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TOPIC Radical Hermeneutics 2 反復と構成:フッサールのプロト解釈学
 
Subject 反復の二つの哲学
Author イストラン [ 1519 to イストラン ]  8/13/Sat/2000   

 そういうわけで、我々はこの地点において反復の二つの作業に遭遇したのである。まずキルケゴール的な反復が前方に向かって、日々の関わりを持続させる創造的行為によって反復する。キルケゴール的反復 repetiton の「再 re」は、人がそうであり始める自己へと、未来の中で戻ることを意味する。それは意味の場ではなく、実存の場において生ずる。実際そのもっとも内向した情熱的な瞬間において、まさに意味なしで、意味に反してすら突き進むのである。それは信仰の倫理宗教的行為であり、道徳的自己を構成し、創造しようという行為である。キルケゴール的反復は実存的、未来的決意 resolve であり、可能的なもの、偶然的なものに向かう。自由のめまいのあらゆる側面にさらされ、可能的なものへの不安へと、来るべき生 vita ventura についての不安へとさらされる。その創造物は実存的な決意の織物で織られた倫理的な自己である。
 フッサールには反復の比較しえるエネルギーがあるが、しかしそれは自己の生成においてではなく、センス sense と意味 meaning の生成において展開されたものである。反復は意味の構成の認識的なセンスを持つ。経験の瞬間が期待の織物の中へと織り込まれ、意識がいつでも流れに先立って足下を確保することができるようになる過程である。意識はそのとき経験の流れの中で方向づけられ、方位づけられ、その挫折した期待から学び取れるほど柔軟なものとなる。それは志向的獲得の上昇するセリーによる歴史の創造的構成の理論である。
 しかしフッサールの反復のエネルギーはいつも回想の形而上学的身振りへ従属させられている。それは起源への回帰へと、反省の内での自己の回帰へと、後方へ反復したがる反復へと従属させられる。この点でフッサールは世界を反省的に所有するために世界から身を引き離し、非関与 disinterest の立場へと退行している --- 形而上学がつまづくのはいつでも関心について upon interest であるというコンスタンチンの警告に一致している。彼は完璧な回帰だとか無限の目標という形而上学的な夢に負けている。彼は流れに反抗し、外側に立場を求める。そこでは意識はその効果から隔離され、意味の理想的統一体や無限のプロジェクトと交わりを保つのである。フッサールの歴史の説明ですら、実存や可能的なものではなく、意味や必然的構造という観点から生じるのである。キルケゴールならフッサールのこの側面に流れの偽の友を見るだろう。それは キネシス と生成の面を捕らえる詐欺の道である。流れを眠りこませ、その戯れ play を捕獲する形而上学が持つもう一つの怖れである。このフッサール --- 形而上学的、反解釈学的、デカルト的フッサール --- はキルケゴール的意味での「哲学」や「思弁」の作業を行い、プラトン的 想起 anamunesis やヘーゲル的 内化 Erinnerung のもう一つのヴァージョンを表象する。
 キルケゴールは形而上学が失われた現前のノスタルジーに向かうこと、形而上学は想起的再生の作業であり、後方に向かう反復の作業と自らを定義することを理解していた。この時点でキルケゴールはもっとラディカルな破壊的思想家だった。純粋な反復は前方へ反復するのであり、それが成るだろうものを産出する責任を引き受ける。純粋な反復はいつでも生成と キネシス のエレメントにおいて作動し、流れの中に道を造ることを学ぶのである。
 さてこの探求の主張とは、『存在と時間』 --- それは我々が今日「解釈学」というもので理解する事柄を定義するのだが --- において、これら二つのまったく異なった反復の哲学が一緒にされているということである。ハイデッガーは自己の生成のキルケゴール的プロジェクトと、意味の生成のフッサール的プロジェクトを融合させた。彼は前構造化と先行描写によって進むフッサール的構成理論と共働して、生成と時間性の存在としての自己の実存的存在論を展開した。だから彼は意識の前−構造を存在論的地盤の上に置く。彼はフッサールに残っていたデカルト的存在論や「意識」の形而上学とは手を切った。それは、近代の形而上学としてプラトニスムの最終形態を表象する。かくてハイデッガーは現象学を再び生の困難さへ付託する。現象学を慮 care の存在論へと根づかせ、現代的ポストディルタイ的意味での「解釈学」として知られることになるものを形造った。いまや我々の作業は次のようなものとなる。そのハイデッガー的受け取りをもっと詳細に展開すること。そしてそれ自体がプラトニズムとの共犯関係にあると責められるときに、それ自体が現前の形而上学のもう一つの形態であり、流れのもう一つの意気地のない友であると受け取られるときに、一体どうなるのかということを見ることである。

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Subject 解釈学からのフッサールの出発
Author イストラン [ 1518 to イストラン ]  8/10/Wed/2000   

 標準的な読解によれば、フッサールは純粋な与えられたものへの無前提の探求を企て、これに対してハイデッガーは解釈的、解釈学的現象学の中で正しい前提を求めたとなっている。さて先ほどからの議論に価値があるとすれば、そういう標準的な解釈があまりに安易かつ単純化したものであることを示しているということである。フッサールの構成の理論は前−構造の --- 予期的先行描写の、地平の、歴史的−言語的獲得の概念にもとづいている。この点でなんら異なることなく、ハイデッガーとフッサールの現象学は事実厳密に一致している。
 フッサールにとっての志向性、ハイデッガーにとっての了解 understanding(GA 24/BP ∫11-12)は、了解されるべきものを予期的に把握することによって、いつでも前もって導かれなくてはならない。それに失敗すれば流れの中で方向を失い、乱雑に切り刻まれ、事柄を手元に捕まえることが不可能となる。もしも意識が知覚されるべきものの中心線を前もって描写できなかったならば、解釈不能で非志向的な質料データの、内的時間−流のカオスに溢れ、知覚は崩壊するだろう。もしも現存在が解釈されるべき実体の存在をプロジェクティブに理解するようになっていなかったならば、現存在はなにも了解することがないことをさけるために、もっとも共通の、公共的に手に入れることのできる了解の枠組みのなすがままになるだろう。それゆえに、もし我々が「予期的先行描写」の意味で「前提」を読むならば、フッサールもまたハイデッガーとともに次のように言うことができる。

 哲学は決してその諸前提を否定しようとはしないだろう。
しかしまたたんにそれらを認めることもないだろう。哲学は
諸前提を考える。そしてさらなる洞察をもって、諸前提自体
およびそのために諸前提が諸前提となっているものを展開す
るのである。
(SZ 310/BT 358)

 フッサールとハイデッガー双方にとって、現象学の作業は展開(Entfaltung)の作業であった。それは展開/解説すること explicating、明示的な経験を可能にする暗黙の前−構造を繰り広げることである。現象学は両者にとって展開の徹底 subtilitas explicandi であり、地平の展開という、それなしではいかなる実体も対象も現れることができないものであった。フッサールとハイデッガーにおいて、全ては暗黙な implicit ものと明示的な explicit ものの論理に向かっており、それゆえに現象学の循環的論理には欠陥がないと言ったデリダは正しかった(cf W&V 173/T&M 163; Marg. 151/126)
 しかしながら、このことでフッサールは彼自身が始動させた解釈学に対してついぞ逆らわなかったということを述べているわけではない。また彼の思考が全く形而上学的反解釈学的衝動の犠牲にならなかったということを述べているわけでもない。すべてが語られ、なされた後で、私がフッサールに帰すのは「プロト−解釈学」だけである。十全に発展せられた意味での解釈学ではない。このクリティカルポイントにおいて、フッサールは伝統的な反解釈学的立場へと逆行するのである。
 ハイデッガーに見られる了解のプロジェクティブな性格はそれ自体もっと深い現存在の存在論的組立に根づいている。了解の構造は現存在の存在を慮 care として、実存として、時間性として反映する(この点は次章でもっと詳しく調べることにする)。まさにこの点において、キルケゴールの存在論が『存在と時間』に、ある決定的な様で介入する。ハイデッガーの解釈学的循環はかくて現存在の存在に慮として根付いている(SZ 315/BT 363)。ハイデッガーにとっての了解のプロジェクティブな性格はプロジェクトとしての現存在の存在の一機能である。了解はプロジェクティブな先行描写によって進む。 なぜなら 現存在の存在はいつでもそれ自体に先立っているからである。ハイデッガーの解釈学の概念は実存としての現存在の存在論に基礎づけられている。そこからまさに無前提性という概念はハイデッガーにとって存在論的パラドックスになる。無前提性を獲得するために現存在は不可能にも per impossibile 存在の変化を被り、もはや現存在ではなくなり、未来的でもプロジェクティブでもないものとならねばならない。さらには慮の基本的意味からして、現存在はその前提の中へ押し出され、投げ出されてある。慮というのは現存在がプロジェクティブであると同時に投げ出されてあること、実存的であると同時に事実的であることを意味している。従って現存在はいつも歴史的に位置する事実的了解、あるいは前了解の中で動き回るのであり、そこから自身を解放することはできないし、また望まない。以下に見るように、これは『存在と時間』のガダマーの拡張にとっての出発点であり、その方向は「哲学的解釈学」にある。
 しかしながらフッサールの場合、このキルケゴール的ゾルゲ/慮の存在論はどこにも見いだされない。フッサールは存在論的低層の中に先行描写の分析を根づかせる努力をしなかった。先行描写の理論、実際彼の現象学的観点の全てであったものは存在論的に無垢でなくてはならず、存在論的前提に邪魔されてはならない、これがフッサールの意向である。現象学は純粋に記述的身分を保たねばならない。存在論の泉から引き出すことなしに、もっぱら現象学的反省という独立した作業から現象学は生じなくてはならないのである。現象学的自我は存在論的な導きなしに道を切り開くことができるものであり、だから志向的先行描写はそれ自体存在論的に先行描写されるのではなく、存在論的には 中性的 neutral であるとフッサールは考えた。
 しかし、 存在論的中性化 に向かう身振りをもって、フッサールは手の内を見せる。ハイデッガーとフッサールの間の問題が明るみに出る。それは世界的自我(=世界内存在)の具体的生に関わるというよりも 存在論的 諸前提の問いに関わる。ハイデッガーにとって、フッサールの存在論的中性への関わりは存在論から逃れるものではなく、自らのうちに意識の存在(the Sein of Bewustsein)の秘められた存在論を宿している。存在論的 中性 を求めることで、フッサールは意識の存在をそれが自身を中性化 できる ものとみなした。あるいは世界の汚染からそれ自体を純化 できる ものとみなした。この点でハイデッガーはフッサールが水の上を歩こうとしていると考える。存在論的な偏向なしに進もうとするあらゆる試みは、背後でそれに作用する存在論的諸前提に突き動かされて、背後から転覆させられることになる、とハイデッガーは考える。存在論的導きなしに進もうとする試み自体がまさに存在論的なプロジェクトなのであって、それは言語や歴史的伝統、文化に埋め込まれた具体的第一次的経験から反省的意識を分離するという前提を持つデカルト的存在論に鼓舞されているのである。 中性化のプロジェクトこそ自己−中性化としての意識の存在論から出発する。
 フッサールは --- 実際私はこれが彼のおもてだった教えであることを論じてきたのだが --- 第一次志向的作用は諸前提を可能にする輪 ring によって可能になるということを否定しなかった。彼がハイデッガーと異なるのは第二次的秩序への意識の能力についてである。つまり条件づけられ先行描写された作用から反省的に解放されるということである。展開は解放を要求する。フッサールはかくて矛盾した立場に置かれる。反省的意識はある条件のもとに導かれるのだが、これは彼が第一次的経験には拒否したものである。フッサールは反省的自我が --- 潜在的で暗黙の、地平的、歴史的、先行描写的諸要素から自由になって --- 志向的生の様態を楽しんでいるという理想にしがみつくのだが、別のところではこれは一般的に志向的生の組立に属すると彼は主張する。ハイデッガーにとって、この不調和はフッサールの存在論的諸前提、意識の存在の自己−中性化の能力と純粋な反省の可能性を受け入れたことから生じる。つまり超越論的意識の可能性である。この点で少なくとも --- より決定的ではありえないが --- ハイデッガーにとっては、フッサールが近代の形而上学に単純に負けたということである。意識の自己−中性化能力、世界の効果を中性化する中性化変様を引き起こす意識の能力というフッサールの観点は存在論的堆積物でいっぱいになっているのである。それはプラトンからドイツ観念論に至るまでの西洋形而上学の主流に属している。
 フッサールに対するハイデッガーの批判は次のようにも述べることができる。フッサールが志向的生の具体的な働きの記述に取りかかるときにはいつでも彼は相変わらず解釈学的図式に依拠するのである。すなわち、それを可能にする前−構造を求めたのである。彼が実際に現象学的方法を実践するときにはいつでも彼は解釈学的な、文脈化された構成を意識に帰した。生ける自我の生はいつでも地平的前−構造の境界によって取り囲まれている。いつでも未来把持され過去把持される流れの中に時間的に置かれ、「解釈したり」「統握したり(auffassen)」、つまり志向的対象を思考することを不可能にする潜在的な暗黙の要素が織り込まれる。志向的対象を志向的前−構造の支えなしにつかみ取る無前提性という概念は、このレベルでは言われることはないし、フッサールにとってそれは志向性を魔術に変えてしまうものだろう。
 無前提性の理想が生じてくるのは、ただにフッサールが科学としての現象学の本性を性格づけようと望むときだけである。この点で彼はデカルト的学の継承された理念に依拠した。それは彼が表立って出発する演繹システムの意味でではなく、絶対的確実性と前提から自由な始まりを達成するという意味においてである。この理想は具体的現象学の探求から生じたものではない。それは志向的生が通常の前科学的経験で生きられる様態にはいかなる相関物も持ってはいない。科学的意識がまず意識を一般に可能にする条件から自由であるということを信じるようにフッサールは要求する。彼は実際二つの自己を、条件づけられ有限な自己と条件づけられず限界から自由な自己の二つを信じるように要求する。そして一つの自己しかないと彼が言うつもりであるときに、彼はこの主張をなしとげることができない。かくして彼は、我々の残りの部分がそうであるように、流れに捕らわれた一つの自己を信じるように、流れから逃れることをやりとげた一つの自己を信じるように、何か安定した絶対的で変化することのない現前の自己−現前するものの中に錨をおろす一つの自己を信じるように要求するのである。志向的生の困難から、従って彼自身の解釈学的発見から、流れから、フッサールが逃走するのを私が位置づけるのはここである。
 このことで私は解釈学を科学に対置しようとしているのではない。ただそれをフッサールの科学に対する誤解に対置しようとしているのである。後で(第8章で)示したいと思うのだが、最近の科学哲学は解釈学的条件性を確認している。前概念化を導くことに出発点を持つ必要性であり、これはフッサールが容易に前科学的意識の生に認めたものであるが、科学的生の本質的な部分でもある。科学のデカルト的概念化は深刻にも科学自体の性格を誤って考える。そのことは近年の科学哲学の最良の仕事が、自然科学的、社会科学的、人文科学的領域で説得力を持って論じてきたことである。
 フッサールのデカルト主義は具体的現象学の探求から生じたものではない。むしろそれは心理学主義、自然主義、歴史主義についての進行中の論争に決着をつける方法として持ち出された。しかしこの理想はいかなる現象学的信任状も持ってはいない。意識は内在的に解釈学的である。そして無前提性の目標はよそからの輸入物である。それはデカルト以来の近代性の形而上学からの接ぎ木であり、超越論的意識なる理念に信を置いているのである。
 ところがフッサールのデカルト主義がその現象学的作業から発しているのではないとしても、彼の具体的作業はそのデカルト主義から影響されなかったということにはならない。フッサールに意識の妥当な存在論的主導概念が欠落していたということは、彼の具体的探求に影響を及ぼさないではいなかった。そしてそのことはただそうであるべきである And that is only as it should be。もしも解釈学が具体的な経験は前もって諸前提から導かれているはずだと主張するなら、存在論的前−構造のレベルでの間違いは具体的作業に姿を現さねばならないだろう。これがまさに起こったことである。というのも記述的分析レベルでフッサールがその思考の解釈学的要素に完全な役割を与えることに失敗したことは否定すべくもないことだからである。その代わり、このデカルト的理想によって脇道へはまり込んだフッサールは、自ら持ち出した解釈的要素が彼の理論的態度に向かう偏愛によって制圧されるがままにさせておいた。これは志向的対象と意識自体の双方に関する彼の説明に影響を及ぼしたのである。
 フッサールにとって、原初的志向性対象は知覚において与えられる物理的対象である。さて物理的対象が物理的対象として現れうるのは、前もって適切に準備されてのみである。その本質的タイプにおいて先行描写され、親しまれた外的地平において我々に引き渡され、未来把持的−過去把持的枠組みの中に位置づけられ、などなどされて初めて物理的対象がそれとして現れうるのである。それは、それがそうであるものとして適切に解釈されるようにフッサールが示した解釈学的要求に答えなくてはならない。ところがフッサールはこの「として−構造」に完全な役割を決して与えなかったのである。我々は物理的対象を「物理的対象」として「知覚する」ことはまれであること、むしろなにがしかのプラグマティックな設定における使用項目とともに with items of use いつも「扱って」いるのである。延長的対象の大きさ、形、色、ほかの特性は具体的生における使用項目からの抽象である。フッサールは知覚の具体的生に対して、抽象としての「感覚」の反解釈学的経験論的理論を批判し、理論的構成を批判した。しかし彼は「知覚」もまた日常性の解釈学に対しては抽象であることを見て取るのに失敗した。
 ガダマーが指摘するように、この議論はマックス シェーラーとアメリカのプラグマティストたちによって明確にされ、またハイデッガーによってさらに決定的に明確にされたのだが、フッサールは決して認めなかったわけである。だからガダマーはオスカー ベッカーに譲歩して、「意識の経験についてのフッサールの分析には解釈学的要素」が存在すると言い、しかしながら、これは正しいと思うが、物理的対象の知覚の優位がフッサールのもっとも重要な記述的説明を損なっている、と不満を述べたのである。もっとも重要な時点で、フッサールは、与えられてあること−足す−解釈という素朴な前解釈学的図式に陥った。そこでは物理的対象が他者の使用項目の経験を説明するために、解釈学的枠組みによって覆われることになっている。まず最初に私は物質的対象を知覚し、これが次に他者として解釈(統−覚)されるということである。そしてこれは自分自身の身体でもそうなのである。明らかに、これらの経験の完全なる解釈学的翻訳は、ただ事実性の解釈学においてのみ可能なものとして、ものの解釈学的経験の観点から、ものをそれがそうであるもの として 書き直すことになるだろう。
 しかしもしもデカルト主義が志向的対象の性格についてフッサールを誤って導いていたのだとしたら、それは意識の説明においてさらに深刻に彼を誤解させたのである。物理的対象はいつでもなにがしかの輪郭のセットのもとで理解され、解釈されている(ガダマーの不満はこの解釈的契機がフッサールにおいてラディカルではないということである)。ところがフッサールは意識自体に適用されるこれらの制限には決して譲歩しなかった。『イデーンT』(∫∫44-46,54-55)のよく知られた議論が主張するように、世界と意識の間の違いは厳密に言って、世界が --- 物理的対象であろうと使用項目であろうと --- 意味の輪郭づけられ、部分的な、推定上の実体であるのに対して、意識はそれ自身に、輪郭なく、絶対的に、非解釈的な有様で与えられる、ということである。意識はそれ自体にそれほど完璧に回帰するわけで、なにも解釈を要求することはない。解釈への必要性はフッサールにおいてはただに絶対的に与えられてあることの失敗から生じる。そしてこの失敗は意識のそれ自身への与えられてあることにつきまとうことはない。解釈学的解釈は与えられてあることの欠陥から生じる。それは世界との同一性を欠いた存在の訴えである。かくてフッサールは超越的なものと内在的なものへの志向領域の分割を行うのだが、それは意識に対して世界が推定的に、従って解釈的に与えられるということと、意識がそれ自身に対して絶対的に、従って非解釈的に与えられるということの分割に至るのである。
 実際、フッサールは二つの自己を信じるようにと我々に要求するのである。一つは世界との中に位置づけられる自己であり、もう一つは、フーコーの言うように、超越論的ダブルであり、そうした状況について反省し、それを保持し、繰り広げることができる自己である。解釈 Auslegung とは、それが働く先行条件を展開しつつ、意識を透明にする完全なる回帰の力である。後方へ反復する反復はその退行において妨害されることはない。意識をその始まりにおいて捕らえることは可能であり、それをしっかりと保つことも可能である。しかしこれはハイデッガーのみならずフッサールの後にやってくる人たちほとんどが否定したことに他ならない。この退行的運動を引き受けるポイントは、まさにメルロ−ポンティが『知覚の現象学』の記念すべき序文で述べたように、それがなされることは不可能だということを見て取ることである。起源はいつでも退行し、遠ざかり、撤退する、とデリダは言う。私はフーコーの定式を改良することはできない。

 だからこそ近代の思考はことごとく、回帰という大きな気がかりに、
再開への配慮に、反復を反復するという義務を近代の思考に課する
現場でのあの奇妙な不安に、捧げられるわけだ。...
近代の思考は、人間を、その同一性のうちに --- その充足のうちに、
あるいは彼自身そうである無のうちに --- 歴史と時間を、それらが
不可能にしながら思考することを強制するあの反復のうちに、
そして存在を、それがそうであるところのまさにそのもののうちに、
再発見しようとつとめるのだ。【この部分の訳は『言葉と物』P.355から】


コンスタンチンは学んだ。後方への反復は夢である。

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トピック= 1505 宛先= 1505 同宛先= 1506 1509 1511 1513 1519 返信=
 
Subject 意味の歴史的生成
Author イストラン [ 1513 to イストラン ]  8/1/Tue/2000  神秘主義と哲学 eleutheria.com

 どんな理由にせよ、おそらく『存在と時間』の衝撃だったのだろうが、フッサールの後期著作では流れにパターンを刻み込む作業は歴史的な次元の相を呈する。現象学的探求の対象が自我の内的歴史から西洋の歴史一般の対象へと変わるのである。『論理学研究』では構成は静的であり、非時間的であった。『イデーン』の構成は歴史的なものを獲得したが、いまだ非歴史的な意味にとどまった。30年代、ついに構成は間主観的な、歴史的共同体の作業となった。意味の生成は意味−歴史になり、構成は歴史的共働性 coefficent を獲得したのである。
 しかしフッサールが書き進めようとした歴史は最も異常なものである。古代の資料や歴史的エピソードの跡を辿るというような通常の意味での歴史とはなんら関わりがない(Hua VI 366/Crisi 354)。それは高度に現象学的な権威、本質や アプリオリな 必然性の要求にのみ応えることができる。それは文化的危機を認識の解毒剤で癒すために書かれる歴史である。エイドス そのもの、西ヨーロッパの創設的意図、目的 telos、 最終目標、つまり普遍的学の夢を汚染する病を治すために書かれる歴史である(Hua Y 319/Crisis 273)。生を与えていた無限の観念からあてもなくさまよい出した伝統を正すための歴史である。
 これはガリレオの話を尋常ではないやり方で語り直すことで得られる。科学と教会の闘争を完全に無視したガリレオ、そしていかなる「科学革命」やパラダイムシフトとも無関係であったガリレオ。対してフッサールの語りでは、ガリレオのしたことはまさに素朴さから生じたのである。その素朴さをもって、ガリレオは継承された科学的 --- ここでは幾何学的 --- 伝統を引き受け、その上に、さながら空から降ってきたように構築したのだ。フッサールの歴史的還元は継承された幾何学の自明性を宙づりにすることからなる。幾何学的構成にその意味を与える創設行為(Urstiftung)を掘り返すために、逆向き(Rueckbesinnung: Hua VI 16/ Crisis 17-18)に進む媒介を経て彼はそうするのである。そしてこのことで、忘れられた歴史( Crisis, §15 )を奪回する再設定(Nachstiftung)によって進む アプリオリな 歴史という注目すべき概念が作られる。最初の幾何学者たちは物質的かつ文化的な、仲間の人間たちの世界に生きて いたにちがいない。そうした諸身体は時空間的なものであり、かつ質的に規定されて いたにちがいない。初期の幾何学者たちは 実践 praxis によってのみ遭遇する実践的な必要を 持っていたにちがいない。その作業はこれらの身体が人間的必要に合致しているようにするものだった。もしも彼らの領分を有効に拡張し、建物を建て、料理し、他者の必要を満たそうとするなら、彼らは表面をなめらかにし、角張った角をつけ、まっすぐな線を引く必要があった。しかし、この技術的実践にとっては理想的な実践が最初に要求された。経験的現実がもたらす抵抗なしにそうした操作をすることができるような理想的実践である(Hua Y 383-84/ Crisis 375-77; cf §9a)。もしも歴史小説家が事実的記憶を豊かにするために想像的なタッチをいくらか加えることができるならば、現象学的な歴史家は事実がそれに合致するアプリオリな必然性の行を話に注入する。
 これらの原初的な幾何学的構造が最初の幾何学者の胸中から完全に成熟して発出したものではないということを(アプリオリに)示したあとで、フッサールは労多く堆積した歴史の過程を指摘するわけだが、この過程によって理念性が理念性の上に積み重なり、かくてより単純な理念性がもっと複雑なものの要素となり、一つの世代の仕事はそこから続く世代によって新しい構造が分割される事柄となる。発展と反復の長い道のりの後で、これら理念化の原初の拠り所は視野から外れてしまった。そのことはまさに「自然的」である --- 歴史的自然的な態度が存在する。ガリレオの時代から始まりは忘れさられた。そして生活世界のこれら高次の幾何学的構造は忘却のうちにある。そうやって客観主義の神話が起こる。この自然の数学的説明は超越論的主観性とは独立しているという神話である。科学の余白に横たわる生活世界、初期の幾何学者たちがそれでもって容易に親しみのある交渉のうちに動いていた生活世界は、理念化の進展とともに視野からますます後退した地平となった。そして、このことが超越論的治療を要求している現在の危機の根底にある。
 デリダが指摘するように、フッサールの物語は言語の新しい理解の中で彼に追いつく。フッサールは現象学の内的な達成から離れたところでいつも言語をとらえようと懸命に努力した。『イデーンT』では言語は意味の原初的志向的関係に重なった単なる表現的な層として述べられている。彼は前−言語的な意味(Sinn)の基礎付けレベルを「ロゴス」や指標作用 signification の上層から区別している。後者はたんに意味に表現を与えるものである(∫∫124-27)。ただ、『イデーンT』でフッサールが採用した強硬路線の中にすら柔軟な点があるのを見ることができる。というのは、 ロゴス に何か産出的役割があることを当然のことと見なすのを拒否しつつも、原初的志向性の鏡像化(Spiegeln)ないし像化(Abbilden)として、記号化 signification は完全な鏡でも複製でもないからである。表現はいつでも原初的な意味の部分的再生産である。それでもこの不完全性は言語の失敗ではなくて、その力と経済への鍵である。なぜなら特殊を意図して置き去りにする一般的な語なしでは、言語は無限な固有名の中へと退化してしまう。言語は基礎付けする志向性にもっと鋭い、もっと焦点の絞られた、もっと分節された意味を与えるのである。
 従って基礎付けする経験は言語的表現の中に「堆積され」ることになり、以後「分配される passed on」ことが可能となり、かくて「伝統」の可能性を構成する。しかしそうした過程では原初的な表現とその伝達装置 carriers の間の絆は弱まる。そういうわけで歴史的「還元」の作業はこれらの基礎付けし活性化するつながりを生き生きさせることにある。原初の経験から歴史過程を経てそれを担う表現へと跡をたどることによってそうしたつながりを生き生きさせるのである。そうしたことにとって言語の経済 --- 基礎付けする直観にいつでも依拠したり、語が使われるそのつど原初的な経験を反復するのは能率的ではない --- は危険である( Gefahr: Hua VI 372/ Crisis 362)。この経済なしでは科学的伝統は、いや実際どんな種類の伝統でも不可能である。しかしそうした経済においては表現が中空の貝殻のようになる。その原初的な意味からもっと切り離され、かく伝統の中で「危機」が生成するのである。
 明らかに歴史的構成はこれらの原初的理念化を(デリダの郵便メタファーを使えば)小包にし郵送する言語の力に依存している。理念的な構造が提起される原初の瞬間は、それが意志をもって何度も提起され得ない限り、誰か幾何学者によって、いつか「反復可能」( wiederfolbar: Hua Vi 370/Crisis 360 )でない限り、ゼロになってしまうだろう。さて、この客観的、反復可能な伝達可能な形態を基礎付けする行為に与え、それが公共的科学の共同体に入っていけるようにするのは言語の使命である。言語の偉大な経済は反復の手段を我々に与える。そうして自己同一的構造、ピタゴラスの定理が、こう言ってよければ、無限に反復されるのである。最初は同一の意識の範囲内で、それからその当時の全科学的共同体を横断し、そして全時代を通ることになる。かくて、言語に対する自身の形而上学的先入見にも拘わらず、フッサールはその産出的、創造的、構成的な力に鋭敏に気づいていた。フッサールの批判と彼の形而上学的契機との間のこの空間こそまさにデリダの「脱構築」が己の場を占めるものである。
 歴史的構成の中で言語が演ずる「産出的」役割を認知するのにフッサールはさらに進み、客観性/反復性の頂点が書くこと writing なしには達し得ないことを指摘した。書くことなしでは、我々は理念的諸構造の持続する実存( verharrendes Dasein: Hua VI 371/Crisis 360)を確固たるものにすることはできない。それは、誰も理念的諸構造について考えず、誰もそれらを自明のものとせずにいるときでもそれら諸構造が生き残る自らの能力のことである。書くという言語活動においては話す者も話される者も現前している必要がない。反復性の頂点はそうやって記号に意味を埋め込むことであり、たとえ原初の著者や聴衆が長く消え失せても、どこの誰でもしかじかのときにそれを再設定する reenact ことができるようにするということである。だから書くことは --- おそらくは意味/表現(Sinn/Bedeutung)の層化の中でもっとも遠く離れた層であるが --- ここでは超越論的構成の中心的な役割を課せられている。形而上学的フッサールが多分もっとも排除したかった「死んだ文字」 --- これがデリダ的フッサール読解の中心点である --- がここで超越論的生の中心的代替不能の役割を与えられるのである。
 ところが、書くことを重要なものにするこの果敢な行為は同時に危機の源でもある。というのも書くことは生きている意味を潜在的なものにするからである。それは生きている意味を睡眠状態に還元する。この睡眠状態はそれを分配するまさに手段なのである。書くことの広がる力は、意味をたんなる睡眠(記号化された)状態に還元する記号の力と直接的に釣り合っている。よって書くことはそれに相関する覚醒と能動化 activation を要求するわけであり、これが読むことの役割である。しかし読むことによって書かれた記号の意味を経験するとき、そうやって潜在的なものを能動的にするとき、我々は、書かれたテキストに導かれた連合の過程によって受け取られる意味の受動的な経験をしている(Hua VI 371/ Crisis 361)。そしてそのことは重大な要求を読者にする。つまり読者は単なる受動的状態を超越すること、受動性を能動性に転換すること、最初に書かれる記号が構成される原初の基礎付け行為を再能動化する reactivate ということである。

 ...受動的に覚醒されるものは変換され得る。いわば対応する
能動性に変換され得る。これは再能動化の能力であり、原初的に
あらゆる人間に属している。(Hua Vi 371/Crisis 361

読者は沈殿したものを再能動化し、意味を生へと連れ戻す責任を担う。

 だからこそ危機のための超越論的治療は実際、言語にとっての 薬 pharmakon なのである。そしてとくに書くことはそれが必要なものであると同時に危険なものである。もしも意味を構成する原初的な直観的生が言語に委ねられるとするならば、同時にこの生は言語によって犠牲者になり得る。だからフッサールは「 言語の魅惑 の犠牲」となることに警告を発する(Hua VI 372/Crisis 362)。志向的生はいやましに空虚な形式、ただ繰り返され過ぎゆく空虚な形式の魔法にかけられる。真性な言説は、ハイデッガーがキルケゴールから借りた表現によれば、おしゃべり(Gerede)になってしまう。そして言語の自己愛的魅惑への唯一の解毒剤は再能動化である。これはその全体性と完全化において無限な観念にとどまり、普遍的な学の無限の観念へと統合され属している(Hua Vi 373n/Crisis 362-63n)。
 そういうわけで、完璧な科学的合理性とその完遂への神学的衝動の中で、歴史的−言語的構成が、原初的反復 --- 構築された意味を反復すること、統合すること、複合化すること、回付すること hand on --- であるのに対して、その歴史的−言語的構成はまた始まりへの考古学的回帰を我々に要求する。歴史的構成の創造的過程は自己産出であるが、しかしまた自己堆積的過程である。ただ逆向きに進む媒介によってのみ、それは受胎し分配する意味に満ちて、生きていられるのである。もしも反復の構成的作業が前に進むのであれば、現象学的反省はその足跡を辿って後ろ向きに進む。フッサールの後期著作では反復の理論 --- 歴史的に堆積する伝統の創造的前進 --- ととともに、回想の理論 --- 基礎付け行為に遡って伝統の跡を辿る現象学的歴史家の理論が双方とも存在する。
 その最終形態では、フッサールの流れの征服は必然的に間主観的、歴史的、言語的作業となる。それは超越論的個体から期待するにはかなり度を越したものである。それは世代の労苦、歴史的反復の作業である。この作業はまず統握 Auffassung の単純な行為に委ね、つぎに個体的自我に内的な時間意識に、最後に超越論的共同体に委ねた。しかしながら、構成ということは明確に言われている。現象学的反省はいつでも解釈 Auslegung の作業である。先行描写や内的時間の流れにおいて非歴史的に考えられたものであろうと、あるいは『危機』の時代のように歴史的に沈殿物に埋められたものであろうと、世界の構成や先行形成に入る潜在的で無言の要素を展開する志向的顕在化 explication の作業である。現象学の基礎的な作業は超越論的な構成のなかで潜在的であるものを顕在的にするということである。これらの無言の遂行 performances を狩り出し、白日のもとにさらし、顕在的にし、外に置くということ、すなわち外に−言う aus-legen ということ、現れ出るものを言うこと legein ta phainomena である。
 だから私はフッサールの「プロト−解釈学」と言う。意識は世界を志向的要素で構築された複合体という観点から読みとる。これは前提された構造の高度に複合されたネットワークである。現象学的反省はこれらを開けた場所に追い出す。そういうことを言う哲学だからプロト−解釈学と言うのである。これはハイデッガーが『存在と時間』で解釈学という言葉で意味していたものの中心に行く。つまり了解されるべき実体野をプロジェクティブに明らかにさせる前了解 preunderstanging から了解 understanding が出発するということである。解釈学はその次の動きを予期することで、我々が直面している対象に輪郭を与えることで、流れ flux に対処する。それはいつも一歩の歩みを流れに先だつようにし、古きエレア派のパズルにねらいをつけて、予期する戦略を効果的に作動させるのである。

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Subject RE:経験の「先行描写」
Author イストラン [ 1512 to イストラン ]  7/25/Tue/2000  神秘主義と哲学 eleutheria.com

 なぜJ・L・プティが『イデーン』は行為の哲学である、と言ったのかがなんとなくわかった感じです。

 前の節では「intending is interpretation」を「意図することは解釈することである」と勢い余って訳してしまいました。しかし motivation 動機づけなどということを言うのだから、こう訳したとしてもさして問題はないと思います。いやあるかな。やはり「志向することは解釈することである」の方がよかったか。

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Subject 経験の「先行描写」
Author イストラン [ 1511 to イストラン ]  7/25/Tue/2000  神秘主義と哲学 eleutheria.com

 世界の無化についての有名な議論において(Weltvernichtung:Ideas T §49)、フッサールはあらゆる対象がそれを統握し apprehend 構成する作用の相関者であることを示したいと思っていた。そして、たとえ世界が変様し去っても意識はとどまるということを示す想像的実験によって彼はそのことを証示した。この全体の議論は、フッサールの極度にデカルト的言語によって人を誤解させるような形而上学的調子を帯びていた。それでも、彼は(直接的意識は世界の物理的無化の中で生き残るだろうという)形而上学的観念論を論じていたのではない。そうではなくて、認識的な現象学的なことを論じていた。すなわち、対象が意識にとって対象であるのは、それを意識がそれとして構成するように動機づけられているということ、これである。彼は意識の形而上学的な存続についてではなく、「動機づけ motivation」の現象学について話していたのである。
 規則だった経験の連鎖のゆえに、意識は特殊な形態を選別し、それらに「客観的」という保証をつけるように動かされる。空の雲が突然自身を組織して獰猛な動物に変わったり、それから降下してきて通りすがりにすべてをむさぼり食らったり、通りの表面が突然炎を上げて燃えだしたり、あたり一面のものが極度に荒っぽくまた予見できない仕方で変様可能になったり、そうした事物が絶えず予想不能の有様で生じたりするとしよう。そのとき、「世界」は崩壊するだろう。というのも、「世界」とは意味の統一体であり、多かれ少なかれ安定した対象の集積であるからだ。そこでは実際、変様は法則的規則に従っている。その秩序が崩壊すれば、意識は消失するのではなく、生き残り、災厄を調査するようにさせられる、とフッサールは主張する。フッサールが 無化 Vernichtung ということで記述しようとしたものは、荒っぽい不規則性であり、なんらかの形而上学的無化ではない。彼の念頭にあったのは現実の、あるいは形而上学的な世界の破壊ではなく、現象−としての−世界、意味の統一体としての世界である。この思考−実験の結果は「対象」がどの程度まで総合の産物であるかを示すことである。これは意識の生を鎖状につなぎながら、その外見の規則性に動かされて、対象を総合的統一へと「構成する constitute」。
 これが現在の探求点からの示唆的な仮説となる。フッサールは世界の「偶然性」について鋭い理解を持っていた。彼はまた日常のありふれた取り決め arrangements や構成された対象の恣意性、親しみのある形態 configuration について鋭敏な認識を持っていた。実際、偶然性に対するフッサールの感覚は、たんに「文化的」対象にではなく、物理的対象自体にまで広がり、まことにラディカルなものである。彼はたんに地域的文化的実践が変様可能だと見なすのではなく、自然の対象自体も変様可能 alterable と見なす。ただに規則的な構造が、そして超越論的主体が対象の現れの規則性を根拠として形態 form へと動機づけられることを可能にする構成されたパターンが、我々を深淵から隔て、そうでなければ物事が投げ込まれる流れから我々を分離しているのである。そして実際、流れはいつでも顕著な可能性である地平上にある。その可能性へ世界はいつでも原理的に退化するのである。
 真の世界は経験のアクチュアルな連鎖によって動機づけられ、経験の中でアクチュアルに形態を取る。これに照応して、経験が取るアクチュアルな進行によって、真の、多かれ少なかれありそうな「可能性」が開かれる。かくて、第一義的な意味での可能なものとは、経験しうるもの experienceable(erfahrbar)である。たんに何らかの抽象的、論理的な可能性ではない(Hua V.1 101/Ideas T 106/107)。この意味での「可能なもの」は、多かれ少なかれ複雑な有様で、アクチュアルな経験の進行によってその可能性が前もって描かれているところの経験の領域である。月の表面を歩く可能性、大洋の深みを開拓する可能性、生の新しい役割を引き受ける可能性などである。これらは、--- フッサールはここで Vorzeichnung という重要な語を使うのであるが --- アクチュアルな経験によって、その本質的な内容が多少なりとも前もって描かれ、先行描写されている可能性である。そうした経験が生ずる地平を我々はすでにプロジェクトしておいた。この先行描写が不可能であれば、そうした可能的経験を考えることすら不可能である。それらの経験は「限定されてはいないが、個々の時における私の経験的アクチュアリティの 限定しうる determinable 地平に属している」(Hua V.1 101/ Ideas T 107)。現れうる対象は前もってプロジェクトされている地平によって先行して(im voraus)準備されてきた。これらの対象は空虚を表象するものではなく、その「本質的類型」 (Wesen-typus) が前もって先行描写されている動機づけられた可能性を表象しているのである。
 そうした先行描写は継続するすべての経験を可能にする。それは志向性の普遍的な法則であり、従って、可能な経験のあらゆる対象がその本質的類型の先行するプロジェクションに依っている。ハイデッガーの言語を使えば、その存在の先行する了解ということである。この先行するプロジェクションはカントのアプリオリでは決してない(GA 24, §22c)。というのも、それは経験のアクチュアルな進行 course によって形態 form を描かれ、動機づけられ、さらに以前の地平が満たされ、新しい地平が開かれるという風に、前進する時間的修正に従っているからである。換言すれば、それは漸進的に蓄積されるアプリオリ、反復の産物、経験の規則性の反復の産物であり、なんらかの形而上学的なアプリオリな現前とか、先在する観念のアプリオリな形相 form ではない。それは創造的であり、再創造的、あるいは再現前的[表象的 representational]な反復ではない。
 そうして動機づけられた可能性は、たんなる形式的なあるいは論理的な可能性とは著しく異なっている。このような形式的、論理的な可能性については我々はいかなる形式的な矛盾も関わらない思考という以外になんの明証性をも持たない。たとえば、我々の世界とは全く異なる世界が存在する可能性というのを考えてみよう。そうした世界に対して我々はどんなプロジェクティブな解釈も持っていないし、どんな先行描写された地平も持っていない。だからそれは全く動機づけられていない可能性のままである。実際、この点でフッサールは「地平の融解 fusion of horizon」理論というのを支持していたと私は考えている。いかなる可能な存在も原理においてアクチュアルな経験の外地平的境界上のどこかに位置づけられる。外地球的存在との交渉すらアクチュアルな経験を基底にして準備されねばならない。それは我々の経験と彼らの経験との間を行ったり来たりしつつ、我々の地平の中に彼らの経験を同化したり、彼らの経験の中で我々の地平を修正したり、全く同様に彼らの方でも同じことをやり、ついにはある集約点が、融解点が訪れうるということである(Hua V.1 102-103/Ideas T 108)。徐々に、同化と修正の往復運動によって、対話の両サイドで遂行されつつ、経験の鎖は構成される。それは単一の世界の統一の中で一つの経験を他の経験と結ぶ。
 このことはナンセンスを作る。あるいはフッサールのまったく的確な言い回しによれば、我々のものとは絶対的に異質な経験の世界の仮定から生じる「実質的反−意味」(sachlicher Widersinn)である。こうした世界は、四角い円のように、形式的には一貫していないわけではない。それはいかなる実質的、現実的、実体的意味をも成さないということである。それを前にして、我々の産出的思考力の地平的先行描写の力は消え去り、カントが「超越論的対象X」と言ったようなものに直面するだけである。それはどんな可能な形態 shape をも与えることができない対象であり、どんな方法でも、ほんのわずかなトレーシングをもってしても、前もって描いたり、スケッチしたりすることのできない対象である(Hua V.1 103/ Ideas T 108-109)。
 それにも拘わらず、我々が慣れ親しんだ経験の連鎖が崩壊する超越論的可能性に、経験は必然的に住み着かれている。いかなる世界的な対象も、実際、全体としての世界として、いつでも「推定上の presumptive」統一体として残り続ける。それは流れの仮の編成組織 organization であり、これを我々は絶対に信頼することができない。
 
 その代わり、経験が闘争 conflict のゆえに、幻想へと融解しうるという
ことはまったく考えられることである。...たんに我々にとってというの
ではなく、それ自体において和解不能な闘争の群れがある。物理的事物を
調和的に定立するようにという要求に対して、経験は突然手に負えない様を
見せる。その文脈は輪郭づけ、統握、現れの固定した、規則的な編成組織を
失うこともあり得る。つまりもはや世界が存在しないこともあり得る。そう
したことはみな考えられることである。(Hua V.1 91/Ideas T 109)

 それでは何が絶対的なのだろうか。我々が絶対的な確信をもって堅固かつ揺るぎのないものと言えるものがあるのだろうか。フッサールの驚くべき回答は、恒常的にとどまる流れそれ自体しかない、というものである。持続している唯一のものは流れであり、変化しないものは変化それ自体である。超越論的「自我」の安定性すら絶対的ではない。というのも、彼によれば、それは「究極的に真に絶対的なもの」の中で構成されるからである(Hua V.1 182/Ideas T 193)。この真に絶対的に絶対的なものについて、フッサールは内的時間意識に関するゲッチンゲンの講義、§§34-36を示唆している。彼は構成の三つのレベルを区別する。それらはいわば、外から内(内的時間−意識)へと、表面から(深層に深く−横たわる[tiefliegend])主体へと前進する。
 まず彼は「客観的」時間における対象を区別し、外側にある対象という直截的な意味での超越的対象を区別し、かく意識の流れに対して超越する対象を区別する。対象は時間における恒常性によって限定される。それは時間−流を通してその同一性を維持する能力によって限定される。物理的対象としての家は、時間−意識に対して何か超越しているものとして、時間−意識において構築される意味の統一である。次に、内在的諸統一が、あるいは「内在的超越性 transcendencies」がある。これは時間−流それ自体の中で構築され、時間−流の中で構築される構造的形態であり、たとえば家の知覚、想起、欲求といった主観的作用であり、それらは最高度の内在的統一体としての自我の生に属している。ところが、最後にそうした内在的統一体すらそこで構成されるものがある。それが時間−流それ自体である。これは絶対の流れであり、流れの中の絶対的流れることであり、流れ(Fluss)それ自体である。

 われわれとしては「この流れは、構成されたものにならってそう呼ばれる
何かではあるが、しかしそれは時間的に<<客観的>>なものではない」と
だけしか言えない。それは絶対的主観性であり、そして「比喩的に<<流れ>>
と形容され、顕在性の時点、根元的な源泉点たる<<今>>の時点に発源する
もの」が有する種々の絶対的特性を備えているのである。われわれはその
根元的な源泉点と一連の残響の諸契機を顕在性の体験のうちに所有している
のである。こういったことのすべてを言い表す名称をわれわれは持ち合わせ
ていない(Hua ] 75/PIT 100)。[訳は、『内的時間意識の現象学』立松
弘孝訳より]

 実際、もしも文字通りと比喩的というのを明確に区別できるとすれば、それは今日問題となってきていることであるが、私は「絶対的主観性」と言いたくなっている。これはここで「流れ」としてはるかに適切に記述されたものに比喩を供給する。この究極の母胎、意味のすべての統一、すべての語−統一を含む意味の統一がその中で構成される究極の母胎がそれ自身名前がないということをフッサールが言うのは正しい。しかしもし名前があるとすれば、私はそれを純粋な流れ stream と呼ぶことにしたい。
 フッサールのイメージでは、流れは意味の諸統一体「の下に横たわる underlie」。この意味の諸統一体は自我の「内的」あるいは内在的諸統一体とその固有性すら含み、堆積するものである。これらの主観的作用ですら経験の偶然的な安定化として理解されるべきである。それらは流れを秩序づける方法である。それらは無化(Vernichtung)つまり、調和の破壊に対して、世界的な対応物 counterparts と同様に、傷つきやすい。もしも想起された家が消え失せたら、相関する想起することもまた消失する。「持続する」すべてのもの、「残存する」すべてのものは流れ flux それ自体である。意識的経験の流動 flow、流れ stream である。それだけが解釈的秩序の崩壊、解釈的調和の失敗を越えて生き延びる。
 生は無意味な流れであり、馬車の角笛がそのシンボルであった『反復』におけるコンスタンチン・コンスタンチウスの嘆きに、フッサールの側で対応する超越論的、認識的等価物がここにある。ここでフッサールとキルケゴールは双方とも、反復が存在せず、安定した統一体が --- 自己のであれ、意味のであれ --- 構成される前進的な運動が存在しない可能性に直面する。双方とも形而上学の調和がくずおれる地点をかいま見る。ここで述べてきた先行描写のダイナミックスがなければ、フッサールにとっては流れ以外には何も存在せず、何も与えられない。志向的生のダイナミックスは Vorstruktur 前構造にかかっている。それははっきりと「解釈学的前−構造 fore-structures」に道を整える。この解釈学的前−構造はハイデッガーが『存在と時間』で取り上げるものであり、次章で詳しく調べることになるだろう。これらの前−構造によって、我々は流れを「固定し」(Hua V.1 103/Ideas T 108)、それを先行描写された束縛の中で安定化する。それによって何かがまず第一に現れるということが可能になるのである。>>>

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Subject 志向的生を展開する
Author イストラン [ 1510 to イストラン ]  7/22/Sat/2000   

horizontal を最初の方では「水平線的」とか訳してしまいました。慣用では「地平的」でしたね。
protention は未来把持、retention は過去把持としました。
apperception は統覚、apprehension は統握としました。

 現象学の本はずっと読んでいず、もう20年ぶりかなぁ。それにしても私はこれを全部読んだら、J.D.Caputoに手紙を書こうと思う。なんてカスタネダに似ているのでしょうか?あなたはカスタネダをもしかしたらご存じですか?
 とすればやはりデリダのように批判しなくてはならないと思っているのだろうか。現前の形而上学そのまま、存在の声そのまま、意図の哲学そのまま、否定神学そのままということで。
 しかしながら、どうしてでは openness to mystery なのか。どうして、ポストモダンの倫理と神秘主義なのか。


 
 

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Subject 志向的生を展開する
Author イストラン [ 1509 to イストラン ]  7/22/Sat/2000   

Radical Hermeneutics, Chapter 2, Repetition and Constitution: Husserl's Proto-Hermeneutics

 志向的生を展開する explicating intentional life

 フッサールにとって、現象学の作業とは、「覚醒したコギト」で作動している前反省的、前理論的あるいは自身の言う「水平線的」構造を解きほどくことから成る。彼は意識というものを中心 focal と周辺的構成部分 marginal components の合成画とみなし、現象学の作業をこの周辺的生の「展開/反-折り畳み un-folding」ないし「展開/外-襞化 ex-plicating」とみなした。これが解釈 Auslegung で彼が意味していたものである。もちろん、この言葉は『存在と時間』でハイデッガーが使ったものと同じであり、英訳では「解釈 interpretation」と訳されている。Aus-legen とは志向的生の無言の構造を、外に広げる lay out、ないし顕在的にする explicit を意味する。この英語の「explicate」とは、文字通りには、志向的生の多層的構成にある襞や折り込みを展開することを意味する。志向性はドイツ語の an-schauen が示唆するような、たんなる盲目の見ること loooking-at ではない。複雑で高度に構造化された解釈的作用 act である。意識はいつも 〜についての 意識であると言うことは、単純で解放された意識が純粋な与えられたものの中に生まれるような魔術を呼び出すことではない。逆に複雑な活動を指しているのであって、それによって対象の現象することが可能になるものである。「原理の中の原理」(Ideas T,§24)とは、どのように見えるか、という裸の直観を呼んでいるのではなく、そのすべての複雑性において理解された与えられてあること givennessを言っているのである。
 理論的対象の経験は或る先行構造によって可能になる。それは可能性の先行条件を用意する。これらの先行構造は解釈学において、「前−了解 pre-understanding」と呼ばれるものと対応している。そしてこれらの先行構造を叩き出すことが現象学的解明の仕事なのである。現象学的反省は経験にすでに埋め込まれている先行する条件を明らかにする。志向的生の複雑なものの「分析」(Analyse)として、現象学的解明は経験の原子的要素、小片、断片に到達することはない。それらはただ分割される必要があるだけである。それらの原始的要素はただある種の法則に従って結合しうるものとして示される必要があるだけである(Hua T 83/CM 46)。むしろ志向的分析は、潜在的なもの potential と現動的なもの actual、暗黙のもの implicit と明白なもの explicit との微妙な配合に関わっている。というのは、どのような現動的志向的経験も経験を構成するに当たって決定的な役割を演じる潜在性の輪 ring によって住みつかれているからである。志向的分析は、志向的生の無言の構成部分を示してみせる。なぜなら志向的対象はいつでもそれが当初自身を提示する 以上のもの だからである。かくて原理の原理は経験を経験の孤立した因子へと切り縮める近視眼的経験主義をいかなる意味でも支持するものではない。むしろそれは「己自身の経験と一致しうるものより以上を実際絶えず主張する」経験の「うぬぼれ」について油断しないことを含意しているのである(Hua XI 11)。経験はいつでも より以上のもの plus ultra を含み、「そのとき顕在的に意味されている」以上のものをいつでも意味している(Hua T 84/CM 46)。
 適切に理解されるなら、原理の中の原理とは、与えられたものには、それであるようにそれ自身を与えるより以上のものがある、ということである。だからフッサールは現象を純粋現前とみなしたのではない。後に第五章で論ずるが、このことはデリダのフッサール批判へ影響する。フッサールは現象というのを現前と不在の複合、もっと適切に言えば、顕在的なもの explicit と潜在的なもの implicit 、現動的なもの acutal と可動的なもの potential の複合とみなした。与えられたものとしての与えられたものにとどまる唯一の方法は、いつでもそれがそうであるように自身を与える以上のものをそれが与えるということを見て取ることである。「〜についての意識」はいつでもより以上のもの more についての意識であり、それまで気づかれることのなかった要素についての意識である。

 志向的作用 acts とその相関的な対象が孤立した、原子的データでないのは、それらがいつでもフッサールが謂う「地平的構造」によって方向づけられている bound about からである。知覚的対象、そして実際志向的対象一般は、内在的に文脈のある意味をその対象に与える地平の輪によって方向づけられている。意識的作用とその志向された対象は作用と対象的層の連鎖に属している。そしてこの連鎖こそまさに志向的分析がそれを明らかにすることを作業とするものである(Hua T 86/CM 48)。中心的なものはなんであれ余白あるいは地平を包含している(Hua T 81-82/CM 44)。どの与えられた瞬間にも、「直接的に与えられた」対象の側面 ---- ここで不安な引用括弧をつけるのは、これもまた絶えず消えていくものだからである ---- はともに与えられたもの cogiven の縁に取り囲まれているのである。ともに与えれらたものは、間接的に現前している側面であり、それは直接的に知覚されてはいないものの、それでも「統-覚され ap-perceived」「共-覚され co-perceived」ている側面、構造に統合されて属している。完全に知覚的な対象はかくて知覚され統覚され、現前し、共現前した、中心的、地平的なものの複合である。対象はそれらの「間の」相互作用 interplay に現象している。そうでなければ対象は見かけ facade になるだろうし、我々はそのほかの側面に出くわして驚くことになるだろう。文脈的なこと、あるいは地平的なことはいつでも余白の有様で「保持される」のである。森の中の小屋で机に座っている作家は、たとえば「それ自体では」驚くべき音ではないが、窓の外から車の音が聞こえてきたら驚くだろう。
 地平というのは空虚な、まったく無限定の可能性 potentialities ではない。それは 不在 のものではなく、「先行描写され predelineated(vorgezeichnet)」ている。「もろもろの地平は可能性を先行描写されている」(Hua T 82/CM 45)。この先行描写という概念は前もってトレース[跡づけ]し、スケッチしているということ、先だって何かを軽くトレースしているということを意味する。薄い鉛筆でスケッチされ、あとで画家が油を塗るスケッチを考える人もいる。実際それはデリダ的響きを持った語である(あるいは年代順を守れば、デリダにおけるフッサールの響きである)。縁の marginal トレースはそこにあるともないとも言えないし、現前でも不在でもなく、潜在的 implicit 余白的 marginal 要素である。それは与えられたもの、現れるもの、そこにあるものの構造に本質的に寄与している。現前しているものはトレース[跡づけ]の効果あるいは産物である。
(フッサールはアリストテレス的 キネシス kinesisのようなものを探しまわる。現前でも不在でもない中間地帯である。) 影をつける、輪郭線を描くという 陰影をつけること Abschattung とともに、 先行描写 という語はフッサール志向性理論の先行-構造において中心的な役割を示している。対象が適切に前もって陰影づけられ、先んじてトレースされる限りにおいて、志向性は可能である。このあらかじめ準備されたものは、我々はここではただにある種の解釈学的先-構造化としか呼び得ないのだが、それは対象のアクチュアルな現れにとって予備的予期的準備を与える。 『第一哲学』 では、知覚的対象を取り囲む外の地平は Vordeutung 、先行解釈 preinterpretation、先行意味 foremeaning と呼ばれている(Hua VII 149)。
  フッサール現象学では 先行描写 Vorzeichnung は示唆に富む解釈学の用語である。予期的先-構造によって前もって準備されている程度に応じて志向的対象が可能になる。経験の進展はいつでも新しいものによって絶えず魅了されるということではないし、流れによって混乱しているということでもない。そうではなくて、すでに先行描写された地平を充実化すること filling in (Erfuellung)(あるいはまた我々が実際に驚愕するときに期待を新たにすること)である。すると対象とは何か生の与えられたものではなくなる。それはいつでも期待の枠組みの中に自身を挿入することができるという条件でのみ現れることのできる実体である。つまりただそれを「受け取る take」仕方を知っているときにのみ、我々はそれを解する construe ことができる。
 フッサールにとっては、志向的対象はいつでも解釈されるものである。まったく同様に意図することはいつでも解釈することを意味する。その修辞的表現にもかかわらず、フッサールは明らかに「純粋に与えられたもの」という観念を拒否した。そして常に志向性を解釈と理解していた。志向的生について、その多くの詳細な探求の全体的要点があるとすれば、それは世界を意味の統一へと織る意識の側での微妙な構造化とか解釈 rendering のもとでのみ、経験が生じるということを示すことであった。
 ここで、このトレーシングや総合の作業、対象創出が可能となる先行条件を構築する作業において、フッサールは前方へ動く反復の哲学をはっきりと練り上げている。それは経験の進展から対象の進展する結果を、ノエマティックな統一を、折り込まれた結果を織り上げることができるものである。対象はその統合的ノエマータの総合的な統一体、ノエマータの「体系 system」である。それはなにかしら、デリダのテクスチュアリティに対するフッサール側での等価物である。織ること texere から、織り込まれたもの interwoven としての対象である。どんな与えられた瞬間にも欠落しているものを目指して for 、意識は対象を構築し、構成し、作り上げる。そしてこれは過去把持 retention(repetition)によってであり、それは未来把持 protention と合わさって、体験 Erlebnis の流れを偶然の休止 contingent rest に導くのである。
 これは『論理学研究』の 統握 Auffassung という概念と同様に早期からすでに明らかなことであった。志向すること to intend は「理解する apprehend」こと、解釈する(auffassen)こと、ある限定されたやり方で何かをつかみ(Prehendere,fassen)上げる(auf)こと、特殊なしかじかのものとしてみなすことである。たとえば、彼は知られていない字体で書かれた語を例示した。我々はそれが筆記であると理解するまでは、つまり筆記とみなすまでは、戯れに描かれたアラベスクの一種だと受け取る。奇妙な音を聞いて、それが語であることを発見するときに、同様の変様が起こる。 統握 Auffassung は単に何かを見ることとそれをそうであるものとして見なすこととの間にある「剰余 surplus」(Ueberfluss)である。かくそれは単なる主観的感覚なのではなくて、花の匂いとなるのである(LU U/1 385/LI 567)。我々はすでに-解釈された対象を知覚している。感覚される sensate 生の質料 - それ自身については解釈されない - は、対象がそこで理解される心的過程(Erlebnis)の何らかの構成部分ではあるが、まったく知覚されない。この統覚的、解釈的作用は志向性それ自体と同じである(LU U/1 385/LI 567-68)。統握によって、耳なりが窓の外の車のアイドリングを聞く作用になるのである。
 しかし、フッサールが感覚−プラス−解釈の経験論的図式に依拠しているということでは決してない。フッサールにとっては感覚についての経験論的概念は対象の知覚的解釈にとって換えられる。この作用はものをそれであるものとして知覚対象を解することである。この解釈的契機を欠くならば、何か解釈されないものが残るというわけではなくて、「対象」がまったくなくなるのである。そういうことが起こるのは常軌を逸したまれな場合である(たとえば、ミルクがマグネシウムのミルクに変わってしまうなどという場合に混乱するだろう)。認知的には区別される異なった、異なりうる二つの対象の間で、そうした[解釈の]介入の瞬間があるわけだが、そこではただに主観的混乱と常識はずれの驚きがあり、主観は世界に突入するその志向的前進を奪われ、純粋に私秘的な 体験 に連れ戻される。
 フッサール現象学におけるこの瞬間、ヘラクリトス的観点から言えば、我々は流れにさらされているのである。それはフッサールにとっては 体験流 Erlebnisstorm であった。主観的作用の純粋な流れであり、安定化されることなく、組織化されることなく、把握されることなく、解釈されることのない感覚質料の川である。こおで経験はコントロールをはずれて走り、そしてある不調和な瞬間に、我々は位置関係を見失い、世界への我々の契機 momentum を失うのである。現象学はその対抗者にさらされ、そこで介入する解釈的作用の絶対的必然性が生じるのである。解釈の契機がなければ、純粋なデータ、解釈されない与えられたものが与えらるというのではなく、一種フッサール的な原初的カオスが与えられるのである。かようにフッサールは解釈的知覚理論に与して、(彼にとっては解釈されないセンスデータである)感覚の理論を拒否した。
 それゆえ、有名な「諸原理の中の原理」(Hua V.1 51/Ideas T 44)における純粋に与えられるものへの回帰についてのフッサールのレトリックには注意するべきである。というのは、フッサールの直観主義がもっとも極端な定式に達するここですら、与えられるものを、それが自身をそうである「ものとして as what (als was)」見なすことへの言及があるからである。物事の、自己−を与えること self-giving、は決してその、として−構造 as-structure、から分離できない。与えられることは、として as 与えられることであり、与えられるものを受け取ること take up は、それを as として受け取ることである。
 フッサールにおいては、与えられるものが存在しないとか、彼は直観の理論を持っていないということを議論しているのではなくて、彼はこれらの概念を素朴に定式化していたわけではないということ、直観主義の限界についての批判的感覚を持っていたということを論じているのである。彼にとっては、与えられるものを直観するとは、自身を提示するものをいかにして解するかを知ることである。この方法がなければただ流れしか存在しない。与えられるものにとどまれという命令は、与えられるものが何かあるもの として 与えられるのだということへの注意である。フッサール志向性理論におけるこの解釈学的−解釈的契機は、フッサールの直観主義とその構成理論との間で、前者を後者の観点から読むことによって生じる緊張を解きほぐすものである。適切に理解されれば、 純粋直観 reine Anschauung とは解釈の方法を知ることである。
 フッサールの理論におけるヒュレー的データの役割 -- これは我々のヘラクリトス的問題圏では特別な意味を持つ -- は知覚の解釈が崩壊すると何が起こるかを説明することである。ところが、解釈的作用とヒュレー的質料に関する質料/形相理論は、よくても不完全なものである。ソコロウスキー Sokolowsky が指摘するように、それは志向的生における意味を 位置づける には役立つが、その 起源 を説明するには役立たない。もし志向的生が流れる流れ flowing stream であるならば、質料/形相理論はそれに呼応して一つの領域交差的断片 cross-sectional slice を孤立化させる。その断片を質料/形相理論はその断片を記述するが、それはその時間的、前進的発展を考慮の外に置くのである。
 フッサールが志向性の説明を発展させるとき、解釈的エレメントは消失するというにはほど遠く、それと協同して発展した。志向的対象は単に統握されるために「統握され apprehend(aufgefast)」るのではない。そうではなくて、それは「前もって in advance(aufgefasst im voraus)」解され、統握されなくてはならない(Hua T 83/CM 45)、とフッサールは論ずる。そして、それが我々を「地平」や「先行描写」という概念に直接導く。フッサールの「プロト−解釈学」についての私の説明はそこに集中する。

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Subject 自己の生成から意味の生成へ
Author イストラン [ 1506 to イストラン ]  7/16/Sat/2000  神秘主義と哲学 eleutheria.com

 キルケゴールの実存的反復という概念は流れ the flux に取り組む20世紀解釈学の試みの一つの要素以外のものではない。解釈学の「第一本質」とここで呼ばれうるもの、そのために『存在と時間』によって設定された意味が、フッサールの現象学から分けられないことを示そうと思う。解釈学がもしキルケゴールとその流れのただ中に自己を基礎づける実存論的反復のプロジェクトから分けて考えることができないとすれば、それはまた現象学とその固有の認識的反復なしには想像できない。解釈学はその第一本質において、実存論的かつ現象学的である。そしてこの解釈学の実存論的解釈学的構造こそがデリダと後期ハイデッガー自身において攻撃されるものである。私がここで「根源的解釈学」と呼ぶものは「解釈学的現象学」の脱構築的批判によって火をつけられ、かくて重要な様態でポスト−現象学的、ポスト−実存論的なものとなったものである。
 キルケゴールに劣らずフッサールは流れのダイナミックについて鋭敏な評価をくだしていた。彼の現象学的方法は一つの仮定に依っている。経験のとどまることのない流れを秩序付け、安定化し、その規則性を感知するために、一つの方法を発見できない限り、我々はカオスのなすがままになり、「世界」は決して「構成され」ないだろう、というものである。フッサールはこうしてキルケゴールの探求とそれほど異なり得ない一つの探求を開始するのだがが、それでも平行軌道を描く。このことを見て取ったのは『存在と時間』の天才の部分であるが、同様にこの著作の困難なところは一部この奇妙なカップルの間で解消しがたい緊張におかれているということである。
 キルケゴールとフッサール。一方は宗教的情熱の強さ。機知による謎、笑劇的、風刺的、想像的実験、偽名と間接的意志疎通の中国のなぞなぞの箱。他方は情熱を廃した生真面目さ、学の厳しい(streng)自己規律、一義的言語と直接的意志疎通。キルケゴールが流れの実存論的征服を求めたとすれば、フッサールは流れとの認識論的格闘を求めた。キルケゴールが実在する主体に関心を持ったとすれば、フッサールは「ノエティック」な主体に関わり合いになる。キルケゴールの興味が世界の流れのただ中での実在する自己の構成であったとすると、フッサールの関心は内的時間意識の流れにある世界の構成であった。生と生成の二つの哲学、一方は実存論的生と生成 becoming、志向的生と発生 genesis である。
 双方の場合とも、我々は産出の哲学を見る。パターンを登録する哲学、そうしなければコントロールできない流れの中でパターンを刻み込む inscribing 哲学を見る。構成的行為によって、何度も反復することによって統一 unity を創造的に産出し、実存論的統一を作り出す、反復の哲学を見る。そして他方、理念的統一性、意味の統一を見る。一方では実存論的統一の生成を、他方ではノエマティックな統一の生成を見る。ここには自己の生成があり、そこには意味の生成がある。実存論的生成と意味の生成、自己の選択と意味の構成である。二人の思索者において、我々は先在する世界への回帰の運動に関わるのではなく、生成されるべき産出のほうへ、前方へ押しやる運動に関わる。それは反復であり構成であり、想起ではない。二人の生成の哲学者、ヘラクリトスの流れについての二つの説明、一つは実存論的流れ stream であり、もう一つは意識的経験の流れ(Erlebnisstrom)である。
 この章では、反復と流れの哲学者として理解されたフッサールが本質的に解釈学の戦略に寄与していることを示したいと思う。というのは、もっとも広い意味での解釈学とは私にとっては流れを扱い、すべってゆく世界の中でパターンを描写することに関わるからである。解釈学は生成の哲学の最終形態であり、ヘラクリトスの挑戦に対する最後の反応である。フッサールにとって、流れはそのまま現象学の生の質料であり、その恒常的な対立物であった。それは固定化と安定化と規則化を要求するものであり、だから現象学にするべき仕事を与え、そして現象学のプロジェクト全体を脅かし、もしチェックされないままになると学的構築物を全部破壊してしまうものだった。フッサールは構成の教義の中でこの流れを固定させる手段を発見した。それがとくに解釈学的共鳴を持つという議論をしていこう。このことで言いたいのは、フッサールの構成の中のすべては、或る 予期的 運動に依拠しているということである。それは規則性を予期し、それが従うパターンを前もって描写し、実際それに一歩先んずることによって、流れを規則化するという身振りである。流れは生のランダムなものではなく、次の運動についての我々の期待を構築するパターンに自ら組織化するものである。この期待の「構築 building up」は世界の「構成 constitution」の鍵となるものである。経験とはそうした期待の瞬間である。それらの期待の漸進的確認であり、否認であり、また洗練であり、置き換えである。経験は信頼を構築するパターンの反復によって、あるいはパターンを信頼できるものにするために変容させる modify ことによって、前に運動する。
 フッサールの「予期的」構成理論というのは、ハイデッガーが『存在と時間』において実践した「解釈学的」方法において本質的要素を成している。これは次の章の論点となるだろう。そして我々におなじみの区別、ハイデッガーの「解釈学的」現象学とフッサールの「純粋」あるいは「超越論的」現象学との区別を、上の議論が混乱せしめるということが明らかになる。フッサールは「直観」の優位にこだわり、「与えられたもの given」にこだわり、現象学の性格規定における無前提性にこだわったと言われてきた。しかし解釈学にとって、対象は与えられるのではなく、解釈され、直観されるのではなく、了解される construed 。だから重要なことは無前提から逃れることではなく、正しい前提を発見することである。我々は「現象学」を「解釈学」と対立させたり、超越論的現象学を解釈学的現象学と対立させたり、フッサールを『存在と時間』と対立させたりする習慣の中にいる。そうした標準的二分法には何か決定的な誤読があるということを、そしてフッサールの現象学は本質的に解釈学的構成要素であるということを示したい。
 ところが、それはいかにハイデッガーとフッサールが本当に異なるかという問いを提起するのである。このことは私にとってはフッサールの現象学がその解釈学的傾向から身を翻すその点に収斂する事柄である。ある意味で、ドゥルーズの章句を借りてこう言うことができる。フッサールは流れの哲学に「代価を払う」気はなかったのだと(supra,n.25)。フッサールと『存在と時間』との間に、まさにフッサールが流れから現象学を隔離した地点に私は本当の分割を印づける。
 その点で、フッサールのプロジェクトはプラトニズムとの共犯関係に陥る。そして、想起の哲学、再−現前−化の哲学へと、だから我々が今日現前の形而上学と呼ぶものへ転倒される。フッサールは彼自身が置いた解釈学的状況を乗り越えていくことが可能であると考える。そしてすべてに暴力をふるう完璧な回帰 perfect return において意識を手に入れるために、先行描写について語る必要があると考える。この点で、キルケゴールがもっと根源的思索者として現れるのである。フッサールが西洋的形而上学の秘密の夢である現象学、学の西洋的 目的 telos の完遂を希求したのに対して、キルケゴールは形而上学の制限に生涯関わった。かくてフッサールとキルケゴールは双方とも哲学の「終わり」を述べることになるわけだが、フッサールは 目的 telos としての終わりに関心を持ち、キルケゴールは崩壊 foundering としての終わりに関心を持つのである。
 フッサールの現象学はせいぜい一種の「プロト−解釈学」である。「解釈学」と言うのはなぜか。経験の流れの構造を輪郭づけ、その道のりを予言する或る予期的な切断 cuts によって、我々が経験の流れを通して道を作るやり方をそれが示すからである。そうした切断は物事の読解ないし解釈を我々に与える。しかしどうして「プロト−解釈学」と言うのか。それは結局それが自ら発見したものの完全な内実 implications から身を翻してしまうからである。この点で、我々は『存在と時間』におけるキルケゴール的テーマとフッサール的テーマの合流を調べることになるだろう。そうして、どのようにしてハイデッガーが二つの反復の哲学をいっしょにすることが可能であったかを見ることになるだろう。自己の生成についてのキルケゴールの教義と、意味の生成についてのフッサールの理論が一つの独特の力強い「解釈学的現象学」と「歴史的反復」の中に合流しているのである。
 そして、第2部では、いかにしてこの総合それ自体が、一部分ハイデッガーから、一部分デリダから発する新しい驚くべき批判にさらされるのかということを見るだろう。そこで初めて我々は流れの忌憚のない唱道者にして、今時の生成の無垢の唱道者であるニーチェの声を聞くことになるだろう。その点で、解釈学の全体的プロジェクトが消失したのか、それとも、より根源的形ではあるが生き残っているのか、これが問われなくてはならない。

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Subject Radical Hermeneutics 2 反復と構成:フッサールのプロト解釈学
Author イストラン [ 1505 new post ]  7/16/Sat/2000  神秘主義と哲学 eleutheria.com

 前章では、キルケゴールの反形而上学、流れ flux に対して自己を保つという話がされていました。
 この章では、フッサールの現象学を解釈学のひとつの源泉として位置づけています。フッサールの話の中に解釈学的なものを見るというのはリクールもしてましたが、Caputoはリクールの解釈学の扱いには反対なようです。

 
第二章 反復と構成:フッサールのプロト解釈学

 1 自己の生成から意味の生成へ
 2 志向的生を展開する
 3 経験の「先行描写」
 4 意味の歴史的生成
 5 解釈学からのフッサールの出発
 6 反復の哲学たち

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