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『根源的解釈学』第一章:反復とキネシス[編集:4/23] |
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イストラン
[ 1468 to イストラン ] 6/11/Sun/2000 |
以上で『根源的解釈学』のキルケゴールに関する第一章はお仕舞いです。
> キルケゴールにおいては、一切は流れに立つ我々の能力にかかっている。
それは間−存在 inter-esse の字義通りの意味において「関心」に関わることである。
たんなる思いつきですが、ドゥルーズなどでの差違に当たるものが
この「間」なのではないかしら。
今回見てみて、この語りの底流にはやはり<行為性>が属しているように思います。
すると実存主義もその発祥点では行為論であったことになる。
『行為論の展開』でも異なる著者による三章がニーチェの行為論になっている。
> 「関心が歩を進めるや否や形而上学は脇にどく」反復は実存する精神の
ために空き地を作る。実存する精神は行為性の領域に属している。
> 行為性 actuality と現実的選択における倫理ですら道徳的展開の論理に
とどまり内在的である。倫理的な領域においては何も新しいものは起こらない。
倫理は法則−支配的な変化の範囲内で機能する。宗教的反復は、より根源的な
移行、失墜 fall から恩寵 grace への根源的な移行であり、
罪から宥和 at-one-ment への移行であり、倫理的持続性をすべからく粉々にする。
atonement は罪の償いをすること、和解させること、
和解という語のニュアンスに上の「一において」という意味が
重なるので、宥和と訳しました。
> かくて形而上学の装置を分解することに始まるキルケゴールの脱構築は
「行為性 actuality」の領域を回復する解釈学的企てに属する。
それは存在と現前の哲学の代わりに間−存在(関心 inter-esse)をおく。
流れにいつでもさらされている、のただ中にあるの存在 being-in-the-midst-of である。
これは我々の状況の貧しさを証す人間的意志 human willfulness を脱中心化する
ここには意志の哲学にとっての文化的表象がある。人間的意志は
そもそものはじめから完全なる能動性ではないというイメージが。
% カスタネダとの対比。
1 流れをナワールと見ることはできるか。
2 thunderstorm の話が第V巻の嵐の話に紛れこんだのではないか。