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感性と悟性:安定化の構造 『純粋理性批判』にとって受動能動はどういう視点から論ずることができるのか。 一つの受動能動性とは例えば次のようなものである。「私たちの心の受容性は、私たちの心が何らかの仕方で触発されるかぎりにおいて、諸表象を受け取るものであるが、私たちがこの受容性を感性と名づけるとすれば、これに対して諸表象をみずから産みだす能力、あるいは認識の自発性は悟性である」(B75) 今日では感性に受容性を述語することに意味がなくなってきていると思う。感性は組織だって感覚する。それは情報の単なる受容とはイメージが合わないし、そもそも受容性というのをかくも強調する必要がない。しかしカントを読むに際してはこの二分割が前提となる。 カントは認識を感性(感じること)と悟性(考えること)との統一とみなす。受容性と自発性とが対応してひとつの認識領域を作る。感性の形式である純粋直観は時空間(受容性の形式)とされ、これに思考の形式であるカテゴリー(自発性の形式)が対応して、認識領域あるいは経験という存在領域を確定する。 それゆえに、ここでの受容性と自発性はなんらか合体することによって一つの安定した領域をつくるというイメージになる。第一批判における受動能動とは、まずこの安定化の構造として登場する。 受動的感性と能動的悟性のずれ ところが受動性と能動性は本来は心の能力として独立していたわけで、静的に安定しているのはこうした形式的領域での意味的な対応においてであり、この対応をはずれて、思考の自発性は認識なり経験を超出してしまう。 いわばカテゴリーが時空間を越えて時空間的存在者以外のものに適用されるとき、それは受動性の支えを失い、仮象的認識を生ぜしめ、3通りの理念を排出する。それは自我という物、世界、神である。たとえ、自我が誤謬、世界が二律背反、神が理想という風に、徐々にこの違反がより積極的に捉えられるようになってはいても、それはタガのはずれた能動性なのである。いわばタガの外れた能動性をどう扱ったらよいのか、これを後半の弁証論の課題と形容することができる。 力動性と意味性 カテゴリーの超越論的基礎付けを目指す議論は安定した受動性と能動性との対応、<見ることにおける受容性>と<考えることにおける能動性>の合体という静的構造の側面を持つ。そこではカテゴリーなるものはもちろんこうした能動性という力動的な観点からのみ捉えることができないものを持っている。 カテゴリーというのは大規則である。一般に概念というのは規則であるとカントは考えている。一方統覚の根源的統一とは、「我思考する」という自発性の作用である。従って、表面的に見れば、超越論的演繹という法的な、権利要求の証明の根底には、<単なる能動性を方向づける規則としてのカテゴリー>という見方がある。 カントの示した演繹は、カテゴリーの基礎付け性格を統覚の基礎付け性格の内で確かめるということを戦略にしていた。感性的直観の多様な表象は、統覚の総合的統一に属する。すべての表象は「私の表象」である。諸表象は判断の論理的機能に従って統覚の統一に「もたらされ」一なる経験的直観において、その論理的な機能の一つに関して規定される。カテゴリーはこの論理的機能なのだから直観によって与えられた多様なものは必然的にカテゴリーに従う。これが第20項の演繹である。 悟性の能動性はたんなる能動性ではなく、規則を持った能動性として客観に対峙する。しかし統覚の<自発性>の作用の一体どこに、規則性を認めることができるのか。 悟性の可能性すらそれにもとづくと言われた<意識の統一>(B137)、は、カテゴリーを必要とする。しかしまたそれはカテゴリーをして現象を基礎付けさせる根拠ともなる。一体カテゴリーが究極のものなのか、それとも統覚意識が究極のものなのか、ここには行為における<規則>と<行為者>との連関に還元されるような問題がある。 そして、対象の認識はたんなる知覚を超えて経験判断に高められ、ひいてはカテゴリーに規定されることによって、客観性を獲得するのであるから、一方に悟性の能動性が、他方にこの能動性がなんらか規則性を帯びるということがたえず前提とされる。つまり、客観性というメルクマールがあるかぎりは、たんなる能動性では経験構成たりえない。しかしながら自発性あるいは根本的能動性ともくされた統覚意識は実はカテゴリー的意味論から抜け出し、己にふさわしい対象場を持っていたと考えることができるのである。そのことを少し長いが、全体の構成を視野にいれて追求しよう。 カテゴリー的構成の極を抜け出るもの カントは一方で再生産的構想力を自らの超越論的哲学の中に含めながら(A102)、他方、これを経験を構成するア・プリオリな要素とは認めなかった(A118)。であるから第一版においてすでにこうした矛盾があり、第二版では再生産的構想力は削除された。 結局カントは経験(経験と認識)を構成する事態を一方的に能動性として解釈したのである。受動性の方は、悟性が経験を超出して認識しようとする欲求に対する制限として機能する。、感性の形式(純粋直観=時空間直観)を超出して、超越的な<物自体>を認識することはできない。 多様なるものは感性が提供し、これを構想力が総合し、統覚意識が統一するという三段階の総合的統一が経験=認識を成立させる。これは主観的演繹の場とされるのであるが、そのときに総合的統一は<生産的構想力>と対になって<統覚>が成就するのであり、これは<自発性>と呼ばれるのであるから、畢竟能動性が勝利すると言ってもよいだろう。 従って全体的に見れば、経験の構成についての議論では能動主義が台頭し、経験を越えて認識することを禁じる議論では受動能動主義が目立つのである。これが第一批判の分析論の枠組みであろう。 だが<超越論的論理学>という、外見上「構成の能動性」を主張する段落にも、能動主義とは呼べない事態がある。再生産的構想力の重要性をカント以上に評価し、そこから統覚を含む心の最も深き受動能動を取り出すのはハイデッガーのカント論なのだが、我々は再生産的構想力を全く無視しても、なおかつ単なる能動主義ではないものを見ることができるのではなかろうか。 単なる論理形式では<真理の論理学>たりえないという確信に超越論的論理学は基づいている。真理は概念と対象の連関から生ずるのであって、対象の対象性を問わない論理学はなるほどアプリオリではあるが、概念の客観性についての問いは無視している。 論理学は意識と合体する。 「客観は、与えられた直観の多様なるものが、そのものの概念において合一しているところの、そのものに他ならない。ところが、諸表象のすべての合一は それらの諸表象の総合における意識の統一を必要とする。したがって、意識の統一は、それのみが諸表象と一つの対象との連関を、したがって諸表象の客観的妥当性を、だから諸表象が認識となるということを決定づけるところのそのものにほかならない」(B137) ここに登場する<客観性>は、<超越論的対象X>についての第一版の議論と並行的に考えることができる。どちらにおいても、客観は表象の数多姓を超出する一者と考えられ、この一者が強いる統一は、それ自体<意識の統一>であるとされるのであるから。 意識の統一はさらに<行為の統一>と見なされる。 「空間におけるなんらかの或るものを、たとえば、一本の線を認識するためには、私はその線を引かねばならず、それゆえ与えられた多様なるものの規定された結合を総合的に成就しなければならず、だから、この働きの統一は同時に意識の統一(一本の線という概念における)であって、このことによってはじめて一つの客観(或る規定された空間)が認識されるのである」(B138) この行為性は、多様なるものを統一へ向けて結合してゆく意識の様相を「説明」する。とりあえず、統覚の根源的総合的統一は、<意識の行為性>によって解釈される。その後、客観性への問いはどのように展開されるのだろうか。 第18項は、自己意識の客観的統一を主観的統一(内的感官の統一)から区別する。それが具体的にどういうものかは記されていないが、諸表象の連想から生じ、経験的な偶然的な統一ということになる。 第19項は、客観的統一を、判断における連語<である>が目指すものだとしている。そしてここにカテゴリーと客観性が結びつく最初の議論がある。私が物体を持ったときに重さを感じるというのは、連想の法則による(とカントは考える)。こういうことが何度繰り返されても、客観的判断は生じない。そこで、実体と属性のカテゴリーによって「その物体は重さを持つ」というときに、知覚的な主観的総合を乗り越えて、客観的に妥当する結合が生ずる。 このように指摘されて、いよいよ第20項の第1回目の演繹が登場する。 1 大前提は、多様なるものの総合的統一である。統覚の根源的総合的統一が感性的直観の多様を統一し、かく直観を統一する。 2 小前提は、等価宇土判断との連関である。すべての多様なるものは、判断における論理的機能の一つに関して規定されて、意識一般へもたらされる。 3 結論はカテゴリーの規定力である。カテゴリーは直観の多様が判断において統一されるかぎりで、それを可能ならしめる論理的機能そのものに他ならない。だから直観の多様性は必然的に普遍妥当的にカテゴリーに従う。 ところで、我々がひとたび客観性へ焦点をあてて、カントの議論を見てゆくと、少なくとも「二つの客観性」が原理的に区別されるのである。 まず表象の多様性の彼方にあると想定された一者としての客観という考え方である。ところが話が進むにつれて、この客観性は沈黙し、かわって、カテゴリーが構成する客観という思考が目立ってくる。こちらが最終的な客観性であって、その特質を一言で表現するなら、規則(ないし法則)としての客観的統一というものである。だから我々は当然この統一と、あの超越論的対象Xの持つ表象外における統一との連関を追求するよう促されるのだが、その連関があるのだろうか。 もしカテゴリー的構成を強調するならば、直観の次元にまで下って、全現象を規定しつくす構成の威力しか目に映らなくなるであろう。ところが我々はこの能動主義を危うくさせる根本的項目をカントが記述していたと信ずる。 あらゆる表象を乗り越える客観の位置は、物自体にこそふさわしい。これはカテゴリーが構成しうるものではない。しかしまさしくそのカテゴリーの客観的妥当性を演繹する語りの中に、根源的統覚とその相関者が入り込んでしまう。(こう言ってしまうことは根拠がないが、しかしその根拠をこれから追求していこうということである) すべての感性的直観の多様なるものを超出するという第一次的客観の特性を堅持するならば、この客観の持つ<統一性>を<直観的統一>と解することはできないはずである。だからカントはここで「概念において合一している」客観(B137)というふうに表現したのではないか。 このような客観は、直観されるものではない。それは<概念されるもの>である。問題は、その概念と対になった客観性はカテゴリー的構成において登場する直観を統一するところの、判断と対になった客観性と、はたして整合的な連関を持つのかどうかである。 つまり物自体的なものが、なお、認識理論の中にどのような立場をしめるのかという考えを追求しようということである。 あらゆる認識にアプリオリに横たわる先行形式を発見できるとカントは考え、これを現象に関わる<根本命題>と呼んだ。この考え方は、時間の意味論ともいうべきものであって、カント自身は対象の論理学、あるいは真理の論理学と呼んだ。この根本命題に入る前に、かの超越論的演繹なる問題が立てられて、この時点ですでに受動能動に関わる二つの体制が告知されていたことは前に見た。 一方には感性と悟性とは調和しなければならず、「概念なき直観は盲目であり、直観なき概念は空虚である」という標語がこの掟を代表する。 他方に<多様なるものの総合の統一>という悟性優位の動向があり、こちらの方は悟性がカテゴリーを通して純粋直観を支配し、下っては感覚までも支配する、という事態を代表する。悟性は経験を通して認識するのではなく、逆に悟性が自然に対する認識上の立法者であるという、いわゆるコペルニクス的転回である。 第一批判(『純粋理性批判』)は悟性の受動性を強調すると指摘する向きもあるが、それは悟性の自発性が感性に限界づけられていること、悟性は全自然を立法するが、その全自然をなんらか形式的にのみ、つまりは時間的構造のみを立法するということに結論上なる。 しかし受動性と能動性のからまりは第一批判内部においても錯綜しており、第一批判は第三批判と違って<主知主義的>だと形容するのは保留すべきと考える。 さしあたって我々は『純粋理性批判』の中に三つの契機を認めた。まず悟性(自発性)と感性(受容性)の調和、悟性による支配的基礎付け、そして悟性の越権行為(現象を超え出て認識する)の禁止であった。 カントによれば、直観は多様なものを悟性に提供することになっている。一方悟性は自発的な行為であり、この行為は根源的に<一つ>である。従ってただ一つの能動性と表象の多なる受動体が心の中で合体している、というのがカント的心理学なのである。 「直観のすべての多様なものは、この多様なものがそこで見いだされるのと同じ主観における我思考すということとの或る必然的連関を持っている。しかし、我思考すというこの表象は自発性の作用である。言い換えればこの表象は感性に属するものとみなされることはできない」 (B132) 決して<多なる自発性>は認められない。多なる自発性が登場するのは超越論的感性論というはじまりの論のなかの、<物自体>の説明においてである。 「自己意識によって同時にそこではすべての多様なものが与えられるような或る悟性は、直観するにちがいない」(B135)と言われるとき、我々はカントが心というものの中に生ずるいろいろな表象をすべて「死んだもの」としていると解釈しなければならない。能動的に見る=知的直観とは、見ることによって物を存在せしめるようなものであり、「光あれ」という神の視線であろうが、それは多なる表象を受け取って思案している人間の自己意識ではない。表象がそれ自体で動いている、そういうイメージが知的直観のイメージである。
ところで、この表象の解釈、つまり多様なものは受け取られて、死んでいるが、<思考す>は生きていて<一者>であるという解釈をもっと押し進めると、一なる受動体の方も否定するべきであった。そうしてこそ、根源的に一なる純粋統覚の<自発性>と感性的多様の<受容性>が少なくとも、一と多という存在論的項目に関しては安定していただろうに。 ところがそんなに簡単ではなくて、しかもその簡単ではない問題をカントは本文ではなく、注で扱う(がこれはカントの癖というか主知主義的動向の限界表明のようなものだろう)。 B136の注では、時間と空間の総合について言われている。超越論的演繹に先立つ超越論的感性論では、時空間表象の一つの特質としてそれが多なる表象を自己の<うちに>含むものだということが指摘された。対して概念は、他なる表象を自己の<もとに>含む。時空間直観においては、一と多が同名的であり、概念においては一と多が異名的である。 さてかの注では次のように言われる。 「[時間と空間は]同一の意識が多くの表象の内に含まれているものとして、それをつうじて見いだされるたんなる概念ではなく、多くの表象が、一つの表象およびこの表象の意識の内に含まれ、したがって合成されているものとして、それを通じて見いだされるのである。それゆえ、意識の統一が、総合的ではあるが、それにもかかわらず、根源的なものとして、それを通じて見いだされるものである。空間と時間という直観のこうした個別性は、その適用において重要となる」 この注は、統覚(コギト)の<根源的総合的統一>を説明しようとして書かれている。ということは、意識の自発性の持つ一なる作用の統一性格は、純粋直観の持つ<一と多の連関>と、或る意味で同じだということではないか。とすれば、直観はいつでも多を提供するという図式はここでは妥当しない。 おまけに<一>は常に自発性の側にあるという信念も揺らいでくる。 一はコギトの作用ばかりか、あらゆる表象の規定にあるといわれた時間直観にも認められることになる。そこで我々は、<統一>というのが自発的な作用なのか、受容的な事態なのか、容易に見極め難くなった。 直観の統一、しかも概念による直観の統一ではなくて、直観における統一について、カントはさらにB145,B160の注で補足しているが、そこを参照しても事情に変わりがない。 単なるコギトの自発性は規則に適って表象的多様を総合的に統一する。その規則がカテゴリーと呼ばれ、このカテゴリー的統一が「直観に適用された」のが時間空間の統一である。この見方では一はやはり悟性の側、思考する我の側にあるのであって、それを保証しているのが適用の考え方である。同時にそれは<規則>がすでにある、と前提してのことであり、規則が未だないような状況は第三批判で考えられている。 私の心の中には多なる表象と、コギトの一なる自発性がある。あらゆる表象に私の意識が同一的なものとして「伴いうる」ということを、カントは時空間の根源的統一なる注で引き合いに出しつつ説明したつもりであった。しかしこのさい、多様な表象から超越して<私>の意識が存在するという局面は、時空間の統一が持つ<同名性>では説明しきれないということまで考えるべきである。 コギトの自発性の作用と、受容された多なる表象との関係は、「それらは私ではない」という相で私に属する、ということである。私が持つ表象は、すべての部分表象を内に含む純粋直観(時空)「のような」コギトの内にありはする。ここでは同名性が勝っている。ところが、もしこの根源的総合だけでコギトが説明されてしまうならば、たとえ根源的と言われようと、それは表象から自己が離脱するための絶対的な差異のようなものが見えてこない。おまけに自己ばかりでなく、客体もまた表象から離脱しなくてはならないのである。客観性をコギトに関連させて説明しようとするカントは、表象からの客観の分離を、表象からの主観の分離と並列させた。 「私たちは私たちの諸表象の多様なもののみを問題にし、それらの諸表象に対応するあのX(対象)は、あらゆる私たちの諸表象とは何か区別されたものであるべきゆえ、私たちにとって何ものでもないのであるから、この対象が必然たらしめるべきは、それらの諸表象の多様なるものの総合における意識の形式的統一以外の何ものでもありえない」(A105) この文章は第一版のものであるから、それなりに配慮しなくてはならないが、少なくとも我々は次のように考える。 <超越論的演繹>の根底に潜む真の問題とは、統覚意識(コギト)における同名性(同質性)と異名性(異質性)の連関である、と。しかしこの連関なるものは一体どこにあるのかと問えば、我々は絶望的にならざるをえない。 純粋直観の統一のされ方と概念の統一のされ方とは異なるのではないか、というのが我々の変わらぬ疑問点である。純粋直観の統一というのは質が同じという意味で連続的である。部分と部分の総合はどこまで行っても完結せず、そういう有様で統一は最初から保証されている。 だから感性論では「無限の全体者が与えられている」と言われたのであろう。また演繹のところでは「根源的」と言われたのであろう。だがこれは統覚意識の<根源性>を説明するにせよ、統覚意識の<自発性>を説明するものではない。自発性というのは同名性におとらず根源的なものではないだろうか。 あるいは逆に考えてみよう。統覚意識が唯一の自発性の座であるにしても、その統覚意識が何か<感性>のような統一を自らにとって「根源的」とみなしている上述の局面では、この統覚意識それ自体に概念の「おのれのもとに多や他を配する」異質性のみを付与するわけにはいかない。 すべての概念はおのれ「のもとに」部分表象を含むとは、概念の支配にとっては都合がよい図式であるが、にもかかわらず、統覚意識それ自体を根底から記述しているとは言い難い。 だからつまり、一方に心の中の<自発性=思考する>が、他方で直観のような同質性があって、この両局面はカントによって、ただバラバラに提示され、我々はこの二つの契機を前にボーとたたずんでいる。 カントは統覚意識が経験を基礎づける道を 感性的多様−−純粋直観による形式的統一−−図式−−構想力−−カテゴリー−−統覚意識 というふうに記述し、そこにおいて、カテゴリーが感性界に「適用される」というふうに受け取る。 だがこれは<カテゴリー/判断>を中心にすえた見方であり、もう一つの道が、もう一つの統一性がひそかにもぐりこまされていたのである。 前節においては、感覚−純粋直観(時間/空間)、カテゴリー−統覚意識という規定関係における統一性の勝利に対して、感性界自体における統一性というものの示唆を紹介し、これが概念の事実への適用という解釈を受け、ひとまず能動性の優位を表すことを紹介した。この能動性の優位に反するような不穏なものが、なおこの感性的統一体にあるのではないか、そのように考えるのも、この感性的統一が「根源的」と形容されていたからであり、ここではついでに感性における<同名性>の威力というものに着目してのことであった。 ところがこの線でカントは全く考えていなかった。カントが言ったのはやはり概念の直感への適用であり、また判断的なものと感性的なものとにまたがった統一ということであり、これがカテゴリー的統一の本性であるという信念は変わらない。 「一つの判断におけるさまざまな諸表象に統一を与えるこの同じ機能が一つの直観におけるさまざまの諸表象のたんなる総合にも統一を与えるが、この機能は、一般的に表現すれば、純粋悟性概念と呼ばれる」(B105) あるものを理解するとは、直観の多様なもの「にもかかわらず」なのであって、統一性というものを逃れることができないのである。カントはこの段階つまり第二版での105頁(第一版では79頁)の段階では、この統一というものを判断における統一であり、かつ直観における統一である、というふうに見ていた。 しかし、この節に続く二つの節は第二版で書き加えられたものであり、今回はここをみてみよう。 その内第11項(第2版による命名)は、カテゴリー表の補足説明である。カテゴリー表とは、1量(単一性、数多性、全体性)、2質(実在性、否定性、制限性)、3関係(実体と偶有性、原因と結果、相互性)、4様相(可能性/不可能性、現存在/非存在、必然性/偶然性)である。 問題は12項にあって、ここではこれらの純粋悟性概念以外に伝統的に伝えられてきた<一><真><善>という項目のもつ性格が規定されている。 これらのカテゴリーは、一方で「諸物一般のすべての認識の論理的要求と標識」とされ、他方で「諸物自身の可能性に属する」となっているが、カントによれば、否定的には「これらは超越論的述語でもないし、諸物自体そのものの固有性でもない」ということである。ということはカテゴリー的なものではない、ということである。 しかし、今その説明を見ると、一例としてあげられる<概念の単一性>なるものでもって、「たとえば演劇、演説、寓話における主題の単一性と同様のものである」と言われている。そしてこれは<質的単一性>と名づけられている。これに対するに、真なる帰結が多ければ多いほどその概念の客観的実在性もまた多くなるということから、<真>というカテゴリーは概念の<質的数多性>をあらわし、この質的数多性が一へと帰り、他の概念ではなく、まさにこの概念に完全に一致するということをもって<質的完璧性(総体性)>とされている。完全性が善である、ということが言われているのかも知れないが、だからといって、この概念は原型であるカテゴリーを補足するものではなく、たんに、認識のそれ自身との合致という主観的な面が強調されているのである。この「それ自身との合致」は数多性へと拡散したものが一へ帰っていく、そのイメージにふさわしい。 しかしこの話はこれで終わらない。というのは、おなじく第二版において書き改められた純粋悟性概念の演繹−第15節においては、<結合>の説明に再び登場するからである。 「結合は主観の自己活動の作用である...結合という概念は、多様なものおよびこの多様なものの総合という概念のほか、さらにこの多様なものの統一という概念をもおびている。...結合のすべての概念にアプリオリに先行するこうした統一は、まさか単一性というあのカテゴリーではあるまい。...なぜならすべてのカテゴリーは判断における論理的な機能に根拠づけられているが、しかし判断においてはすでに結合が、したがって与えられた諸概念の統一が思考されているからである。...それゆえ私たちは、この統一(質的統一としての、第12項)をもっと高次のものにおいて求めなければならない。」(B130) そういうわけで、統覚意識のはじまりは、判断以上のもの、である。ここで驚かなくてはならない。それは統一なのだが、判断における統一ではなくて、<筋における統一>と同様のものである。 筋における統一というのは、質的単一性と呼ばれたのであるから、これは質の多様性「にも拘わらず」統一するようなものである。 もしこの力が第16節でそれこそ悟性自身である、と言われたものと同じであるならば、それは意識の最高の力であるということになる。 第16節のまたしても注のなかで、カントは分析的統一と総合的統一についてつぎのようなことを言っている。赤一般を思考するときに、赤はなんらかのものの間で見られる共通概念と扱われるが、このものが赤であったり、大きいであったりその他であるという、赤とはなにか違ったものをおびているような諸表象と総合的に統一されている必要がある、つまり総合的統一はいつでも前提されているのであると。 このことはつまり質を統一するものはある存在者であるということを意味する。しごく当たり前のことに思えるのだが、これがカテゴリー的統一の前に想定されるものだということをまともに受け取るならば、統覚意識の統一の真の相関者はカテゴリーではなくて、<筋>だということになるのである。 以上見てきたように、カテゴーリッシュな判断、確定的な判断をもって客観性の定立というのはある程度は理解できるが、しかし意識と対象というもっとアモルフな場面においてなんらかの統一項目が、演劇や寓話における筋の統一として登場している。 演劇や寓話ということに話を限ることもない。小説であろうと詩であろうと、あるいは科学的言説であろうと、ひとつひとつの判断的なものは、言説の流れによって再意味化され、筋の統一というものをもって現実に対峙する。私はカテゴリーという判断の向こうにそうしたものをもってきたカントをいたく信頼せざるをえない。それこそまさに現実的対象性ではないかと思われるのである。
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