているようですよ。そここで似ていると。でそのあとどうなるんだか、どうもはっきりしないので、えいやっと第二章ぐらいまで訳してしまおうかな、と。第三章以降はキルケゴールがメインになってます。
 私の方の興味は罪性というのと責任性とがどっかでつながってしまうという理屈なんですが、第二章まで読めばその辺りがはっきりすると思います。


>「自己性のない善性としての神、他者の超越性との関係に私を置くところの 贈与に結びつけられ、死の新しい経験を通してそれが与えるものを私に与える死の贈与に結びつけられている。」
>
>
>という部分がまったくわからなかったのです。よかったらここのところ(ここだけでわかりにくければ、前後も含めて)原文をつけてもらえませんか。原文は英語なのでしょうか。ときどきフランス語が混じっていますね。興味深い。

History can be neither decidable object nor a totality capable of being mastered, precisely because it is tied to responsibility, to faith, to the gift. To responsibility in the experience of absolute decisions made outside of knowledge or given norms, made therefore though the very ordeal of the undecidable; to religious faith through a form of involvement wiht the other that is a venture into absolute risk, beyond knowledge and certainty; to the gift and to the gift of death that puts me into relation with the transcendence of the other, with God as selfless goodness, and that gives me what it gives me through a new experience of death.

to the gift and to the gift of death を敢えて分割し、関係節を短くしてみたんですが、あるいはしつこく「贈与と死の贈与へと結びつけられている」とした方がよかったかもです。


> ここで「二重の意味において」と言われているのはs'emporteの用法のことですよね?ちゃんと読んだわけではないので、とんでもなくまちがったことを言ってしまったら申し訳ないのですが、emporterは「連れ去る」という意味ですが、s'emporterはむしろ「逆上する」という意味になるように思います。つまり「引きずられる」というよりは、「自らを引きずる」という能動性を表しているようにも思うのですがどうでしょうか。実際、「恐るべき神秘」は、「他の神秘に抗して生じる」ところからして、何か能動的な感じがしますが。。。

 ここも原文を引用しておきます。

 The mysterium tremendum gets carried away[s'emporte],in the double sense of the term: it rises against another mystery but it rises on the back[sur le fond] of a past mystery. In the end[au fond] it represses, repressing what remains its foundation[son fond].

 むむむ。gets carried away ということで、運び去られている、という感じでしょうか。s'emporte をこういう風に受動態にしているのです。
 抑圧しながらそれを基盤にしている、キリスト教的本来的神秘はプラトン主義的神秘を基盤/背景 fondにしながら、それを抑圧する、という印象です。抑圧するという面では、おっしゃるような能動的ニュアンスが出てくると思います。
 しかしどうも s'emporter が出てくる必然性がわかりませんが。

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トピック= 1953 宛先= 1963 同宛先= 1965 返信= 1969
 
Subject 『死の贈与』の紹介
Author イストラン [ 1965 to JOACHIM ]  4/7/Fri/2001   

JOACHIMさん、こんばんは。

>Patockaは読んだことがないのですが、このエッセイはデリダのDonner la mortの影響下に書かれているということですよね?

 とんでもありません。これはデリダの Donner la mort の英訳の訳です。このスレッドのトップレベルにあるものは全部訳です。

 しかし私の不注意でとてもわかりにくくなっていますんで、今後は訳にはその旨を記すことにしますね。

 ちなみに、以下にその英訳の裏表紙の言葉を訳したものをのっけておきます。


***************************

 『死の贈与』はこれまでのところ、宗教に関するデリダの最もねばり強い考察である。『与えられた時 Given Time』で導入された問い、贈与の可能性と不可能性、贈与の経済的人間学的本性に関する問いを展開しつつ、責任性の概念と、生と死の究極の贈与に彼は向かう。
 
 デリダの主たる関心は、西洋の宗教と哲学における道徳的倫理的責任性の意味とともにある。犠牲であれ、殺害であれ、自死であれ、死を受け取り認容することの中で人が辿り着く合理性や責任の限界を彼は問うている。デリダは Patocka の『哲学の歴史に関する異教的エッセイ』*を分析し、彼の考えを発展させ、ハイデッガー、レヴィナス、キルケゴールと比較している。

 * 訳注:この題名は本文では『歴史の哲学に関する異教的エッセイ』になっている。

 『死の贈与』という重要な著作はデリダの以前の著作と共鳴し、道徳と宗教を学ぶ者と同じく、文化人類学、哲学、文芸批評を学ぶ者にとっても関心を持たれるであろう。


 「『死の贈与』は哲学的倫理学というプロジェクトの基礎づけに関する、待ち望まれたデリダのデコンストラクションである。そしてそれは彼の多くの著作にあって最も意義深いものの一つである。」−−−Choice

 「倫理学の批判的研究への重要な寄与である。哲学者、社会科学者、宗教学者に薦められる。...そしてまたデリダに対してあまりにしばしば申し立てられる論争によって好奇心を持った人たちにも。」−−−Booklist

 「デリダは、この濃密だが得るところの多い探求で、死を真っ正面から見つめている。」−−−Publishers weekly

 Jacques Derrida は社会科学高等研究学院の directeur d'etudes である。シカゴ大学出版局は彼の著作を11冊出版しているが、最近のものでは、『与えられた時 Given Time』や『盲者の記憶』がある。
 David Wills はルイジアナ州立大学のフランス語の教授であり、フランス・イタリア学科に講座を持っている。

****************************************

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トピック= 1953 宛先= 1963 同宛先= 1966 返信=
 
Subject プラトンからプラトン主義へ、そしてキリスト教へ/責任性と神秘の保存や中断
Author JOACHIM [ 1963 to イストラン ]  4/6/Fri/2001   

お久しぶりです。


Patockaは読んだことがないのですが、このエッセイはデリダのDonner la mortの影響下に書かれているということですよね?(ちがったら訂正してください)


 非常に丁寧なレジュメで、エッセイの内容がなんとなくわかった気もするのですが、やはりイストランさんと同じく、「死の贈与はその知と支配の彼方へどう関係するのか」が私もよくわかりませんでした。実はデリダのこのキルケゴール論は未読なのですが、Patockaの語る「死の贈与」もやはりイサク奉献というエピソードに即した意味で使われているのでしょうか。あるいはーーー恐らくこちらの方だと思うのですがーーーハイデガーやデリダがよく言うような、すでに我々が死んでいるとか、不在に晒されているという事実に即しているのでyそうか。

あとそれから実は、

「自己性のない善性としての神、他者の超越性との関係に私を置くところの 贈与に結びつけられ、死の新しい経験を通してそれが与えるものを私に与える死の贈与に結びつけられている。」


という部分がまったくわからなかったのです。よかったらここのところ(ここだけでわかりにくければ、前後も含めて)原文をつけてもらえませんか。原文は英語なのでしょうか。ときどきフランス語が混じっていますね。興味深い。



あとフランス語について言えば、


>恐るべき神秘は語の二重の意味において引きづられる[s'emporte]。それは他の神秘に抗して生じ、だが過去の神秘を背景にして [sur le fond]生じる。その底 fond でそれは抑圧するのだが、その基底 fond であり続けるものを抑圧するのである。



 ここで「二重の意味において」と言われているのはs'emporteの用法のことですよね?ちゃんと読んだわけではないので、とんでもなくまちがったことを言ってしまったら申し訳ないのですが、emporterは「連れ去る」という意味ですが、s'emporterはむしろ「逆上する」という意味になるように思います。つまり「引きずられる」というよりは、「自らを引きずる」という能動性を表しているようにも思うのですがどうでしょうか。実際、「恐るべき神秘」は、「他の神秘に抗して生じる」ところからして、何か能動的な感じがしますが。。。
 とは言え、二重の意味というのはよくわかりません。むずかしいです。ひょっとしてs'emporte sur le fond ...と繋がるのでしょうか。

なんかPatckaのエッセイが難解すぎて、細かい質問ばかりになってしまいました。

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トピック= 1953 宛先= 1959 同宛先= 返信= 1965 1966
 
Subject プラトンからプラトン主義へ、そしてキリスト教へ/責任性と神秘の保存や中断
Author イストラン [ 1959 to イストラン ]  4/6/Fri/2001   

 ここでの逆説は秘密というものの二つの異質なタイプの上で戯れている。一方で歴史性の秘密がある。これは歴史的な人間が認知するのは困難であるが、認知しなければならない。なぜなら、それはまさに彼の責任性に関わるからである。他方で熱狂的神秘 orgiastic mystery の秘密があるが、それは責任性の歴史が手を切るべきものである。
 さらなる複雑化が加わって、この経験の広がりと深みを規定しつくす overdetermine。認知されなければならないのは歴史であると Patocka が表明するとき、なぜ秘密ということが語られるのだろうか。この責任を持つことになる becoming-responsible ということは、つまり人間が歴史的になるということは、もう一つの秘密に関するキリスト教徒に固有の出来事に密接に結びついているように見える。この秘密はもっと厳密に言えば、神秘、恐るべき神秘 mysterium tremendumであり、犠牲の贈り物の経験におけるキリスト教徒の恐怖、恐れ、おののきである。何者か person になる瞬間にこのおののきは人を捉え、そして神のまなざしによって、その単独性において、麻痺される[transie]ことにおいてのみ、この何者かはそうであるところのものになることができる。そのときそれは己自身を他者のまなざしによって見られているのを見るのである。この他者は「至高のもの、絶対的で不可触の存在であり、外側からではなく内なる力によって我々をその手の内につかむのである。(116)
 外側から内側へというこの移行は、到達可能なものから到達不可能なものへの移行でもあり、プラトニズムからキリスト教への推移を確かめるものである。プラトン的タイプの責任性と倫理政治的自己から始まり、変容が起こる。この変容の結果としてキリスト教的自己が生じるが、そうした自己は考えぬかれるべきもので在り続ける。というのもこれは実際 Patocka の異教的エッセイの一つなのであるから。このエッセイは、キリスト教がその自己の到来を記録するが、おそらくいまだにこの自己を考え抜いたことはないということを論の進行において注意するのを忘れない。キリスト教はそうした自己にそれに相応しい主題を与えたことがまだない。「この何者か person が何であるかを知ることに関しては、そうした問いはキリスト教の観点の内に適当な主題的展開を受け取っていない。」(116)
 恐るべき神秘 mysterium tremundumはある異質な秘密から己を取り入れ、かつ同時に、それと袂を分かつ。この断絶は合体 incorporation(一つの秘密が他のものを従属させ、沈黙させる)によるものであれ、あるいは抑圧 repressionによるものであれ、従属化の形態を取る。恐るべき神秘は語の二重の意味において引きづられる[s'emporte]。それは他の神秘に抗して生じ、だが過去の神秘を背景にして [sur le fond]生じる。その底 fond でそれは抑圧するのだが、その基底 fond であり続けるものを抑圧するのである。キリスト教という出来事が咎める神秘は同時にプラトン主義の形態である。あるいは新プラトン主義の形態である。それは魔術的な伝統を保持している。そして同時にプラトンが哲学をそこから解放しようとした熱狂的神秘の秘密も咎める。従って責任性の歴史は極度に複雑なものとなる。責任ある自己の歴史は秘密というものの継承と遺産 patrimonyの上に築かれる。断絶と抑圧の連鎖する反応を通して築かれる。その断絶と抑圧が自ら中断させる伝統そのものを確たるものにするというわけである。プラトンは熱狂的神秘と決別し、責任性の概念に第一の経験を据え付ける。しかしプラトン主義と新プラトン主義において、責任性に何がしか対応する政治的な次元と同様に、何かデモーニックな神秘と魔術的なもの thaumaturgy が残り続けるのである。それからキリスト教的責任性の恐るべき神秘が登場する。秘密の歴史として責任性の発生における二番目の震撼 tremor である。しかしやがて見ることになるだろうが、これは贈与の形象としての死の形象における震撼であり、実際のところ死の贈与[de la mort donnee]としての形象である。
 この歴史は決して閉じることがない。その名に値するいかなる歴史も飽和し閉じる[se suturer]ことはできない。人類が、とくにキリスト教徒が主題化するのに困難な、そしてそれと認知することすら困難な秘密の歴史は、多くの反転[renversements]あるいはむしろ転換[conversion]によって中断される。 Patocka はこの「転換」という語を、しばしばなされるように、アナバシスの上昇運動を言うために使っている。これはプラトンが洞窟の中の人間の視線の運動として言い表したものである。洞窟から外へ、ないし可知的太陽へ向かって人の視線が回るのである(善 Goodと言っても、いまだ善性 goodness ではなく、贈与の観念からは疎遠なものである)。「転換 conversion」という語は通常は「振り返り turning back」(obraceni,114)あるいは「回転中 about turn」(obrat,115-17)として翻訳されている。秘密の歴史、責任性と贈与の結合された歴史はこれら回転[tours]、紆余曲折[tournures]、変形、振り返り、曲がり[vorages]、転換/改心/改宗 conversionsの螺旋形態を持っている。人はそれを諸革命の歴史と比べることができる。あるいは革命 revolution としての歴史とすら比べることができる。

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Subject 責任性と自由[編集:4/4]
Author イストラン [ 1956 to イストラン ]  4/4/Wed/2001   

 一方で責任性にはどうしても物事の起点としての自己意識がつきまとう。それなくしては、責任を持つということによる行為の帰責が可能にならない。が他方、それなら行為というものは完全に無条件の絶対的な始まりなのかという疑問につきまとわれる。もしそうならば、恣意的自由とどう違うのか。

 これはカントの純理の真っ直中でも起こったことである。彼はすべての判断に絶対的能動性の自己意識を付き添わせているが、同時にこの自己意識はある規範を、つまりカテゴリーを逃れることができない。たとえカテゴリー的規範性を免れても、今度は自己触発という受動能動性につきまとわれる。

*************************

 「本質的に歴史的であるという仕方を除いて責任性の遂行は存在しないと考える人はいるが、決定や責任性の古典的概念は、責任のある決定の本質、心臓、固有の契機から、すべての歴史的条件を排除するように見える」

 いる。リクールは行為の能動性がいかにして受動性とからまりあうのか、というのを第一には責任性の自己帰責に、第二には動機生成に結びつけ、かつ歴史的意識を能動性と受動性のからまりとみなしている。がこうした見方はたぶんにハイデッガーに影響を受けたもののように見える。被投性と投企、この二つはリクールにとっては追い越しえない概念である。

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 1 知や与えられた規範の外側でなされ、それゆえ不決定なものの試練そのものを通してなされる絶対的な決断の経験における 責任性 に結びつけられている。

 2 知や確実性を越え、絶対的な危機の中への賭け venture である他者との関わりを通した宗教的 信仰 に結びつけられている。

 3 自己性のない善性としての神、他者の超越性との関係に私を置くところの 贈与に結びつけられ、死の新しい経験を通してそれが与えるものを私に与える死の贈与に結びつけられている。

 すべてにおいて知の彼方というのが登場するが、このうちわかりやすいのは信仰ぐらいのものではないか。
 1の決断性というのが知の彼方というのは若干わかる気はする。すべてにおいて確実であり支配しているならば決断する必要などないから。
 しかし3の死の贈与はその知と支配の彼方へどう関係するのか、よくわからない。

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トピック= 1953 宛先= 1955 同宛先= 返信=
 
Subject 責任性と信仰と死の贈与をつなげる特別な歴史性を提起するPatocka[編集:4/4]
Author イストラン [ 1955 to イストラン ]  4/4/Wed/2001   

 この系譜学はまたセクシュアリティの歴史でもあるのだから、それはヨーロッパの歴史であるキリスト教の精髄の跡をたどる。というのは、Patocka のエッセイの中心で、以下の問題がはっきりと明確にされているからである。「語の現代的な意味におけるヨーロッパの<誕生>」をどう解釈するか(118)。十字軍の前後からの「ヨーロッパの広がり」をどう考えるか(119)。さらに根元的には、ヨーロッパ的であるために「現代文明」を苦しめているものは何か。それが苦しんでいるのは特定の過ちとか特定の盲目状態ではない。むしろ、その歴史に関する無知、その責任性を想定しない過ち、つまり責任性の歴史としてのその歴史の記憶である。
 この誤解は、学者や哲学者の側の偶然の失敗を暴き出すものではない。実際それは無知や知識の欠如の罪ではない。ヨーロッパ人たちは己の歴史を責任性の歴史として読まなかったことを知らない[faute de savoir]というような、そういう理由ではないのだ。ヨーロッパの歴史家たちの歴史に関する誤解は、第一に歴史を責任性へ結びつけるものに関する誤解なのだが、これは彼らの歴史的知識が、素朴にも歴史を全体化し、中性化するか、とどのつまり同じ結果に至るのだが、細部の中に見失うかしながら、これらの問い、地盤、深淵といったものをふさぎ、閉じこめ、飽和させてしまう度合いによって、説明される。というのも、この歴史の中心にあって、深淵のようなものが存在する[il y a de l'abime]からである。それは全体化する総計に逆らう深淵である。キリスト教的な神秘から熱狂的神秘を区別すること、この深淵はまた責任性の起源を告知しているのである。それがこのエッセイ全体の向かう結論である。

 

現代文明はたんにその欠陥、近視眼に苦しんでいるのではない。歴史の問題全体を解決することへの失敗に苦しんでいるのである。しかし歴史の問題は解決され得ない。それは問題であり続ける。現在の危機は細部に亘る過剰な知識が、生起する問いと地盤への見方を忘却する方向へ我々を導いていることである。それはまた文明の斜陽に関する問いがまずく提起されているということでもあろう。文明というのはそれ自体によって存在するものではない。問いはむしろ歴史的な人間がそれでも歴史を認知することができるかどうかを知ることである(priznavat se ke dejinam)。(127)



 この最後の文章は、歴史性というのが一つの秘密であり続けるということを示唆している。歴史的な人間は歴史性を認め admit toようとはしないのだ。まずもって、己の歴史性を損なう深淵を認めようとはしないのだ。
 そうした認知への抵抗に対しては二つの理由が与えられる。
 一方で、責任性の歴史は宗教の歴史に結びつけられる。しかし、責任性の歴史を認めることにはいつでも危険がある。責任性、自由、決定の分析を土台にしながら、責任があり、自由であり、決定することができるということは、何か獲得され、条件づけられ、条件的なものではない、ということがしばしば考えられた。たとえ否定しようもなく、自由や責任性の歴史が存在するとしても、そうした歴史性は外在的 extrinsicであると思われているのである。それはまさに自身の歴史的条件から人を引き離すことにおいて成立する経験の本質に触れることはないはずである、と。もしも責任性というのものが動機づけられ、条件づけられ、歴史によって可能になるのであるとすれば、責任性とは何であろうか。本質的に歴史的であるという仕方を除いて責任性の遂行は存在しないと考える人はいるが、決定や責任性の古典的概念は、責任のある決定の本質、心臓、固有の契機から、すべての歴史的条件を排除するように見える(たとえこの条件が系譜的であろうとなかろうと、たとえそれらの因果性が機械的であろうと弁証法的であろうと、あるいはそれらの条件が別のタイプの動機付けないしプログラミングに由来していようと、たとえば精神分析的歴史に関係するような)。従って、そうした歴史性を認知することは難しい。そして責任性の倫理学全体がしばしば倫理学として、宗教的啓示から己を区別することを主張するほど、宗教の歴史にそれを密接に結びつけることはなおさら難しくなる。
 他方、その歴史性は認知されねばならず、しかもその裏には認知することが困難だという含みがあるというのが Patocka の言うことだとすれば、それは彼にとっては歴史性というものが決して解決されない一個の問題として開かれたままであり続けなくてはならないからである。「歴史の問題は...一つの問題であり続けなくてはならない」。この問題が解決されるときには、同じ全体化する囲い込みが歴史の終わりを決定することになるだろう。それは非歴史性の判決を自身に下すことになるのだ。歴史は決定可能な対象でもなければ支配されることが全面的に可能なものでもないが、それは責任性信仰faith贈与 gift に結びつけられているからである。すなわち、知や与えられた規範の外側でなされ、それゆえ不決定なものの試練そのものを通してなされる絶対的な決断の経験における 責任性 に結びつけられている。知や確実性を越え、絶対的な危機の中への賭け venture である他者との関わりを通した宗教的 信仰 に結びつけられている。自己性のない善性としての神、他者の超越性との関係に私を置くところの 贈与に結びつけられ、死の新しい経験を通してそれが与えるものを私に与える死の贈与に結びつけられている。責任性と信仰はともに進むのだ。たとえどれほど逆説的に見えることがあろうと、同一の運動において、支配 mastery と知 knowledge をそれらは超出しなければならない。死の贈与は責任性と信仰のこの婚姻である。歴史はそうした過剰な始まり[ouverture]に寄りかかっているのである。

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Subject 熱狂から責任性への移行が宗教である
Author イストラン [ 1954 to イストラン ]  4/2/Mon/2001   

 1 ヨーロッパ的責任性の秘密

 その『歴史哲学についての異教的エッセイ』の中で、Jan Patocka は秘密というものを、もっと的確に言うと聖なるもの the sacred の神秘を責任性 responsibility に結びつけている。彼は一方を他方に対立させる、あるいはむしろこの二つの異質性を強調する。何かしらレヴィナスの流儀で、彼は聖なるものの経験に対して、それを融解への熱狂、ないし熱情として警告する。とくにその効果として、そしてしばしばその最初の意図として、責任性の排除を持ち、責任性の意味あるいは意識の喪失を持つ、そうしたデモーニックな歓喜の形態に注意を促しながら。それと同時に、Patocka は聖化のデモーニックな形態から宗教を区別したがっている。宗教とは何か?宗教は自由な自己の責任性への接続を前提にする。だからそれはこのタイプの神秘と決別することを含んでいる(というのはもちろんそれが唯一の形態ではないからである)。それは聖なる神秘に連合し、Patocka がいつもデモーニックと呼ぶものである。デモーニックなもの(それは動物と人間と神的なものの間の境界を混乱させ、神秘、参入 the initiatory、秘教、秘密、聖なるものとの親近性を保持する)と責任性との間に、一つの区別がなされるべきである。従って、これは宗教的なものの起源と本質に関するテーゼに至るものである。
 宗教というものが存在するとすれば、いかなる条件のもとで、語の固有な意味において人は宗教について語ることができるのか。いかなる条件のもとで、宗教の歴史について、そしてまずもって第一にキリスト教的宗教について語ることができるのか。Patocka がただ彼自身の宗教にだけ言及しているとはいえ、彼が比較分析を発展させることを無視し、また失敗しているとして非難し、罪をきせるつもりはまったくない。反対に、キリスト教的神秘という出来事を絶対の単独性として説明する思考の道の一貫性を強化するために、それは必要なことであるように見える。キリスト教的神秘 Christian mystery はすぐれて一個の宗教なのであり、主体と責任性とヨーロッパが結合する歴史にとっては還元不能の条件なのである。たとえそここで「諸宗教の歴史」と複数形で登場するように見えても、そしてこの複数形からもっぱらユダヤ、イスラム、キリスト教のみが、聖書の宗教として知られるもののみが推測されようとも、そうなのである。
 Patocka によれば、人が宗教について語ることができるのは、ただにデモーニックな神秘と狂乱する聖なるものが乗り越えられるときだけである[英訳注:depasse, というのはまた「追い越され」や「流行遅れの」を意味する]。我々はこの語にその本質的な多義性を取っておくべきである。語の的確な意味において、聖なる、狂乱的な、デモーニックな神秘が打ち壊されないまでも、少なくとも統合され、ついには責任性の圏域にまで従属させられたときに、宗教は存在するのである。責任性の主体は、狂乱的な、あるいはデモーニックな神秘を自己のもとに従属させることになんとか成功した主体である。そしてそのことが成し遂げられるのは、見られることなくして見る全体的なる無限の他者のもとに自己を自由に従属させるためである。宗教は責任性であり、そうでなければ何ものでもない。その歴史はその意味を全面的に責任性への移行 passageという観念から引き出しているのである。そうした移行が辿り、くぐり抜けるテストによって、倫理的意識はデモーニックな、隠秘的 mystagogic、熱狂的なもの、秘儀参入や秘教的なものから解放されるだろう。語の真正なる意味において、責任性の経験がデモーニックな神秘と呼ばれる神秘の形態からそれ自身を引き剥がすときに、宗教は存在するようになる。
 ダイモン daimon という概念は、人間、動物、神的なものを分け隔てる境界線を横切るのであるから、Patocka がそこに本質的には性的な欲求の次元を見て取るのも驚くには当たらない。この欲求のデモーニックな神秘はどういう観点から我々を責任性の歴史に関わらせるのだろうか、もっと厳密に言えば、責任性としての歴史に関わらせるのだろうか。
 「デモーニックなものは責任性へと関連づけられねばならない。始まりにおいては、そうした関係は存在しなかった」(110)。換言すれば、デモーニックなものは原初的には無責任性 irresponsibility と定義される。あるいはこう言ってよければ、非責任性 nonresponsibitiy である。それは応答するという指令が反響しない空間に属している。その空間では自己を、自己の行為を、自己の思想を説明する[repondre de soi]声が聞こえない。他者に応答し、他者の前で自己自身のために答える声が聞こえない。Patocka が提起する責任性の発生は宗教の歴史や宗教性を単純に記述はしない。それは「私自身 myself」と言う主体の系譜、自由 liberty のインスタンスとして自身へ主体が関係すること、責任性、他者を前にする存在としての自身への関係に結合されている。そこでは他者は無限の他性 alterityとの関係における他者であり、この他性は見られることなしに見る regards のだが、その無限の善性は、<死の贈与>[donner la mort]へと極まる一つの体験を手渡すのである。しばしこの表現をその多義性のうちに留めておこう。

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Subject 『死の贈与』(デリダ)
Author イストラン [ 1953 new post ]  4/2/Mon/2001   

 夜中シンシンとなる状態でこの本を読んでいると、さらにシンシンとなってくるのですが、まだ訳される気配はないのでしょうか?

googleで検索すると、つぎのようなものがありました。

http://www.meijigakuin.ac.jp/~econ/student/kamoku/422802.htm

 そうか「なめとこ山の熊」って死の贈与の話であったか。

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