| TOPIC |
Radical Hermeneutics 2 反復と構成:フッサールのプロト解釈学 |
| Author |
イストラン
[ 1519 to イストラン ] 8/13/Sat/2000 |
そういうわけで、我々はこの地点において反復の二つの作業に遭遇したのである。まずキルケゴール的な反復が前方に向かって、日々の関わりを持続させる創造的行為によって反復する。キルケゴール的反復 repetiton の「再 re」は、人がそうであり始める自己へと、未来の中で戻ることを意味する。それは意味の場ではなく、実存の場において生ずる。実際そのもっとも内向した情熱的な瞬間において、まさに意味なしで、意味に反してすら突き進むのである。それは信仰の倫理宗教的行為であり、道徳的自己を構成し、創造しようという行為である。キルケゴール的反復は実存的、未来的決意 resolve であり、可能的なもの、偶然的なものに向かう。自由のめまいのあらゆる側面にさらされ、可能的なものへの不安へと、来るべき生 vita ventura についての不安へとさらされる。その創造物は実存的な決意の織物で織られた倫理的な自己である。
フッサールには反復の比較しえるエネルギーがあるが、しかしそれは自己の生成においてではなく、センス sense と意味 meaning の生成において展開されたものである。反復は意味の構成の認識的なセンスを持つ。経験の瞬間が期待の織物の中へと織り込まれ、意識がいつでも流れに先立って足下を確保することができるようになる過程である。意識はそのとき経験の流れの中で方向づけられ、方位づけられ、その挫折した期待から学び取れるほど柔軟なものとなる。それは志向的獲得の上昇するセリーによる歴史の創造的構成の理論である。
しかしフッサールの反復のエネルギーはいつも回想の形而上学的身振りへ従属させられている。それは起源への回帰へと、反省の内での自己の回帰へと、後方へ反復したがる反復へと従属させられる。この点でフッサールは世界を反省的に所有するために世界から身を引き離し、非関与 disinterest の立場へと退行している --- 形而上学がつまづくのはいつでも関心について upon interest であるというコンスタンチンの警告に一致している。彼は完璧な回帰だとか無限の目標という形而上学的な夢に負けている。彼は流れに反抗し、外側に立場を求める。そこでは意識はその効果から隔離され、意味の理想的統一体や無限のプロジェクトと交わりを保つのである。フッサールの歴史の説明ですら、実存や可能的なものではなく、意味や必然的構造という観点から生じるのである。キルケゴールならフッサールのこの側面に流れの偽の友を見るだろう。それは キネシス と生成の面を捕らえる詐欺の道である。流れを眠りこませ、その戯れ play を捕獲する形而上学が持つもう一つの怖れである。このフッサール --- 形而上学的、反解釈学的、デカルト的フッサール --- はキルケゴール的意味での「哲学」や「思弁」の作業を行い、プラトン的 想起 anamunesis やヘーゲル的 内化 Erinnerung のもう一つのヴァージョンを表象する。
キルケゴールは形而上学が失われた現前のノスタルジーに向かうこと、形而上学は想起的再生の作業であり、後方に向かう反復の作業と自らを定義することを理解していた。この時点でキルケゴールはもっとラディカルな破壊的思想家だった。純粋な反復は前方へ反復するのであり、それが成るだろうものを産出する責任を引き受ける。純粋な反復はいつでも生成と キネシス のエレメントにおいて作動し、流れの中に道を造ることを学ぶのである。
さてこの探求の主張とは、『存在と時間』 --- それは我々が今日「解釈学」というもので理解する事柄を定義するのだが --- において、これら二つのまったく異なった反復の哲学が一緒にされているということである。ハイデッガーは自己の生成のキルケゴール的プロジェクトと、意味の生成のフッサール的プロジェクトを融合させた。彼は前構造化と先行描写によって進むフッサール的構成理論と共働して、生成と時間性の存在としての自己の実存的存在論を展開した。だから彼は意識の前−構造を存在論的地盤の上に置く。彼はフッサールに残っていたデカルト的存在論や「意識」の形而上学とは手を切った。それは、近代の形而上学としてプラトニスムの最終形態を表象する。かくてハイデッガーは現象学を再び生の困難さへ付託する。現象学を慮 care の存在論へと根づかせ、現代的ポストディルタイ的意味での「解釈学」として知られることになるものを形造った。いまや我々の作業は次のようなものとなる。そのハイデッガー的受け取りをもっと詳細に展開すること。そしてそれ自体がプラトニズムとの共犯関係にあると責められるときに、それ自体が現前の形而上学のもう一つの形態であり、流れのもう一つの意気地のない友であると受け取られるときに、一体どうなるのかということを見ることである。