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TOPIC Radical Hermeneutics 3 現存在の回復と循環的存在:『存在と時間』の解釈学
 
Subject 反復/回復
Author イストラン [ 1557 to イストラン ]  9/19/Mon/2000   

『存在と時間』の議論にとっては中心的なものであるが、終わりの三章に挿入されているような「歴史性」の分析は体系的には付け足しのように見える。それでもそれなしでは我々は現存在の存在をひどく誤解することになるだろう。もしも実存論的時間的分析が(実存論的時間性の観点からの)現存在の何らか個体的な解釈を好んで取り上げる傾向にあるとするならば、この強調は第五章の決意の歴史性に関する主張で釣り合いが取れるからである。そのことが今度は反復についてのキルケゴール的概念とハイデッガー的概念の重要な差異を明らかにするだろう。キルケゴールは実存論的決意の歴史的状況性を見てはいたが、ヘーゲル主義者たちとの生前の闘争によって歴史性と伝統の概念を練り上げることができなかったのである。これに対してハイデッガーは現存在の歴史性と歴史的反復理論を構築するまでになったのである。
 決意する現存在はもっぱら自身の諸可能性の上でプロジェクトする。それでも、とハイデッガーは考えるのだが、このことは決意性についてはあまりに形式的な規定にとどまる。確かに存在論は「現存在が特定の場合に 事実的に 決意するもの」を決定する試みなどには何の関わりも持たない。「しかしそのことでもって、「 一般に どこから現存在はそれが事実的に己自身をプロジェクトする諸可能性を引き出すのか、という問いを免れることにはならない。」(SZ 382/-83/BT 434)。ここに至るまで、『存在と時間』は現存在の決意について、現存在が実際決意するものについて語るべき、アクチュアルな内容を何も持たなかった。死へのプロジェクションによって、現存在の決意はそれ自身となるだろうし、存在の全体性の光のもとで成されるだろう。けれども、このプロジェクションは、いかにして現存在は他のものではなくむしろこの行為の成り行きの上に決意するのかという問いを遠ざける。
 この要求に面と向かうために、ハイデッガーは事実性(被投性、在っ−た having-been)の概念に向かう。それというのも、すでに見たように、可能性に向かって前方へとプロジェクトすることにおいて、現存在はその事実的な自己に引き戻され、それがいつでもすでに投げられていたところの状況へと引き戻されるからである。しかし 時間性という観点から反復される ことを意味する被投性はもっと深く捉えられ、現存在の「伝承 heritage」 (Erbe) ということになり、だからハイデッガーは今や決意する現存在に「手渡され」ていたものについて語ることになる。現存在の事実的状況は冷厳な事実性ではなく諸可能性の星座である。それは現存在に「引き渡され」あるいは手渡されてきた。そこで「贈与」に意味が出てくる。これは 向こうに−与える trans-dare 伝承 traditio における 「与えること dare」 に含まれている。しかし空から降ってくるような贈り物ではとうていない。反対にそれは現存在の決意性に依っているのである。

現存在が本来的に決意すればするほど、その選択は曖昧でなくなり、その実存の可能性を発見することになり、偶然にそうすることが少なくなる。ただに死の先駆によってのみ、あらゆる偶然的な「暫定的な」可能性は排除されるのである。(SZ 384/BT 435)

ある者の伝承にはぐくまれた諸可能性は決意する現存在によって 開示され 、開けられなくてはならない。さもなければ現存在は、単にそれにとって全く偶然のものと見える状況によって放り出されるだけである。死の可能性は人の終わりで確証されることを意味するのだが、そこで事実性は手あたり次第のチャンスから、可能性で熟した伝承 heritage へと変様する、そういう条件である。かくて、人の可能性は伝承され、選択される。このことは、ハイデッガーが「自身に手渡すこと」 (ein Sichueberliefern) という能動的表現を使った理由である。そこで、ある限度まで、幸運不運は決意性によって作られるが、この決意性をもって、人は自身を見いだす状況と格闘するのである。
 現存在の伝承 heritage は個体的であるか集団的であるかである。現存在に送られる可能性は個体的現存在に送られるのか、あるいはそれが部分となるもっと大きい歴史的集団に送られるかである。個体の伝承はハイデッガーが「運命 fate」 (Schicksal) と呼ぶものである。この語の翻訳によって誤解してはならない。そうではなくて、 Schiksal に「送ること」 (schicken) を聞き取らなくてはならない。ハイデッガーは「運命」を伴った個体が彼のコントロールを越えた状況の犠牲者であるとは考えない。なぜなら決意する本来的な個体だけが運命を持ち、だから彼の道を 送って きた諸可能性を捉えることができるからである。しかし現存在は決して単に個体であるのではない。世界−内−存在はいつでも、ともなる−存在 Being-with であり、歴史化はいつでも共歴史化である。そしてこの集団的伝承をハイデッガーは「宿命 destiny」(Geschik、 schicken の別の派生語)と呼ぶ。これはそれ自体後期ハイデッガーの存在の宿命 (Seinsgeschik) の反省で主たる役割を演じる語である。『存在と時間』においては、「宿命 destiny」は集団的現存在、共同体や人々に送られる伝承を意味する。それを捕まえることは共同体の決意に依っている(SZ 384/BT 436)。
 運命 fate と宿命 destiny 、個体(己自身の語り)の伝承と、共同体(時の歴史)の伝承が一緒になって、「現存在の完全なる本来的歴史化 (Geschehen)」を成し遂げる(SZ 385/BT 436)。そしてこの注意でもって、ハイデッガーは現存在の本来的な歴史性 (eigentliche Geschichtlishkeit) の概念を定式化するべく準備したのである。思うに、そこで『存在と時間』の公刊されたテキスト全ての議論が頂点に達する。

その存在において本質的に未来的であり、だからその死から自由であり、死に向かって粉々になりながら、その事実的な「そこ」へと投げ戻されることを自分にさせることのできる、そういう実体のみが、つまりは、未来的なものとして等根源的に在っ−た having-been というプロセスにある実体のみが、自身に伝承した可能性を手渡しつつ、その固有の被投性を引き受け、「そのとき」を見る瞬間にあることができる。ただに本来的な時間性のみが、それは同時に限られているのであるが、運命といったようなものを、すなわち、本来的歴史性を可能にする。(SZ 385/BT 437)

この確たる表現によって、ハイデッガーは時間性の3部構造の歴史的次元を完成させ(これはそれ自体慮の3部構成の母胎である)、それに歴史的な肉と具体化を与えつつ、孤立した「実存論的個体」の問題ではなくする。本来的な現存在は本来的な歴史化でなくてはならない。それが意味するのは、選択の瞬間、真理の瞬間、ヴィジョンの瞬間がとりわけ歴史的な瞬間であり、そこで現存在は己が継承し、己だけが決意する歴史的可能性を捕まえ、見るべき目を持つ、ということである。現存在の時間化 (Zeitigung) は歴史化である。そしてその歴史化は共歴史化 cohistoricizing であり、その「時代 generation」とともにある。本来的現存在のこの歴史的次元、本来性にとって本質的な歴史性こそ、『存在と時間』の通常の解釈がしばしば見逃してしまうものである。それらの解釈は第65節に続くすべてを付け足しにしてしまう。
 現存在の決意の 内容 はその歴史性によって、特定の歴史的状況の複雑さにおける現存在の内容あるいは状況によって統制される。これは存在論的−実存論的分析がなしえる、実存的状況に最も近づいた接近である。この時点から、具体的状況の中に普遍的なものを発見し、特定の状況によって要求されているものを知ることは、アリストテレスによって述べられた フロネーシス のようなもの、力である フロネーシス のようなものとなる。そして『存在と時間』ではこの「phronesis」は「Verstehen」と訳され、つまり了解と訳される。なされるべき こと は、(1)死を見てしまった存在者 から of 要求されるものの本来的現存在の洞察に関わり、(2)本来的現存在がその内で己を発見する歴史的瞬間を組み立てる状況の星座 constellation によって 要求されることに関わる。
 第九章では、ここにハイデッガー的倫理の組立てがあることを論じるつもりである。ハイデッガーの倫理への敵対は現代の価値理論に対する広範な敵意である。それは非歴史的な主体の行動に関する確定したルールをもって臨んでいる価値理論に対する敵意であり、またこの議論で注目しておいたフロネーシスや歴史性の星座を無視することに対する敵意である。ハイデッガーは現代的倫理に敵対しているが、しかしもっと深い歴史的倫理についてはそうではないということを論じるつもりである。
 本来的歴史化の定式に達したあと、ハイデッガーはその本来的歴史性が「反復」であることを示そうとする(Macquarrie-Robinson訳による)。

己に戻ってくる決意性、己を手渡す決意性は、従って我々に下ってくる実存の可能性の 反復 ということになる。 反復すること明示的に手渡すこと である。つまり、そこに−在っ−た現存在の諸可能性の中に戻っていくことである。(SZ 385/BT 437)

 現存在の存在の循環的な運動は現存在の未来性とその在っ−たとの間の運動である。つまり可能的なものへと 前方へ プロジェクトすることにおいて、現存在はそれに手渡されてきた諸可能性、今や現存在の継承という性質を持ちえる諸可能性へと 戻って 来る。現存在がありうるところのものは、それがそうであったものの関数である。現存在がそうであったものは、現存在が決意的である限り、現存在の諸可能性の範囲を開く。ハイデッガーが 受け取り直し Wieder-holung と呼ぶこの循環的運動は、すでに論じたように、「回復 retriaval」や「修復 recovery」という意味を持つ。それは現存在に手渡されてきた諸可能性の回復であり、現存在がそうであったところのもののうちにずっと生きながらえてきた諸可能性をアクチュアルなものにするということである。 受け取り直し は幾度も前に押しやるキルケゴール的意味(これが根源的に未来的意味を持つ)と、事実的歴史的状況に同時に回帰するという歴史的意味の双方を一つの表現の中に結び合わせている。
 従って、反復は前もってアクチュアライズされてきたものを再びアクチュアルなものにするということではない。であるから英語で普通に反復によって意味されるもの、たとえば「反復によって学ぶ」のように以前の行動の単なる再生ではない。ハイデッガーの用語では、反復 (受け取り直し) とは (再び持ち帰る Wiederbringen) ことではない。

 けれども、すでに在ったところの可能性を受け取り直して己に伝えることは、現存在を再び現実化するために、そこに在る現存在を開示するということではない。可能性の受け取り直しとは、「過ぎ去ったもの」を再び連れ戻すことでもなければ、「現在」を「追い越されたもの」に再び結ぶことでもない。受け取り直しは決意した自己のプロジェクションから生じるのであって、「過ぎ去ったもの」に説得されて、それを以前の現実的なものとして回帰させることを目指して生じるのではない。(SZ 385-86/BT 437-38)

現存在自身が可能性の存在 (Seinskoennen) である限り、反復はいつでも可能的なものに焦点が合っている。現存在は現存在であり、本来的にそれ自身であり、可能的なものを先駆し、そこにプロジェクティブに先駆ける限りそうである。すでにアクチュアライズされたものを生産する単なる再生は厳密には根源から離れる運動であり、非本来的なものの 堕落 de-generation である。二番煎じのもの、頽落したものである。反復はいつでも原初的な操作である。それによって現存在は何か新しいものを生みながら伝統に潜在する諸可能性を開示する。反復/回復はかくてデリダが強調したがる生産的な意味を持つことになる。反復/回復において現存在は反復であるものについて生産的である。それはたんに古い地盤に赴くということではない。自己は反復によって自己を生産する。反復において現存在は自身の存在を開示し、それが属している歴史的状況の存在を、その時代【世代、発生】 generation の存在を、初めて、開示する。反復は最初のものであり、突破口であり、回復である。それは前方へ押しやる。それは前もって閉じられたものを開き、以前に抑制されたものを自由にする。反復は可能的なものを目がける新しい始まりである。
 過去の消え去るこだまからはほど遠く、ハイデッガーにとって反復とは一つの「 回答 Erwiderung 」、応答、返答、それまではたんに潜在的になって待機しているものへの回答である。

むしろ受け取り直しはそこにすでに在った実存の可能性への応答である。決意における可能性の応答は、しかし 瞬間的なものとして 今日「過去」として作用しているものの 撤回 Widerruf でもある。(SZ 386/Bt 438)

反復はすでに在ったところのものにおいて、それに呼びかけているものを答える。可能的であるものに「答える」。現存在が今まで曖昧に探し求めてきたもののために、何かを示す回答を反復が作る。その回答 (Erwiderung) は過去の慣性的な重みの取り消し (Wideruf) である。重々しく生命を失った伝統の重みに抗して語り、抗議し、それを撤回する生きた応答である。可能的なものに作用を及ぼすことは、過去へのしがみつきが「保守的」であるのに対して「革命的」である(GA 45 37)。そこで反復には脱構築的な運動が、反対運動 (Gengenzug) 、反論 (Widerruf) の継起がある。それは唯一の権威は先立つアクチュアリティだということを拒否するものである。反復は アクチュアル なものではなく、 可能的 なものを狙う。可能性は現実性 actuality よりも高いのである。
 現存在の存在の未来への方向性はその在ったところのものに関する興味を説明する。未来とは空虚ではない。純粋に論理的な可能性である。しかし限定された回復の可能性は在ったところのものによって我々に手渡される。そしてこのことは実践的歴史家にも妥当する。そうでなければその作業は耽溺した根を失った客観主義(§76)である。フーコーは現前の歴史を書こうとした。ハイデッガーは歴史家の本来の作業は未来の歴史を書くことであると考えていた。
 そういうわけで、キルケゴール的反復とハイデッガー的回復との間の差異を、彼らが述べる キネシス という質的観点から見分けることは可能であり、キルケゴールに文句を言うこととは関係なくそうすることが可能なのである。なぜならば、キルケゴール的反復は 前方へ 反復することであるからである。それは決定の地点から出発し、決意の未来的方向に前方へと動き、選択した道に忠実であろうことを誓い、かく自己を手に入れ構成することになる。しかしハイデッガーにおいては、前方への運動が同時に人の継承された諸可能性へと戻る運動である限り、運動はもっと適切には 循環的 であると言える。キルケゴールは 直線的な モデルにとどまるが、その方向を反転する。というのは優勢なる形而上学的概念は、反復を後方への運動と取っているからである。それは永遠を回想の対象として後ろに置く。ところがキリスト的実存は前方へと、永遠を前に置き、かく困難な仕事にとどまることへの報いとする。ハイデッガーが直線的な運動を拒否するというのは、実存の根源的に時間的な解釈への関心が彼を伝統の観念に導くからである。ディルタイやヨークについてのハイデッガーの関心は時間性のもっと完全な歴史的概念化へ彼を引っ張った。キルケゴールは確かに、決意的選択と反復によって個体的なものが彼を自己として構成し、存在への可能性をアクチュアライズすると考えていた。しかし彼はこの根源的なものを個体的な時間性の観点から思惟し、ヘーゲル主義の子孫としての歴史の概念に抵抗したのである。

 我々はこうして反復の、 キネシス の三人の哲学者たちと出会い、流れに対するエレア派的非難に取り組む三つのやり方に出会い、生の原初的な困難を復活させる三つのやり方に出会った。どの場合でも反復は同一性を確立し、流れに対処し、それを否定するのではない方法として機能している。これらの努力は『存在と時間』に極まり、その現存在の循環的存在の説明と了解の解釈学的循環に極まる。今や向かうべき問いは、果たしてこの解釈学的循環が、最終的にはエレア派やパルメニデス的 アレーテイア の包括的な循環と共犯関係に陥るのではないだろうか、ということである。そこで存在は自己−現前の最終の身振りのうちにある存在にしがみつくのである。

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Subject 時間性と現存在の本来的存在[編集:9/15]
Author イストラン [ 1552 to イストラン ]  9/15/Fri/2000   

その前提となる骨組み(「解釈学的状況」)を押し広げ、深めてのち、ハイデッガーは現存在の本来的な存在を時間性の観点から特性づけることを準備し(§65)、「実存論的分析」を頂点にまで持っていくことを準備する。この分析論は、今度は現存在の完全な時間的歴史的存在が明白になる「反復」へと従属する。実存論的分析論は反復の存在論自体の中で生じるだろう。現存在の存在の暫定的な分析を反復することは現存在を反復として開示する --- これは『存在と時間』の事柄と方法とを収斂させる定式の中に表現される。反復の存在論は§75で定義され擁護される。それは現存在の歴史性に関する章の中心である。しばしば指摘されないことだが、そこで『存在と時間』の公刊されたテキストは頂点に達するのである。議論は直接的には現存在の「時間性」の洗練に依っているが、この洗練の序論となっているのは自己の「不変性 constancy」に関する重要な議論である(§64)。
 ハイデッガーはキルケゴールに依っている。私はその依拠についてこの探求で主張してきた。思うに、『存在と時間』のどこよりもここでそれが決定的となるのである。それはキルケゴールの「不安」の分析を使用しているよく知られた部分を含んでいる。現存在の循環的存在に関するハイデッガー存在論の中心に、反復が進み行く。第一章で論じたように、これはキルケゴールの著作の単なる「存在的」かつ宗教的な本性というハイデッガーの批判に、或る空洞を確証するものである。ハイデッガーはキルケゴールへの依拠を控えめに述べただけではない。彼はそれを間違って述べたのである。キルケゴールの反復理論を借用しながら --- 謝辞もなしに --- 彼は『存在と時間』の公刊テキストの中で、その最も中心的な存在論的契機 juncture においてキルケゴールを持ち出してくる。そして彼がキルケゴールに言及するときには、いつでも存在的−実存的著者として文句を言うことになる。それでも我々が選んだこの三つの中心的な節 --- §64(自己の不変性)、§65(時間性)、§74(反復) --- は直接キルケゴールの著作から引き出したものである。自己の不変性の扱いは『死に至る病』の「罪の継続」の議論に由来する。時間性の分析は『あれか/これか』の第二巻の実存的時間性の分析に依拠している。そして反復の最も重要な議論は、すでに論じてきたように、キルケゴールその人に直接基づいているのである。
 『存在と時間』にキルケゴールが寄与していることが、ここで擁護される存在論の中心部分を直撃することは明らかである。ハイデッガーはキルケゴールとは異なる。しかしそれはハイデッガーが好んでいうように、存在的思索者から存在論的思索者が異なるということではなく、原理的にはキルケゴールの存在論をハイデッガーがもっと体系的にプロフェッショナルに定式化し分節したということなのである。キルケゴールは余白に生きるアカデミズムの背教者、悩み苦しむ「例外者」、反体制者たるものにとどまった。対してハイデッガーはまさにドイツのプロフェッサーであり、それについてはキルケゴールなら何も言うことがないタイプである。一つの著作として『存在と時間』の複雑さは文体的に『非学問的あとがき』よりもヘーゲルの『精神現象学』に近い。『存在と時間』は難解で型にはまっていないが、しかしキルケゴールの視点からすれば、「直接的な」やり方で書かれている。その解釈学的循環の複雑さはそれでもキルケゴールなら直接的コミュニケーションと呼ぶだろうところのものである。それはキルケゴールの偽名による間接的なコミュニケーションの逆説を分有してはいない。ハイデッガーが擁護する「キルケゴール的な」存在論はいくつかの偽名 pseudonyms から借用されたものである。従って、キルケゴール自身がこの存在論に関して実際にはどこに立っていたのか我々は確認できない。もしハイデッガーの散文が複雑であるために我々は理解しているのかどうか定かでないというなら、キルケゴールのイロニーには、彼を信じていいのかどうか決してわからないものがある。キルケゴールならば、『存在と時間』はヨハンネス クリマクスを言葉通りに受け取った間が抜けたものだと言明することは大いにありうる。
 そしてこのことは単に歴史的な釈義上の問題ではない。キルケゴールの反復の哲学は形而上学に対する重要な決定的な切り込みを考えているからである。反復は形而上学がその上で倒壊する関心なのである。他方、フッサールの現象学は、その原初的な始まりと意味においては、形而上学の最も深い傾向の部分であり、実際、ある種の頂点なのである(『デカルト的省察』§63)。マールブルグ時代のハイデッガーにつきまとう困難がある。それは彼がフッサールの普遍的現象学的学の夢という呪文に部分的にとどまっているということ(BP,§1-3)、そして存在論の歴史の全面的破壊の要求をいまだ完全には評価していなかったということである。ハイデッガーがそうするのはただ最初から存在論を信じていなかったキルケゴールに追いつくことによってのみであった。後年デリダはハイデッガーを批判するわけだが、彼はハイデッガーの現象学的な面を批判したのであって、この面はフッサール的直感ではなくキルケゴール的直感に忠実であらんとハイデッガーを強いたものである。【この部分は「キルケゴール的直感ではなくフッサール的直感に忠実であらんとハイデッガーを強いたその現象学的側面をデリダは批判した」ということの印刷間違いではないだろうか】
 ハイデッガーはまずは現存在の「不変性 constancy」 (Staendigkeit) を問うことから時間性の分析を始める。いかなる意味で現存在は統一体 unity なのか、つまりいかにして現存在は流れのただ中にあって己を集め gather itself together 、日常性の喧噪の中でその同一性を保持するのか、それをハイデッガーは知りたいと思っている。というのも彼は現存在は統一体で「はない」ということを最大限に議論してきたのであり、現存在はそれ自身ではないこと、むしろ「彼ら」の非不変性の中に散り散りになって、頽落の引力によって消散していると言ってきたからである。そして、彼は実体とか純粋超越論的主体という伝統的な形而上学的概念を拒絶した。なぜなら双方とも現存在を何か手元に現前しているものとして扱うからである。彼にとって統一された自己は実体でも主体でもない。しかし平均的日常性の非本来的な自己でもない。
 実存する現存在に形容され得る唯一の不変性は「先駆的な決意性 anticipatory resoluteness」であり、非本来性の動揺に対抗する(倫理宗教的な統一体としての「自己」のキルケゴール的決定、反復の自由の産物)。現存在は主体 (Sujekt) でもなければ客体 (Vorhandensein, sustantia) でもない。それは行為の道程に自らを関わらせ、そこにとどまる。現存在はプロジェクションの統一の内に自らを統一し、そこでそれがいつでもそうであったところのものに自己を結びつける。いかにして現存在がこのように「自己を結びつける」ことができるのかを説明するために、ハイデッガーは今度は第65節で提示される時間性の理論を要求する。そこで時間性が「現存在の存在の意味」であることが示される。
 現存在の暫定的な分析(第一編)にもとづいて、我々は現存在の存在を慮 care として規定した。第65節では慮の意味が時間性であることが規定される。これは存在者の 存在 とその存在意味 とのハイデッガー的解釈学における重要な区別を指摘するものである。この区別は、思うに、プロジェクションの第一次的な相と第二次的な相の暗黙の区別に依っている。存在者はまずその「存在」に関して予めプロジェクトされ、それから存在の「意味」について規定的にプロジェクトされる。ハイデッガーはこう書いている。

意味」とは何を意味するのか?我々の探求では、了解と解釈の分析に関連してこの現象に遭遇することになった。その分析によれば、意味とは、何かの了解可能性 [Verstehbarkeit] がそれ自身を保つところである --- この何かが明示的主題的に視野に入ってこなくても、そうである。

意味は了解の対象ではない。了解によって了解される こと ではない。そうではなくて、より厳密には了解されていることがら の中で 組織する構成部分 organizing component である。了解され得ることがらがそれに依っているところのものであり、それの周りで了解され得ることがらが組織され、「維持され」る (sich halten) ものである。かくて我々には了解可能性と、了解可能性の組織する中心との区別が見えてくる。「<意味>は第一次的なプロジェクションの<何を−意図して upon-which> (Woraufhin) を意味する。その観点から何事かがそれであるものとしてその可能性において考えられ得る。」(SZ 324/BT 371)。了解可能性にあって組織する原理あるいは指示の中心はプロジェクションの「原初的なもの」の --- あるいは第一層の --- 「何を−意図して」である。そういうふうにして、何らかの存在者のプロジェクティブな了解において、我々は原初のプロジェクション --- その存在 における存在者の --- を、プロジェクションがそれについて遂行されるもの(それについて自己を維持するもの、プロジェクションを組織化し構造化するもの)から区別することになるのである。ある存在者の存在(第一のプロジェクション、原初の準備的な決定)の意味(何を−意図して、第二のもの、要素を決定するもの)を決定するときに、我々はその存在者を存在者として可能にするものを了解するだろう。「プロジェクションの<何を−意図して>をあらわにすることはプロジェクトされたものを可能にするものを開示することに極まる」(SZ 314/BT 371)。
 そこで我々は以下のように区別することができる。(1)了解されるべき、あるいはプロジェクトされるべき存在者。これはしかし裸の事実ではないし、決定されたプロジェクションから分離して現れることが決してない。(2)その存在者の存在に関する何らか原初的な限定によって、その存在者をプロジェクトすること。(3)それについてプロジェクションが遂行されるそのそれであり、たとえ暗黙の内に前主題的にであろうとも、プロジェクションを導き、組織するそれ。こういう風に 存在者 being 、その 存在 、その存在意味 を我々は区別している。さらにまた、 存在者 being 、その存在に関して存在者を プロジェクトすること projectionそれを意図して upon which プロジェクションが遂行されるその それを意図して、という風に区別している。ここで我々は二つの異なったプロジェクションを相手にしなければならないのではなく、一つの同じプロジェクションの二つの異なった相 phases を扱う必要がある。すなわち、暫定的な相と決定的なあるいは根元的な相である。
 かくて、この解釈学的企ての一撃は、存在の意味へのこの洞察は、ハイデッガー自身『根本問題』(GA 24 399-400/BP 282)で指摘するように、すでに存在を越えている。解釈学は存在を越えたところに向かっている。それはすでに存在論の破壊に関わっている。現前としての存在の形而上学を乗り越えるものである。それは現前としての存在を規定し、限定しようと試みる。それ自体存在を越えたものが、存在をして過ぎ去らしめ pass、デリダのように語るならば、その「効果 effect」として存在を「創出する」というふうに考えようとするのである。従って、この存在を越えたものそれ自体は、存在からいつも守られているような、形而上学的のプロジェクトの捕虜ではない。存在を考えるということは、最初のプロジェクティブな切断の中にとどまるということである。しかし存在の意味を考えるということは、それほど根元的であるので、形而上学とその存在を背後に置き去りにするものの解釈学的な規定をするということである。解釈学的状況が完全に根元化されたならば、我々は存在を越えて、「それを維持している」ものの中に、効果としての存在を創出するものへと運ばれる。『原因論 Liber de causis』を書いた中世の著者の言うように、「存在はまずは被造物である」(「esse primum creaturum」)。
 後期ハイデッガーが「開け open」「 差−異 Unter-Shied 」とりわけ「生起 Ereignis」など様々な言い換えによって「存在」という言葉に棒線を引いたのは意義深いことである。「存在の問い」「存在の忘却」存在と存在者の「存在論的差異」などの誤解させる表現にも拘わらず、ハイデッガーは決して存在/存在者の単純な区別に関わったわけではない。思惟にとって真正なる 事柄存在 ではなくいつも存在の意味、あるいは真理である。あるいは存在を与える「それ」である。いつでも存在を越えて三番目のものがある。それが究極的にハイデッガーの関心を保つ。『存在と時間』ではそれは存在者/存在の意味構造であり、後期著作においては、存在者/存在存在の真理、存在者/存在性存在、そして究極的には存在者/存在生起、さらになお根元的には現前するもの/現前/現前を与えるもの、 など様々である。従って、ここ『存在と時間』においてすでに、我々が「根元的解釈学」を呼ぶものを成すものがあるのである。第六章のデリダのハイデッガーへの関係に関する議論で、私はこの重要な点について立ち戻ることにしよう。
 さて、『存在と時間』の原初的な決定、最初のプロジェクティブな見やり、その存在への最初の切り込みは慮の定義(§41)で生じた。ハイデッガーがここで着手した仕事は慮(実存)の「意味」を決定することである。それは慮を慮であらしめ、はぐくむ原理である「何の−意図で upon-which」を求めることに達する。そしてもちろんそれが「時間性」ということになり、これは現存在の存在の準備的なプロジェクションをずっと導いてきたのだが、そこでやっと展開される (ausgelegt) に至る。
 今や慮の三重の構造の時間的「意味」(SZ 192/BT 237)がその上に書かれることになる。(1)プロジェクトされたものとして、現存在はそれ自体「の方へ来る」 (zu-kommt) 。それ自身の最深の諸可能性にやって来る。従って未来的 (zukunftig) である。(2)世界の中に投げられた事実的な存在として、現存在はその過去を携えている。終わってしまったという意味での過去ではなくて、現存在がずっとそうで あった(gewesen) という意味での過去である。未来性と在ったということ having-been は対立したものと考えられてはならず、互いの中へと相互に到達すること reaching-over と考えられている。だから存在の本来的な可能性に中で現存在がそれ自身 の方へ やって来るとき、それはそれ自身へ 戻って back やって来る。そしてずっとそうであったものを 回復する のである(SZ 325/BT 373)。 前方へと forth 延びながら、 後方へ back 来る。これが現存在の循環的な存在の中心であり、ハイデッガーの反復理論の礎石である。(3)最終的には、他の−諸実体−と並んで−ある者として、現存在は本来的に戻ってくるか、さもなければそれに失敗する。すなわち、「現在のとき」は、ヴィジョンの瞬間 --- それはハイデッガーの言うように、現存在が「現在であらしめる」ものにおいて現存在が決定的に行為する状況 --- であるか、さもなければ現存在が現在に浸りきり、己を見いだす状況によって自身に指令されることを許してしまうような頽落の瞬間であるか、である。前者の場合には現存在の「現 there」 (Da) は開けており自由である。後者の場合には、閉じられていて、己を取り巻く「現在」的なものによって閉じこめられている。現存在は自身に忠実であることに失敗する --- つまり、「実存」としてのその存在あるいは「先駆的決意性」に忠実であることに失敗する。そしてその周りの「客観的に現在」 (Vorhanden) であるものの犠牲となる。現存在は未来的に己に戻ってくる(プロジェクティブにその諸可能性を回復する)か、それともその時間にふけるかである。かくて、実存論的時間性の構造は、慮としての現存在の存在のプロジェクションの「何の−意図で」ということになるのである。これは慮の内でずっと作動していたものであり、慮が、従って現在がそれであることを可能にするものである。
 「実存論的分析」(§§9-65)はこれで結論になる。しかし『存在と時間』の仕事は終わりからはほど遠い。まだ「反復」の二重の作業が残っているからである(§66)。第一に、実存論的分析は「時間的分析」における反復を自身に要求する(SZ 331/BT 380)。慮と先駆的決意性自体の意味が時間性であることを規定したあと、ハイデッガーはそれがいかにしてかを示すことによってこの分析を確証しなければならない。実存論的分析で覆いを取られたあらゆる構造の時間的意味を、ハイデッガーは項目ごとに展開しなくてはならない。それは第二編第五章において、ハイデッガーを現存在の「歴史性」の規定に導く。その中で、現存在の完全な時間的意味が繰り広げられる。その時点で現存在の存在の意味の規定が完全なものとなる。
 しかし二番目のさらになお決定的な作業が残っている。それは時間的な分析を存在一般の意味の観点から反復することである。「現存在の「実存論的−時間的」分析は、それとしては、存在の原理において論じられる枠組みの中でそれ自体が反復されねばならないということを要求する」(SZ 333/BT 382)。そしてそのことは、現代哲学において最も有名な果たされなかった約束、もちろん未公刊の第三編の仕事となるべきであった。反復の作業は成し遂げられなかった。現存在の分析は反復されないままになった。

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Subject 「解釈学的状況」を再設定する[編集:9/10]
Author イストラン [ 1537 to イストラン ]  9/11/Sun/2000   

『存在と時間』のハイデッガーの解釈学の戦略は第二編で頂点に達する。全体の探索は「実存」の点から現存在のプロジェクションによって始められたのだが、第一編は日常的実存にとっておかれたのである。そこで第一編の前−構造はいつでもそれのおかげで我々が「視野 sight を持つ」ことになり、現存在の日常的世界を鮮明にするものであった。しかしそのことは終始現存在の根源的な存在に接近するための準備であった。従って、我々の解釈学的視 sight は再設定される必要がある。解釈学的状況は拡大されかつ深められる必要があるということである(§45)。我々をこれまで導いてきた諸前提は現存在をその根元的な存在 (Urspruenglichkeit, SZ 231/BT 275) において捉えるだけの広がりないし深みを持っていない。我々はこうして あまりに少なく仮定 してきたのである。
 (1)ここまで開発してきた解釈学的状況は現存在の存在全体性 を考慮に入れることに失敗した。現存在の日常的存在に己を限定することによって、分析はヤスパースの言う限界状況を、現存在がその存在の有限性に出くわす深刻な危機の状況を閉め出してきた。解釈学的な用語を使えば、我々の前−所持の中へ未だ現存在の全体を持ってきてはいない。いかにして現存在が誕生から死までの日々の生活においてあるのかということに関わってきたのだが、現存在の終わりについてはそれをまだ考慮に入れていなかったのである。
 この解釈学的失敗が死−に向かう−存在の分析で修復される。そこでハイデッガーは「先駆」 (Vorlaufen) の構造を展開してみせる。この先駆によって現存在は前方に駆け、あるいは己の終わり、死に向かってプロジェクトされる(§53)。現存在がその最大最終の可能性、もはやそれ以上でない(「もはや現存在でない」)という可能性に向けてプロジェクトされるものとして了解されるそのときにのみ、プロジェクティブな了解としての現存在の構造が全体性として捉えられるのである。現存在は一つの全体となる。それは単に現前的なものの有様で締めくくられることによってではなく、ただにプロジェクティブに、慮 care の存在として締めくくられることによってである。現存在は、まさに何か可能的なものとしてのその可能な終わりへと己を開いたままにしておくことによって一つの全体なのである。それはその可能的なものを可能性として開拓し保持すること(SZ 261/BT 306)によって一つの全体なのである。このようにして我々は現存在の日常性に関して準備的な分析を越えることになる。日常性の分析では現存在はその固有の最終的可能性から、良く言えば引き離され、悪く言えば回避した。先駆的なプロジェクションの内に、現存在は世界の中へのその散乱から、死の回避から引き戻され、存在への己の固有の可能性へと、非本来性から本来性さへと立ち返らせられる。死へと本来的にプロジェクトされ、現存在の存在は運動に正しく置かれ、運動としてのその存在へ適切に回復される。それは日々ずっとそうであったものの慰撫する「くつろいだ easy」現前が生む誤った安全性から退去させられる。
 (2)日常的現存在の分析を導いた解釈学的前提はまた根元性 radicality を欠いている。というのも、客観的現前ではなく、実存の観点から現存在が視野の内に(前−視)捉えられてはいたものの、それはまだ日常的実存であり、根元的、原初的、本来的なる実存として視野のうちに保たれていたのではなかったからである。今や人は次のように考えることができる。この失敗もまた死−に向かう−存在の導入によって修復されたのではないかと。そして実際私はそう考えている。しかし思うにハイデッガーはここで主として体系的な理由から一つの「確証」を、あるいは現象学的確認をしている。これは先駆の現象によって呼び求められる存在への本来的な可能性が実際に現存在にとって可能であるということの確証である。この確証は、ハイデッガーの言うには慮の呼び声である良心の呼び声 call の中に発見される(§57)。「呼び声 call」と「慮 care」の中間的な項目が「異様さ uncanniness」の現象である。それは落ち着きのなさであり、日常性の鎮静する安逸さから我々を引き離し、世界−内−存在の無性に我々を直面させる。呼び声は投げられた不安なる現存在から発する。それは「彼ら they」の頽落から外へと、現存在をそれ自身へと召喚するというようにして不安なる現存在から発する。そんなふうに、不安へと準備され己自身へと呼ばれるようにして現存在は呼び声を経験する。この呼び声を聞くことは「良心を持とうと望むこと」と表現される。そしてその実存論的構造は「決意 relosuteness」(§60)である。決意の中で現存在は無言の内に、己を存在の固有の可能性へとプロジェクトする。すなわち、それは自身を捉える。そしてその存在を本来性の内に暴露する。
 先駆の構造と決意の構造が同じであることを示すにはもう半歩でいい。ハイデッガーは決してそれらが違ったものだとは言い得なかった。だから「先駆的決意」(§62)の分析は驚くべきことではなく、実際ほとんど冗長である。
 さて、解釈学的舞台は設定された。全ての解釈学的準備はなされた。我々の解釈学的視野は設定し直され、解釈学的状況の欠陥は修復された。今や前−所持の内の全体性として現存在の存在が我々にはあり、現存在の存在のあり方の根元性つまり実存が前−視の中にあり、それが今度は実存性 existentialia のテーブルを前−概念の意のままにする(SZ 311/BT 358-59)。そして第63節で(『存在と時間』の解釈学的戦略に関する極度に重要な議論)、実存論的分析が慮の時間性の証示において極点に達したとき、ハイデッガーは間を入れ、これまで辿った解釈学的道のりを反省している。
 この解釈学的探求の道はずっと暴力的であった。それはこの存在の持つ自身を隠蔽する傾向に逆らって動くよう強制されてきた。頽落の引き込みに対する一撃として、解釈学的探求は退却する傾向にあるものをプロジェクトし、沈殿する傾向にある素描を前方に投げかけ、退却せられる傾向にあるものを暴力的に引きずり出してきたが、それもすべてこの存在者を、この存在者が隠す傾向にあるまさにその存在において自由にもぎ取るためだった。
 しかし時間性の分析に移る前にハイデッガーが望んだのは、解釈学的暴力が気まぐれで恣意的なものとならないようにするためにあらゆる注意がはらわれたのかどうかを知るということであった。このことは探求全体につきまとい、プロジェクティブな解釈学の全操作を損なう怖れのある中心的戦略的困難であった。「プロジェクションの方向が存在に出くわすための道標はどこにあるのだろうか?」(SZ 312/BT 359)「何が恣意的であることからプロジェクションを守るのだろうか (Belieben, SZ 313/BT 360)【となっているが、313のbelieben が登場する部分は「実存の「暴力的な」前渡しは方法的に要求されうるが、しかし自由な好み Belieben から逃れうるのだろうか?」である。】

 この解釈は実存一般についての何らかの「前提された」理念からでないとすれば、どこから手がかりを手に入れるのだろうか?非本来的な現存在の日常性についての分析の歩みは、発端に置かれた実存概念からでないとすれば、何を介して規制されていたのだろうか?そして現存在が「頽落し」、だからこの存在傾向に逆らう存在可能の本来性が現存在からもぎ取られねばならないと我々が語るとき、どういう視点から言われるのだろうか?すべてのことが、おぼろげにせよ、「前提された」実存理念の光によってすでに照らされているのはではないだろうか?(SZ 313/BT 361)

今一度ハイデッガーは答える。我々は探求されるべき存在者 である。そうしたものとして我々は自己−了解の中に立つ。それなしでは現在の探求は始まりも終わりも持たない。我々の自己−了解の他には向かうべきところはない。どれほどまずく成されてきたにせよ、現存在は「すでに 自己を了解して いる」(SZ 313/BT 360)
 自己を了解することは我々自身の先なる自己−了解から引き出される前−構造を展開することである。そして我々は実存の前−構造に導かれた道を選んだ。これが正しい選択だったのかどうかは「ただ そこを歩み通した後で のみ決定される」(SZ 437/BT487)。我々は実存の理念を「前提する」ことを選択したのである。

 しかしながら前提とは何を意味するのか?実存の理念でもって一つの命題が発端に置かれ、そこから我々が帰結の規則に従って現存在の存在についてさらなる命題を演繹する、ということなのだろか?それともこれらの前−提は了解するプロジェクションの性格を持っているのだろうか。つまり、そうした了解を形成する解釈が解釈すべきものを まさに初めて語に持ち来たらす というふうになっていて、そこでプロジェクトの中で形式的暗示的に開示された存在態勢を、果たして己がこうした存在者として成し遂げるのかどうかを自ら決定するというふうになっているのだろうか?(SZ 314-15/BT 362-63)

 そしてこのことにハイデッガーは答える。

実存論的分析論においては、証明の「循環」は決して「避ける」ことができない。というのは実存論的分析論は「帰結の論理学」の諸規則に従って証明するものでは そもそも ないからである。学的探求の最高度の厳密さを満足させるつもりで「循環」を除去しようとして避けているものこそ、まさに慮 Sorge の根本構造以外の何ものでもない。(SZ 315/BT 363)

解釈学的前−構造のネットワークはそのもとで客観的な了解が可能になるまさにその条件である。それは客観性にとっての障害ではない。この循環を「避ける」ことは了解のダイナミズムそのものを短絡することであり、了解されるべき存在者の存在論的な組立に抵抗し、理念のかけらもなしに、英語なら「手がかり」なしにと我々は言うが、かくそれを押し黙らせ、言葉なきものにしてしまうことである。循環を避けるということは了解から「進む方法」を奪い、動けなくしてしまう。だから実存する世界−内−存在としての前主題的、作動的了解も、『存在と時間』の主題的な作業も循環の道を行かなくてはならないし、さもなければまったく運動しないのである。

了解の循環についての話は二重の誤認の表現である。1.了解自体は現存在の存在の根本的様式をなしているということ。2.この存在は慮 Sorgeとして構成されているということ。循環を否認し、もみ消そうとし、それどころか克服しようとすることはこれらの誤認を決定的に固定化することに他ならない。むしろ根源的にかつ全体的にこの「円環」の中に飛び込み、現存在分析の発端においてすでに現存在の循環的な存在へ向けられた完全な眼差しを確かなものとすること、ここに努力が向かわなくてはならない(SZ 315/BT 363)

この部分には『存在と時間』の現在の分析全体が詰め込まれている。ここでハイデッガーは直ちに現存在の存在の循環的運動に直面する。それは了解の循環的運動を導き、『存在と時間』が動く道のために、そのテキスト戦略の循環的運動の規則を与える。そういうわけで、重要なことは循環から抜け出すことではなく、輪舞への加わり方を知っているある種の身軽さを手に入れ、「根源的かつ全体的に」("urspruenglich und ganz", SZ 315/BT 363)そこに入り込み、事柄自体をそれに適合する観点からプロジェクトすることである。
 ところで、これまで言われてきた全てのことについて、我々はハイデッガーに譲歩できないのではないか?そして我々が現存在をそれにふさわしい存在の中でプロジェクトしたのかどうかを知る方法を、彼は未だ与えていないと言うのではないだろうか?そこですべてに譲歩するとしよう。つまり了解はプロジェクトされる、プロジェクトするとは、そのもとで了解が生じる前−構造を展開することである、従って循環を否定する問題などはない、ただそこに根源的に入り込むかどうかだ、こういうこと全てに同意するとしよう。しかしそれでも何らか 特定の プロジェクティブな了解の適切さを否定することはできないだろうか?たとえば、『存在と時間』でのような先駆的決意性の観点から人間をプロジェクトすることの適合性について、我々は否定できないだろうか? このプロジェクション を、この現存在の特殊な分節ないし了解を確固たるものにするのは何だろうか?
 ハイデッガー自身にとっては、解釈学的循環の方法論を受け入れることはすでにして、それがその上に基礎づけられる「現存在の循環的存在」("das zirkelhafte Sein des Daseins)の存在論に関わるということである。解釈学的循環は同時に探求の方法であり、現存在の存在なのである。ハイデッガー自身が関わっているかぎり、人はこの二つを分けることができない。『存在と時間』は解釈学的プロジェクションによって前進する。なぜなら現存在の存在がプロジェクションであり、慮 care であり、実存 existence であり、時間性 temporality であるからである。
 しかしこの議論はこの点まで押し進めることができるのみである。現存在の存在がプロジェクションならば、了解はプロジェクティブに進まねばならないというのはその通りである。その場合、循環を否定したいと思うことは現存在の存在についての誤解によるというのも確かであろう。しかし逆は真ではない。解釈学的なプロジェクティブな方法を採用したからといって、『存在と時間』の存在論に関わることになるというわけではない。この 方法 を純粋に発見的な装置として使用することも完全に考えられる。たとえば、観念論的存在論に結合して配置されうる。つまり人は循環を否定はしないが、単にハイデッガーによって循環が結びつけられた実存論的存在論を否定したい気持ちになるのである。
 循環は否定しないが、それが『存在と時間』に根源的全体的に入り込むことを否定したい者に対してどういう回答がありうるだろうか?この問いに答えるには、上記引用したテキスト部分に戻らねばならない。そこでハイデッガーは解釈学的前提について語っている。解釈学的前提によって「...解釈されるべきもの (das Auszulegende) が初めて語にそれ自身を押し出す。かくてそれはそれである実体として、その自発性により["es von sich aus entscheide"]、[プロジェクトされた]存在の状態をそれが持つのかどうかを決定する」(SZ 314-15/BT 362)。「それ自身によって決定する」という表現は事柄自体にそれ自身で語らせるということを意味する。「決定」されるべき事柄はプロジェクションが「適合」しているかどうかである。上に見たように、プロジェクションは修正可能である。あるいは「準備的/暫定的 provisional」である。従って、決定はプロジェクションの適切さに関してなされるべきである。内部−世界的諸実体の場合には、それらに自らを決定させることは、それらがプロジェクションによって開示されるか歪曲されるかどうかを決めることを意味する。そして我々が自ら解釈される存在者である現存在自体の場合には、プロジェクティブな説明が判明であるか不分明であるかを 我々自ら 決定しなくてはならない。我々の意のままになる唯一の可能性とは、我々がいつでもすでにその中で動きまわっている存在の前了解を調べることである。
 ハイデッガーは循環の中に「根源的かつ全体的に」入ったのだろうか?彼は現存在をその本来性と全体性において開示したのだろうか?(SZ 313/BT 361)。『存在と時間』に自身を最後まで演じさせ、それが選択した道を辿らせる以外に答えはない。これが行くべき道でるのかどうかは「ただに 人がそれを辿り通した後に にのみ決定される(SZ 437/Bt 487)。かくて我々がこの問題を押し進めればそれだけますます我々には次のことが明らかとなる。『存在と時間』においては、仕上げられた説明の中に、そしてそこで語られる人間的実存の「語り story」の中に我々が自身を再認する能力にすべてが行き着くということである。すべては我々が所有する前了解に依っている。プロジェクションの正当性は、この説明が与えられ、プロジェクションが前了解に立ち戻り、そこに結合するときにのみ確保される。この結合こそは解釈学的現象学にあって唯一可能なコントロールである。プロジェクションが気まぐれな暴力ではなくて、もぎ取り、解きほぐし、自由にする暴力であるということを我々は確かめることができるのだが、それは前方に投げるプロジェクションが同時に前了解への後方への運動であることにこだわることによってのみである。要するに、プロジェクションは回復的でなければならない。現存在の存在は我々がすでにして存在について持っている前了解の回復であらねばならない。
 解釈学的分析として、実存論的分析が成功するのは、我々が自身についてずっと了解してはきたが多かれ少なかれそれまで言うことができなかったものを言葉に持ってくることによってのみである。その決定を我々に代わってできる者は誰もいない。さらに一貫性を持つどんな形式的法則も、明らかに一貫しない説明を規則外に追いやる以上のことを我々にしてくれはしない。『存在と時間』のすべてのこと、あるいは解釈学的解釈のいかなる行使も我々の内に究極的な解釈学的回答を呼び起こす能力に帰着する。すなわち、「 そのこと が我々の探し求めているものである。我々が自身についてずっと了解してきたことをそのことが言葉にするのである。」 解釈学 とは、何かを見られるようにさせる 言うこと legein であるか、それともそうでないかである。
 『存在と時間』の解釈学は回復の戦略を呼び出す。それは 再認 recognitio、再−認識 Wieder-erkennung、再び知ることの戦略であり、認知のレベルですでに曖昧に了解されている事柄を思い出させる。解釈 (Auslegung) は前了解の遂行、展開である。我々がそれまで言葉を欠いていたものの先行する了解を回復することである。解釈学は覆いを取る uncovers。なぜならそれは復旧すること recovering であり、我々がすでに在った場所に、神秘的な近さ proximity に我々を立たせるからである。解釈学においては証明したり証明しなかったりということは存在しない。我々自身が語りで見つける(ないし見つけ損なう)ものにおいて、見られるようにするということのみが在る。
 解釈学は打ち消しがたい、議論のない直感に何もかもを放り投げるわけではない。反対に、それは「存在解釈に関する闘争」(SZ 437/BT 487)を開く。解消されることからはほど遠く、ほとんどかき立てられることもなかった一つの闘争をである。『存在と時間』の要点はこの闘争を鎮めることにあるのではなく、この闘争を運動せしめ、現前としての存在への 問い を(まずは現存在に関し、ついで一般に)揺り動かし、容易な道を取る形而上学の充足をひっくり返すことにある。適切な解釈学への「途上」 (unterwegs) に我々を置き、解釈学的闘争を眠り込ませるのではなく、かき立てる stir up ことにある。解釈学は一方ではデカルト的エゴの真理なるコギトに還元されることはできないし、他方まったく和解不能の闘争にも還元することはできない。この点では、解釈学的対話による改正と洗練の継続する作業というガダマーの考え方を引き合いに出せるかもしれない。ハイデッガー自身はそうした運動を取らなかった。なぜなら、それは時期尚早であると受け取ったからである。この点では闘争を生み出すよりも解消することに彼はほとんど興味を持たなかった。形而上学ではすでにあまりに多くの平和と休息があるのである。行きすぎた地平の融解では真正なる問いは無視され、地平の問いを根元的に考え抜くことが無視される。ハイデッガーには根元的なる破壊的なものがある。それはガダマー的な解釈学が掘り起こさないものである。ガダマーは 争い Streit を和解させる道を探すことを始めた。ハイデッガーはこの争いを生涯かけて燃え立たせようとしたのである。
 この再認と復旧の語り全てが回想の新しい哲学を作り出すのではないかと我々は疑うかもしれない。もしそうならば、実際それは奇妙なものである。それは日常的現前の安逸から、本質的な存在−可能である存在者の恐れとおののきへと、我々を連れ 返す からである。このことによって教えられるのはもっと「根元的な」解釈学の可能性というものであり、私はこの研究の第二部でそれを擁護したいと思う。

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Subject 断言の危険
Author イストラン [ 1535 to イストラン ]  9/6/Wed/2000   

いかなる解釈も安全ではない。真正なるプロジェクションが根本的な源泉から引き出されているにせよ、それが保持されているという仮定はできない。逆に、頽落 fallenness の絶えざる引き戻しが働き始め、それを何か二番煎じのものに、派生的なものに、使い古されたものに変様させてしまうという怖れがある。解釈はいつも頽落の牽引力 (Zug) によって、真正なる自己−了解からの引き剥がし (Entzug) によって脅かされている。プロジェクションの対抗する牽引力 (Gegenzug) は真正なる解釈を可能にするが、いつでも頽廃しがちである。解釈が「断言 assertion」に移行するとき引き起こされるのはこの脅威である(§33、§44b)。今一度 --- すでにフッサールにおいて見たが --- 根源的なものへの現象学の関わりは言語の危険性という観念に導く。ハイデッガー的現象学もフッサール的現象学も原初的経験の同じ軌道の中で運動する。そして言語の派生性は原初的経験を手渡しつつ、しかも同時にそれを危険にさらすのである。
 ハイデッガーにとって、断言は伝統的に真理の特権的な中心としての卓越性を享受してきたが、それはもっと根本的な真理へと従属させられる。了解と解釈は主題的な thematic 行為ではない。それらは明示的な概念化や判断に属しているのではなく、世界−内−存在の前主題的な、前−述言的な pre-predicative、操作的、機能的レベルに属している。しかしそれらは主題的に、かつはっきりと命題的に捉えられうる。ところが断言におけるまさにその解釈の把捉が脅威を生じさせる。なぜなら述言行為 predication は派生的な出来事だからである。それは最初の断言において真正に捉えられようとも、もっと根源的な経験が堕落し頽廃するかもしれない危険を犯す。前−述言的ということについては急ぎ付け加えるが、ハイデッガーはこのことで前言語的と言わんとしたわけではない。逆に言説 (Rede) は「そこ」(§34)の開示されてあることの本質的な構成に属している。彼は述言的な 言説 から前−述言的なものを区別している。
 断言は三重の構造を持つ(§33)。(1)それはアポファンシス apophansis であり、示して見せることであり、そこで何か(「主語/主題」 subject)が指示されるか指摘される。(2)それは述言的であり、それによって指摘されたもの(主語/主題)が断言においてはっきりした性質(述言/述語 predicate)を与えられる。前−述言的に現れるものは明示的な述言的形態を与えられる。このことは手元にある事柄 matter at hand からのある種のあとずさりによって生じる。それは「薄暗くすること」 (abblendend、entblendend、SZ 155/BT 197) であり、これにより我々はまさにその述言に焦点を当てるのである。(3)最後に、こうして判断において構成されたものは他者に手渡され、彼らによって共有される (mit-teilen、つまり、コミュニケーション)。しかしこれは言説の壁の隙間である。コミュニケートできる断言の構成は、彼自身は経験する立場になかった他者とその経験を共有可能にすることによる 拡張する 了解の可能性を作り出す。ところがそれはまた根を持つための「たんなるうわさ話」を可能にすることによって了解の 頽廃 degeneration の可能性をも作り出す。それというのも、断言は発言するために、再度発言するために、共有の範囲を広げて、原初的な断言がその原初的な意味について薄められるまでに至るからである。そういうわけで断言はデリダ的な意味において、「薬物的 pharmacological」な質を身に帯びる。これは必要でもあり、危険なことでもある。
 (指摘される主題の)前−所持、(主題を限定する述言の)前−視、(しかじかのやり方で了解を鮮明に分節する)前−把握、これらの三重の解釈学的前−構造を展開するかぎり、断言はまさに解釈の行為の中に入り込む。そしてそれが引き出された根源的な経験、それが分節を与える根源的な経験の意味を断言が保持するかぎり、それは価値のある解釈学的機能を遂行する。
 ハイデッガーはこのことをハンマーを例に説明している。我々の中で作動している前−述言的世界−内−存在においては、「言葉を浪費することなく」(SZ 158/BT 200)、おそらくはたんに表層的身振りによってハンマーの重たさをはっきりさせることができる。ところが現存在がその内でハンマー について 語り、それを述言的に規定するその見回し的な関心の世界から何かしら退くということが、断言の中にはあるのである。使用中目立たずに信頼している品物である代わりに、今やハンマーは特性を持った主題的な対象となる。解釈の「として−構造」は、前主題的見回し的な関心の「解釈的なとして」から断言の主題的な「アポファンティックなとして」に変様したのである。述言的な断言の切り離された態度を取るために、我々は自らの世界−内−存在を和らげたのである tone down。もはや道具を道具として捉えるのではなく、使用できるという特性を持ったものとして、手元に現前する何かを見ているのである。道具の全体性の関与から、ものは追い立てられ、孤立させられ、客観化され、たんに見えるものを示すことの(「純粋に見ているという示すことの puren hinsehenden Aufweisens」)対象となる。純粋に解釈学的な事例とアポファンティックな事例との間に、また純粋に塊 mass という観点からハンマーに興味を持つ自然学者と、労働する大工との間に、ハイデッガーは多くの中間的な事例があると指摘している。(たとえばこんな想像ができる。一仕事終えて二人の大工が一番良いハンマーについて会話しているときの語り。あるいは様々なハンマーの特質を比較している道具点の販売員の語り。)
 適切に理解された断言は派生的だが合法的な役割を、了解において、また真理の生成において演じているのである。ハイデッガーは伝統が支持するようには断言が真理の中心であるとは考えず、断言が真理の派生的様式を確実なものとするかぎりにおいて、真理が断言の中心であると考える。真理とは隠されていないこと disclosedness を、覆いを取ること uncovering を意味する。そして断言は覆いを取るひとつの様式なのである。欠陥のある陳述が事柄を隠蔽するように、陳述は事態を暴露する disclose 。しかし断言が持つ困難はその派生的性格からやってくる。暴露が現存在の存在の様式、つまり実存を持っているとしても、断言は何かしら手元に用意されている ready-to-hand ものだからである。それは世界−の内での実体である。対して、覆いを取ることや言説は世界−内−存在自体の様式を持っている。これが意味するのは、口からの言葉や書かれたテキストの言葉によって、断言は何か手元に用意されたもののように、手渡されることができるということである(SZ 224/BT 266)。そして反復される可能性は断言がもたらす有利なことではあるのだが、断言はまたその反復の破滅ともなる。

 誰か他の者が言ったことを現存在は幾度も話す。そのときでも現存在はすでに議論されたまさにその実体に向かっての−存在である。ところが、現存在はそれらの実体から根本的に再び覆いを取らなくてはならないということから免除される。そして現存在は、かく免除されていると主張する。(SZ 224/BT 266)

これはフッサールの『幾何学の起源』の論理である。反復する現存在、手渡された言葉を手に入れる現存在は、断言の基礎をなす原初的な経験を再度定立する enact 必要がない。この「反復」は真正なる循環的な現存在の存在であるのではなくて、まさにその頽落、その頽廃なのである。覆いを取る過程はうわさ話の過程になる。我々は言葉の中に迷いこみ、事柄自体との関係に入り込むのに失敗する。そしてひとたび断言がその暴露的な力を空っぽにされ、覆いを取ることに失敗すると、そのとき、そのときにかぎり、次の問いが生じるのである。すなわち、一方の「断言−物」は他方の「対象−物」に関係するのか、またいかにして関係するのか。「認識論的な」問題は断言の堕落した存在を元にしてのみ生じる。真理はそのときその存在において誤解され、断言−物と対象−物との間の対応 correspondece や類似 likeness のような客観的な現前 (Vorhandensein) の関係であるものと受け取られる。
 ということはハイデッガーの批判の対象は、断言そのものではなく、断言が手渡されるということにあり --- それが反復されうるということ --- そして原初的な生からはぎ取られるということである。ハイデッガーはフッサールの沈殿の理論の枠組みの中で動いているのである。原初的な経験は抜け落ち、あとに残るのは断言の抜け殻/見せかけ shell である。日常的なコミュニケーションはそのとき貝殻/見せかけゲームになる。そこで我々はその貝殻/見せかけを物/事柄 things と競わせたり、物/事柄を意味するような貝殻/見せかけを選び出したりしているのである。「対応」理論はだから優勢な断言から生じているのであるが、断言は派生的であり、原初的な経験を越えているのである。
 『存在と時間』には根源的なものと派生的なものの論理が作動している。従って、根源的なものの復旧としての現象−学の概念が働いている。根源的解釈学的了解は我々の具体的な前主題的な世界との関わりのレベルにある。その原初のレベルから真正なる断言が生じる。それは具体的経験から新しくされ、それでもその覆いを取る質を保持している。最終的には根源的な経験から遠く隔たったところに移動して、断言はただ手渡され、言いふらされ、もはやそれは何も暴露せず、常識になり、日常的言説の共通のストックの部分となるに至る。
 そしてこのことは論としての『存在と時間』について何事かを語る。なぜなら、『存在と時間』はそれ自体が断言から作られ、その断言は暴露的な力を持ち、根源的な源泉から引き出されているものとされているのだが、これもまた、その固有の断言がたんに手渡されたものであり、原初的なその力を失ったものではないかという危険にさらされているからである。従って、読者の仕事はこれらの断言が暴露している事柄について自身で覆いを取ることから免除されていると思い込むことではない。反対に、その固有の根源的自己−了解から引き出すことによって、フッサール的「再活性化 reactivation」へのハイデッガーの類比におけるその固有の前了解を調査することによって『存在と時間』が達成した事柄を、読者は自身で確かめねばならない。我々は自ら「実存」という点で了解しているのだろうか?これは我々がそのためにずっと探索してきた思想 articulation なのだろうか?

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Subject 了解の循環
Author イストラン [ 1534 to イストラン ]  9/3/Sun/2000   

「実存する」存在者として、現存在はいつもそれが事実的にあるより以上のものである。それは決して「現前 present」的でもなければ「アクチュアル」(ousia,sustantia)でもない。むしろ、それは絶えず「可能的な」ものに向かって広がっている。その「日常性」のレベルでは、現存在は日々の関心の世界にプロジェクトされ、それが関わる仕事上の道具とか項目と、これらの道具が仕える目的の複雑な関係の中にプロジェクトされる。しかし日常的関心の世界を越えて、現存在は、それのために世界があるそのそれ、つまり現存在自身にまで延び広がっている。この第二の、より根元的なプロジェクションにおいては、現存在はそれ自身の深い可能性、それのみがそれである存在者、あるいはそれのみがそれでありうる存在者になる最深の可能性について --- それに向かって --- プロジェクトされる。どちらのレベルでも、現存在はまさに了解せんとするものを「了解」する。すなわち、それは己自身のために世界の予期的素描を先行描写し、それ自身をそれ自身が道を作らなくてはならない実存の圏域、実存の地平の中に投げかける(§31)。
 「了解」( Verstehen ) --- 実用的かつ実存的でそもそも決して理論的な事柄ではない --- とは地平のプロジェクティブな素描である。その中でものごとがそれであるように自由に設定される。「解釈」( Auslegung )は了解の遂行( Ausarbeitung )である(§32)。『存在と時間』での了解は解釈に関係しているが、それはより限定されていないものからもっと限定されているものに、予備的なものから完全に発展しているものに、というふうに関係しているのである。解釈は了解が発展して充実し鮮明になる様態である。了解と解釈は種においてではなく完全さの程度において異なる。解釈は了解がプロジェクトした可能性を限定し、種別化する。一つの解釈がハンマーについてなされるとき、たとえば、ハンマーがその「〜のために」( um zu )において明示的に取り上げられ、だからそれであるところの道具として「レイアウト」される。それであるところのものとして了解され、実際にハンマーで打つことによって適切になされることによってのみ、道具は解釈される。非西洋的文化からやってきた人たちはその世界を関与 involvements のシステムとして「了解」することができる。それが現存在一般の存在論的構造だからである。しかし彼らはこの世界についての、だからハンマーについての発展した鮮明な解釈を持たないかもしれない。たとえ文化物一般が何であるかを知ってはいても、彼らは我々の文化物に特有な「として−構造」、解釈的特有性をつかみそこねるかもしれない。
 しかしながら、解釈というものが了解よりももっと限定されたものであるということは、それが明示的、主題的、概念的知であることを意味しない。己の文化的世界を鮮明に把握している人がこの解釈に概念的形態を与えていると想定されることはまずない。解釈は了解と同様、我々が「いつでもすでに」所有しているものである。前概念的と概念的との差異は了解と解釈の差異と交差している。
 完全に発展した解釈へ了解を成し遂げることは、解釈学的「前−構造 fore-structure」を蓄積することによる。この構造はハイデッガーが「解釈学的状況」を呼ぶものをともに作りあげる(SZ 232/BT 275)。ハイデッガーは第32節でこれらの前−構造を日常性の世界についての前理論的な我々の解釈という観点から例証している。第45節および第63節では現存在をその真正な存在において構成する前−構造に取り組み、それによって現存在の解釈を深めている。そうした前−構造は三つある。
 (1)前−所持 (Vorhabe) 。[vorhabeという名詞があるのかどうかわからないが、動詞 vorhaben には「予定する」という意味がある]
 存在者を適切にプロジェクトするために我々はそれを自らの所有としなくてはならない。それをしっかりとつかまなくてはならない。前−所持はとくに対象 全体 をしっかりつかむことに関わる。対象を全体として我々の所有としながらである。もしも対象を全部持たないならばそれを持つことはない。第45節では(SZ 232/BT 275)、この前−構造が、プロジェクトされるべき存在構成 (Seinsverfassung) に関わること、かくてその全体構成ないし組立に関わることをハイデッガーは付け加えている。我々の世界を組み立てるシステムを解釈し把握するためには、そのシステムの範囲全体を視野に入れる必要がある。ハンマーが属しているシステムを視野に入れなくてはハンマーを解釈することはできない。現存在の存在を把握するためには、現存在全体を視野に入れなくてはならない。かくて了解は本質的に全体論的である。
 (2)前−視 (Vor-sicht)
 存在者を適切にプロジェクトするためには、それに属している存在様態 (Seinsart, SZ 150/BT 191;232/275) を原初的に把握する必要がある。そうして我々は関わっている事柄を了解できるわけである。ハンマーは手元に準備されている。たんに現前しているのではない。とくにそれはハンマーで打つことに使われるものである。他方もし我々が現存在を適切に解釈するのだとすれば、現存在を手元に準備されているものとして了解してはならないし、手元に現前しているものとして了解することもできない。そうではなくてまさに実存それ自体という点から了解しなくてはならない。
 (3)前−把握 (Vor-griff)
 「Vor-griff」の「griff」は「Begriff」つまり概念に由来する。従って、前−把握を持つということはプロジェクトされた存在者の概念を持つということである。ハイデッガーはそのことを、存在者を把握するための鮮明な概念システムを手中にすることとして説明する。前−把握は前−視に対して、明確にされたものが一般的図式に対するような関係にある。前−把握は前−視の内に捕らえられた存在様態を呼び出し、鮮明にするのである。前−把握は存在者がそこに入り込む適切な概念システムあるいはカテゴリー表を供給する。それは鮮明にされた構造 (Seinstrukuturen,SZ 232/BT 275) に関わる。前−視は前−把握がカテゴリー表を供給するものの概観を与える。
 この前−構造の理論のおかげでハイデッガーは意味 (Sinn) の理論を提起することができる(SZ 151-2/BT 192-93)。何かの「意味」を知るということは、それがプロジェクトされる際に観点となることがらを知るということであり、それが投げられる際に観点となる地平を知るということであり、それが属している圏域を知るということである。この地平は前−構造によって設定される。意味は『論理学研究』のフッサールにおいてのように、永遠の客観的構造というわけではなく、現存在の実存的なもの an existenial である。意味は現存在が実体で満たされた地平をプロジェクトするときに与えられる。意味はただ現存在が存在する限りにおいて発見される。現存在の外には不条理があるのではなく、無意味がある。ただ現存在だけが意味に溢れることと意味のないことを経験できる。『存在と時間』はまずはそれ自体が存在の意味に関わり、その目的のために、現存在の存在の意味に関わる。そのことは、ハイデッガー曰く、何か「深い」とかいうことではない。単に我々がその中で存在自体と現存在をプロジェクトする正しい地平を探し求めているということである。この存在はやがて時間であることが明らかになり、この現存在はやがて時間性であることが明らかになる。
 予期的プロジェクションの保証ないし土台は前−構造が「実体自身から導かれて drawn」いるのか、あるいはたんにそれに無理強いしているのかどうかにかかっている (SZ 150/BT 191) 。それらは実体をその固有の存在において捉えなくてはならず、たんに外側から押しつけられてはならないのだ。それらはまた訂正可能 revisable (vorbehaltlich) [vorbehaltlich は「条件つきの」]である。前−構造と実体の間に正しい「適合 fit」が見つかるまでの、了解と解釈の前後運動についてガダマーが語った理由はそのことであった (W&M 251-52/T&M 236-37)
 諸前提なしにものごとに接近するというのは望むべくもない。了解はまさしく正しい諸前提を発見する問いである。つまり正しい前−構造の複合体である。テキストの釈義がテキストの「そこ」にあるものに訴えるとき、我々が確実に発見しうる一つのことは、釈義がそのもとで骨を折る前提である(SZ 150/BT 192)。そして我々はこれが悲しむべきことであると考えてはならない。むしろそれは解釈の本性に属していることである。しかしながら、問題を無理強いするような前提や、破壊するような存在様態に現存在を駆り立てる前提には警戒しなくてはならない。ハイデッガーは無思考を是認しているわけではない。そういう無思考は、他の時代や文化が我々のものとは異なり、だから我々の固有の前提をそれらに押しつけることはできないということを理解し損なう。他の文化や時代に対して我々が手にするどんな接近も、我々が配置する諸前提によって得られるだろうという存在論的立場を作っている。
 ディルタイについてはっきり言及しつつ、我々の作業は自然科学に対抗する人文科学にとっての客観性を発見することだと考えてはならないとハイデッガーは付け加える(SZ 153/BT 194)。というのも自然科学も人文科学も了解と解釈によって進むからである。問題は無前提性を確実なものにすることではなく、いかにして前−構造が知ることの可能性そのものに属しているのかを見て取ることである。「決定的なことは循環から出ることではなく正しくそこに入り込むことである。」我々は単に許容されるだけの「悪しき」循環に関わることはない。むしろ、「循環の中にもっとも原初的な知ることの積極的可能性が潜んでいる」。そのように、前提から自由である解釈ではなく、諸前提自体を確実にすることに全ての事柄がたどりつくのである。

 我々の最初の、そして最後の一貫した仕事は、前−所持、前−視、前−概念化が、おとぎ話や通俗的概念によって我々の前に提示されることを許すことでは決してないのである。むしろこれら前−構造を、ことがら自身の点から検討しつくすことによって、学的な主題を確実なものにするということである。 (SZ 153/BT 195)

 了解は諸前提を進行のために求める。それは了解が機能する前−構造、前提となるマトリックスを求める --- さもなければ了解は機能しない。
 適切な前−構造を発見し、外から恣意的に押しつけられた「自由不動する構築」 (SZ 28/BT 50) ではないプロジェクションを発見すること。すべてはここに行き着くのである。デカルトが無世界的なエゴの問題を立て、世界と身体への関連をはぎとられた「意識」をプロジェクトしたことについて、ハイデッガーはデカルトの前提が多すぎるのではなく、少なすぎると言う (SZ 316/BT 363)。デカルト的 コギト は事柄自体から引き出されたのではなく、「認識的意識」という模造品から引き出された自由浮動するしかけである。
 事柄自体から引き出された前−構造は事柄自体を解明する。それに光を当て、覆いを取り去り、自由にする。この解釈学は現象学的である。なぜなら暴露に、ものを開示することに、歪曲された偽概念化から自由にすることに関わるからである。それは実際実存論的分析自体が至りつくところである。そして「実存」という理念において与えられるものである。『存在と時間』でのハイデッガーの解釈学的賭は、あいかわらず、「実存」の観点から現存在をプロジェクトすることがもっとも実のある解釈学的前提を代表するということであった。そしてまたそのプロジェクションは最も広い範囲を持ち、最も深い洞察を与え、要するにそれが 最大の説明力 を持つということであった。このプロジェクトの契機が我々を現存在の存在の意味へと、究極的には存在自体の意味へと勢いよく投げ出すのである。仮にこれがうまくいくとするならハイデッガーはキルケゴールに巨大な負債を負っていることになる。キルケゴールがそこで示唆的な解釈学的原理を最初に発見したのである。
 従って、我々は『存在と時間』が与える説明の中に自身を認知できなくてはならない。我々がすでに我々とは誰かを「了解」しているという事実に全てがかかっているのである。もちろん自身を考えるものとして解釈したり、あるいは知覚の束だとか絶対精神だとか、何か別の形而上学的構築の点から了解しているにしてもである。 これ --- 実存論的分析 --- は我々がずっと了解してきたが伝統的形而上学の予断のせいで言うことができなかったものを言葉に持ちきたらす説明である、と言うことができる力に全てがかかっている。実存論的分析は我々が誰であるか、我々の存在の様態が何であるかということを鮮明にし、繰り広げ、自由にする。「何かに寄与しうる解釈はすでに解釈されるべきものを了解していた」と言われるのもこのためである (SZ 152/BT 194)

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Subject 『存在と時間』の循環的戦略
Author イストラン [ 1531 to イストラン ]  8/31/Wed/2000   

 『存在と時間』のすでにして複雑な循環的体系にはまだ最後のひねりが、より複雑なものがある。それは現存在の存在の存在論的循環を越え、その了解における解釈学的循環を越えている。それをここでは『存在と時間』のテキスト自体の「戦略的」循環と呼ぼう。ニーチェの読者のように、『存在と時間』の読者はある種の機敏さを必要とする。つまづくことなしに、そして全体の作業を「たちの悪い」と断言することなしに、行きつ戻りつする著作の運動の中に身を置く能力である。私はこれを『存在と時間』で作動している文脈的戦略とみなしている。そこでハイデッガーは実践へと彼自身の論文 treatise の中へと、了解の循環的運動の理論を挿入している。この最後の循環はかくて戦略的、戦術的、方法的である。
 ここに『存在と時間』が直面した事柄( Sache )と、この論文が使用した方法とが収斂するのを我々は見る。キルケゴールにおいては事柄は実存的反復であった。しかしその方法は複雑な美的やりとり thrusting and parrying の遠回しな間接的動向にある。フッサールにおいては、事柄は対象の予期的構成であった。そして方法は反省的、科学的説明であった。ハイデッガーでは事柄は現存在自身の循環的存在である。そして方法はこの事柄の導きに従い、実践の中に循環を置く。
 それに従って、『存在と時間』のテキストで引き受けられた解釈的努力自体が、現存在の存在の予期的プロジェクションによって開始される。つまりこの論文は自身の結果から始める。それが求める現存在の限定から始める。テキストは現存在を「実存」として 定義する ことから始めるのである --- 「現存在の「本質」はその実存にある」(SZ 42/67; cf SZ 12/32) --- ところでこれこそ 示される べきことなのである。しかし一種の教条的独断と見えるものは実際には現存在の存在のはじめの「プロジェクション」にすぎない。それは了解自体の本性に一致してなされる身振りである。それは教条的ではなく、解釈学的暴力である。
 『存在と時間』の中にある全ての事柄はこの最初のプロジェクションを正しく手に入れることに依っている。続く議論がつまづいてしまわないように、現存在はそれであるところの存在であらしめる存在にプロジェクトされながら、適切な条件のもとに投げられなくてはならない。しかしどうやってこの適切なプロジェクションを発見するというのだろうか?どうやってそうした決定的な確定に取りかかるのだろうか?

 「発見」が現象的に適切であることの根拠を手に入れるための
存在論的プロジェクトとは何だろうか?存在論的解釈は実体を
プロジェクトする。この実体はそれ自身がそれである存在
もとづいて解釈に対し提示される。そうして構造に関して概念化される。
そのプロジェクションを導き、だから存在が完全に到達される
ことになる指針はどこにあるのか?(SZ 312/BT 359)

何が我々を導いて現存在をまさにあのようにではなくこのようにプロジェクトさせるのだろうか?そしていかにして我々は存在をその原初性と起源において真実に捕らえることを確かめるのか?「実存」の豊かさに対するそうした信頼にとってどんな保証があるというのだろうか?「実存」がそこに触れ、現存在の存在の原初的な源に接続するということをいかにして我々は確信できるのだろうか?『存在と時間』はたんに直感から始まるのだろうか?解釈学的循環とは私的な好みを正当化するためのたんに洗練された仕組みにすぎないのだろうか?
 諸困難の群に対するハイデッガーの回答は単純であり同時に混乱させるものである。すなわち、我々はいつでも現存在の適切な了解に捕らえられているというのである。たとえ我々には適切に概念化できずとも、そして言葉にできずとも、すでに我々が了解している何かである。さしあたって我々は現存在への問いを立てるが、それというのもただに問題になっている事柄の了解をいつでも所有しているからである。問いはこの先立つ了解から生じ、またそこに帰る。我々は現存在が何を意味するか、 まして 存在自体が何を意味するのかを「知って」(wissen)はいないし、それらについての概念的な位置(begrifflich fixieren)を欠いている。しかしいつも、そしてすでにそれらについての「了解」の中で動き回っている(SZ 5/BT 25)。そして解釈学的現象学の仕事はこの具体的な先了解 preunderstanding を存在論的な概念のレベルにまで持ち上げることである。
 『存在と時間』は我々が自分たちについてすでに知っていることをはっきり述べる。己の存在をたんに客観的な現前( Vorhandensein )という観点からどれほど誤って解明しようとも、どれほど自己−了解をまずく解釈し損なおうとも、また現存在の存在について純粋に魔術的な説明に退化しようとも、にも拘わらず我々はいつでもすでに自己を了解している。現存在の存在のまずい読解で道に迷っているのは自己−了解(Verstehen)ではない。というのもそれは我々の実存を構成しているからである。そうではなくて自己−解釈(Auslegung)である。それは現存在の先立つ了解に適切に接続する tap into のに失敗した(cf. SZ 15/BT 36, 58/85, 59-60/86, 289-90/336, 313/361)。
 それでも我々は知りたいと思うのであるが、「実存」としての現存在の存在この 始まり、 この 原初的プロジェクションは現存在の存在自体を捕らえるのだろうか(そして究極的にはそれが存在自体の概念へと導いてくれるのだろうか)?ただに『存在と時間』自体の後続する過程だけが、それが探索する実体を暴露したのかどうかを証すことができる。現存在の存在を常識的な表面的な解釈から自由にもぎ取ったのか、それともたんに暴力を加えたのかを示すことができるのはそれだけである。詳細に検討されてのみ実存のプロジェクションがその価値を持ち得るのかがわかる。
 別のやり方で進む道はないのである。すでにフッサールから学んだように、プロジェクティブに前進することは了解の本性そのものである。前方にたたきだし、探索すべき実体が現象するようになる地盤を明確にすることである。その固有の了解の存在論にとって真実なことには、『存在と時間』は諸前提を拭いさったところから始めるのではなく、それら諸前提をもっと完全に見通すために、あからさまにはっきりと述べることから始める。論が諸前提から自由になることではなく、事柄を間近に取り囲めるほど十分に諸前提が深く広いことを確固たるものにすることが目標なのである。つまり、『存在と時間』の始まりは我々の仮定があまりに貧しくならないように、それだけ豊かでなくてはならない。
 しかしながら一つのことは確かである。この戦略はいかなる形式的誤謬からも自由である。明らかに を前提することによって のために結論する演繹システムは卑俗であり、論理的に誤っている。しかし『存在と時間』はそうした演繹システムではない。ここには前提から結論に至る形式的演繹的運動はない。そうではなくて退行的解釈的運動があって、これが日常的に機能する先了解の暗黙の構成部分を解明し、 解釈し aus-legen 、解きほぐすことになる。漠然たる了解を明示的な概念のレベルにまで上げること、暗黙のものから明示的なものへの線に沿って動くことが肝心なことである。解釈学的循環の形式的妥当性を取り巻く全てのディレンマは、このことが認知されるやいなや、デリダが正しく指摘したように解消される。
 『存在と時間』の全体的戦略はこの接続 tap intoの可能性に依っている。それは現存在(と存在一般)の前歴史的了解への接続である。プロジェクションの、実存の原初的定立はこの接続が取る形態である。プロジェクションは形而上学的第一原理、演繹システムの公理を供給するのではない。そうではなくてそれは最初の切断であり、原初の投げること castingであり、予期的な描写であり、先行描写である。なんのかと言えば、現存在をそれであるものにあらしめる現存在の存在、描写が論の進展の中で満たされるに従って徐々にそれを露にさせるところの現存在の存在の先行描写である。そういうわけで、『存在と時間』の後続する現存在の説明は実存の原初的プロジェクションによって統制されている。同時にこのプロジェクションは試されてもいる。実存はハイデッガーのシステムでは公理ではなく地平であって、その内で全ての後続する現象学的探索が導かれている。それは現存在が「投げ」られるだろう道である(この投げ cast という語は Entwurf、projection のハイデッガー的使用にとっては適切な英語の等価物である)。実存は現存在の存在の原初的先行描写、つまりそれが属している領域を見張っている。我々は「教条的構成」にすぎないものに頼るわけにはいかない。現存在がそれ自身を「それ自身の内で示し、かつそれ自身から示してくれる」ような、そういう現存在を「選択し」「接近」しなくてはならない(SZ 16/BT 37)。
 現存在の存在のこの予期的描写による運動を開始したのち、『存在と時間』は見張られた領域(∫66)を何度も前後する循環運動を辿る。その最初の段階で『存在と時間』は「実存論的分析」を成すが、これは現存在の存在の意味を時間性(∫∫9-65)の観点から確定することにおいて極まる。しかしそれから全体的分析は「時間的分析」(∫∫65-83)で「反復」される必要がある。そこで実存論的分析の中で明らかにされた諸要素の時間的意味が項目ごとに呼び出される。最終的に時間的分析自体が今度は現存在の存在を通して別の行程において「反復」されねばならない。それは「全面的転回」であり、我々は時間の観点から存在の意味の確定に導かれる(有名な、しかし存在しない『存在と時間』第三部である)。
 かくて、この著作の方法自体、論の進展が反復の下方的−旋回に従う。それぞれの新しい曲がり角で、同じ領域の新たなる通過において、全体が深められ根元的になり、解釈学的視野と洞察は研ぎ澄まされ、洗練され、探求はそれが出発した先了解の中へと遥かに辿り、遡行する。それぞれの反復によって我々は出発したところの先了解をいやましに根元的に見通すことになる。これらの諸全体から逃れることが問題なのではなく、それらを展開し、見通し、その隠れた富に接続すること、つまりフッサール的 解釈 Auslegung によって予期された重要な方法が問題なのである。
 『存在と時間』はこうして複雑な循環システムとなる。その中では現存在の存在の運動にパターンと意味を刻み込む努力の中で諸循環が織りなし、互いに織りなし合っている。循環は全く同時に、現存在(とその存在自体)の存在論にとってのモデルであり、了解の作業にとってのモデルであり、テキストの戦略にとってのモデルである。我々の仕事はこれらの循環が従う道のりを追いかけ、辿り直すことである。そのために了解の循環を取り上げよう。有名な「解釈学的循環」それ自体である。

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Subject 現存在の循環的存在
Author イストラン [ 1528 to イストラン ]  8/23/Wed/2000   

ハイデッガーにおいては、「反復 repetition」(Gjentagelse)のキルケゴール的プロジェクトが「回復 retrieval」(Wiederholung)のプロジェクトになる。そして キネシス の構造、つまり現存在がその中に捕らわれる運動の構造は循環的であると見なされる。「実存する」(キルケゴール的意味で)存在として、現存在の意味は 前方に 運動することである。その真性の未来へ前に押し進めることである。しかしハイデッガーはこの前方運動をまったく同時に現存在がいつでもそれであった存在へ 戻る 運動と見なす。かくて前方への運動は再生 recovery の、回復 retrieval の運動でもあることになる。キルケゴールは、「自己」の逆説について論じたときに、この問題を認知していた。すなわち、彼の反復は自己を生産するものであるが、それが可能なのは自己によってである。反復は自己から生じ、かつまた自己を生産する(E/O II 219-20)。しかしキルケゴールは反復を前進的な直線的な言葉で描写するのである。
 一方ハイデッガーは『存在と時間』において現存在の存在の「円環的」運動に特別の役割を与えている。存在論的な輪 loop の中で現存在の前方への運動と後方への運動を結びつけ、その未来的なプロジェクションと、そのいつでもすでにあったこととを結びつける。『存在と時間』における 回復 は反復/回復を意味する。現存在の内にあって今まで隠されていたもの、 可能性に in potentia あったものが存在可能(Seinskoennen)に抱かれて前に進むことである。現存在の固有の存在はその「未来性」(Zuhuenftigkeit)とその「あった」(Gewesenheit)との間で「循環する」。現存在の存在はつねに前方へプロジェクトされるが、決して自由に漂い絶対的にそうするのではない。いつでもそれが入り込んできた諸可能性へ向かってプロジェクトするのである。そこからハイデッガーは「現存在の循環的存在」について語る(SZ 315/363)。その キネシス は従って実存的形態を取るのである。
 かくて、「回復 retrieval」 という Wiederholung の英訳は何か隠されていて、失われていて、失墜したものを回復するというニュアンスを付け加える。これは反復 repetiton には聞きとることがないものである。キルケゴールがアクセントをつけた「反復」という語においては、直線的な未来が、前方に向かって反復することが、未来への信仰と、現在していることを繰り返すことに決意することが強調されている。キルケゴールの概念はプラトン的ヘーゲル的形而上学に抗して念入りに造られ、何か新しいものの自由な出現を強調するのである。ハイデッガーの概念は超越論的意識の形而上学との戦いの中で形成され、事実的可能性を再生するという意味を強調するのである。
 しかしながら、この実存的円環はキルケゴールの反復の存在論から発し、『存在と時間』の中で、フッサールの解釈(Auslegung)と予期的先行描写(Vorzeichnung)の教義から発する現象学的循環と結びつけられる。そのため、循環のもう一つ別のレベル、もう一つの循環システムが現存在において始動するが、それは単に平行しているのではなくて、最初のものから派生しているのである。了解するということは、ある地平的概念の枠組みをプロジェクトする【前に投げる】ということである。その中で存在は了解される。諸実体はただに存在のある地平がすでに前もって繰り広げられている限りにおいて現象しうる。我々が新しいものを学ぶことができるのは、始めるにあたってすでに適切に方向づけられている限りにおいてのみである。すでに前−了解しているときにのみ我々は了解することができる。事柄の、純粋な解釈されない事実というのは存在しない。存在しているのはただに或る枠組みにおいて着手され、その固有の存在へプロジェクトされた諸存在だけである。
 『存在と時間』では、了解のプロジェクティブな構造(フッサール的原理)が、反復としての現存在の構造(キルケゴール的原理)から発する。第二章で見たように、これは「実存する」現存在の前方への契機に由来する。了解がプロジェクティブなのは、現存在の存在がプロジェクティブだからであり、そのプロジェクトが文脈的なのはその存在が投げられていること thrownness と在ったこと having-been によって特性づけられるからである。了解の解釈学的循環は現存在の存在における存在論的循環のサブシステムである。
 そういうわけでハイデッガーは「解釈学的循環」 --- それは前もって認識的あるいは方法論的意義のみ担っていた --- に存在論的重みを与える。我々は自分がそうしているように了解するが、それは我々がそうしているように存在するからである。了解は存在に従う intelligere sequitur esse 。ハイデッガーにとってはいかなる「純粋な認識論」のための領野も存在しない。ただ知ることあるいは了解することの存在論があるだけである。解釈学は存在論的に中性的な言葉で理解することはできない。「解釈学的循環」はその特殊現代的なポスト−ディルタイ的な意味において、キルケゴールとフッサールの創造的読み直しから起こったのであり、コンスタンチン コンスタンチウスの茶番劇的なベルリンへの旅と現象学的な「解明」の冷徹な仕事が結婚したところから起こったのである。
 ハイデッガーの意図は、循環的パターンを刻み込むことで流れに固定点を得ることであった。そのパターンはキルケゴールが批判した偽のヘーゲル的意味においてではなく、見られるようにすることとしての ロゴス の意味で、運動の「論理」を確認する。この論理は存在における運動と現存在の了解を行きつ戻りつ跡づける。現象−学から発するものとして、それは運動を損なう意図ではなく、運動を跡づける意図を持っているのである。
 さて現存在の存在を定義する運動は「慮 care」の運動である。しかしハイデッガーの曰く(∫63)、慮の運動は基本的な傾向(Zug)に関わる。それは「容易な道」を取り出すために(das Leicht, GA 61 108-10)、物事の中へと頽落し、現存在の適切な関心から外へと頽落してしまう傾向性のことである。現存在はいつでも頽落する。そこでは「頽落 fall」は退化という厳密に存在論的な意味を持つ。この頽落のおかげで現存在はいやましにその原初的存在から離れ去ってしまう。存在的には我々はまさしくこの存在 である とはいえ、我々は我々自身から存在論的に徐々に遠くへと漂い傾向を持つ。頽落は一つの 傾向 、現存在の中心から拡散と消失へ向かって引きずり去られることである。
 もしも現存在の存在に頽落が存在するのであれば、現存在の「了解」にも対応する頽落が存在するのであり、これによって現存在は己自身ともの一般の平均的な表面的な了解に頽落する。実存する現存在はつねに「脱−軌道」運動の中でコースをはずれて引きずられる。それは現存在を軌道から引きずり出し、その循環を破砕する。了解もまたつねに待ち伏せされているのである。
 存在論的には現存在がアクチュアルで現在的なものによって押しひしがれているということを頽落は意味する。それは一方で現存在の未来のプロジェクションを中途で終わらせる。そして他方その実存的循環から切り離し、その境遇 heritage から切り離す。同様に頽落は了解の循環的生を堕落させる。原初的な意味を再生する真性の了解のプロジェクティブな仕事の代わりに、現存在はものごとの優勢な公共的解釈への充足に誘い込まれる。現存在、そして究極的には存在自体は直接的に現前している(vorhanden)ものの観点から了解される。非真性な現存在は現前する時(Gegenwart)の関心に没頭し、アクチュアルなものによって麻痺され、可能的なものから疎外されるがままになる。それと同じく了解は、現動と現前の観点から、いつでも入手しうる物事(Vorhandensein)の観点から世界を読むようにと誘い込まれるのである。
 今や実存する現存在は己をその最極端な可能的欠如(死)のもとにさらしつつ、現在の一続き spell を破る。それによって、その存在を可能性として、存在の潜在可能性 potentiality として(アリストテレス的潜在力 potency と キネシス)、それ自身になる潜在可能性として取り戻すのである。これに対応して、了解の方では現前の形而上学の呪文 spell を破るのが仕事となる。それは時間性 temporality と時間の観点から現存在の存在を、そして存在一般をより深く読解しる。
 『存在と時間』で生じたことに油断なくしているために、この二つの運動を我々はいつでも視野に留めておかねばならない。『存在と時間』のかなり議論された「解釈学的循環」 --- 了解の循環 --- は、実存−頽落する世界内存在の存在論的基底から出発していること、これを覚えておく必要がある。それだけが『存在と時間』で発見する最も重要な、そして安易に誤解された解釈学の姿を説明するのである。すなわち、ハイデッガーにとっては解釈学はいつでも「暴力」を要求するということである。解釈学は解釈(Aus-legung)を意味する。しかし解釈は --- 頽落する現存在の作業であるから --- いつでも事柄を了解するためにそれを力強く自由にすること(Frei-legung)であり、これが現存在の頽落する傾向、物事を簡単にする傾向と衝突する。現存在の原初的存在の持つ自由にすることはむしろ 対抗する傾向im Gegenzug)によってもぎ取られねばならないのである。それは頽落する存在的−存在論的傾向に逆らう(SZ 311/BT 359)。解釈は逸脱/漂流 drift を修正することによって、流れに逆らって泳ぐことによって進む。それはいつでも頽落/滝 fall のよどんだ重みに逆らって働く。
 解釈学の仕事は、まず現存在の、そして存在自体の深層構造を繰り広げることである。現存在や存在はそれ自身の存在論的重みによって沈殿し、それらに根ざした表面的現象に荷担しつつ、視野から逃れる傾向にある。解釈学はこの退却、隠遁、頽落の引き込みに対抗する運動である。それは頽落が作る損害をもとに戻すことにとりかかる。実際、「現象学」と「存在論」は、逸脱を修正しようとするこの解釈的「論 logic (logos)」という印を担う。最初から己自体を隠す傾向を持ち、あからさまに顕現するものの背後に隠れ続ける傾向を持つものを見えるようにさせる ロゴス 、これが「現象学」が意味するものである。最初に接近しうるもの、つまり存在者の中に隠蔽されて示される存在、この存在それ自体を見えるようにさせるというのが「存在論」の ロゴス である(∫7c)。事柄は本来的に自己−隠蔽的であり、自己−退行的である。現存在のその原初性からの頽落は、存在の存在者への、つまり存在 として 視野から落ちてしまうというもっと一般的な頽落の事例にすぎない。ハイデッガーにとって、原初のものはいつでも隠蔽されている。存在はいつでも 忘却 と自己−隠蔽に従属している。 自然 Physis は隠れることを愛する。
 そうした自己−隠蔽する事柄を前にして、我々は「暴力」にしりごみしない方法を要求する。

 その原初性において現象を展開するということを己の目標に
設定するいかなる存在論的解釈も、この実体が事柄を包み隠す
という固有の傾向に逆らって、この実体の存在を捕らえなくては
ならない、これが現存在の存在の 存在様式 が要求する
ことである。従って実存論的分析はいつでも暴力( Gewaltsamkeit
を行使するという性格を持っている。(SZ 311/BT 359)

 解釈学の「暴力」は「自然」である。というのも、それは自己−退却する存在の構造から命ぜられているからである。形而上学の歴史において堆積してきた、世界や現存在 そして存在 の重層的派生的理解を解釈学が取り除くかぎりにおいてのみ、解釈学は原初的なものを「回復」しうる。この暴力は存在論の歴史の破壊( Destruktion )の仕事を統制する。「破壊」は解釈学の暴力である。それは優勢な了解に抵抗するだけではない。それは優勢な了解に対抗して動き回る。破壊は共有された日々の概念構成から現存在を了解する優勢な傾向を拒否し、かつ世紀を通じての形而上学を支配してきた存在自体の了解の傾向を拒否する。そういうわけで解釈学は回復と暴力、復旧と破壊という二つのことを意味しているのである。より厳密に言えば、それは回復に向かうがゆえに暴力を内に含むのである。なぜなら回復の作業とは、我々の視野を組織的に不分明なものとし、了解を転倒させる表面的常識的了解を拭いさることなしには前進できないからである。
 『存在と時間』の解釈学的暴力の必然性はその最も中心的な問題の一つを立てる。真に解釈学的である --- これは回復性を意味する --- 暴力を、たんに恣意的な暴力からいかにして区別するのか、ということである。二次的派生的解釈に対して行使された、原初的なものを事柄の中に 回復する 暴力と、事柄に不正を行い、 侵害する 暴力との間の差異をどうやって認めるのか?ハイデッガーが鋭敏に意識していたように、『存在と時間』が旅する道の可能性はこの問いに依っている。
 その上、この破壊は己が伝統的概念に依存していることを単に宣言できないし、またそれによって己の自由を勝ち取るという素朴な信念の中で突き進むこともできない。新たに始める試みは、それが根元的であるなら継承された概念の枠組みによって堕落させられる。それらの概念は破壊への道を後戻りしつづけるのである。

 この理由のために、必然的に存在と諸存在の構造の概念的解釈すなわち存在の還元的構成に、一つの破壊(Destruction)が、伝統的概念の批判的脱構築 (Abbau) が属しているのである。この伝統的概念はひとまず使用されなくてはならないのであるが、それが引き出されてきた源泉に遡って脱構築されるのである。(GA 24 31/BP 22-23)

解体 Abbau というのは今日我々は「脱構築」と訳すことに抵抗できないのだが、この解体作業はすみやかに進むことを期待することはできない。それは伝統的概念的道具を使う必要性についていつでも見張っていなくてはならない。哲学的概念はそのうちにかなり退化した、派生的な、頽落した解釈が埋め込まれていて、これらを根こそぎにするのが解体作業の希望である。解釈学的作業は 解体 でなくてはならない。伝統的概念に対して油断なく、それを「ひとまず」暫定的に(戦略的に)活動させる脱構築的暴力でなくてはならない。『存在と時間』の言語の有名な複雑さはこの脱構築的警戒の機能である。それは伝統哲学の語彙の沈殿した意味を解きほぐすことに着手する。それはその語彙が封印している原初的な経験をゆるめてもぎ取るためである。「解−体」というのは完全になぎ倒し倒壊させることを意味する 脱構築 よりは示唆的であり、誤解が少ない言い方である。 解体 は、原初の経験の上に構築させてきた表面的な機構を取り除き、無効にすることを意味する。それはなぎ倒すための除去ではなく、回復するための除去である。だからその機能は、古くなって固化した生きた経験を再生するために、覆いを突き破ることを積極的に進める。
 『存在と時間』では破壊ないし脱構築が二つのレベルで作動する。まず第一に、それは現存在をとりまく堆積した形而上学的常套句を突き崩さねばならない。現存在の存在はいつも現在の観点から解釈されている。それをもっと深く時間性の存在として展開しなくてはならない。現存在は常に己自身を現在から解釈する傾向を持つ。そしてそのもっと根元的な未来−に向かう−存在から退いてしまう傾向を持つ。従って、脱構築の最初の仕事は現在(Gegenwalt)の存在として自己を解釈する現存在の優位を打破するということである。そして、このことは二番目の仕事に導く。それは現前という観点からの(手前にある存在 Vorhandensein、その場にあること Anwesenheit、現前 Praesenz、「現前の形而上学」)それに付随する存在自体の解釈を打破することである。そこでは時間は今の継起とされ、真の存在は静止した今とされるのである。優勢な伝統の脱構築は、現存在の時間性( Zeitlichkeit )としての時間ではなく、存在自体の時間性( Temporalitaet )としての時間から、存在自体の根元的回復へと扉を開くだろう。
 『存在と時間』においては、解釈学的復旧と現象学的破壊ないし脱構築が手に手をとって進むのである。それらは解釈学的現象学の作業において共同して働くものである。現存在の意味の復旧、そして存在自体の究極の意味は脱構築的暴力なしには達成され得ない。それは脱構築的暴力が復旧の積極的プログラムの使役なしには引き受けられないのと同様である。『存在と時間』では存在ないし現存在の復旧は必然的に伝統的な堆積層 overlays の脱構築であるが、それは伝統に向かう暴力が伝統の破壊ではなく、その原初的内容を自由にもぎ取る自然な暴力であるのと同様である。
 脱構築なしの解釈学的復旧はない。そして復旧を目指していない脱構築はない。これが『存在と時間』を導く原理である。そして我々もまた、このことを「根元的解釈学」と明示するプロジェクトの研究を通じて一つのガイドとしよう。そのもっともらしい論拠はデリダとそのハイデッガー的脱構築の根元化の作業までは妨害されることはない。デリダにとって、脱構築は解釈学とともに機能するのではなくて、解釈学 脱構築として機能する。ハイデッガーに対するデリダの批判に面と向かうことは、ハイデッガー自身の自己批判、つまりその初期の解釈学的視点の脱構築的根元化によって、いやましに複雑なものとなる。その点で我々は問わざるを得なくなるだろう。復旧の作業、だから解釈学それ自体はこの脱構築的エネルギーのただ中にあって生き延びることができるのだろうか。我々がここに提起する定式はそれ自体崩壊を招かないのだろうか。

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Subject Radical Hermeneutics 3 現存在の回復と循環的存在:『存在と時間』の解釈学
Author イストラン [ 1527 new post ]  8/23/Wed/2000   

 1 現存在の循環的存在
 2 『存在と時間』の循環的戦略
 3 了解の循環
 4 断言の危険性
 5 「解釈学的状況」を再設定する
 6 時間性と現存在の真正な存在
 7 反復/回復

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