INDEX   投稿順一覧   最初の投稿   トピック内新規投稿   ツリー表示
TOPIC Consciousness and the Computational Mind 3 計算的心の予備的記述
 
Subject Computationalの訳
Author イストラン [ 1523 to イストラン ]  8/18/Fri/2000   

さるところで、computation を「論理」という文脈で使っているのを見ました。この「計算的心」というのは実にしょうもない訳だと思いますが、「論理計算的」心、というふうにすれば、もう少しましになるでしょうか。

返信(引用有)   返信(引用無)   全スレッド   ツリー表示   最新20   新規投稿   削除   編集
トピック= 1520 宛先= 1522 同宛先= 返信=
 
Subject 計算的理論と計算機理論
Author イストラン [ 1522 to イストラン ]  8/18/Fri/2000   

 前節では、ある仕組みの計算的理論ということで何を言いたいのかをよりはっきりとさせておいた。つまりこの理論は、その仕組みが持っている機能的複合体の形式的結合の相互作用について語っている。さて私はそうした理論のクラスと、もっと狭い 計算機 理論とを区別したいと思っている。後者は全ての現代的汎用計算機 computer 理論である。神経科学の重要な寄与の一つは、それによって我々は計算機理論が受け持つ仕組みの領域の外側に心を置けるようになったということである。同時に、それは心の妥当な理論に関して全く異なった境界条件を設定する。
 ここに脳とコンピューターについてよく知られた四つの差異があるのだが、それらの根は神経科学のかなり基本的な事実の中にある。

 1.デジタル 対 準デジタル的機能単位
コンピューターの基礎的機能単位は二つの状態、オンとオフを持つ二進的スイッチである。脳の基礎的な機能単位はニューロンである。マッカロー MacCulloch とピッツ Pitts (1943)によって議論されたことは、「ニューロンの活動は全てか無かという過程である」 --- つまり二進法的かつデジタルだということである。この理想化のもとで、彼らは脳の計算的力がコンピューターと比較可能であると数学的に証明することができた。マッカローとピッツの理想化は、ニューロンが発火するとき、それはいつでも同じようにして発火するという事実に基づいている。発火したあと、それは「耐火期」にあり、その間ふたたび発火することはできない。他方、発火の割合とパターンは持続的に変化するのだが、これもまた神経相互作用においては一つの役割を演じている(カンデル Kandel とシュヴァルツ Schwarz 1981,23,162; アンダーソン Anderson 1984,362,366)。かくて、ニューロンの活動はただ「準デジタル」だということになる。不連続の閾効果はあるのだが、連続したアナログ的行動の幅もあるわけである。私の知る限り、そうした単位から構築された大規模な計算的装置にとっては、有限オートマトンのための計算理論に比肩しうるようないかなる数学も存在しない。(ミンスキー Minsky とペイパート Papert 1969 は正しいかもしれない。)そうした装置はコンピューターを含む標準的有限オートマトンの観点からは全く期待できない諸特性を持ち得る。(この差異はフォン ノイマン Von Neumann 1958 によって最初に指摘された。)
 コンピューターは準デジタル的に行動することをプログラムすることができるではないかという反論もあろう。それは正しい。しかし脳のように機能的に振る舞うためには、ニューロンはデジタル計算の危険な総計を一つ一つ模倣しなくてはならなくなる。それより以下のものはなんであれ、ハリケーンとか胃の記述の次元にある脳行動の記述にすぎないだろう。もちろんこれはつまらないことではないが、それにも拘わらず計算的な心の具体化ではない。

 2.  逐次的 対 集合的並列的計算
デジタルコンピューターの標準的構成はいつも中央演算処理装置を含む。それは受動的記憶から情報を取り出し、その中で操作し、また記憶の中にそれを置く。中央演算処理装置はある時間に一つのことのみ遂行できるようになっている。複合的な作業はただそれらの連続した操作を差し込むことによってのみ同時に遂行できる。機械の速さはそれが一秒間に遂行する連続した操作の数を増やすことで増大する。
 これと対照的に、脳の中には中央演算処理装置とメモリーの違いに相当するいかなる解剖的所見も存在しない。むしろそれぞれのニューロンは小さな独立した処理装置として活動しているように見える。従って、脳の計算は集合的並列的なやり方で遂行されている可能性がある。多くの処理過程が一度に進み、相互に影響し合っているということである。ニューロンの反応速度(とくにシナプスを横断して伝達する時間)は現代のコンピューターと比べて比較的遅いのだから、その計算の速さは複合された装置のたんなる物理的速さではない手段によって達成されているに違いない。90km/時の野球の球を打ったりするというような感覚運動的共働性に関わる作業において、またラフマニノフのピアノ協奏曲第3番を引くような素早い運動的作業において、さらに話したりというような作業において、このことは大事なことである。そうした作業では運動の共働性はだいたい20ミリ秒の誤差のうちに達成されるに違いない。
 そのような並列的行動は逐次的コンピューターによって、その計算能力を大きく犠牲にしながら、ある程度まではシミューレート可能である。しかしそれで結果はまたもや記述レベルのものであり、計算的な心の具体化とはならない。
 コンピューター科学の最近の研究は「結合された」機械の発達に導いた。つまり多くの独立した、しかし相互作用する処理装置からなるコンピューターである(フェルドマン Ferdman と バラード Ballard 1982; ルーメルハート Rumelhart と ズィプサー Zipser 1985; アクリー Ackley、ヒントン Hinton、セジュノウスキー Sejunowski 1985)。そのようなマシーンは私が「計算機理論」と呼ぶものの範囲に入らない。ある点では脳のようである。これらのマシーンはそれ自体で大変興味のあるものであるが、私の意見ではそれらもまた、(人工に対する)自然知能の新しい理論を意味のある仕方で生み出すことができるかどうかという心理学の難問に十分適用されてきたとは言い難い。

 3.  汎用 対 特殊用途のハードウェア
標準的なコンピューターのメモリーは等ポテンシャル【等電位 equipotential】である。つまり同じ情報がそのどの位置にも書き込み可能である。他方、脳の機能はひどく局地化されている。このことは多くの「ハードウェア上の」差異があることを示している。これらの局地化は生物学的に決定されているように見える。というのはそれらは個体を横断して概して同じだからである。主として知られているのは脳半球の優位であり、左利きの人では逆になることもあるが、しかし少なくとも部分的には遺伝によって決定されている(そしてもちろん偶然とか学習によってではない)。脳の損傷の場合には、脳機能がなにかしら変化し、とくにとても若いうちには変化するということは本当である。しかしながら、そういう偏差が生じてくるもとになる基本的な事実は、脳が汎用コンピューターのメモリーの等ポテンシャル性を示していないということである。
 このことによって、なおその上、脳が対応する「ソフトウェア」の種別化を行っているという可能性が出てくる。つまり、計算的な心は多くの複合部分を含んでいるのであるが、それらはそれぞれ固有の「言語」を持ち、この言語が特別な目的のために充てられているということである。第二部と第三部がそうした見解を発展させるためのものであるから、論ずるべき事柄を予告する以上のことはここでは控えることにする。

 4. ハードウェアの不変性対変化
 もしもコンピューターが行動パターンにおいて変化を被るならば、我々はそれがプログラムの中での変化であり、コンピューターの物理的な構造の変化ではないと確信する(装置の故障とか修理人による外部の介入はのぞく)。とくに、内的に引き起こされた行動の変化(「学習」)はプログラムのある部分が他の部分を変えていることに原因がある。
 脳においては、対照的に「ソフトウェア」と「ハードウェア」の変化の間の明確な区分がはるかに少ない。シナプスの反応が変化するなら、それは「プログラム」の変化だろうか、それとも「配線」の変化だろうか?少なくともその成長において起こるようにニューロンが新しい結合を成長させているならば、それは「配線」の変化であると同時に「プログラム」の変化だろうか?以下同様である。加えて、脳の計算的機能は血流や、ホルモン作用などによって影響を被るが、こうしたものに対応するものはコンピューターにはない。そういうわけで、脳は多くの「ハードウェア」の変化を経験するが、これは心における影響と対応しているのである。
 このことは究極的には何を意味しているのだろうか。それは、計算的な考察を脳の物理的具体化から完全に分けることが、コンピューターアナロジーから期待されるほど妥当ではないということである。とくに、もし我々がしようとすればコンピューターに情動を構築できるというような印象に対するミンスキーの(Huyghe 1984.34から引用)見解については疑ってしかるべきである。さほどの困難もなく表面的な模倣(ハリケーン様の記述)なら構築できるかもしれないが、情動のメカニズムを実際に具体化することは、思うに物理的装置のコンセプション全体を根底的に変えなくてはならない。
 脳とコンピューターの間のこれらの違いに加えて、作業が特殊化された行動の差異が我々を立ち止まらせる。私が念頭に置いているのは大規模な認知的作業(「コンピューターは決してシェークスピアを書くことができないだろう。」)ではなくて、物事を記憶することのような日常的な事柄である。ある記憶の作業は人々にとってまったくありふれたものであるが、しかしプログラミング技術にとってはそうではない。たとえば、ある英語の単語について、数個の意味を持つ何万という語彙から文脈に適合した意味を素早く再生することである。またある種のメモリーの作業はプログラムにとってはまったくありふれたものであるが、紙と鉛筆に助けられない人間にとっては非常な努力を要する。「集中」というゲームを例にとろう。それは50枚ぐらいの表を伏せたカードを行列にして始まる。プレイヤーは二枚のカードをめくる。もしそれらが一致していたら、めくったプレイヤーはそれらを取っておくのが許される。そうでなければまたカードを伏せて戻さなくてはならない。最後に一番多くカードを持っているプレイヤーが勝つ。明らかに、もしプレイヤーがひっくり返したカードの数値と場所を書き留めることができるならば、ゲームは単純なものだろう。そしてそうした原理に基づいたコンピュータープログラムは子供の遊びとなるだろう。けれども、なんらかの補助手段なしではこのゲームは極度の自己修練と注意力を要求する。
 なぜ人間にとってはかくもたやすいことがコンピューターにとっては困難なのか、また逆もしかりである。計算的な組織にはある種の基本的な差異があって、そこから行動の違いが自然に結果するのではないだろうかと考えるように導かれる。
 この節で引いた差異は、もちろんどれも直接的に計算的な心の理論に導くものである。あまりにも字義通りのコンピューター隠喩に対する警告として、私はこれらの差異に言及したのであるが、それはまた我々がプログラムの仕方を知っていることとは性質上ことなる計算的理論に道を開けておくためでもある。同時にこの種の事実は計算的な心の探求の重要な境界条件として役に立つものである。神経科学が計算的な組織の基本的な側面を説明できるようになってもらいたいものである。そして計算的な組織には、日々の作業における人々の行動の性質を説明できるようになって欲しいと思っている。

返信(引用有)   返信(引用無)   全スレッド   ツリー表示   最新20   新規投稿   削除   編集
トピック= 1520 宛先= 1520 同宛先= 1521 返信= 1523
 
Subject 計算的心の正当化
Author イストラン [ 1521 to イストラン ]  8/15/Tue/2000   

計算的心の記述のための予備考察

 情報処理装置としてコンピューターと類比化したのを別にすると、第2章は計算的心の性質についてかなり漠然としたものだった。意識問題に関わる要素を詳しく記述するというのが第2部、第3部の主題なのであるが、その前に記述されるべき事柄をはっきりと描き出す必要がある。

3.1 計算的心の正当化

 なぜ 心的表象を含む 装置として脳を考えるのが許されるのだろうか。1

1  この節は1984年にJ・サールとした議論に多くを負っている。またフォーダー 1984を読むという失望させる経験にも多くを負っている。

 惑星システム、天気のパターン、消化のような他の仕組みについて形式的な理論を我々が構築するとき、それらの仕組みの振る舞いについての数学的再構築やシミュレーションとしてのみ、我々の理論はみなされる。たとえば、惑星が次に運動する場所を教える解を導く微分方程式を解いている、などと我々は主張しない。最後に食道から入ってきたものをどう処理するかを計算するための「消化表象」を胃に帰するなどということは我々はしない。それならどうして脳は異なると主張することに正当性を感じるのだろうか。脳は実際に計算をして いる と言うことになぜ正しさを感じるのだろうか。心の形式的理論は、脳がどのように振る舞うかを予言するための別の複雑な計算の仕組みとして考えられないのだろうか。

 コンピューターアナロジーをもっと探求すれば、可能な答えが生れる。コンピューターの振る舞いの形式的な記述を、たとえば電気モーターと比べてみよう。モーターの記述はモーターが計算をしているとは主張しないだろう。しかしコンピューターの記述はコンピューターで走っていると推定されるプログラムに言及するだろうし、コンピューターが実行する計算を顕らかにするであろう。コンピューターは内的表象を持っていると言われるが、モーターはそうではない。違いはどこにあるのか。

 ここで我々は、脳と胃の対照よりももっと明確な根拠にたどり着く。モーターもコンピューターも、より大きな機能単位に配列された多くの同じ構成部分から成っている。モーターにおいては、各コイルの個々の巻き線は集合的動作において機能する。記述という目的にとって、それらの動作はただコイルの動作を産み出すということにまとめられうる。さらに、コイル間の電流の開閉はコイルの電気的状態の機能ではなく、整流器の物理的状態の機能である。

 けれどもコンピューターにおいては話が異なる。各2進的スイッチ(「フリップフロップ」)の状態が他のものの状態から独立している、という事実にコンピューターの力は依っている。かくて、より大きな構成部分の動作は下位部分の動作の総計ないし平均ではない。むしろそれは諸部分の精密に結合的特性に依存している。さらに、それぞれの部分の状態変化は他の部分の結合的諸特性に依存している。

 この機能の違いによって、二つの仕組みに対する妥当な記述形態は根本的に違うことを余儀なくされる。モーターの記述は、その諸構成部分の集合的動作について話しつつ、単独の巻き線から離れて理想化される。それに対してコンピューターの記述は、それぞれの構成部分の状態や、それらが結合的相互作用について明らかにしなくてはならない。さらに装置の振る舞いの全記述にとって、結合的諸特性はその複雑さにおいて、個々の部分を圧倒する。そのため、物理的具体化 instantiation から多くの記述が独立することになる。同一の結合的特性を備えているならば、どの装置も同一の可能な状態の集合を持ち、同じ状態遷移を経験するだろう。結合された状態は物理的というよりは形式的なので、我々はここで計算的記述に到達するだろう。

 まさにそうした差違が胃と脳の間でも通用する。胃の細胞はより大きな構成部分に集まり、これは集合的に en masse 機能していると見なされる。脳の細胞はもっと独立的に機能し、それぞれの機能は、ある細胞が他の多くの細胞と相互作用するその多くの細胞の結合的諸特性によって決定される。かくて脳の機能の記述は胃の機能の記述と異なって、小さな構成部分 small-scale components の結合的振る舞いをコード化 encode しなくてはならない。さらに、全体的記述においては、形式的な結合的特性に起因する複雑さは個々の構成部分の複雑さよりもかなり意義深い。そのことから脳はその組織のおかげで、形式的諸特性の集合を具体化し、さらには計算的な記述を具体化するというふうに言えよう。

 脳の計算的アプローチに対して共通する反論があるが、それは、進化の持続性というものに関わる。もし人類が計算的な心を持つならば、猿はどうか?犬は、亀は、魚は、蟻は?扁形動物や腔腸動物はどうか?あるいはフォーダー 1984 に従えば、いっそのことゾウリムシはどうなのか?どこで基本的な線を引けるのだろう。もしできないのであれば、それならどうして人類は心を持つがゾウリムシは持たないと一貫して主張できるのだろうか。

 なぜ脳は計算的な心を持つのか、以上の説明はこの攻撃に対して妥当な(と私には思える)答えを用意する。再び機械を見てみよう。明らかに、コンピューター的装置としてサーモスタットのように単純なものを考えようとする人がいる。しかしその計算的記述はその振る舞いをあまり明らかにはしない。どんな 物理的 手段によって、それが炉のスイッチを入れたり切ったりするのかを我々は知りたいのである。複雑さの他方の極としてコンピューターが存在する。その振る舞いは、相対的に少量の違ったタイプのスイッチングデバイス数百万から成る結合的特性に関わっている。ここでは個々の構成部分の記述はそれらの相互作用の記述の下位に甘んじ、そこで計算的な記述が支配的となる。(もちろん、それでも物理的構成要素は最後には記述されるのだが。)

 この両極端の間に複雑さのいろいろな程度を持ったたくさんの機械がある。もしある統制のもとに基本的単位の間の結合を増大させることで複雑性が成長していくならば(つまり、もしたんに配線とパーツを加えるということでなければ)、物理的記述が形式的結合的記述よりもっと不分明 less revealing になる点というのが見えてくる。これは実際には複雑さの尺度における不連続な点ではない、それはむしろプラグマティックな範囲である。私の古い教科書だったシーケンシャルマシーンについての著作(Moore 1964)はまさにこの遷移範囲の間をうろうろしていた。シーケンシャルスイッチ回路と最終のオートマトンの境界上である。そしてここで(物理的)回路のダイアグラムが(計算的)状態の遷移ダイアグラムと恥ずかしげもなく肩を並べているのである。

 系統発生のスケールを遡るにつれて、同様の遷移が動物の行動の記述において生じるということを仮定しても合理的に思える。単純な有機体に対しては、記述の主たる役割は本性上生物的かつ化学的である。計算的記述はそれほど現れない。動物が神経システムを発達させ、その結合的特性が意義あるものとなり、反応が集合的性格のものではなくなるとき、そのとき初めて、有機体によって具体化された形式的システムとしての結合的特性を扱うことが興味あるものとなってくる。下位の動物の神経システムについては私は十分に知らないので、遷移領域について知的推論ができないが、虫や蜘蛛やヤリイカのすることと比べれば、それは彼らよりも下にあり、おそらくはミミズや巻き貝よりかは上にあるものと想像するだろう。この遷移領域において、完全な、しかしかなり手に負えない神経生理学的記述に代わって、単純だが、しかしつまらなくはない計算的記述を人は期待するだろう。

 もっと複雑な生物の神経システムにおける小さな分離しうる構成部分の記述でも同じことが期待される。誰も反射弓の計算的な記述について興奮することはできないだろう。たとえば、そこにはいかなる興味深い結合的特性もないのである。しかし、ガリステル Gallistel 1980 の『行動の組織 The Organization of Action』のような著作においては、遷移領域が登場する。そこではより単純な(とはいえ驚異的に洗練された)虫の歩きのような振る舞いが神経生理学的見地から記述されているものの、雀蜂の巣作り能力のようなもっと複雑な振る舞いは計算的表象の見地から記述されなくてはならないと論じられているのである。同様に、視覚システムのより周辺的な部分は神経生理学的記述に従っている。しかし集合的相互結合が規則となる脳の方に向かっていくとき、機能的組織の見地からする記述がいやましに必要になる。それは関連する神経解剖学的知見が発見されたからということもあるのだが、神経構造それ自体がシステムの複雑さの中で支配的ではなくなっている、という理由からである。

 従って我々は、脳の計算的理論は惑星、ハリケーン、サーモスタット、胃などの理論とは別の理論であること、またそうした理論の必要性は仕組みの結合的特性から生じているのだということを理解する。さらに言えば、神経システムが大きさと組み合わせにおいて成長するように、計算的な心は進化過程の中で新しく現れた特性として見られることができる。

 意識の理論にとっては結論がいくつかあるということはほとんど言うまでもないことである。もし理論Uが正しく、計算的な心が意識に現前する記述に責任があるのであれば、興味を引く計算的な心がないところには興味を引く意識もまたない。そういうわけで我々はグローバス Globus(1976,290) に同意して次のように言おう。「複合性を増していくシステムのヒエラルキーにおいては、心[つまり意識]がその線より上で生じ、その線より下では生じないなどという恣意的な線引きをする場所がない。最高次の複雑さでのみ、ともあれ意識が生じるなどという考えは人間に対する最悪のえこひいきである。」しかしながら、以下のような(p.290)確認については否定する根拠が見つかるだろう。「岩に内在する意識と[人間の]脳との違いは、脳に内在する心が岩のそれよりも10兆倍意識的であるということにある。それでも違いは ただに量的にすぎない[彼のイタリック]ものである。」理論Uによれば重要な移行は非動物から動物へということにあるのではなく、動物の王国内にある。それは計算的な心の出現に従っている。岩は区別を記号化することがない。しかし「岩」をグローバスの説明にある「扁形動物」にしてみれば、なんらかもっともらしくなるのである。
 もうひとつ、方法論的にもっと重要な結論がある。もしも脳が集合動作的というよりも複合的であるならば、集合的動作を測定することに第一に依拠する技術的探求は、脳の機能の詳細な理解を生み出さないということである。技術ということで、私はEEGs や CAT スキャンを思い浮かべる。それらは脳のいろいろな部分で局地化される活動を調べることができる。そういう測定は有用ではあるが、なにが起こっているかについてただ一般的な考えを与えるだけである。問題になっている領域の詳細な結合特性は、いかにそれらが機能するかを理解するために調査されなくてはならない。さらにまた個々のニューロンの活動を測定することはそれ自体ではあまり事柄を明らかにしない。というのはこの仕組みの振る舞いに責任があるのは個々のニューロンの他のニューロンとの相互作用だからである。
 そうした探求は面白くないと言っているのではない。しかし仕組みの本性からして、いかに洗練されようと、これらの技術だけでは思考内容や意識経験の説明に導いてくれない。そういうわけで私は現代的神経科学の作業を補助的なものと見ている。それは計算的な心の探究にとってかわることはできない。

返信(引用有)   返信(引用無)   全スレッド   ツリー表示   最新20   新規投稿   削除   編集
トピック= 1520 宛先= 1520 同宛先= 1522 返信=
 
Subject Consciousness and the Computational Mind 3 計算的心の予備的記述
Author イストラン [ 1520 new post ]  8/15/Tue/2000   

第三章 計算的心の予備的記述

 この章はまだ序論の段階にある。二つの節で計算的心の範囲をどちらかというと、あれではない、これでもないというふうに確定しようとしている。

 Jackendoffは物理的領域の話と心的領域の話の中間に、いわば媒介としての計算的心というものを設定しているように見える。認知科学ということから想像していた以上に伝統哲学的な印象がある。表象というタームを使ったりする。表象はおそらく媒介的な位置にある。ただこれをいかに構造化するのか、それが問題なのだろう。しかしその話は第四章に持ち越される。


 1 計算的心の正当化
 2 計算的理論と計算機理論

返信(引用有)   返信(引用無)   全スレッド   ツリー表示   最新20   新規投稿   削除   編集
トピック= new post 宛先= 同宛先= 返信= 1521 1522


Complete


Eleutheria ver.1.6 / 2004.12 by www.eleutheria.com