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TOPIC Consciousness ant the Computationl Mind 第二章 計算(機)的な心
 
Subject 理論Uの派生的推論
Author イストラン [ 1500 to イストラン ]  7/13/Thu/2000  神秘主義と哲学 eleutheria.com

 土台となる規約を設定するために、そして私の考えたい可能性の範囲を明確にするために、理論Uの派生的推論を二つ明らかにしなければならない。

 計算的十分性 Sufficiency の仮説
 あらゆる現象学的区別は対応する計算的区別に原因づけられ/支えられ/
 投影される。
 
 意識の組織はそれを支える計算的な心に限定されているということである。仮説は 要素 というより 区別 という観点から述べられるが、2.3 節で見たように、我々は意識の要素それ自体がどうやって計算から生じるのか知らないからである。むしろ、期待しうる最良のことは、意識の中で区別が生じるところでは、それが計算的状態の差違に対応しているということである。たとえば、赤を見るということは青を見たりしょっぱさを味わったりするのとは違う計算的状態から生じる。

 この仮説を別の角度から見ると、我々が意識している世界は脳/計算的な心が表象しうるまさにそのものだということになる。この世界が真性のものである限り、計算的な心における正しい区別を進化が用意してきたからだと我々は主張しよう。ミラー George Miller はこれを美しく表現している。「脳の最高の知的成果は現実の世界である...我々の経験する真なる世界の基礎的なアスペクトは、自然 physics の本当に真なる世界について順応しうる解釈である」(Miller 1980,222)。
 
 この仮説の経験的な力は現象学的経験を計算的理論に役立てることにある。意識の世界を可能にするために計算的理論は十分に表現豊かでなければならない(適切な区別を十分に含んでいなくてはならない)。かくて、もし現在の計算的理論がまだ表現していない現象学的区別があるのだとすれば、理論は豊かにされ、訂正されなくてはならない。
 しかし、この仮説の条件づけはただ一つの方向に進むことに注意しよう。あらゆる計算的な区別が現象学的区別を条件づけ/支え/投影するわけではないということである。この一方通行の条件づけは無意識的計算を可能にする。理論Uを洗練していく過程で、 どの 計算的区別が意識に生じるのかを正確に規定することができるというのが希望である。理論Uの二つ目の派生的推論はもっと強くこの点を主張する。

 意識の非影響性 Nonefficacy の仮説

 実体Eについての意識は それ自身で in itself
 計算的心にいかなる影響も与えることはない。
 ただEを原因付け支え投影する計算的な状態だけが
 そういう影響を持つことができる。

 この仮説はその結果において相互作用説的見解を明らかに拒否するものである。計算的影響についてのすべての説明は計算的観点 terms でなされるべきであると言うのである。現象学的心から計算的な心へのいかなる因果的結合も存在しない。「Xが意識に現れているのであるから計算Yが生じるのである」という形で説明をつけるのは不可能である。むしろそうした説明の唯一可能な解釈は、Xが意識に現れることに責任がある計算的状態の観点にある。「情報Zと処理過程Wがアクティブであり、特権的なものであるので(だからそういう風に意識のXを原因付け/支え/投影するので)、Yが生じる」。つまり説明は計算的状態それ自体の固有性に戻されなくてはならない。それらが意識を創出するかどうかとは独立にである。

 理論Uのこれらの帰結を見る二つの見方がある。より強いものは因果性についての経験的主張である。

  経験的非相互作用説
 
 計算的心の要素とその因果的相互作用は経験の性質を説明するのに十分である。

 より弱いのは科学的方法論への制限のようなものである。

  方法論的非相互作用説

 我々が経験的に探求方法を知っている唯一の因果関係は
 物理的、計算的なものである。だから科学的一貫性の興味においては
 計算的心の要素とその因果関係をそれらの観点で説明しようとするだろう。
 これは現象学的因果の観点での説明を許容しない。

 いかにして探求するのかという観点からすれば、理論Uとその派生的推論についての上の二つの解釈は等価なものである。とくにこの二つの解釈によって、現象Xがニューロン的計算的装置に原因づけられる有様を我々は想像できないのだから現象学的因果性が作動しているに違いない、という議論を受容しなくてすむ。(そうした議論は Popper and Eccles 1977 でのエックルスがしている。)「現象学的因果性」が意味しうるものについて一貫した観念を持つことなしに、この種の議論は本質的には魔術に訴えることになる。

 逆に、理論Uの二つの解釈のどちらかを採用すれば、現象Xに責任のある計算的区別を求めるよう導かれる。我々が成功しないのは想像力の欠如の故にであり、現象学的心の魔術的作業などのせいではない。理論Uが計算的説明の不十分さを認める唯一の場所は計算的区別による経験の因果付け/支え/投影にある。それは心-心問題の基本的神秘である。

 それゆえに、理論Uの図式の中で、「無意識的表象と処理」に対する「意識的表象」「意識的処理」を文献に共通に見られるように語ることは、カテゴリー違反である。 意識的である表象や処理過程は まったく存在しない 。それらは計算的な心にあって現象学的心にあるのではない。この言い回しを意味あるようにするのは、「意識に 投影された 表象や処理過程」対「意識に投影されない表象や処理過程」を速記したとみなすことである。事柄を可能な限り明確にしておくために、私はこの速記を避けたいと思う。

 ところが理論Uとその派生的推論を見る別の見方があって、たとえば、意識は 因果的には不活性 inert だというものである。これは我々がその醜悪な結論を理解するまでは無害に見える。それは 意識は何に対しても有能ではない Consciousness is not good for anything. というものである。何かに対して有能である唯一の方法は影響を持つということであり、そうした可能性が否定されるのである。さらに、「意識は目的Xに対して有能である」ということを理論Uの範囲で解釈すると、「意識を原因付け/支え/投影する計算的状態は目的Xに対して有能である」となるだろうが、これは正確には同じ勝利の響きを持っているわけではない。
 
 であるから、たとえばグリフィン Griffin の(1981,144)次のような思弁を拒否しなくてはならない。「意識は現在の感覚的入力と比較して得られる内的イメージの実在[である]。」心的イメージは現象学的であり、現象学的心に「心の眼」とか「小さな人間」とかいかがわしいものを呼び込むことなしには、何ものとも比較できない。唯一可能な比較は、現在の感覚的入力から生じる計算的表象と、心的イメージを原因付け/支え/投影する計算的表象の間の比較である。換言すれば、影響があるのは心的イメージではなくて、それらを産み出す表象である。同様の反論は 2.2節でのジェームズ William James からの引用に対してもなされるだろう。「意識は[同時的可能性]の相互の比較に成立する。」。そしてブルナー Bruner(1983,215)の観点にも反論がえられる。「[意識とは]必要と障害の分析の道具である。」意識は比較も分析もできない。ただ計算的心だけができる。

 私自身はこの結論に対してそんなにうれしくもないのである。意識は人の生活にとってあまりにも重要で−あまりにも面白く−、それを無益なものと考えることはできない。無意識のゾンビのように生涯寝たまま歩くのはなんと哀れなことか想像せよ!(ネーゲル Nagel(1794) は答えるだろう、「それはなんでもないものになるだろう It wouldn't be like anything.」。しかしもっと困ったことになる。人は煉瓦とか凍った豆とかバスとかと変わらなくなってしまう。)にもかかわらず、意識に目的を認めてやるということはそれが因果的効果を持つことを要求するのであり、そしてこの因果的効果によって今度は相互作用説を抱いてしまう。それは私自身は規約的に constitutionally 不可能なことと見なす。

 従って、読者は意識の目的についてのいかなる先行概念も宙づりにすることを命じられている。そういう先行概念はただ従うべき経験的根拠から気をそらすことにしか役立たない。いずれにせよ、第W部で、グリフィン、ジェームズ、ブルナーが追求した線に沿った意識の目的 purpose についての思弁が深刻に論点をはずしていること、だから問題はたんに方法論的なものではないことが示されるだろう。

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Subject 心-心問題についての諸見解:理論U
Author イストラン [ 1499 to イストラン ]  7/11/Mon/2000   

 もしも計算的な心から現象学的な心への関係に向かうならば、上の関係にあるような明確さは消失するように思われる。むしろ現象学的心身問題で陥る状況と同じ状況に我々はいる。心の計算的な理論は経験に現前する諸単位や諸区別を解明するのに助けになるだろうが、あるいは現象学的な心の組織化は生のニューロン生理学よりも計算的心と密接に平行しうるだろうが、我々はいまだ意識それ自体の本質的性質に関してはどこにもたどり着いていない。
 それでも、たとえば現象学的な心の相互作用説について考えることができよう。そこでは心は分離した形而上的領域であって、それ自身の因果的力を持っている。その心は計算的な心/脳に作用し、作用される。これを
Figure 2.2 で示そう。そうした理論は形式化できるが、しかし心の計算的理論をあざわらう。計算的状態の観点から語るすべての問題は、心の諸状態の間にある論理的結合を解明することである。そして相互作用説はそうした論理的結合が存在する必要があることを否定するのである。







(ここに
「自由意志」)
主体Sの対象O
についての経験

対象Oを蹴る
という主体の決断
----------------------------↑----------------------------------------------




計算的記述主体Sの計算的状態1主体Sの計算的状態2

↑↓

↑↓

物理的記述 対象O  → 主体Sの脳状態1主体Sの脳状態2 → 主体Sが対象Oを蹴る


Figure 2.2 計算的相互作用説







主体Sの対象O
についての経験
対象Oを蹴る
という主体の決断
----------------------------↑----------------------------------------------




計算的記述  主体Sの計算的状態1主体Sの計算的状態2

↑↓

↑↓

↑↓

物理的記述 対象O  → 主体Sの脳状態1 → 主体Sの脳状態2 → 主体Sが対象Oを蹴る


Figure 2.3 計算的付帯現象説


 計算的アプローチにとって、同じ二元論的だがもっと合っているのは付帯現象説である。そこではFigure 2.3 に見られるように、計算的状態が意識状態を産み出すが、逆ではない。(この平行説的変形形態は明らかであろう。)
 あるいは、唯物的、同一的、理論(Figure 2.4のような)を定式化できる。そこでは現象学的心は物理的領域を記述する第3の道にすぎない。意識的経験とは、関連する計算的状態での装置であることによって「どんなふうに感じるのか」ということである conscious experience is what it "feels like" to be the device in the relevant computational states 。






現象学的記述  主体Sの対象O
についての経験
(→)対象Oを蹴る
という主体の決断
  
↑↓(↑↓)↑↓
計算的記述主体Sの計算的状態1主体Sの計算的状態2

↑↓

↑↓

↑↓

物理的記述 対象O  → 主体Sの脳状態1 → 主体Sの脳状態2 → 主体Sが対象Oを蹴る


Figure 2.4 計算的同一説


 伝統的心身問題でのように、これらの可能性の間で選択する根拠は大してない。第一章で観察したように、「のように感じる」という説明がいまだまったく神秘的であるが、同一説がおそらくは現代科学的思考にとってより受容できるものであろう。さらに同一説によれば、もし人間の脳の計算的状態を複製するならコンピューターが意識的でありうるということをもっと容易に含意するだろう。しかしこれがむしろイデオロギーの問題であるように−コンピューター意識の可能性について人はさまざまに要求する−、我々はこれを意味のある論点だとみなすことはほとんどできない。
 そこでとりあえず、Figure 2.3 や 2.4 に例示された見解の間で選択しないというのが私は方法論的に慎重だと思う。従って、理論Tはコンピューター的心と意識の間の区別を可能にするために訂正されなくてはならない。理論Uは予備的な定式化である。

 理論 U

 意識的覚知 awareness の要素は
 (1)アクティブであり
 (2)(いまだ種別化されていない)他の特権的な特性を持つ
 計算的な心の情報や処理[過程]によって
 原因づけられ caused by、支えられ supported by、投影される projected 。

 これと理論Tの違いは、「から成る」を「原因づけられ、支えられ、投影される」に変えたことである。この意図的に曖昧にした言明に、心−心問題の神秘的な部分がある。そしてこれをさらに定義する責任を負わないようにしたい。あとで見るように、理論Uの残りは経験的探索に開かれている。我々の諸理論はこれからそれを洗練させることになる。
 そういうわけで、我々は意識を計算的心の諸要素の部分集合を 外化したもの externalization あるいは 投影したもの projection として考える。この状況の図表が意味を持つ限り、求める理論の形態は Figure 2.5 に示したように図式化できよう。

現象学的な心意識 awareness
・・・・・・・・・・・投影 projection・・・・・・・・・・
計算的な心
アクティブな要素意識が利用
できる要素
特権的特性
を伴った要素


Figure 2.5
理論Uの図式化


 図の水平の点のラインは二つの心の間にある形而上的区分を表している。この図表は投影の性格については限定していない。これは計算的な心から現象学的な心への写像であるが、とくに、付帯現象説のように(Figure2.3)それが意識を「原因づける」かどうか、あるいは同一説のように(Figure 2.4)それがたんに観点の変化でしかないのかどうか、ということを限定しない。
 しかしながら、提起されうる問題は特権的な表象の選択である。理論Uを洗練させていく中で、我々は意識が利用できる要素の集合を束縛する constrain ことに努めよう。そうすればまさに経験の性格を説明できる集合を見つけることになる。

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Subject 心-心問題
Author イストラン [ 1498 to イストラン ]  7/9/Sat/2000  神秘主義と哲学 eleutheria.com

 問題はここである。計算的な心と現象学的な心はともに物理的身体とは異なった記述領域であるからといって、これはそれらが 同じ 領域であるということを意味しない。

 この問題についての楽観論者(もし適切に読めていればホフスタッター(1979)のような)は、仮に神経システム(ないしコンピューター)が十分に複雑性の程度に達すれば、意識が何か奇跡的に生じると言っている。しかし実際意識的経験を情報の流れとして語ることと同様に、それをニューロンの発火として語ることはどの点から見ても一貫しないと私は思う。いかに複雑で抽象的であろうとも、計算が経験にまで到るということはまったく不明なことである。

 ホフスタッターの見解は他の論者のように、ある部分では意識を自己意識(つまり反省的意識)と混同することから生じている。後者は(少なくとも)通常の意識と自己指示とが結合したものに関わる。自己指示はもちろん人々の間に共通する能力であり、ある種のコンピューター言語、「私が今発している文章が10語である」のような普通の文に共通する能力である。それは意識それ自体[per se]には何の関わりもない。ホフスタッターは自己指示に夢中になっており、自己意識の他の本質的要素を無視している。そこで、再帰的自己指示と意識の双方ともぎょっとさせる(宗教的畏敬に導かれてすらいる)ものと見なし、彼は無批判に前者を後者の源だと同定したのである。

 もっと冷静な考察では自己指示から自己意識へ、意識へという跳躍が保証されないものだという示唆がある。クゥアリア qualia の問題を考えてみよう。ブロック Block(1978)が主張するように、いかなる計算的理論も、いかにして計算から青さやしょっぱさや痛みを得るかに関するいささかの考えも与えない。ニューロンの説明と同様、計算的説明もまた正しい 区別 を用意するだろう。いわば現象学的な心に対して、しかるべきときに青さの経験を創出する手がかりを、しかるべきときに赤の経験を創出する手がかりを与えるかも知れない。しかしそれは経験それ自体を創出することとは違う。

 形態の問題についてはもっと望みが少ない。確かに「Xは四角である」という一般的形態の 命題的 propositonal 表象(言語的表象ばかりでなく意味論的ネットワークも含む、第8章、第1節を参照)は四角さの 経験 にとっていかなる基底をも提供しない。他の観点での価値がどうであってもである。その性質がより幾何学的な表象は視覚的想像物を説明するために持ち出されてきた(シェパード Shepard とクーパーCooper 1982、コスリン 1980、第九章第五節参照)。これらは一見するとより満足のいくものに見える。しかし後に見るように、これらの提案を支える力はそうした表象が幾何学的形態の間の適切な区別をコード化するということであって、形態の経験それ自体を説明することはできないのである。それらを「心の眼」が見た「頭の中の絵」と考えることにずれこんでいるにすぎない。かくて別のものとして信じるように我々がトリックを自らに仕掛けているのである。

 最後に、計算的心がニューロン的脳に対して提起したと同じ問題を経験の外化が作り出す。私は対象をあそこの 世界の中に 経験する。痛みを 私のつま先に 経験するのであって、脳内の計算的状態の中にではない。計算的な心は経験された対象の位置 locations の区別をよく表現するだろうが、いかにしてそれを文字通りそこに置くのかを見ることは難しい。

 これらの点で奇妙にねじくれた説はサール Searle(1980)に見られる。心の計算的理論を反駁する試みとして広く引用されたものである。議論は 志向性 をめぐっている。これをサールは「世界の中の対象や状態へ、あるいはそれらについて方向付けられることを可能にするある心的状態の姿」と定義した(p.424)。彼は正しくもコンピューターができるすべてのことはその内的象徴 internal symbols を操作することであると論じた。それは外的世界に結びつけられた象徴を理解できない。機械の観点からすれば、象徴は 何のための 象徴でもない。それらは意味のない印にすぎない。かくて、コンピューターの状態はサールの意味では志向性のないものとなる。彼は結論する。「脳の志向性を産む因果的能力はコンピュータープログラムを事例化 instantiating ことにあるのではない。というのも、お望みのどんなプログラムにとっても何かがそのプログラムを事例化することは可能なわけであり、それでもいかなる[志向的]心的状態をも持たないからである。脳が志向性を産み出すために何をしようとも、それはプログラムを事例化することで成立するわけではない。どんなプログラムもそれ自体では志向性にとって十分ではないからである。」(p.424)

 わけのわからない用語を引き剥がすならば、サールの議論はもっと基本的な直感的主張を変形したものと見なすことができる。それはコンピュータープログラムを走らせることは意識を創出しないということである。心的状態がサールの意味で志向的であると信じるのは、我々の思考が向かう世界の中のものを我々が経験しているからである。コンピューターの状態が志向的ではないと我々が信じるのは、いかにしてコンピューターが世界を経験するのかを想像できないからである。要するに、コンピューターや計算的心に欠けているとされるサールの奇妙な「志向性を創出するための脳の因果的能力」なるものは、意識的覚知にとっての婉曲語法であるように見える。

 多様な経験を調べていくと、実際サールの意味での志向性は問題を位置づけるには誤った場所であることが示唆される。もし志向性が心的状態と(現実的)世界の間の関係に関わるならば、想像や幻覚を産み出す心的状態の「漠然性 aboutness」の入り込む余地がなくなる。つまり心的状態の志向性に焦点を合わせる理論は外的現実を「把握する grasping」ことに関わる心の理論と同様な困難を蒙る。これは第1章第3節で述べた。もっと包括的な説明は、志向性を(計算的な)心的状態の固有性であるものとして受け取っている。そこでは現実的であろうとなかろうと心的状態は経験されるものとしての世界に関連づけられている。しかしそれはつまるところ再び意識の問題になるわけである。(これについては第7章4節、第7章5節で詳しく論じることにする。)
 このサール読解においては、(間接的ではあれ)私が進めてきたのと同じ観点を彼が作っているものと見なしている。計算的な心は意識的経験が何であるかについての説明を提供しないということである。しかしこれは必ずしもサールのように計算的な心を拒否する理由とはならない。コンピューターアナロジーの力についてなされる主張を制限する理由となるのである。


 その結果、今や心理学は気にかけるべき領域を二つではなく、三つ持っているということが言える。脳と、計算的な心、そして現象学的な心である。従って、デカルトの心身問題についての記述は二つの分離した問題に引き裂かれる。「現象学的心身問題」(これは第一章の関心事であった)はいかにして脳は経験を持つのか、というものである。「計算的心身問題」はいかにして脳は推論 reasoning を達成するか、というものである。計算的状態と経験との関係はいかなるものであるか、Figure 2.1 はそれを描写している。

 脳       計算的な心       現象学的な心
 ↑ \     /    \     /  ↑
 │  計算的な       心−心問題   │
 │  心身問題               │
 │                     │
 │       現象学的な         │
 └───────心身問題──────────┘

Figure 2.1
心理学の領域とその諸関係


 この有利な点からパットナム(1960)の主張に戻ろう。それは脳を情報の処理者 information processor と見ることが心身問題を解決するとしている。実際にパットナムがしたことは、機能主義が計算的な心身問題への 接近方法 を与えるということを発見したことである。彼は計算的な心身問題をまったく無視してしまった。計算的な心身問題に対する 解決 によって、計算的な心の情報構造と処理過程がどのように自然に事例化される instantiated のかを教えられるのである。つまりどのようにしてソフトウェアがハードウェアの上を走るのかということである。(たとえばいかにしてニューロンが視覚的同一化や文章了解を達成するのかという)要求される詳細についてはソフトやハードについてほとんど我々は知らない現状のゆえに、パットナムが解決したと主張するのは何か行き過ぎであろう。

 我々はしかしながら原理的にはかなりよく問題を理解している。少なくともフォーダー(1975)が トークン還元主義 token ruductionism と呼んだものについては希望を持てる。この種の説明は、しかじかのときに、しかじかの個体で生じるしかじかの計算的構造と処理過程は、その個体の神経システムの中でのしかじかのニューロン的構造や処理過程によって事例化される instantiated ことを言うことができる。他方、フォーダーが タイプ還元主義 type と呼んだものについて期待するのは理にかなっていない。これはたとえば、 祖母 の概念は各自において全く同じように事例化されると言うのである。なにがしかこの二つの見解の間におそらくは最も期待できる道がある。多くの種類の構造と処理過程のための徴表還元と、他者(たとえば低レベル視覚システム)のための類型還元であり、またこの類型の分類を越えたもの(たとえばしかじかのタイプの情報と処理過程が脳のしかじかの領域に位置づけられ、ニューロン構造のしかじかの配置によって遂行される)である。

 これらの問題の最終的な結果が何であろうと、計算的心身問題への解決の外観的形態は明らかである。コンピュータープログラムはその機能的組織という観点から見て機械操作を種別化する一つの方法である。だから我々は計算的な心を神経システムの機能的組織の抽象的種別化として見ることができる。たとえそのときこの記述をハードウェアシステムに翻訳できなくてもである。従って、心身関係のどんな理論をこの場合に当てはめて選ぶかということになると、適当な回答は明らかに同一説である。計算的な心は脳を記述するもう一つの方法ということになる。情報構造についての言説を禁止する「行動主義的」見解を採用することには意味がほとんどない。「付帯現象説的」見解を採用することはさらに無意味である。そこでは情報処理過程はなんらか形而上的に区別された領域で進行するのである。

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Subject 計算的心のアトラクション:理論T
Author イストラン [ 1494 to イストラン ]  7/7/Thu/2000   

2.2 計算的心のアトラクション:理論T

 この心の計算的概念がどのように伝統的現象学的概念と照応するのかを見てみることにしよう。まず始めに、双方の心は物理的装置の特性や状態に因果的に依存しているけれども、双方とも物理的装置から分離された記述領域に存在しているように見える。さらには計算的な観点で考えることはある種の抽象性、一般性を達成するのに実りある方法である。これは意識的生活だけではなく、無視できない複雑性を持った動物の行動も記述するのに必要なものに見える(第三章、第1節を参照)。とくに、対象とか、組織された行動、目標といった高度な計算的説明単位は現在知られるどの神経活動よりも意識の直感的単位に近く照応している。
 コンピューターとの類比はまた無意識な心の概念を扱うにもしばしば魅力がある方法となる。第一章では、経験されたものとしての心的なものという定義に関して、無意識なるものが逆説を提示することを見た。いかにして何かが経験され、しかも経験され ない のか?しかし、もし「心的」というのが代わりに情報処理過程の観点から定義されるならば、かなり満足のいく結果になる。たとえば記憶を考えてみよう。コンピューターはたくさんの情報を蓄積するが、ただそのわずかな部分が所与の時間にアクティブに使われるだけである。同様に、脳のアクティブな処理過程で産み出される情報の瞬間ごとの万華鏡的変化は意識のたえず変化する流れに照応している。これに対して非アクティブな蓄積された情報は無意識的であり、しかも心的なものとみることができる。
 パットナム(1960)が指摘するように、コンピューターとの類比はまた、いかにして人はそれを知っているとは意識していないものを知ることができるかを説明してくれる。何かの事実Fを知るためには機械は計算状態Cの構成を含んでいなければならないと仮定しよう。すると、機械が事実Fを知っていると意識するためには、構成Cにある[being in]ということを意識していなくてはならない。ところがそのことはCが存在するかどうかを調べる高次の計算状態C’の理解を要求する。もしCがC’なしに存在するなら、機械は事実Fを知るが、しかし事実Fを知っているとは意識しない。つまり、計算装置の自己監視は、世界との通常の相互行為に責任のある処理過程の上の処理過程である。だから我々は原初的意識と反省的意識の間の区別の発生を見るのである。
 コンピューターは複数の作業を一度にやる。そのうちのあるものは組織化の高度な目標や形態に関わり、他のものはより下位の補助的なものに関わる。これは脳についても同じである(実際かなりそうである。第三章第二節を参照。)計算的な心をブラックボックスに分割し、とくに重要な一つを意識の座と同定することは魅力的なことである。すると一つの大まかな仮説になる。この特殊なブラックボックスの中でアクティブになっている情報ないし処理過程は意識的であり、他のものは無意識的であるということである。かくて心の意識的な部分と無意識な部分は、情報とその上になされる処理過程から構築される同じ本質的性格を持つことになる。
 このアプローチを理論Tとして成文化しておこう。意識の問題を徐々に精錬する試みで我々が展開していく始めのものである。

  理論T
 意識的覚知は計算的心の情報と処理過程から成る。この計算的心は(1)アクティブであり、他の(それでも特定されない)特権的特性を持つ。

 理論Tのようなものは、文献ではさまさまな外見において共有されているものである。ミンスキー Minsky(1968)は意識を「至高の組織者」とみなし、他の能力に接続し矯正するものとした。デネット(1969)は意識の要素を発話センターの内容とした。ジョンソン−レアード Johnson-Laird(1983.465)は次のように言っている。「意識の内容はオペレーティングシステムの高度な計算を統括するパラメーターのカレントな価値である。」フリース Frith(1981)はサブルーティンを導き、管理し、円卓する監視システムとして、意識の話をしている。マンドラー Mandler(1984,89)は意識の内容を特殊な処理過程を経験する心的産物 product として考えようとしている。これらすべてはある意味でウィリアム ジェームズ(1890,288)によって先取りされていた。

 「意識は他のもの相互と[同時的可能性]の比較から成っている。また注意作用を強めたり禁止したりすることによって、あるものを選択したり抑圧したりすることから成っている。もっとも高いもっとも精錬された心的産物は、より下位の能力により選択されたデータからふるいわけられ、劣った能力により与えられた塊からふるい分けれる。この塊は今度は比較的多量のより単純な質料 material から古い分けられる。以下同様。」

 これらの見解の間での違いは理論Tの但し書き(2)をどうやって説明するかにある。アクティブな心のどの部分が特権化されるのかということである。しかしそれらに共通のことが一つあって、処理過程の特別に高度な表象と意識とが問われることなく同定されるということである。この選択は伝統的直感と照応している。それは意識的な心が、意志、行動の創生や調整と結びつけられているということである。これは合理的選択をする能力、究極的には人格と結びつけられていた。この理屈を論争しうるものと見るのは難しい。が第四部でそれを問題にするに到る。従って、原理的には経験的調査に委ねられる仮説、主題という以上のものではないと見るのが妥当であろう。
 しかしこの問題は当面取り上げるつもりはない。現象学的な心が計算的な心に関係するその関係をもっと基礎的に明確化すること、これが問われることである。


% attraction というのをついに訳せず。「見せ物」ではいかんだろうし。

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Subject コンピューターのアナロジー
Author イストラン [ 1487 to イストラン ]  7/4/Mon/2000   

 心の計算的理論は、コンピューターへの類比による情報処理装置としての脳の概念から発展する。水力学的機械、蒸気機関、電話交換機のような初期の類比と比べ、コンピューターとのアナロジーは一般大衆の想像力を捉え(タークル Turkle 1984参照)、実りある探求計画を作り出すことに顕著な成功を収めてきた。
 コンピューターの二つの特性がこの類比を勧める。まず、データとプログラム(とくに高級言語で書かれるもの)の情報内容はどのコンピューターの物理的個別化からも独立して記述できるということである。たとえばFORTRANプログラムは真空管だろうとトランジスターだろうとチップだろうと、多かれ少なかれどの機械でも走る。コンピューターの情報はそれを支える(たんなる)ハードウェアからは自律的であり−分割された領域に住み込む−ということは心と同様なのであって、ここに意味がある。第二に、ゴールとサブゴール、自己モニタリングと自己訂正 modification という点からプログラムが組織される方法が、問題解決、学習、他の認知的作業についての常識的直感と共鳴しているということである。(加えて計算や画像生成のような作業でのコンピューターのスピードと正確さは、人間が実時間で追えるものではなく、従って知性の印象にいたる。)
 雑に言えば、コンピューターとの類推は次のような仮説を示唆しているのである。プログラムするときにちょうど我々がコンピューターの実際の配線を扱う必要がないように、ニューロンの実行過程の問題から独立して、脳によって処理される情報を調査し、脳がこの情報に行う計算的処理を調べることができるということである。このアプローチはしばしば 機能主義 と呼ばれる。この語の背後には脳の物理的実体よりは機能の方が心の研究において意味があるという考えがある。
 そうした探求は1950年代初期から認知心理学や言語学の多くを占めてきた。もっと初期にはコンピューターを「電脳 electronic brains」と呼ぶことが一般的であったが、 と類比化しているような一番早い言及は、知る限りパットナム Putnum の『心と機械』(1960)である。脳の情報について 心的表象 と呼んだり、その表象への処理[プロセス]操作を 心的処理[プロセス] と呼ぶことは今や慣用となっている。つまり、コンピューターのソフトウェアやデータがハードウェアに対するように、心は脳に対しているのである。

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Subject Consciousness ant the Computationl Mind 第二章 計算(機)的な心
Author イストラン [ 1486 new post ]  7/4/Mon/2000   

 未だにどう訳していいのかわかりません、この computationalというのは。

 この章の節は以下の通りです。

 1 コンピューターのアナロジー
 2 計算的な心のアトラクション:理論T
 3 心−心問題
 4 心−心問題の諸見解:理論U
 5 理論Uの派生的議論

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