| Subject |
表象(再現前)や代表象がどうして非性と結びつくのか |
| Author |
イストラン
[ 1666 to イストラン ] 11/29/Wed/2000 |
フッサールの論理学研究において最初に立てられた記号の<表現>と<指標>という区別をどういう観点から問題にするのか、ということで、デリダはまず無仮定のものと自称するフッサールの分析がそれにも関わらず独断的である、と主張する。
この独断なるものは素朴さという意味での独断ではないとデリダは言う。それが「現象学の内奥を形作っている」というのであるから、現象学にとってはそれなしには始まらないような独断であるとするのである。
その独断が切り込んでくるところは「意味の現前」である。しかもデリダによれば認識論的細心さというフッサールの動向自体も形而上学的独断である。
この意味の現前は生ける現在の現前性と言い換えられている。イデア的なものは現実的ではないが、その非現実性、非世界性において、「現前の同一性において無限に反復されることができる」。<無限的に>と<イデア的に>の合一を<生ける現在の現前性>が可能にする。
そして<時間化>と<相互主観性>という現象学の記述が現象学自体を悩ませていると結論する。
さて、そうデリダが言うのだが、ここで立ち止まって、一体どうして悩ませているのかと当然読者は思うだろう。デリダが次に言うのは−−ここで私は唐突さを感じてしまうのであるが、
「記述のこの二つの決定的な契機をともに結びつけるものの最も深いところで、或る還元できない非−現前に一種の構成的価値が認められるし、それとともにまた、或る非−生が、すなわち生ける現在の非−現前ないし<自己への−非−所属>、根こそぎでない非−原初性がみられるのである。」と言っている。
デリダはフッサールの現前を非現前といっしょに提示して、このカップルに現象学を悩ますものがあるのだと言いたいようである。
しかし続く話はさらに唐突である。
「要するに、私が言っているのはつぎの二つの問題である。
1 その同一性が反復されうるような時間的一対象の現前の構成において、どうしても過去把持から再−現前へと移らざるをえないこと。
2 他我との関連、イデア的対象性一般を同様に可能ならしめるものとの関連において、どうしても代−表象を経なければならないこと、というのも相互主観性は客観性の条件であり、そして客観性はイデア的対象の場合にしか絶対的でないからである。」
この二つ、再−現前(representation)と代−表象(appresentation)とは現前の変容ではあるが、あとから付け加わるものではなく、現前を条件づけるものである。
ということは、先に出てきた非−現前の非性と、上の<再現前、代表象>というものが何らか繋がりがあるというふうにデリダの方ではなっているのであろう。