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Consciousness ant the Computationl Mind 第二章 計算(機)的な心 |
土台となる規約を設定するために、そして私の考えたい可能性の範囲を明確にするために、理論Uの派生的推論を二つ明らかにしなければならない。
計算的十分性 Sufficiency の仮説
あらゆる現象学的区別は対応する計算的区別に原因づけられ/支えられ/
投影される。
意識の組織はそれを支える計算的な心に限定されているということである。仮説は 要素 というより 区別 という観点から述べられるが、2.3 節で見たように、我々は意識の要素それ自体がどうやって計算から生じるのか知らないからである。むしろ、期待しうる最良のことは、意識の中で区別が生じるところでは、それが計算的状態の差違に対応しているということである。たとえば、赤を見るということは青を見たりしょっぱさを味わったりするのとは違う計算的状態から生じる。
この仮説を別の角度から見ると、我々が意識している世界は脳/計算的な心が表象しうるまさにそのものだということになる。この世界が真性のものである限り、計算的な心における正しい区別を進化が用意してきたからだと我々は主張しよう。ミラー George Miller はこれを美しく表現している。「脳の最高の知的成果は現実の世界である...我々の経験する真なる世界の基礎的なアスペクトは、自然 physics の本当に真なる世界について順応しうる解釈である」(Miller 1980,222)。
この仮説の経験的な力は現象学的経験を計算的理論に役立てることにある。意識の世界を可能にするために計算的理論は十分に表現豊かでなければならない(適切な区別を十分に含んでいなくてはならない)。かくて、もし現在の計算的理論がまだ表現していない現象学的区別があるのだとすれば、理論は豊かにされ、訂正されなくてはならない。
しかし、この仮説の条件づけはただ一つの方向に進むことに注意しよう。あらゆる計算的な区別が現象学的区別を条件づけ/支え/投影するわけではないということである。この一方通行の条件づけは無意識的計算を可能にする。理論Uを洗練していく過程で、 どの 計算的区別が意識に生じるのかを正確に規定することができるというのが希望である。理論Uの二つ目の派生的推論はもっと強くこの点を主張する。
意識の非影響性 Nonefficacy の仮説
実体Eについての意識は それ自身で in itself
計算的心にいかなる影響も与えることはない。
ただEを原因付け支え投影する計算的な状態だけが
そういう影響を持つことができる。
この仮説はその結果において相互作用説的見解を明らかに拒否するものである。計算的影響についてのすべての説明は計算的観点 terms でなされるべきであると言うのである。現象学的心から計算的な心へのいかなる因果的結合も存在しない。「Xが意識に現れているのであるから計算Yが生じるのである」という形で説明をつけるのは不可能である。むしろそうした説明の唯一可能な解釈は、Xが意識に現れることに責任がある計算的状態の観点にある。「情報Zと処理過程Wがアクティブであり、特権的なものであるので(だからそういう風に意識のXを原因付け/支え/投影するので)、Yが生じる」。つまり説明は計算的状態それ自体の固有性に戻されなくてはならない。それらが意識を創出するかどうかとは独立にである。
理論Uのこれらの帰結を見る二つの見方がある。より強いものは因果性についての経験的主張である。
経験的非相互作用説
計算的心の要素とその因果的相互作用は経験の性質を説明するのに十分である。
より弱いのは科学的方法論への制限のようなものである。
方法論的非相互作用説
我々が経験的に探求方法を知っている唯一の因果関係は
物理的、計算的なものである。だから科学的一貫性の興味においては
計算的心の要素とその因果関係をそれらの観点で説明しようとするだろう。
これは現象学的因果の観点での説明を許容しない。
いかにして探求するのかという観点からすれば、理論Uとその派生的推論についての上の二つの解釈は等価なものである。とくにこの二つの解釈によって、現象Xがニューロン的計算的装置に原因づけられる有様を我々は想像できないのだから現象学的因果性が作動しているに違いない、という議論を受容しなくてすむ。(そうした議論は Popper and Eccles 1977 でのエックルスがしている。)「現象学的因果性」が意味しうるものについて一貫した観念を持つことなしに、この種の議論は本質的には魔術に訴えることになる。
逆に、理論Uの二つの解釈のどちらかを採用すれば、現象Xに責任のある計算的区別を求めるよう導かれる。我々が成功しないのは想像力の欠如の故にであり、現象学的心の魔術的作業などのせいではない。理論Uが計算的説明の不十分さを認める唯一の場所は計算的区別による経験の因果付け/支え/投影にある。それは心-心問題の基本的神秘である。
それゆえに、理論Uの図式の中で、「無意識的表象と処理」に対する「意識的表象」「意識的処理」を文献に共通に見られるように語ることは、カテゴリー違反である。 意識的である表象や処理過程は まったく存在しない 。それらは計算的な心にあって現象学的心にあるのではない。この言い回しを意味あるようにするのは、「意識に 投影された 表象や処理過程」対「意識に投影されない表象や処理過程」を速記したとみなすことである。事柄を可能な限り明確にしておくために、私はこの速記を避けたいと思う。
ところが理論Uとその派生的推論を見る別の見方があって、たとえば、意識は 因果的には不活性 inert だというものである。これは我々がその醜悪な結論を理解するまでは無害に見える。それは 意識は何に対しても有能ではない Consciousness is not good for anything. というものである。何かに対して有能である唯一の方法は影響を持つということであり、そうした可能性が否定されるのである。さらに、「意識は目的Xに対して有能である」ということを理論Uの範囲で解釈すると、「意識を原因付け/支え/投影する計算的状態は目的Xに対して有能である」となるだろうが、これは正確には同じ勝利の響きを持っているわけではない。
であるから、たとえばグリフィン Griffin の(1981,144)次のような思弁を拒否しなくてはならない。「意識は現在の感覚的入力と比較して得られる内的イメージの実在[である]。」心的イメージは現象学的であり、現象学的心に「心の眼」とか「小さな人間」とかいかがわしいものを呼び込むことなしには、何ものとも比較できない。唯一可能な比較は、現在の感覚的入力から生じる計算的表象と、心的イメージを原因付け/支え/投影する計算的表象の間の比較である。換言すれば、影響があるのは心的イメージではなくて、それらを産み出す表象である。同様の反論は 2.2節でのジェームズ William James からの引用に対してもなされるだろう。「意識は[同時的可能性]の相互の比較に成立する。」。そしてブルナー Bruner(1983,215)の観点にも反論がえられる。「[意識とは]必要と障害の分析の道具である。」意識は比較も分析もできない。ただ計算的心だけができる。
私自身はこの結論に対してそんなにうれしくもないのである。意識は人の生活にとってあまりにも重要で−あまりにも面白く−、それを無益なものと考えることはできない。無意識のゾンビのように生涯寝たまま歩くのはなんと哀れなことか想像せよ!(ネーゲル Nagel(1794) は答えるだろう、「それはなんでもないものになるだろう It wouldn't be like anything.」。しかしもっと困ったことになる。人は煉瓦とか凍った豆とかバスとかと変わらなくなってしまう。)にもかかわらず、意識に目的を認めてやるということはそれが因果的効果を持つことを要求するのであり、そしてこの因果的効果によって今度は相互作用説を抱いてしまう。それは私自身は規約的に constitutionally 不可能なことと見なす。
従って、読者は意識の目的についてのいかなる先行概念も宙づりにすることを命じられている。そういう先行概念はただ従うべき経験的根拠から気をそらすことにしか役立たない。いずれにせよ、第W部で、グリフィン、ジェームズ、ブルナーが追求した線に沿った意識の目的 purpose についての思弁が深刻に論点をはずしていること、だから問題はたんに方法論的なものではないことが示されるだろう。