受動能動性の言説



『差延』  J.デリダ   『哲学の余白』所収 高橋允昭 藤本一勇訳

『差延』によって指し示されるものは単に能動的でもなければまた単に受動的でもないのであって、それはむしろ何か中間態(=中間の声 voix moyenne)のようなものを告知ないし想起する。つまりそれは単なる作用 operation ではないような作用のことを言っているのであり、言い換えれば一主観の一対象に対する能動としても受動としても考えられないような、作用を及ぼす側から出発しても作用を受ける側から出発しても考えられないような、これらの項のいずれから出発しても、またいずれをめがけても考えられないような、そうした作用のことなのだ。なぜこのような事情にあるかは追って明らかになるだろう。ところでもしかすると哲学はこのような中間態を、つまりある種の非−他動詞性を、まずはじめに能動態(=能動的な声 voix active)と受動態(=受動的な声 voix passive)に分配し、そうしてこの抑圧のうちで自己を構成したのかもしれないのだ。
『演技する精神』   山崎正和

要するに、われわれは、行動の実践のなかで自己を動かそうとするとき、厳密には、動かす自己と動かされる自己を区別できないのであり、いいかえれば、行動の外にある自己と内になる自己とを区別できないのだ、といえる。われわれは、行動に向かって意志を抱いた瞬間に、じつはそれを抱かされているのであり、やると決意した瞬間、じつは何ものかによってその気にさせられているのである。この何ものかを何と呼ぶべきかはのちに考へるとして、とにかく、われわれは行動のなかで純粋に能動的であることはできず、むしろ、能動性がそのままで受動性であるやうな、奇妙な二重構造にまきこまれていることは、明らかであろう。
『時間と自我』  大森荘蔵

相対性理論における観測者の問題は、ローレンツ変換の active vs. passive interpretation ともかかわる、哲学的に興味ある議論があり、これらの点についてこそ、大森氏の意見を期待している。
『意志的なものと非意志的なもの』  P.リクール  滝浦静雄 中村文郎 竹内修身 訳

しかし、われわれがいま主張しようとしているのは、コーギトが全面的に能動なのではなく、能動で且つ受動だということである。だから、自由が自分の傷を発見したり悪化させたりするのは、ひとが傷を引っ掻くことで炎症を起こすのと同じように、能動的否定の態度を強めることによってのみである。しかし、それでもやはり、自由を損なう悪は、自由が堪え忍びうる最も原始的な受動として、つまり身体的に実存する受動として、痛ましく身に蒙られているのである。
『動機の文法』   ケネス バーク  森 常治 訳

「ある行為の動機づけ」という表題のなかに、われわれは劇学的地口、能動と受動の合体をみるだろう。厳密にいえば、ある行為者の行動は「動かされる者」ではなく、「動かす者」(自分自身を動かす、もしくは自己によって他のものを動かす)の動きであろう。というのは一つの行為は定義上能動であり、他方、動かされる(もしくは動機づけられる)のは定義上受動だからである。かくて、「ある行為の動機づけ」という表現を重箱のすみをつつくやり方でことあげしてみれば、それが本質のパラドックスをひそかにかくしもっていることにわれわれは気付くのである。文法的に言えば、もし文構造が能動なら、それは受動ではなく、受動なら能動ではない。だがある「行為」をその「地盤、根拠」の観点から考えることは、それがそうでないものの観点から、すなわち能動に対して働きかけることでそれを受動にしてしまう動機の観点から考えることである。われわれはこのパラドックスを別の言い方で表現することができるだろう。それは能動の観点は「受動の背後にある受動」といったようなものを含意している、ということだ。というのは「自分の情熱 passion によって動機づけられる」ことは「自分がすでに動かされているという状態によって動かされる」こと、もしくは、「すでに働きかけられている状態によってのみ働きかけられること」であるといえようから。
『知覚の現象学』   M メルロ ポンティ  竹内芳郎 木田元 宮本忠雄 訳

われわれの誕生、ないしフッサールが未公刊書の中で言っているわれわれの<生殖性>が、われわれの能動性ないし個体性と、われわれの受動性ないし一般性、つまり、われわれが絶対的個体としての密度を手に入れることを妨げる内的脆弱さ、とを同時に基礎づけているのである。われわれは、わけのわからぬ仕方で受動性に結びつけられた能動性であったり、意志によって超えられた自働機械であったり、判断によって超えられた知覚であったりするのではなく、われわれはまったく能動的であると共にまったく受動的なのであって、それは、われわれが時間の出現そのものだからである。
『自我の超越』  J・P・サルトル     竹内芳郎訳

それゆえ、人間は人間にたいして、いつでも一個の魔法使い(sorcier)なのだ。実際、一方が他方を自発的に創造するような二つの受動体のあいだのこうした創造的関係こそは、魔法の基礎そのものであり、<分有>(partitipation)のふかい意味である。それゆえ、わたくしたちはまた、自分の<自我>をかんがえているときはいつでも、自分自身にたいしても魔法使いなのである。
『<発生と構造>と現象学』  J デリダ   『エクリチュールと差異』所収 若桑/野村/坂上/川久保 訳

彼(フッサール)は哲学的関心の新しい方向を切り開かねばなりませんでした。そして具体的だが経験的でない志向性、すなわち<構成するもの>、言いかえればすべての志向性同様創造的で同時に開示的で能動的で受動的な<超越論的経験>を、見いださねばなりませんでした。始源的統一性、すなわち能動性と受動性の共通の根、これは、フッサールにとって非常に早くから、意味の可能性そのものでした。
『無限の二重化』    W メニングハウス  伊藤秀一 訳

認識者と認識されるものとの間の相互行為についてのこのような考えは、すでにフィヒテの相互能動受動理論のなかにある。そこにおいて「受動」とは決して単なる自己能動性の欠如ではなく、単に異なった方向を向いた能動と呼ばれるのだ。ノヴァーリスはこの理論をかなり自家薬籠中のものにしており、次のように言う。「単なる受動、単なる能動とは抽象的状態である。すべてはそれが能動的である限りにおいて受動するのである。そして逆もまた真である」
『スピノザと表現の問題』  G・ドゥルーズ    工藤/小柴/小谷 訳

つまり、能動と受動とを分けることがライプニッツの場合にはまだ伝統的な仮説(精神が能動的であるとき身体は受動的である、その逆も真である)のうちにあったままであるが、これに対してスピノザは、精神の受動と身体の受動とが同格であること、そして身体の能動が精神の能動と同格であることを主張しつつ、実際的な分類をすべてくつがえしてしまうのである。
『習慣の哲学』  稲垣良典

ところで、さきに習慣の基体について考察したさいに、働き、行為の根源としての能力ないしは能動者は(1)純粋に能動的 tantum agensであるもの、(2)純粋に受動的 tantum acta vel motaであるもの(3)能動的であると同時に受動的 agens et acta であるもの、の三種類に分類されることを見た。このうち(1)(2)とは習慣の基体たりえないことがあきらかにされているから、ここで問題にする必要はない。習慣生成の原因は(3)の能動的であると同時に受動的であるような能動者の構造をあきらかにすることを通じて探求しなければならないのである。
『自然について』 ヨハネス スコトゥス   今 義博 訳

自然を分割すれば、四つの差異によって四つの種に分けることができると、私には思われる。それらのうち最初の種は、創造し創造されないもの、第二の種は、創造され、創造するもの、第三の種は創造され、創造しないもの、第四の種は創造せず、創造されないものである。これらの四つの種のうちの二つの種は、相互に対立する。つまり第三の種は第一の種と、第四の種は第二の種と対立する。しかし第四の種は、それが存在することがありえない不可能な事柄に属する。このような分割は正しいと思われるかね、それとも違うかね。
『自然学』 アリストテレス    出隆 岩崎允胤 訳

或るものは他のものによって動かされて動かし、他のものは動かされえないものでありながら動かすのであり、また或るものは動かしながら動かされ、他のものは何ものをも動かすことなしに動かされる。それゆえ、それ自身を動かすものは、動かされえないけれども動かす部分と、動かされるけれども、かならずしも動かすことなく動かすこともあれば動かさないこともある部分とから成るのでなければならない。...全体者は、その或る部分がそれ自身を動かすようなものであることによってそれ自身を動かすのではなく、全体としてそれ自身を動かすのであり、しかも、全体者は、それの或る部分が動かすものであり他の部分が動かされるものであることによって、動かされるものであるとととに動かすものであり、そういうものとして全体としてそれ自身を動かすのである。
『パルメニデス』  プラトン    田中美知太郎 訳

そうだとすると、まさにその取り囲むものと、取り囲まれるものとは、何か別ものであるということになるのではないだろうか。なぜなら、同じものが全体のまま同時に、はたらきかけると共にまたはたらきかけられるという二つのことをいっしょにすることはないはずだからである。そしてもしそうなら、一つのものはもはや一つのものではなくて、二つのものだということになるだろう。