受動能動論への視点




 アリストテレスの『魂について』は、魂の能動的な部分を知性として、受動的な部分を感性として示している。この見方はずっと時代を隔ててカントにまで続いている。人間は自分のことをまず能動的な部分と受動的な部分に分けている。意志はもちろん能動として、感情は受動として見られる。

 受動性と能動性で分割され、構築されるのは人間に限らず、世界、自然そのものでもある。『自然学』は受動能動の果てにいかなる受動性にもつきまとわれることのない神を設定する。アリストテレスにとって能動性は神の表象であった。それはしかし一なるものが同時に能動でありかつ受動であることはないというプラトンの規定に沿ったものである。ゆえに一なる神は純粋能動者であるという観念が生じる。そしてこれはアクィナスの神規定に反映する。

 しかし、ヨハネス・エリウゲナは能動するもの、受動して能動するもの、受動するものという三つの存在者の他に、能動も受動もしないものという第四項を加える。この想定は受動性と能動性からの超越を志向している。

 とはいえ、能動性への誘惑は計りしれない。デカルトはコギトの能動性に人間存在の最終点を見る。スピノザは感情を能動性に転換することを目指す。ただし彼は自然する自然と自然される自然というふうに、一なるものの受動能動という非プラトン的な事態を認めているように見える。

 イギリス経験論は真理の受動性に取りつかれている。存在するとは知覚されることである。そうバークリーは言うが、しかし神の視点として、存在するとは知覚することである、というふうに能動性を補完するのである。これらのことは、あの純粋に能動するものは神だけであり、人間はなんらかの意味で受動性と能動性の混合であるという表象にもとづく。

 カントにおいて受動能動問題は先鋭化する。それは大陸合理論とイギリス経験論の混合であると言われるが、受動性と能動性の根源的対立でもある。彼の哲学はその目線にどこまでも従い、だからここで受動能動性の調和も、対立も生じ、総体的に一個の謎となる。叡智的直観や物自体という彼が退けたものは実は、受動性と能動性の根源的な統一であった。

 フィヒテやシェリングはカント的には存在の根である叡智的直観を事実として人間存在の中に見る。ヘーゲルは、受動性と能動性の統一を行為として表象する。そうした流れは受動性と能動性をあの一なるもの/神に仮託する視線から、人間の方にこの統一を持ってくるという動きであろう。

 そして神なき実存主義は統一に対しては病的分裂をもって人間存在とする。キルケゴールやニーチェは、受動性と能動性において気を失うか、踊りだす。自由(能動)は己を鎖につける(受動)、これが存在の神秘であるとキルケゴールは言い、この事態においては意識は失神し、文字通り神を失う。しかしそこからの脱出はそれもまたひとつの受動能動である。ニーチェは必然性(能動性)と偶然性(受動性)の統一に運命を見る。運命を愛するということはだから受動能動の戯れをそれとして愛するということである。実存主義とは受動性と能動性の逆転であるとエマニュエル・レヴィナスは言った。そういう彼は受動性の彼方の受動性ということを言いだす。

 フッサールは『経験と判断』が示すように、相も変わらず受動性と能動性によって心的なものを記述した。しかし彼にとっては受動性と能動性との間になんらかの不安を催させる事態が発生することはないだろう。目的性が、インテンショナリティ/意図性が受動性と能動性を飲み込んでしまう。彼にとっては受動性は悔恨/慟哭のような宗教的表象を帯びているわけではなく、いつでも力強い理性の意志が飲み込む刺激物のようなものである。

 対してハイデガーはこの対立に徹底的に拘る。現存在/世界内存在を世界を了解(能動)し世界に見いだされてある気分(受動性)を持つ存在として規定する。それは意味を企投し、かつ投げられるという受動能動態である。論理学においてすら気分の根源性を指摘するハイデガーから気分存在を削除することはできない。彼は存在の意味をぼんやり知っている現存在に、それを時間として白状させようとしたが、その時間性は未来の能動性と過去の受動性にはさまれた沈黙の現在の受動能動的決断を、真性実存的時間として提起した。しかしこの時間分析はやがて放棄の、受動性への体制にとってかわられる。こういう受動性への愛はスローターダイクにも共通するものがある。

 メルロポンティやリクールは方や知覚の現象学、方や行為の現象学というふうに対象領域は違うものの、受動能動性に関して言っていることはハイデガーと大差なく、双方とも、人間存在を同時に受動かつ能動と記述することに無類の情熱を傾けたように見える。

 そしてデリダとアンリは自己触発性をもって言説を動かすテコとしている。デリダは自己触発性を同一性と非同一性への蝶番として、アンリは内在性の表象として。受動能動が一方では解体構築(破壊と創造)の源泉と受け取られ、他方では生の原型と受け取られている。双方ともが自由の表象をそこに見ていると言える。

 かく見てくると、能動性の側に一方的に自由を見て、これに近づくことを理想とする古代中世的な安定した表象から、受動性と能動性の<間>に人間性を、そしてそこに不安、動揺、有限性を見て、ひたすら人間的な自由というものを確認する近現代の自由観へという相が浮かび上がる。

 神や無の位置がなければ、一なるものの受動能動性をもって最終的存在とする存在論ができあがる。そしてこれは神や無を棚上げした自律の思想に形容することができる。自律というものが創成されてきた近代というのが一方の哲学史的主題である(Shneewind)。他方では、行為性の一つの問題として自律性がある(A.Mele)。

 受動能動性の言説は行為性の表象に規定されている骨格のようなものであり、少なからず宗教と関係する。しかし受動能動という抽象的な意味は行為性の内容によって、より豊に、かつより反省的に捕らえ返される。さらには非行為の、無為の表象にこだわる東洋思想あるいはエソテリズムとの内実ある対話を可能にするためにも、行為性への反省が必要となるだろう。



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