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TOPIC 『根源的解釈学』第一章:反復とキネシス[編集:4/23]
 
Subject 注意点
Author イストラン [ 1468 to イストラン ]  6/11/Sun/2000   

 以上で『根源的解釈学』のキルケゴールに関する第一章はお仕舞いです。


> キルケゴールにおいては、一切は流れに立つ我々の能力にかかっている。
それは間−存在 inter-esse の字義通りの意味において「関心」に関わることである。

 たんなる思いつきですが、ドゥルーズなどでの差違に当たるものが
この「間」なのではないかしら。

 今回見てみて、この語りの底流にはやはり<行為性>が属しているように思います。

 すると実存主義もその発祥点では行為論であったことになる。
『行為論の展開』でも異なる著者による三章がニーチェの行為論になっている。


> 「関心が歩を進めるや否や形而上学は脇にどく」反復は実存する精神の
ために空き地を作る。実存する精神は行為性の領域に属している。

> 行為性 actuality と現実的選択における倫理ですら道徳的展開の論理に
とどまり内在的である。倫理的な領域においては何も新しいものは起こらない。
倫理は法則−支配的な変化の範囲内で機能する。宗教的反復は、より根源的な
移行、失墜 fall から恩寵 grace への根源的な移行であり、
罪から宥和 at-one-ment への移行であり、倫理的持続性をすべからく粉々にする。

 atonement は罪の償いをすること、和解させること、
和解という語のニュアンスに上の「一において」という意味が
重なるので、宥和と訳しました。


> かくて形而上学の装置を分解することに始まるキルケゴールの脱構築は
「行為性 actuality」の領域を回復する解釈学的企てに属する。
それは存在と現前の哲学の代わりに間−存在(関心 inter-esse)をおく。
流れにいつでもさらされている、のただ中にあるの存在 being-in-the-midst-of である。
これは我々の状況の貧しさを証す人間的意志 human willfulness を脱中心化する

 ここには意志の哲学にとっての文化的表象がある。人間的意志は
そもそものはじめから完全なる能動性ではないというイメージが。

 

% カスタネダとの対比。

 1 流れをナワールと見ることはできるか。
 2 thunderstorm の話が第V巻の嵐の話に紛れこんだのではないか。

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トピック= 1444 宛先= 1463 同宛先= 返信=
 
Subject 責任、選択概念は究極のものか
Author イストラン [ 1467 to イストラン ]  6/10/Sat/2000   

 かく美的、倫理的、宗教的という段階を意識することによって、いくつかの項目が曖昧になっていると思います。

 曖昧さというのはそれだけ深みがましているということでもある。
たとえば責任性の意識などどうでしょうか。


 「ただ彼自身の選択においてのみ、人は自分自身の責任をとる...
 assumue himself。かくも完全に自己へ突き進むので、あらゆる
 瞬間で自分自身にとっての責任性の意識が立ち会っている。ただ
 そのときにのみ彼は倫理的に自己を選択し、自身を反復する...
 (E/O U 207-208)


 責任をとるということは、それだけで一つの倫理的内実となっているのですが、しかしその内実すら、次の段階に宗教的段階が設定されることで、究極のものではなくなる。

 とするならば、自己自身を選択する、という雄々しい言明もまた不分明のものとなるのではないでしょうか。マッキンタイアはキルケゴールの選択主義を価値相対主義につながる系譜−カント−ウェーバーの線の中におきました。アドルノはしばしば、<責任を取る主義>言説に、残酷さを、あるいはそれ自身無責任な残酷さを指摘しました。

 けれどもそうした倫理的健全さの上に宗教的段階があり、そこでは倫理を越えたものが、Caputoによればデリダに繋がる線が、あるいは<遊戯>の線があるということになる。果たしてそれをどう受け取ったらよいのだか。



 「しかしながら倫理的反復の喝采はついにはくずおれる。
倫理的なものにおいては人は自己自身しか必要としない、それは幻覚である。
倫理的なものにおいては一切が人間的正義の秤の上で量られる。
それはすなわちすべてが無垢であることを意味する。しかし無垢でありつつ
苦しむとは一体どういうことだろうか。良き意図を持って決断する意志は
自己を構成するに十分であり、人間を全体として保つのに十分であるというのが
倫理的反復による幻想である。それはまた倫理的なものと美的なものとの間で
個人の内にバランスが可能だという幻想である。」


 「実際、ヨブにせよアブラハムにせよ、反復のこの強制的意味に欠けている。
彼らが直面したのは絶対的逆説ではない。その反復は地上的な意味をなお保持している。
ヨブの財産は取り戻され、イサクもまた取り戻された。それは十分に
内面化 interiorized されてはいない。内部からの衝動ではない。
反復は外的な財の取り戻しに関係することはできない。反復は外的なものの
消失によって前に動く内部的な法則である。外的な消失は内的な獲得であり、
限定されたものからの離脱 detachment は無限定 infinite への前進である。
「限定のすべての問いは無関与 indifference の問題となる」(SV V 263/R 230)。
心的欠如、暗夜、恐れとおののきに入るために、個体はすべてを投げ出す。
個体は深淵の中に立ち、現前の後退を耐え、神に導かれるままになる。神だけが
反復の真の教師である。神との関係の深淵の中で個体は前に動くことができる。
真の反復は罪から宥和への移行である。従って、真のキネシス、それが反復なのだが、
これは永遠 eternity によって運動の中に置かれるのである。」

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トピック= 1444 宛先= 1460 同宛先= 返信=
 
Subject 反復と形而上学の終わり
Author イストラン [ 1463 to イストラン ]  6/9/Thu/2000   

 キルケゴールは形而上学の終わり、哲学の終わりと言われるものを開始した。ハイデッガーは彼を単なる宗教的、心理的思想家とみなしたのだが、これは間違っていた。たんに実存論的分析へ到る通過点ではなくて、キルケゴールが存在論の歴史の破壊を開始し、存在と時間や後期ハイデッガーを予期していたのである。

 プラトン的想起とヘーゲル的媒介は、つまり形而上学の始まりと終わりは時間的運動の偶然性を破壊し時間それ自体を破壊し、キネシスや生成を破壊する。それは形相 eidos とか、精神形成の論理的展開を静かに眺めやる「私たち」の景観を眺めやる関心を剥奪された精神 nous において実践される形而上学である。

 キルケゴールにおいては、一切は流れに立つ我々の能力にかかっている。それは間−存在 inter-esse の字義通りの意味において「関心」に関わることである。

 「もし人が想起や反復のカテゴリーを持たなかったら、すべての生は
 空虚の中へ、意味のない雑音の中へ融解するだろう。想起は生の俗なる
 見方であり、反復は現代的な見方である。反復は形而上学の関心
 である。そこで形而上学がくずおれる関心である。反復はあらゆる倫理的
 見方の合い言葉である。反復は教義学の不可避的な条件である。」
 (SV V 189/R 149)


 この形而上学のくずおれること foundering においてハイデッガー的破壊克服がすでに予期されているのである。キルケゴールにとっては形而上学、倫理学、神学、つまり「存在−神学」の射程は「関心」の岩にぶちあたって砕ける。

 「関心が歩を進めるや否や形而上学は脇にどく」反復は実存する精神のために空き地を作る。実存する精神は行為性の領域に属している。反復は精神をして形相 eidosや精神 Geistの幻想的な構築に赴くことを許さずに進ませる。宗教的な反復は主観的な情熱として信仰によって前に進む。「すべてのものごとが新しくなるように」(U Cor 5:17)

 行為性 acturality と現実的選択における倫理ですら道徳的展開の論理にとどまり内在的である。倫理的な領域においては何も新しいものは起こらない。倫理は法則−支配的な変化の範囲内で機能する。宗教的反復は、より根源的な移行、失墜 fall から恩寵 grace への根源的な移行であり、罪から宥和 at-one-ment への移行であり、倫理的持続性をすべからく粉々にする。

 「すべての実存が倫理の要求において終わりに到るか、それとも
  条件[信仰]が与えられ、生と実存の全体が新しく始まるか。
  以前の実存との内在的持続を通してではなく、それは矛盾である、
  超越を通してである。」(SV W 289/CA 17n)
 
 罪から自由である不連続のねじれとしての宗教的反復は神の救済行為の介入により超越的に起こる。倫理は内在領域から出ることはない。形而上学的人間主義の終わり、道徳の形而上学の終わりがここにある。

 「もし反復が定立されなければ、倫理は結びつける力となるだろう。
  疑いなく、この理由により、反復はあらゆる倫理の合い言葉である
  と著者述べる」(SV 290/CA 18n)

 キルケゴールは主体性ということを言うけれども、主体的なものや人間中心的なものは破壊されているのである。流れの怒りの前では、ただ信仰だけが前に進むことができる。あらゆる倫理とあらゆる形のヒューマニズムは失敗に終わる。そればかりではなく倫理も形而上学も神学(教義学)すらも失敗に終わるのである。

 「もし反復が定立されなければ、教義学も全く存在しない。というのは
  反復は信仰において始まり、信仰は教義問題の機関/器官 organで
  あるから。」(SV W 290/CA 18n)

 この宗教的な道は存在神学の制限によって進む。本質的に形而上学の超克ないし脱構築の企てに属する。

 キルケゴールにはこうした言葉がなかったが、現前の形而上学の欠点は明らかに見えていた。それは流れを止めてしまうという本質的傾向である。想起の教義、時間のない現前の哲学、それは現前の喪失や失われた現前が回復される話を語る。そしてヘーゲルは論理的必然性という不動性に時間と生成を従属させる。最初には失われた現前の考古学が、お仕舞いには歴史的充溢 pleroma、臨前 parousia、 現前の消費の歴史的目的論がある。かく形而上学は本質的に原−目的論的企てである。

 その根深い観念論の伝統に対してキルケゴールが唯一見たのはキネシスについてのアリストテレスの教義であった。プラトンとエレア派に抗して、アリストテレスは運動と行為性 acturality に目を向ける。可能的なものから現実的なもの actual なものへの真の移行である。しかしキルケゴールはその歩みを限界を超えて進めた。そこで彼は形而上学外の人物、ソクラテスという英雄を求めた。想起の教義を誘惑とみなした人物を。それからアブラハムやヨブ、信仰の騎士、キリスト教信者、パウロの「義なる人」。現実的であいr、具体的であり、実存し、時間的で、自由であり、かつ偶然的である、というようなカテゴリーは形而上学の準備していないものである。形而上学は流れ flux から離れて客観化の道を行く。動かないことの幻想を作り出す。それは不動の本質を求める。運動を強制する法則を、形相を、概念を。

 しかし関心を持ち、流れの中に入り、防護壁を失うやいなや、根拠なしの遊戯、底なしの深淵、現前に対するあらゆる要求には存在しない欠如にぶちあたる。キルケゴールは何に関わっていたのか、それは信仰の神秘的な運動だった。信仰の真夜中の時間、実存する個体が普遍性の防護壁の外で神の前に立つということである。それは理性の光ではなく信仰の闇であり、自由の深淵であり、現前と不在との間の黄昏である。永遠と時との交差であり、混交である。

 かくて形而上学の装置を分解することに始まるキルケゴールの脱構築は「行為性 actuality」の領域を回復する解釈学的企てに属する。それは存在と現前の哲学の代わりに間−存在(関心 inter-esse)をおく。流れにいつでもさらされている、のただ中にあるの存在 being-in-the-midst-of である。これは我々の状況の貧しさを証す人間的意志 human willfulness を脱中心化する脱構築である。彼は形而上学が避ける生の困難に我々を立ち返らせる。反復において、我々はデリダが揺籃 ebranler と呼ぶものへ突き進む。そこではすべてが震えている(不安に動かす sollicitare)。キルケゴールによって「恐れとおののき」と言われている。そこから反復は分離することができない。

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Subject 反復と実存の諸ステージ
Author イストラン [ 1460 to イストラン ]  6/5/Mon/2000   

 美的、倫理的、宗教的という段階ないし実存圏を区別することによってキルケゴールが反復ということで意味していたのが何だったのかを我々は明らかにすることができる。

 美的反復というのは災厄である。反復は美的なものの終わりを意味する、だから怖れられるべきものである。というのは反復は「[美的]自由を捉えられたままにする魔法の力をもっている」からである(Pap,W B 117 28/R 301)。それは資格のない快楽探求の死である。ベルリンへの旅は素朴な美的反復の実践だった。コンスタンチンがもう少し賢かったら、反復を怖れる感覚を持っていたことだろう。

 美的なレベルでは反復が可能かどうかが問題なのではない。そうではなくて反復が避けられるかどうかが問題である。快楽を生き生きとしたものにするために快楽を変容させて、美的生への反復の運命的効果を相殺する抜け目のない試み、これをキルケゴールは「回転メソッド rotation method」と呼んだ。これは誘惑者の極地へ向かって絶望の中で崩壊する。誘惑者はより反省的な、より注意深く、熟慮する者となるが、倫理的には狂っており、悪魔的となる。

 「自由はそれ自体になる。反復を避ける道を探すときにではなく、反復それ自体を求めるときに、自由は真のものになる。それは反復の主導的な問いを問うときにである。

 今や自由の最高の関心は正確に言って反復を生じさせることだ。
 そしてのその唯一の恐れは変化がその永久の性質を妨げる力を
 持つのではないかということだ。ここに問題が生じる。反復は
 可能であるのか ?
 自由がそれ自体反復となる。自由が恐れて
 いるのは反復ではない、変化 variation である。それが望んで
 いるのは変化ではなく反復である(SV W 117 281-82/R 302)」


 真の自由と真性な反復はかくて一緒になる。反復は内側に向かう。「各個体の反復は新しい力に上昇する」(Pap. W B 111 270/R 294)

 そうして反復の問いは倫理的、宗教的圏域に突入する。反復の倫理的意味は『あれかこれか』第二巻での審判者 Judge によって守られる。レギーネとの別れの後に書かれたものは全て彼女とキルケゴールに向けての説明であった。彼は何をしたのかということ。なぜ彼が自らを例外者としたのか、そしてなぜ結婚生活が支える倫理的−普遍的なものから外れれたのか。結婚の忠実さを代表象する審判者は倫理的反復の範型であり、美的なものを真性の愛が不可能であるという根拠で攻撃する。

 美的なもの the aesthete は実体 substance と行為 actuality を欠いている。結婚は永遠のものである。それは行為 actuality であり浮気ではない。所有であり征服ではない。美的なものは最初の愛、最初のキス、最初の抱擁に毒される。しかし審判者は最初の愛が歴史的ではないと知っている。最初の愛は時の中で証示されないが、結婚は時の中で試され、発展しながら熟する。

 美的なものがもっとも恐れるのは単調さである(E/O U 128ff)、退屈である。彼は結婚の反復を恐れる。彼は何かに導き、終わりに到る時間を好む。彼は倫理的時間を知らない。何かがゆっくりと形成され、存在の充満へ成長する苦難に満ちた過程を知らない。倫理的個体は戦いを学ぶ、ドラゴンやライオンとの戦いではなく、あらゆる敵のうちのもっとも御しがたい敵、時間との戦いである。彼は時の中でしっかりとつかむことを学ぶ。流れの中でとどまること constancy を発見し、習慣的で日常的なもののただ中に稀少さを発見しながら。審判者は言う。美的なものが単調さを見つけるところに倫理的人間は保持と増大を見るのだ。

 キルケゴールの実存理論において反復は中心概念である。自己は選択によって定義される。何か勝ち取られるべきものである。これが自己の形而上学的ではなく倫理学的な規定である(ここで『存在と時間』第64節を予期する)。それは自己を実体としてではなく達成されるべき作業とする。現前ではなく可能性として。美的なものにとって過去は単に終わったものである。しかし倫理的個体は長い長い記憶を持っている。それは彼の過去までのびる。それに対して彼は責任をとらなくてはならない。ちょうど未来において彼から期待されるものを予期しつつ自分をのばすように。自己の統一と持続の中でまったき生をつかみとりながら。かくて彼自身を自己として作り出す。

 「ただ彼自身の選択においてのみ、人は自分自身の責任をとる...
 assumue himself。かくも完全に自己へ突き進むので、あらゆる
 瞬間で自分自身にとっての責任性の意識が立ち会っている。ただ
 そのときにのみ彼は倫理的に自己を選択し、自身を反復する...
 (E/O U 207-208)


 自己自身を選択することについて語ることはもちろん逆説的なことである。というのは選択によって産み出されるまでは自己は存在しないのだが、それでも選択する限り自己は存在しなくてはならないのだから。

 キルケゴール的反復はデリダのそれと同じように、生産的である。すでに現前しているものを再生産することを試みながらもたつくのではない。それはそれが反復するものを生産する。反復は自己の生産である。しかし絶対的にではない。かくてパラドックスは解消される。『存在と時間』第32, 32節の解釈学的パラドックスを予期するようにして。

 「彼は彼自身になる。以前とまったく同じ自己である。最後の
 意義ある特異性に到るまで同じである。しかしながら彼は他のものになる。
 選択があらゆるものにしみこみ、それを変容させるのだから。」
 (E/O U 227)

 この自分自身は彼の本質 to ti en einai である。彼は己を見いだす状況の中で必然性(事実性)を自由に変換させる。個体は自分自身を知る。

 「これらの資質とともに、性向とともに、本能とともに、
 情熱とともに、限定された環境によって影響されるものとして、
 限定された環境の限定された産物として。しかしこうして自身を
 意識しつつ、彼はこれらすべての責任を引き受けるのである。」
 (E/O U 255)


 美的なもの the aesthete は幸運を求める、しかし倫理的なもの the ethical はたった一つのものしか求めない、...つまり彼の自己である。要するに、倫理的レベルの反復は選択の恒常性と持続性であり、それをもって自己は自己として己を構成する。倫理的反復は持続する結婚のきづなを意味する。


 しかしながら倫理的反復の喝采はついにはくずおれる。倫理的なものにおいては人は自己自身しか必要としない、それは幻覚である。倫理的なものにおいては一切が人間的正義の秤の上で量られる。それはすなわちすべてが無垢であることを意味する。しかし無垢でありつつ苦しむとは一体どういうことだろうか。良き意図を持って決断する意志は自己を構成するに十分であり、人間を全体として保つのに十分であるというのが倫理的反復による幻想である。それはまた倫理的なものと美的なものとの間で個人の内にバランスが可能だという幻想である。

 倫理的審判者 the Judge は美的なものに対して、自己が外的要素やむら気な幸運に頼れないと意見する。しかしそれは意志の自己充足に到る。

 倫理的反復は断固として前に進む。超越を達成する。しかしそれが人間的資質や意志の堅さなどに訴える限りにおいて内在の平面を動く。従って反復は内在のカテゴリーを裁ち切り、人間的贖罪 compensation の消失において例外と関わらねばならない。それは倫理的人間主義の難破するところからのみ立ち上がる最高の内部性に関わる。個体がどうしようもなくなったとき、すべての人間的資質が使い果たされたとき、不条理 absurd の力によって到達される絶対的に超越的なものである。かくて個体はすべてを諦めて嵐 thunderstorm を待つのである。

 『反復』の青年はその点に到達した。しかし嵐のときに、彼は詩的なものへと走る。彼は倫理的逆説に捉えられた。罪があり、にもかかわらず何も悪いことはしていない。ここに審判者の陽気な道徳主義と倫理的平均化行為の混同がある。ヨブがここで重要な位置をしめる。ヨブは災難が悪行の罰だとは考えず、神の意図する訪れだと見なした。それで個人的な神との関係を強調し、法的な関係を消失させた。

 ヨブと青年は倫理的知と審判者の楽天的な合理性の崩壊地点に達した。彼らは貸しや借りとか投資や利子とかによって支配されない、留保なき支出の摂理 economy に入る。この狂った宗教的摂理においては、もしすべてを諦めたならすべては反復され、不条理の力によって100倍にもなって帰ってくる。ここには健全な理性はなく、戯れがあるだけである。神の手が人間の限定された理解を卑しめ、もう一つ別の超越の境域へ誘うために人間と遊ぶ。かくて反復は人間的立場がすべて消失し、帰るところがないことを理解することによって到達される。魂を失わない限り、それを再び手にすることはない。自己についてできることは人には何もない。これは流れを通して宗教的に反復する法である。

 実際、ヨブにせよアブラハムにせよ、反復のこの強制的意味に欠けている。彼らが直面したのは絶対的逆説ではない。その反復は地上的な意味をなお保持している。ヨブの財産は取り戻され、イサクもまた取り戻された。それは十分に内面化 interiorized されてはいない。内部からの衝動ではない。反復は外的な財の取り戻しに関係することはできない。反復は外的なものの消失によって前に動く内部的な法則である。外的な消失は内的な獲得であり、限定されたものからの離脱 detachment は無限定 infinite への前進である。「限定のすべての問いは無関与 indifference の問題となる」(SV V 263/R 230)心的欠如、暗夜、恐れとおののきに入るために、個体はすべてを投げ出す。個体は深淵の中に立ち、現前の後退を耐え、神に導かれるままになる。神だけが反復の真の教師である。神との関係の深淵の中で個体は前に動くことができる。真の反復は罪から宥和への移行である。従って、真のキネシス、それが反復なのだが、これは永遠 eternity によって運動の中に置かれるのである。

***************************************
Radical Hermeneutics, P.27-32 より

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Subject 注意点:カスタネダ関係
Author イストラン [ 1456 to イストラン ]  5/24/Tue/2000   

 これは個人的に比較したいところです。


>神が私たちの中に新しいものを作る、自分ではできない超越を私たちの中に及ぼすということ、それは宗教的例外者の地点である。しかし嵐がやってきたとき、彼は宗教的な方にではなく、詩的実存に方に切り抜けた。そこで少女にお礼を言って結婚という普遍性から解き放たれ、詩的例外として実存する自由を得たのである。これが彼の反復であり、それは「第二の力へ意識を持ち上げる」(SV V 263/R 229)ことである。ところがその反復はより高い反復、まわりをうろつくことができても達することができない反復への不完全な類比であり、移行段階なのである。


 カスタネダ的戦士の道、キルケゴールの用語では「信仰の騎士」
というのはやはり、準備ができている、ということを疑う。
「おまえは準備ができているなどというが、そんなものは
なんにもなりゃしない」

 注目しておきたいのは、ここで力という語が出てくる点です。
上の第二の力を第二の注意力とは読めないが。
しかしカスタネダが最初にフロリンダに語らせる「反復」とは
recapitulationというより、未来の方への視線が注目される
ところです。oncoming time やってくる時へと視線を向けかえる、
わざわざどうして oncoming なんでしょうか。


> 実存の前方へのモメンタムはただに信仰のエネルギーによって可能である。選択された道に忠実であろうとする実存の情熱は信仰の情熱でなくてはならない。それは宗教的な畏れとおののきばかりでなく、信仰と信頼を伴ってなされる。


 カスタネダでは「信じなくてはならない」(第W巻)ということ。
しかも「情熱」という観念の使いどころも似ている。

 「情熱的な男はこの世の大事な財産をもっとる。それがなければ
自分の歩く道ぐらいはな」

 確かに少し違うのであるが、信じなくてはならないという点に
おいて、情熱的である騎士/戦士という点において、双方とも
同じと見ます。

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トピック= 1444 宛先= 1453 同宛先= 1455 返信=
 
Subject 注意点
Author イストラン [ 1455 to イストラン ]  5/24/Tue/2000   

>純粋な宗教的反復はそれ自体を引き延ばす。それはこの書物のどこにも見いだされることはない。それはこの書物の余白に取り囲まれることはできない。青年は宗教的反復の類比物、パロディである。

 この部分、余白というところに注があって、そこでデリダについて
言及されています。

 「ここで、またこの章のいたるところで私はキルケゴールの諸テーマにデリダ的定式を与えている。『反復』のデリダ風読みについてはLouis Mackie, "Once More with Feeling: Kierkegaard's Repetition" *1を参照。
またRonald Shcleifer, "Irony, Identity and Repetition"*2を参照。
マッキー Mackieの"Slouching Toward Bethlehem: Deconstructive Strategies in Theology"*3は私が見た中でもっとも優れたキルケゴールのデリダ風解釈 treatmentである。マッキーは「キリストと直接同時代であること」の拒否を神的なものの自己差延 self-dererralと読んでいる。
同じような論脈で、Patrick Begelowの"Kierkegaard and the Hermeneutic Circle"*4を参照。私はこの章では信仰対象の自己差延的なものという概念を使用した。
またSylviane Agacinske, Aparte:Conceptions et morts de Soren Kierkegaard*5を参照。
Mark Taylor は『おそれとおののき』に関する研究の集成を準備している。これにはデリダも寄せている。テイラーはアブラハムについての一遍「アウトロー」を載せている。

*1 in Kierkegaard and Literature: Irony,Repetition and Criticism, ed.R.Schleifer and R.MArkley(Norman: University Oklahoma Press,1984),pp.80-115

*2  Substance, no.25(1980),44-54.

*3 Anglican Theological Review,65(1983),255-72

*4 Man and World,15(1982),67-82.

*5 Paris: Aubier-Flammarion,1977

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トピック= 1444 宛先= 1453 同宛先= 1456 返信=
 
Subject コンスタンチンへの手紙2
Author イストラン [ 1453 to イストラン ]  5/23/Tue/2000   

 自分が美的に崇めたてまつった少女の行く末を思って、わざと女たらしを装って少女を遠ざけ、それで少女を破滅的な人生から救うのだというコンスタンチンの提案に、青年は倫理的に嫌悪感を感じた。彼はよりよき助言を求めてヨブへ回帰する。

 それも青年のおかれた状況とヨブの置かれたそれが似ているからである。ヨブと同じように自ら作り出したのではないが、罪ありとされる状況にいる。

 「私は自分のロープの端にいる。人生には飽きた。それは鮮度が落ちている。塩もなければ意味もない。...どこから私は来たのか?世界というのは何を意味しているのか。この言葉の意味は何だろうか。誰がこんなことすべてに引きずり込み、立ちすくむことになったのか。私は誰だ?どうやってこの世界に入り込んだのか。なぜそれについて問われないのか。なぜ規則や規律を教えられず、まるで人類の人買いから連れて来られたように並ばせられているのだろうか。どうやってこの大きな計画、アクチュアリティと呼ばれるたくらみに関わりになったのだろうか。関わることを強制されたのなら、しくんだ奴は誰だ。これについては言うべきことがある。しくんだ者などいないのだろうか。誰に不平を言うべきなのだろうか。私が罪人であることがどうやって起こったのだろうか。いや罪人ではないのだろうか。だとしたらなぜあらゆる言語でそう呼ばれるはめになったのか。...
 なぜ彼女は正しく私は間違っているのだろうか。私たち二人とも誠実であるならばなぜ彼女は誠実で私は詐欺師というふうに人間の言葉で表現されるのだ?」(SVV 234-35/R 200-201)

 もし青年が彼女と結婚したならば、彼の詩的性質のために彼女を破滅させる。もし結婚しないならば罪がある。もし結婚したら、それでも罪がある。結婚しないならば人間の言葉によって罪を宣告される。この状態、無垢でありながら罪があるように見える状態に名前をつけてくれたら誰にでも賞金をあげようとまで言う。

 彼は名前がない、同様にこの状態にも名前はない。合理的言説の可能性は途絶えた。ただ宗教の道があるだけである。そこで彼はヨブを心の目をもって読む。世界や人生、人々やすべてのことについて名づけようのない不安を扱うのはただこのヨブの話だけだからだ。反復の秘密はヨブの中にある。ヨブは倫理的な説明に抗することができた。彼は降りかかったことすべてが罪に対する罰ではなく、「試練」であることを知っていた。

 それはただ個体にとってのみ存在する宗教のカテゴリーだった。ヨブの嵐は去り、彼から取り上げられたものは2倍にされて戻ってくるのだった。これが彼の反復だった。ヨブはしかし、信仰の英雄ではない。信仰の端の領域の英雄でしかない。ヨブの意義は信仰の境界における争いが彼の中で闘いぬかれたということである。「試練」は厳密に宗教的カテゴリーである。しかしそれはキリスト教的信仰の極地に触れてはいない。ヨブが直面した不条理はキリスト教的信の絶対的パラドックスではない。試練とはうつろいゆく状況であり、現世の反復によって償われる。キリスト教的信はそれより深い。

 しかし青年にとってはヨブへの依拠は明らかである。

 「私は嵐を待っている。そして反復を。
 この嵐の結果はどうなるだろう。私を夫にふさわしくしてくれるだろう。私の人格全体をうち砕くだろう。私は準備ができている。私を自分にとってもほとんど認知しがたいものにしてくれるだろう。一本の足で立っているにせよ、私はぐらつくことがないだろう。
 別の見方をすれば、自分を夫にするために最善を尽くしている。私は座って、自分をつまむ。測りがたいものすべてを取りさる。測ることができるようになるために。」(SV V 247-48/R 214)

 青年は変容を願っている。神による変容が彼を夫にし、名誉を回復してくれるようにと。それは、普遍的な倫理の尺度からすれば、彼の例外的状況を測ることのできるものにするのである彼は進むことができず、さらにもう一歩踏み出すことができず、信仰の真理以外には運動することができない。

 ここでコンスタンチンが言葉を挿入するのである。彼はこれらすべてを疑っている。彼は嵐を信じていない。彼はすべてのことがぐらつくのを確信している。

 「彼女は結婚した。誰とかは知らないが。というのは新聞でそれを見たときあまりに驚いて落っことしてしまったから。そして詳しく調べようという忍耐をそれ以来もっていない。再び私は自分自身になった。ここで私は反復を持った。私はすべてを理解し、そして生はかつてないほど美しく見えた。それは実際嵐のように来た。それがやって来たのを相変わらず彼女の寛容に負っているけれども。実存がそれとして彼女に報いるように。彼女がより愛するものをそれが彼女に与えるように。それは私がより愛するもの、つまり私自身を私に与えてくれたのだ。そして寛容によって。」(SV V 253/R 220)

 その反復とは彼が自身に与え返されるものである。しかしこれは宗教的反復ではない。彼の自由は神のサーヴィスで使用 employ されたものではなく、詩的観想の中で使用されたものである。宗教的なものへの移り気にも拘わらず、ヨブの呼びかけにも拘わらず、青年は詩人となった。結婚への宗教的例外にはならなかった。

 しかしながらキルケゴールはコンスタンチンに最後の言葉を与えるのである。それというのも今やコンスタンチンは名もなき青年が存在せず、彼はコンスタンチン自身によってしつらえられた実験だと告白するからである。『反復』の二つの部分は一種の笑劇 farce である。それは想像的な構成物である。その結果は反復というのがどこにも見いだされないことである。コンスタンチンにも、青年にも、哲学にも、さらにはヨブの中にも。純粋な宗教的反復はそれ自体を引き延ばす。それはこの書物のどこにも見いだされることはない。それはこの書物の余白に取り囲まれることはできない。青年は宗教的反復の類比物、パロディである。

 青年が達した危機点は神聖なる行為に準備が整った点であった。
彼の詩的例外としての全性質が崩壊することに彼は準備していた。そして神の像の中で作り替えられること、彼のためにしつらえられた神の計画に従って、崩壊への準備ができているということだった。神が私たちの中に新しいものを作る、自分ではできない超越を私たちの中に及ぼすということ、それは宗教的例外者の地点である。しかし嵐がやってきたとき、彼は宗教的な方にではなく、詩的実存に方に切り抜けた。そこで少女にお礼を言って結婚という普遍性から解き放たれ、詩的例外として実存する自由を得たのである。これが彼の反復であり、それは「第二の力へ意識を持ち上げる」(SV V 263/R 229)ことである。ところがその反復はより高い反復、まわりをうろつくことができても達することができない反復への不完全な類比であり、移行段階なのである。。

 実存の前方へのモメンタムはただに信仰のエネルギーによって可能である。選択された道に忠実であろうとする実存の情熱は信仰の情熱でなくてはならない。それは宗教的な畏れとおののきばかりでなく、信仰と信頼を伴ってなされる。

 『反復』においてなされた実験は失敗に終わった。これは反復の可能性についての絶望を我々に与えたのではない。そうではなくて、それが作り出す要求のとらえどころのない引き延ばす性質 deferring quality に我々の感覚を研ぎ澄まさせてくれる。反復は書物の余白に閉じこめられているのではないということを説得させるための実験であった。それは、この書物の終わりにたどり着いたという了解から生じる反復について書物を書く一つの方法なのである。

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Radical Hermeneutics, P.24-27 要約完(といってもほとんど訳)

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トピック= 1444 宛先= 1451 同宛先= 返信= 1455 1456
 
Subject コンスタンチンへの手紙1
Author イストラン [ 1451 to イストラン ]  5/4/Wed/2000   

 キルケゴールの『反復』の第一部は、困難な恋愛関係に取り乱したコンスタンチンの若い友の話になっている。第二部はこの若き友がコンスタンチンにあてた手紙から成る。第一部がいわば真性な反復のパロディであり、この第二部は「真剣な」部分であるとされているが、我々はそれを真剣なものだと受け取ることができるだろうか。

 このテキストの際だった部分に焦点を当てて見ていくことにしよう。

 若き友はある少女に恋する。だがこの恋は青年の中に詩的状態を作り出してしまう。彼は少女を失い、「永遠の愛」に彼女を変形させる。彼女の愛が結婚という倫理的関係に向かっているのに、彼の愛は回想による詩へと転化した。

 コンスタンチンは青年に不実な女たらしを装うという策をさずける。これによって少女は青年のもとを離れるだろう。彼女の名誉を守られ、悪い結婚から彼女を救うだろうと。 だが青年はこの計画をやり遂げる気骨に欠け、コペンハーゲンからストックホルムへ姿をくらました。

 コンスタンチンによれば青年は回想と反復の危機的つなぎ目に直面している。具体的関係を観念的で詩的なものに変形するか、そうした傾向を断ち切って日々の現実の困難の中で前向きに進むか。詩的永遠へ後退するか、時の中で永遠を創出しつつ前進するか。実際青年は飛び去り後退した。

 このときコンスタンチンは一体反復というのが可能かどうかを疑いだす。そして反復の実験を試みる。ちょうどエレア派に対してディオゲネスが前に後ろにゆっくり歩いてみたのと同じように。彼は以前に経験した快楽をもとめて、ベルリンへと旅立つ。しかしその旅はケーニヒス劇場での笑劇のように、厄災でしかなく、反復は不可能であることがわかる。青年に反復を忠告する彼が今や自分自身でそのことを信じていないのである。

 生は詐欺師だとコンスタンチンは不平をもらす。Gjentagelse(今一度−取る、再び−取る、反復)の代わりに、生はすべてのことをもう一度後ろに受け取る tage Alt igjen。生は我々を流れ flux にさらすだけだ。まるでまわりのものを気遣うことなく、危険のことなど構うことなく、乳母車の中で無邪気にたわむれている赤ん坊のように、物事をなるがままにさせておくのがいいのではないだろうか。

 流れにしがみつくには、回想と反復しかない。そしてコンスタンチンはそのどちらも選択することができない。

 「どうやってこんな(反復などという)馬鹿げた観念を持つことができるのだろうか。さらに馬鹿げたことに、その原理を作るなどとは...馬車の角笛がずっと生きるように。これは私にとっては道具だ、いろいろ理由はあるが、とにかくこの角笛から同じ調子を偽造することなどできないし、それを口にあて、知を吹き込む者も反復の咎で責められることはない...馬車の角笛に栄光あれ、それこそ私の象徴だ。古代の禁欲者がテーブルの上に骸骨を置いて、その瞑想が生の光景を作りだしていたように、私のテーブルの上の馬車の角笛は生の意味を教えてくれる。」(SV V 212-13/r 174-76)

 コンスタンチンはヘラクリトスの川の流れだけでなく、ヨブにも言及する。主のように、生は与え、そして取り去る。播かず刈り取りもしない空の鳥のように子供となって生きるのがいいのではないだろうか。ただ生が取り去ったものを再び−与える five-again=gjen-tagelse 主の名を讃えながら。取り去ることと再び与えることはヨブの有名な宣言によっている。

 コンスタンチンのベルリンへの旅は真の反復のパロディであった。真の反復は宗教的なものである。つまり反復それ自体が不可能なのではなく、ただ「美的」反復が、状況とか偶然的要素にすがる美的反復だけが不可能なのである。美的なものはいつでも何かを興味あるようにさせる、従って退屈さを避ける多様性の技術の開拓である。

 だからこの書物の第二部は「反復」という書名を反復し、反復が可能であるかという問いを反復する。これは倫理−宗教的なドラマとして、別の次元で為される。人生の道の分岐点に立つ青年の手紙によって構成される。

 コンスタンチンはこの青年をただ夢見がちの想像的な回想にふけるものだと判断したように見える。しかし彼は愛の倫理的完成である結婚に向かうしかなかった。そして同時に詩人として結婚することは不可能であった。このディレンマの解消が宗教である。

 「彼は今や奇跡的なもの(信仰)の瀬戸際にいる。従って、もし(反復が)まったく生じないとしたら、馬鹿げたことによって生じるに違いない。」(SV V 220/R 185)

 しかし再びコンスタンチンは疑う。少女自身は本当に問題ではないのか。恐らく少女はいまだ機会だろう。詩的なものにとってではなく、今や宗教的なものにとって。青年は彼を例外者にし、結婚となんの関係も持たず、倫理的普遍的なものとするかも知れない。青年は反復の危機にある。

 「彼を止まらせるものは反復以外のものではない。彼はギリシャ人や現代人の哲学を明確にしようとしているから正しいのではない。というのはギリシャ人は逆の運動をするからっである。そしてここではギリシャ人は意識を患うことなく想起を選ぶだろう。現代哲学(ヘーゲル)はいかなる運動もしない。当然のこととしてそれは動揺するだけだ。そしてもし運動をしないのであればいつでも内在の中にいることになる。それに対して反復は超越であり、また超越で有り続ける。彼が私から何の説明も求めなかったのは幸いだ。私は自分の理論を放棄しているのだから。私は路頭に迷っている。そしてまた、反復は私にとってあまりに超越的すぎる。幸運にも、私の友はいかなる世界的に有名な哲学者からもいかなる公的秩序にある教授 proffesor pubulicus ordinarius からも解明を探しているわけではない。彼は非教授的な思考者に向かっている。それはかつて世界の栄光を所有し、だがのちになって生から退却した者だ。別の言葉で言えば、彼はヨブに後退している。」(SV V 221/R186)

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Radical Hermeneutics,P.21からの要約

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Subject 注意点
Author イストラン [ 1450 to イストラン ]  4/30/Sat/2000   

>だ。同一性は確立されなくてはならない。同一性は、デリダの言うように反復の効果なのである。

 この部分だけとればカスタネダのトナールとまったく変わりない。
同一性は存在の反映であり、またその効果である。


> アクチュアリティ(現実性)が可能性から超越しているのである。アクチュアリティは可能性によって決定されるものでも、閉じこめられるものでも、あらかじめ含まれているものでもない。だからコンスタンチンにとって、全体的な問いは、反復が可能かどうかということになるのである。

 これを斜に構えて受け取るならば、それは可能ではないということになる。
なにしろ、可能かどうかという問い自体が可能性を超越していない
のだから。


> 個体が時間の中で持続するということ、流れ flux とともにとどまるということ、その同一性を効果として産出するということ、これが反復である。反復のもっとも高い表現は宗教的な運動であり、そこで個体は罪から宥和(贖い) atonement へと移動する。これこそ質的な移行の最もドラマティックな瞬間 instance である。何か新しく超越的なものが産出される個体の変容である。

 instanceはときに「審級」とも訳されるが、constancyとの対比
およびinstantとの類似から時間的特殊部分、空間的特殊部分
なにかがそこで決定される場というニュアンスであろう。
リオタールの訳者は「力域」と訳していた(と思う)。



> 宥和 atonement は完全にそれが置き換わる罪に対して超越的である。宥和は高い意味 sensu eminentiore において反復なのである。罪は許しによってしか媒介されない。移行は内在レベルではなく、純粋な移動、超越の運動、愚鈍の徳、神の力への信仰のレベルで起こる。これを論理や媒介は理解も行為もできない。かかる根本的キネシスは形而上学、プラと二ズム、ヘーゲル主義では可能ではない。そうした反復は世界歴史過程や天体論とはなんの関係もない。

 「運動は本質的に知覚しえぬものと関係する。...
キルケゴールが「私はただ運動だけに気を配る」という見事な標語を
口にするとき、彼は驚くべき映画の先駆者として振る舞い、アニエスと
トリトンが愛し合うシナリオについて、可変的な速さと遅さにしたがいつつ、
実にさまざまなヴァリエーションを提供することができた。
さらにキルケゴールは正当な理由をもって、運動には無限の運動しかない
と明言している。無限の運動は、少女そのものともいえる生成変化の中で、
いかなる「媒介」をも参照することなく情動や情念や愛情によって
おこなわれるしかない。また、こうした運動は各瞬間において
すでに実現されており、たとえば踊る人や恋する男は、倒れ込むまさに
その瞬間に、さらには跳躍する瞬間にすら、すでに「立ち上がって歩く」
体勢にあるのだから、やはり無限の運動それ自体は媒介的知覚では
捉えられない。少女が逃れゆく存在であるのと同様、運動は
知覚を逃れるものなのである。」(『ミル・プラトー』訳324)

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トピック= 1444 宛先= 1449 同宛先= 返信=
 
Subject 反復と媒介
Author イストラン [ 1449 to イストラン ]  4/28/Fri/2000   

 想起は時間の流れ、変化に対して永遠を対置する率直で正直な試みである。

「反復は反復されるものがかつて存在していた−でなければ反復されえないだろうから−のであるから、反復の弁証法は容易である。だがかつてあったところのものは反復を何か新しいものにするのである。ギリシャ人たちが知ることはすべて想起であると言ったとき、すべての存在している実存はかつて存在していたと言っていたのである。しかし生が反復であると言うとき、かつて在ったアクチュアリティが今や実存に到ると言っているのである。もし想起というカテゴリーも反復というカテゴリーも持っていなければ、すべての生は空虚に、意味のない雑音に融解してしまう。」(SV V 189/R 149)

 想起も反復もなければ流れ flux しかないことになる。想起は意味のない流れを鎮め、すべての重要なものがすでに在ったという。反復はこの流れの中で、アクチュアリティが不変に持続的に産出され、新しく、何度も何度も前進しなくてはならないというのだ。同一性は確立されなくてはならない。同一性は、デリダの言うように反復の効果なのである。

 しかし最もひどい混乱は、永遠と時間を対立させて想起を提起することではなく、永遠と時間との間に、存在と時間との間に、想起と反復との間に和解の道を、媒介を持ってくることである。
 ヘーゲルの媒介の哲学は運動を存在に回収してしまう。必然性と時間のなさの下にいつでも運動を、全く新しいものの生成を曖昧にしてしまう。

 形而上学の超克とか、現前の形而上学の批判はキルケゴールによって開始された。彼が「形而上学の倒壊 foundering of metaphysics」と言っていたことを思い出そう。キルケゴールがプラトンを攻撃するのはそのアナムネーシス(想起)が運動に対して直接的に対立していたからだが、ヘーゲルを批判するのは運動に対するその狡猾な、転覆的な対立のゆえにである。

 それは運動に味方するように見えるが、実際にはコミックになっている。へーゲルの時間は真性で根源的なものではない。キリスト教の時間は「瞬間」や決断に関わる。ヘーゲルの時間は流れや偶然性にさらされるものではなく、それらの効果から隔離され、永遠によって安全にされ、理性に保証され、必然性によって規則づけられたものである。デリダの言葉を使って言えば、「ヘーゲルの媒介は play(演劇、遊戯、賭、活動)を確証するかに見えるその瞬間にその play を止めてしまう arrest」。

 ヘーゲルの時間は時間にとって固有のもの、偶然性、自由、未来への引き渡しを欠落させている。それは公的な歴史を称揚しつつ、私的なところで時間を破壊している。根源的自由の根拠のなさ、時間やキネシスの本質であるものが廃棄されるのである。

 キルケゴールにとって、およそ生起するすべてのものは神的自由の中で偶然的に contingently 生起する。自然法則が支配する現象は決して存在したことはなかったし、法則それ自体が神的自由によって変わるのであるから、自然の法則といえども純粋な必然性を確証するものではない。

 キルケゴールが運動の「超越」を言うとき、出来事の絶対的予見不能性を意味している。ギリシャ人たちの中で唯一アリストテレスだけが物事の偶然性を認知していた。とはいえ彼は必然性と可能性の間を先鋭に区別していたわけではなかったが。

 まず存在していなかった、次に存在する、存在するものは事実上歴史的である。過去は歴史的であるがゆえに偶然的である。その偶然性は時の経過によって廃棄されてはならない。過去が起こったとき、それは別様にもありえたものである。過去が必然的だということは未来を予言することに等しい。

 論理と実存を、必然性と自由を、思考と運動を結婚させようとするヘーゲルはコミカルである。ヘーゲルは時間の中に書き込まれた論理的必然があること、時間が理性のカテゴリーに従って展開すること、時間は論理に書き込まれていること、カテゴリーが運動し、生成とキネシスを経験することを主張した。

 しかし思考は偶然性を犠牲にすることによってのみ、必然性と本質に妥当する。思考(思想)は体系を構築するが、そうした体系は現実であることを主張できない。実存的説明は思考にとっては敵対するものである時間とキネシスの境界において運動する。

 だからコンスタンチン・コンスタンチウスがヘーゲルの媒介と反復との間の差異を主張することを我々は理解することができる。ヘーゲル的神学者であったハイベルグの『反復』という本がキルケゴールを激怒させ、彼は再びコンスタンチンの名前で出版されなかった解明を書いた。

 ハイベルグは運動の観点で反復を扱いながら反復を自然化しているとしてコンスタンチンを非難した。しかしコンスタンチンにしてみれば、運動はその根源的な意味においては個人的精神に属する。ハイベルグにとって精神の領域での運動はせいぜい世界史の運動である。それは必然性と媒介に支配されたものであり、論理によって支配されたものである。

「論理の中では、移行は運動の沈黙である。自由の領域においては運動は生成する。かくて論理においては思考の内在性によって可能性が自身をアクチュアリティとして規定するとき、人は運動や移行を語ることによってただ論理的プロセスの自己−包含を邪魔するだけである。」(Pap W 117 290/R309)

 論理の運動は非現実の音のない静けさである。そこには必然性の展開、概念間の擦れた音しかない。自由の領域においては、「可能性はとどまり、現実性が超越として出現する」(Pap W 117 290/R309-10)。ここに可能性に続いて純粋に可能性を超越するアクチュアリティがそこから出現する。本質的な意味での運動−自由の中で、何かまったく新しいものが現象する。

 アクチュアリティ(現実性)が可能性から超越しているのである。アクチュアリティは可能性によって決定されるものでも、閉じこめられるものでも、あらかじめ含まれているものでもない。だからコンスタンチンにとって、全体的な問いは、反復が可能かどうかということになるのである。

 「しかし個体がその自由において見られるとき、問いはまったく違ったものになる。反復は実現されることができるだろうか?この充満した意味における反復、自由の仕事としての反復、私の小著に題を与え、そこで記述されるに到る自由、個体と状況において見えるようになる自由としての反復。」(Pap W B117 293/R312-13)

 個体が時間の中で持続するということ、流れ flux とともにとどまるということ、その同一性を効果として産出するということ、これが反復である。反復のもっとも高い表現は宗教的な運動であり、そこで個体は罪から宥和(贖い) atonement へと移動する。これこそ質的な移行の最もドラマティックな瞬間 instance である。何か新しく超越的なものが産出される個体の変容である。

 宥和 atonement は完全にそれが置き換わる罪に対して超越的である。宥和は高い意味 sensu eminentiore において反復なのである。罪は許しによってしか媒介されない。移行は内在レベルではなく、純粋な移動、超越の運動、愚鈍の徳、神の力への信仰のレベルで起こる。これを論理や媒介は理解も行為もできない。かかる根本的キネシスは形而上学、プラと二ズム、ヘーゲル主義では可能ではない。そうした反復は世界歴史過程や天体論とはなんの関係もない。

 反復は流れの中にあって出来事のカオスから個性 personality を鍛える個体の力である。自己の不断の散逸に面して同一性を創造する力である。どれほど日常的実存の取引によって個体から取り去られようとも、そこにはいつも「余るもの remainder」がある。反復とは自己としての自己を構成する厳密な作業なのである。

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以上 Radical Hermeneuitics, P.16からの要約完

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Subject キルケゴールの受動能動
Author イストラン [ 1447 to イストラン ]  4/24/Sun/2000   

私は受動能動性というとき、受動性や能動性があからさまに問題になっていなくても、なんらかの異変が起こっているとか、なんらかの齟齬や解消されないものがあるとか、そういうときも含めて言っています。もちろん、構成されて静的になってしまった構造的要素のときもありますが。

たいては実存主義は受動能動の交替とか、同時的生起とかに関わると思います。

 「ここでわれわれが強調しておきたいのは、実存主義の考え方は
  受動性という観念そのものを審問に付すことをめざしていると
  いうことである。実存主義は、能動性と受動性は相互に入れ替
  わるという事実認識から出発する。」(『超越・外傷・神曲』
  E.レヴィナス、邦訳188)


> ヘラクリトス派とエレア派の古い対立がこうしてキルケゴールにとっては倫理的宗教的意味を持つ。もしコンスタンチンのベルリンへの旅が実存的反復のパロディであるならば、問題はいかにして実存的運動が可能かということになる。実存する精神にとって、一方で流れに消され、同一性を失うことなく、他方で非時間的思弁への内に時間や実存からから退却したりすることなく、時間の内に生きることは可能であるか。

 流れに消されて同一性を失う、これを私は受動性の側に配したいと思う。
非時間的思弁ということで、流れをそこから離れて構成的かつ支配的に見るという能動性と解したいと思う。とするならば、ここにはまず現象的な受動性と能動性の彼方へという道があることになる。

> キルケゴールの答えはこの点でアリストテレスの身振りを繰り返す。キネシスの逃れ去る現実、それは可能性と現実性との間の相互作用にある。それは一方でも他方でもない。というのも、自由のダイナミクスを記述するのはもっぱらこの内−間的領域だからである。it is that in-between land which alone describes the dynamics of freedom.

 自由のダイナミックスと言っているのは、一般的にキルケゴールが自由と非自由との「間」の言説を求めていると解することができると思う。この場合は「可能性と現実性」だが、運命というものを「必然性と偶然性の統一」と捉える見方とか。これはニーチェも言っていそう。


> 「自由の領域においては、しかしながら、[論理学に対して]可能性はとどまり、現実性は超越として発現する。したがって、アリストテレスが遠い昔可能性から現実性への移行がキネシス(運動、変化)であると言ったとき、彼は論理的可能性と現実性について言っていたのではない、そうではなく自由について語っていたのだ。だから彼は恐らく運動を定立したのである。」(Pap. W B117 290/R309-310)

 してみると、アリストテレス自体にも受動能動性があったということになる。
しかも、人間霊魂を受動性と能動性に二分割するような『霊魂論』のようなものではなくて、むしろ受動性と能動性との間とか、緊張とかに共通するようなものが。それはどこかにあるのだろうか。

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トピック= 1444 宛先= 1445 同宛先= 1446 返信=
 
Subject 注意点
Author イストラン [ 1446 to イストラン ]  4/23/Sun/2000   

> 想起も反復も時間から永遠への移行であるが、ギリシャ人たちは永遠の先行存在へと退却する。ここでは永遠とは失われた現実性(能動性/行為性)actuality である。

 acturalityを現動と訳している人がいるかも知れない。この訳は現実性と能動性を合わせたようなものでむべなるかなと思う。


> 反復とはキネシスである。それは実存する個体が時間を通って己の道を造る有様であり、性格や信仰に与える時の衰弱的効果に対抗する持続性 constancy なのである。


 もしかして、コンスタンチン・コンスタンチウスはconstancyに関係あるのでしょうか。 

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トピック= 1444 宛先= 1445 同宛先= 1447 返信=
 
Subject 反復と想起
Author イストラン [ 1445 to イストラン ]  4/23/Sun/2000   

 コンスタンチン・コンスタンチウス(キルケゴールの『反復』の著者名)にとっては反復が可能かと問うことは運動が可能かと問うことに等しい。これはまたエレア派に対するアリストテレスのキネシス kinesis を支持することに等しい。彼はそこでプラトンの想起 recollection に対して反復 repetition を対置する。たんにキルケゴールを宗教的著作家とハイデッガーがみなしたことは間違いであった。

 キルケゴールにとってはいかなる真剣な運動も前方への forward 運動であり、哲学は運動を破壊する。

 内在と思弁の哲学は偽の運動に関わる。それは流れ flux のとげを取り去る。プラトンにとってはこの変化の世界へ魂が失墜 fall し、もともとあった存在の始源へ想起によって帰り行くことがテーマであった。知もまた失われた認識を求めて過去へ想起する。学ぶことはいつかすでに持っていた知との接触を再び持つことである。かくてプラトンの運動は失墜から始源へ、感覚から超感覚へ、コピーから起源へ、喪失から回復へ、忘却から想起へのノスタルジックな反運動である。

 想起も反復も時間から永遠への移行であるが、ギリシャ人たちは永遠の先行存在へと退却する。ここでは永遠とは失われた現実性(能動性/行為性)actuality である。

 「ギリシャ人たちが知ることはすべからく想起であると言うとき、存在するすべての現実存在は在ったところのものであると言っているのである。これに対して人が生とは反復であると言うとき、在ったところの現実性(能動性、行為性)は今や現実存在 existence に到ると言っているのである。」(SV V 189/R 149)

 反復においては実存それ自体によって切断された時間から永遠への小道がある。時間を抜け出る誘惑に屈するのではなく、時間の中で耐えること。そこでは永遠は失われたものではなくて、達せられるものである。未だ捕まえられなくてはならない可能性である。キリスト教徒にとっては永遠は信仰を保つものを待つ賞(戦利品)prize なのである。

 キリスト教徒にとって、永遠とは来るべき、未来の生 vita ventula であり、ハイデッガーの将−来 Zu-kommen をそこに聞くことができる。後ろを振り返らずに困難に着手する者たちに約束された生である。それは可能性に関わる。時間(時間性 temporality)は為されねばならない緊急の仕事を意味する。未来性と決定性から見られた時間がキリスト教徒の時間なのである。ところが形而上学にとっては時間は不完全なもの、まがい物であり、何も時間においては決定せられない。反復を愛することは幸福な情熱に溢れた戦いであるが、想起を愛することは失われた楽園を思うノスタルジックで、メランコリックな、夢見がちの貪欲さに他ならない。

 キルケゴールにしてみれば、ギリシャ人たちは時間を理解せず、時間性 temporality の概念を持たなかった。彼らは瞬間の概念を前方への方向から理解しようとせず、後ろ向きに理解した。ギリシャ人は失われた現前を永久的にするために過ぎ去ることに抵抗しただけだった。彼らは精神と肉との間の緊張、悪や罪への傾向性を理解しなかった。彼らは時間の緊急性や決定性とは無縁だった。

 「瞬間とはそこで永遠と時間がお互いに触れるところである。このことをもってテンポラリティの概念が定立される。そこでは時間はいつも永遠に介入し、永遠はいつも時間に浸透する。」(SV W 359/CA 89)

 キリスト教徒にとっての瞬間 moment は未来と可能性を意味するエネルギーと永遠の瞬間性で充満している。永遠は時間によっては測りがたい。ギリシャ人は瞬間を未来の優位の観点からではなく、過ぎ去る過去の観点から見る。時間の真性な観念は時間のテンポラリティであり、これはキリスト教の貢献である。

 この想起と反復の対立の下に全体的存在論が横たわる。ハイデッガーは『存在と時間』で現存在の存在の意味をこの未来優位のテンポラリティに求めたが、全体的な線をキルケゴールからとってきながら、キルケゴールがたんなる宗教的著作家だと言った。キルケゴールはプラトン的想起に含まれる現前の形而上学を取り消し、テンポラリティや運動(キネシス)を考えるように言う。

 反復とはキネシスである。それは実存する個体が時間を通って己の道を造る有様であり、性格や信仰に与える時の衰弱的効果に対抗する持続性 constancy なのである。

 ヘラクリトス派とエレア派の古い対立がこうしてキルケゴールにとっては倫理的宗教的意味を持つ。もしコンスタンチンのベルリンへの旅が実存的反復のパロディであるならば、問題はいかにして実存的運動が可能かということになる。実存する精神にとって、一方で流れに消され、同一性を失うことなく、他方で非時間的思弁への内に時間や実存からから退却したりすることなく、時間の内に生きることは可能であるか。

 キルケゴールの答えはこの点でアリストテレスの身振りを繰り返す。キネシスの逃れ去る現実、それは可能性と現実性との間の相互作用にある。それは一方でも他方でもない。というのも、自由のダイナミクスを記述するのはもっぱらこの内−間的領域だからである。it is that in-between land which alone describes the dynamics of freedom.

 「自由の領域においては、しかしながら、[論理学に対して]可能性はとどまり、現実性は超越として発現する。したがって、アリストテレスが遠い昔可能性から現実性への移行がキネシス(運動、変化)であると言ったとき、彼は論理的可能性と現実性について言っていたのではない、そうではなく自由について語っていたのだ。だから彼は恐らく運動を定立したのである。」(Pap. W B117 290/R309-310)

 キルケゴールもハイデッガーもアリストテレスのプラトンの主知主義批判に惹きつけられた。具体的実存のダイナミックスを述べるアリストテレスの見方に。ハイデッガーとは反対に、キルケゴールは存在論の限界に抗して実存の存在論を刻印したと言っておこう。それは実存の運動を体系的に圧殺する存在論に対する戦いだったのである。

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Radical Hermeneutics Ch.1 Repetition and Kinesis:Repetition and Recollection の要約完

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Subject 『根源的解釈学』第一章:反復とキネシス[編集:4/23]
Author イストラン [ 1444 new post ]  4/23/Sun/2000   

 キルケゴールにとって、問題は実存的な意味における運動が可能かどうかである。反復は運動 キネーシス の実存版である。キネーシスはエレア派へのアリストテレスの対位法 counterpoint である。それは実存する個体の中で起こる。

 哲学は運動によって躓く scandalize。そして現実の存在から徹底的に運動を排除するか(プラト二ズム)、哲学を運動の友人と描き、それを論理的カテゴリーの哲学的邸宅に誘い込むか(ヘーゲリアニズム)、そうしたことを試みる。キルケゴールは哲学の哲学的作業に対抗する。それは時間や運動の外側に横たわる永遠がひとつの幻影であると考えるからではない。キルケゴールの反復は流れ flux に取り組む最初の「ポストモダン」的な試みである。
 第一部の続く章では、いかにしてキルケゴール的な「反復」のプロジェクトがハイデッガーの『存在と時間』で意味されたものの中心へ突入するかということを示そうと思う。 流れを否定するか転覆させる形而上学の試みを、その初めはプラトン(1)に、その完成体をヘーゲル(2)に見ることから始めよう。そしてコンスタンティンの心理学的−現象学的体験(3)に向かおう。最後に、反復の四つの段階(4)を調べたあと、反復と形而上学のよろめきないし超克という問いを提出する(5)。
 

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