| TOPIC |
Radical Hermeneutics 3 現存在の回復と循環的存在:『存在と時間』の解釈学 |
| Author |
イストラン
[ 1557 to イストラン ] 9/19/Mon/2000 |
『存在と時間』の議論にとっては中心的なものであるが、終わりの三章に挿入されているような「歴史性」の分析は体系的には付け足しのように見える。それでもそれなしでは我々は現存在の存在をひどく誤解することになるだろう。もしも実存論的時間的分析が(実存論的時間性の観点からの)現存在の何らか個体的な解釈を好んで取り上げる傾向にあるとするならば、この強調は第五章の決意の歴史性に関する主張で釣り合いが取れるからである。そのことが今度は反復についてのキルケゴール的概念とハイデッガー的概念の重要な差異を明らかにするだろう。キルケゴールは実存論的決意の歴史的状況性を見てはいたが、ヘーゲル主義者たちとの生前の闘争によって歴史性と伝統の概念を練り上げることができなかったのである。これに対してハイデッガーは現存在の歴史性と歴史的反復理論を構築するまでになったのである。
決意する現存在はもっぱら自身の諸可能性の上でプロジェクトする。それでも、とハイデッガーは考えるのだが、このことは決意性についてはあまりに形式的な規定にとどまる。確かに存在論は「現存在が特定の場合に 事実的に 決意するもの」を決定する試みなどには何の関わりも持たない。「しかしそのことでもって、「 一般に どこから現存在はそれが事実的に己自身をプロジェクトする諸可能性を引き出すのか、という問いを免れることにはならない。」(SZ 382/-83/BT 434)。ここに至るまで、『存在と時間』は現存在の決意について、現存在が実際決意するものについて語るべき、アクチュアルな内容を何も持たなかった。死へのプロジェクションによって、現存在の決意はそれ自身となるだろうし、存在の全体性の光のもとで成されるだろう。けれども、このプロジェクションは、いかにして現存在は他のものではなくむしろこの行為の成り行きの上に決意するのかという問いを遠ざける。
この要求に面と向かうために、ハイデッガーは事実性(被投性、在っ−た having-been)の概念に向かう。それというのも、すでに見たように、可能性に向かって前方へとプロジェクトすることにおいて、現存在はその事実的な自己に引き戻され、それがいつでもすでに投げられていたところの状況へと引き戻されるからである。しかし 時間性という観点から反復される ことを意味する被投性はもっと深く捉えられ、現存在の「伝承 heritage」 (Erbe) ということになり、だからハイデッガーは今や決意する現存在に「手渡され」ていたものについて語ることになる。現存在の事実的状況は冷厳な事実性ではなく諸可能性の星座である。それは現存在に「引き渡され」あるいは手渡されてきた。そこで「贈与」に意味が出てくる。これは 向こうに−与える trans-dare 伝承 traditio における 「与えること dare」 に含まれている。しかし空から降ってくるような贈り物ではとうていない。反対にそれは現存在の決意性に依っているのである。
現存在が本来的に決意すればするほど、その選択は曖昧でなくなり、その実存の可能性を発見することになり、偶然にそうすることが少なくなる。ただに死の先駆によってのみ、あらゆる偶然的な「暫定的な」可能性は排除されるのである。(SZ 384/BT 435)
ある者の伝承にはぐくまれた諸可能性は決意する現存在によって 開示され 、開けられなくてはならない。さもなければ現存在は、単にそれにとって全く偶然のものと見える状況によって放り出されるだけである。死の可能性は人の終わりで確証されることを意味するのだが、そこで事実性は手あたり次第のチャンスから、可能性で熟した伝承 heritage へと変様する、そういう条件である。かくて、人の可能性は伝承され、選択される。このことは、ハイデッガーが「自身に手渡すこと」 (ein Sichueberliefern) という能動的表現を使った理由である。そこで、ある限度まで、幸運不運は決意性によって作られるが、この決意性をもって、人は自身を見いだす状況と格闘するのである。
現存在の伝承 heritage は個体的であるか集団的であるかである。現存在に送られる可能性は個体的現存在に送られるのか、あるいはそれが部分となるもっと大きい歴史的集団に送られるかである。個体の伝承はハイデッガーが「運命 fate」 (Schicksal) と呼ぶものである。この語の翻訳によって誤解してはならない。そうではなくて、 Schiksal に「送ること」 (schicken) を聞き取らなくてはならない。ハイデッガーは「運命」を伴った個体が彼のコントロールを越えた状況の犠牲者であるとは考えない。なぜなら決意する本来的な個体だけが運命を持ち、だから彼の道を 送って きた諸可能性を捉えることができるからである。しかし現存在は決して単に個体であるのではない。世界−内−存在はいつでも、ともなる−存在 Being-with であり、歴史化はいつでも共歴史化である。そしてこの集団的伝承をハイデッガーは「宿命 destiny」(Geschik、 schicken の別の派生語)と呼ぶ。これはそれ自体後期ハイデッガーの存在の宿命 (Seinsgeschik) の反省で主たる役割を演じる語である。『存在と時間』においては、「宿命 destiny」は集団的現存在、共同体や人々に送られる伝承を意味する。それを捕まえることは共同体の決意に依っている(SZ 384/BT 436)。
運命 fate と宿命 destiny 、個体(己自身の語り)の伝承と、共同体(時の歴史)の伝承が一緒になって、「現存在の完全なる本来的歴史化 (Geschehen)」を成し遂げる(SZ 385/BT 436)。そしてこの注意でもって、ハイデッガーは現存在の本来的な歴史性 (eigentliche Geschichtlishkeit) の概念を定式化するべく準備したのである。思うに、そこで『存在と時間』の公刊されたテキスト全ての議論が頂点に達する。
その存在において本質的に未来的であり、だからその死から自由であり、死に向かって粉々になりながら、その事実的な「そこ」へと投げ戻されることを自分にさせることのできる、そういう実体のみが、つまりは、未来的なものとして等根源的に在っ−た having-been というプロセスにある実体のみが、自身に伝承した可能性を手渡しつつ、その固有の被投性を引き受け、「そのとき」を見る瞬間にあることができる。ただに本来的な時間性のみが、それは同時に限られているのであるが、運命といったようなものを、すなわち、本来的歴史性を可能にする。(SZ 385/BT 437)
この確たる表現によって、ハイデッガーは時間性の3部構造の歴史的次元を完成させ(これはそれ自体慮の3部構成の母胎である)、それに歴史的な肉と具体化を与えつつ、孤立した「実存論的個体」の問題ではなくする。本来的な現存在は本来的な歴史化でなくてはならない。それが意味するのは、選択の瞬間、真理の瞬間、ヴィジョンの瞬間がとりわけ歴史的な瞬間であり、そこで現存在は己が継承し、己だけが決意する歴史的可能性を捕まえ、見るべき目を持つ、ということである。現存在の時間化 (Zeitigung) は歴史化である。そしてその歴史化は共歴史化 cohistoricizing であり、その「時代 generation」とともにある。本来的現存在のこの歴史的次元、本来性にとって本質的な歴史性こそ、『存在と時間』の通常の解釈がしばしば見逃してしまうものである。それらの解釈は第65節に続くすべてを付け足しにしてしまう。
現存在の決意の 内容 はその歴史性によって、特定の歴史的状況の複雑さにおける現存在の内容あるいは状況によって統制される。これは存在論的−実存論的分析がなしえる、実存的状況に最も近づいた接近である。この時点から、具体的状況の中に普遍的なものを発見し、特定の状況によって要求されているものを知ることは、アリストテレスによって述べられた フロネーシス のようなもの、力である フロネーシス のようなものとなる。そして『存在と時間』ではこの「phronesis」は「Verstehen」と訳され、つまり了解と訳される。なされるべき こと は、(1)死を見てしまった存在者 から of 要求されるものの本来的現存在の洞察に関わり、(2)本来的現存在がその内で己を発見する歴史的瞬間を組み立てる状況の星座 constellation によって 要求されることに関わる。
第九章では、ここにハイデッガー的倫理の組立てがあることを論じるつもりである。ハイデッガーの倫理への敵対は現代の価値理論に対する広範な敵意である。それは非歴史的な主体の行動に関する確定したルールをもって臨んでいる価値理論に対する敵意であり、またこの議論で注目しておいたフロネーシスや歴史性の星座を無視することに対する敵意である。ハイデッガーは現代的倫理に敵対しているが、しかしもっと深い歴史的倫理についてはそうではないということを論じるつもりである。
本来的歴史化の定式に達したあと、ハイデッガーはその本来的歴史性が「反復」であることを示そうとする(Macquarrie-Robinson訳による)。
己に戻ってくる決意性、己を手渡す決意性は、従って我々に下ってくる実存の可能性の 反復 ということになる。 反復すること は 明示的に手渡すこと である。つまり、そこに−在っ−た現存在の諸可能性の中に戻っていくことである。(SZ 385/BT 437)
現存在の存在の循環的な運動は現存在の未来性とその在っ−たとの間の運動である。つまり可能的なものへと 前方へ プロジェクトすることにおいて、現存在はそれに手渡されてきた諸可能性、今や現存在の継承という性質を持ちえる諸可能性へと 戻って 来る。現存在がありうるところのものは、それがそうであったものの関数である。現存在がそうであったものは、現存在が決意的である限り、現存在の諸可能性の範囲を開く。ハイデッガーが 受け取り直し Wieder-holung と呼ぶこの循環的運動は、すでに論じたように、「回復 retriaval」や「修復 recovery」という意味を持つ。それは現存在に手渡されてきた諸可能性の回復であり、現存在がそうであったところのもののうちにずっと生きながらえてきた諸可能性をアクチュアルなものにするということである。 受け取り直し は幾度も前に押しやるキルケゴール的意味(これが根源的に未来的意味を持つ)と、事実的歴史的状況に同時に回帰するという歴史的意味の双方を一つの表現の中に結び合わせている。
従って、反復は前もってアクチュアライズされてきたものを再びアクチュアルなものにするということではない。であるから英語で普通に反復によって意味されるもの、たとえば「反復によって学ぶ」のように以前の行動の単なる再生ではない。ハイデッガーの用語では、反復 (受け取り直し) とは (再び持ち帰る Wiederbringen) ことではない。
けれども、すでに在ったところの可能性を受け取り直して己に伝えることは、現存在を再び現実化するために、そこに在る現存在を開示するということではない。可能性の受け取り直しとは、「過ぎ去ったもの」を再び連れ戻すことでもなければ、「現在」を「追い越されたもの」に再び結ぶことでもない。受け取り直しは決意した自己のプロジェクションから生じるのであって、「過ぎ去ったもの」に説得されて、それを以前の現実的なものとして回帰させることを目指して生じるのではない。(SZ 385-86/BT 437-38)
現存在自身が可能性の存在 (Seinskoennen) である限り、反復はいつでも可能的なものに焦点が合っている。現存在は現存在であり、本来的にそれ自身であり、可能的なものを先駆し、そこにプロジェクティブに先駆ける限りそうである。すでにアクチュアライズされたものを生産する単なる再生は厳密には根源から離れる運動であり、非本来的なものの 堕落 de-generation である。二番煎じのもの、頽落したものである。反復はいつでも原初的な操作である。それによって現存在は何か新しいものを生みながら伝統に潜在する諸可能性を開示する。反復/回復はかくてデリダが強調したがる生産的な意味を持つことになる。反復/回復において現存在は反復であるものについて生産的である。それはたんに古い地盤に赴くということではない。自己は反復によって自己を生産する。反復において現存在は自身の存在を開示し、それが属している歴史的状況の存在を、その時代【世代、発生】 generation の存在を、初めて、開示する。反復は最初のものであり、突破口であり、回復である。それは前方へ押しやる。それは前もって閉じられたものを開き、以前に抑制されたものを自由にする。反復は可能的なものを目がける新しい始まりである。
過去の消え去るこだまからはほど遠く、ハイデッガーにとって反復とは一つの「 回答 Erwiderung 」、応答、返答、それまではたんに潜在的になって待機しているものへの回答である。
むしろ受け取り直しはそこにすでに在った実存の可能性への応答である。決意における可能性の応答は、しかし 瞬間的なものとして 今日「過去」として作用しているものの 撤回 Widerruf でもある。(SZ 386/Bt 438)
反復はすでに在ったところのものにおいて、それに呼びかけているものを答える。可能的であるものに「答える」。現存在が今まで曖昧に探し求めてきたもののために、何かを示す回答を反復が作る。その回答 (Erwiderung) は過去の慣性的な重みの取り消し (Wideruf) である。重々しく生命を失った伝統の重みに抗して語り、抗議し、それを撤回する生きた応答である。可能的なものに作用を及ぼすことは、過去へのしがみつきが「保守的」であるのに対して「革命的」である(GA 45 37)。そこで反復には脱構築的な運動が、反対運動 (Gengenzug) 、反論 (Widerruf) の継起がある。それは唯一の権威は先立つアクチュアリティだということを拒否するものである。反復は アクチュアル なものではなく、 可能的 なものを狙う。可能性は現実性 actuality よりも高いのである。
現存在の存在の未来への方向性はその在ったところのものに関する興味を説明する。未来とは空虚ではない。純粋に論理的な可能性である。しかし限定された回復の可能性は在ったところのものによって我々に手渡される。そしてこのことは実践的歴史家にも妥当する。そうでなければその作業は耽溺した根を失った客観主義(§76)である。フーコーは現前の歴史を書こうとした。ハイデッガーは歴史家の本来の作業は未来の歴史を書くことであると考えていた。
そういうわけで、キルケゴール的反復とハイデッガー的回復との間の差異を、彼らが述べる キネシス という質的観点から見分けることは可能であり、キルケゴールに文句を言うこととは関係なくそうすることが可能なのである。なぜならば、キルケゴール的反復は 前方へ 反復することであるからである。それは決定の地点から出発し、決意の未来的方向に前方へと動き、選択した道に忠実であろうことを誓い、かく自己を手に入れ構成することになる。しかしハイデッガーにおいては、前方への運動が同時に人の継承された諸可能性へと戻る運動である限り、運動はもっと適切には 循環的 であると言える。キルケゴールは 直線的な モデルにとどまるが、その方向を反転する。というのは優勢なる形而上学的概念は、反復を後方への運動と取っているからである。それは永遠を回想の対象として後ろに置く。ところがキリスト的実存は前方へと、永遠を前に置き、かく困難な仕事にとどまることへの報いとする。ハイデッガーが直線的な運動を拒否するというのは、実存の根源的に時間的な解釈への関心が彼を伝統の観念に導くからである。ディルタイやヨークについてのハイデッガーの関心は時間性のもっと完全な歴史的概念化へ彼を引っ張った。キルケゴールは確かに、決意的選択と反復によって個体的なものが彼を自己として構成し、存在への可能性をアクチュアライズすると考えていた。しかし彼はこの根源的なものを個体的な時間性の観点から思惟し、ヘーゲル主義の子孫としての歴史の概念に抵抗したのである。
我々はこうして反復の、 キネシス の三人の哲学者たちと出会い、流れに対するエレア派的非難に取り組む三つのやり方に出会い、生の原初的な困難を復活させる三つのやり方に出会った。どの場合でも反復は同一性を確立し、流れに対処し、それを否定するのではない方法として機能している。これらの努力は『存在と時間』に極まり、その現存在の循環的存在の説明と了解の解釈学的循環に極まる。今や向かうべき問いは、果たしてこの解釈学的循環が、最終的にはエレア派やパルメニデス的 アレーテイア の包括的な循環と共犯関係に陥るのではないだろうか、ということである。そこで存在は自己−現前の最終の身振りのうちにある存在にしがみつくのである。