『道徳形而上学原論』の受動能動性





【第一章】

 カントは道徳的行為の場から<意志の対象>および<傾向性>の影響を取り去ってしまった(400)。 彼は<行為>の概念も<意志>の概念もそれとして厳密に追求してはいないが、善意志ならびに義務にもとづく(aus Pflicht)行為の説明は、意志と行為の各々を中間存在と見立てているようである。 というのも、行為には結果が<あとに>伴うであろうし、これはまた意志にとっては<目的>として現れるものであって、両者(結果と目的)に対して、<意志>と<行為>は<先に>あるものである。

 ところで「自然を通して触発される限り」(387)<意志>は先だたれたものでもあって、この受動性の場は恐らく<衝動>であろう。(Da ich den Willen aller Antriebe beraubt habe...402)

 一方行為の方もきわめて一般的な先入観によれば、<意志>に先立たれている。カントもこの先入観から免れてはいない。なぜなら、行為を規定するものとしての<義務><利己心>など、何か<認識的>なものが前提されているからであり、この領野において、アプリオリな意志の原理とアポステリオリな意志の動機とが対立しているからである。

 従って、衝動と結果を両端にして、意志と行為の位置を次のように図式化できると考える。

  ・・・・ 衝動 ・・・ 意志 ・・・ 行為 ・・・ 結果 ・・・

 道徳性の究明に際して、カントは意志−行為の連関を時間秩序から切り離す。時間的に私の意志に能動する事態(衝動)も、私の意志に受動する事態(結果)も拒否される。しかし意志は<法則の表象それ自体>によって規定されるのであって、格率(個人的な、「するべき」ことの定立)と、法則(普遍的に要求しうる「するべき」ことの定立)との相互浸透において、意志は法則の表象を客観的に認めるのである。

 つまり<私>にとっての「するべき」が、万人にとっての「するべき」になるように意志せよ、という定言命法への運動である。カントにとっては、道徳の内容は、自然法則の力からその力を模して来なくてはならないような、「法則」(Gesetz)なのであった。



【第二章】

 道徳性の命法にあって、意志と行為とは、通常の図式である<決定>と<遂行>という時間的順序関係から離れる。仮に、意欲の過程を主観と客観とに区別してみると、まず意志は意志として、法則をめぐって受動であり、かつ能動である。というのも、私は法則から命ぜられ、かつ法則を命ずるのであるから。

 また客観たる<目的>も私の意志をめぐって受動であり、かつ能動である。理性的存在者は「己れ自身にひとつの目的を定立する」(437)。しかしまた、理性的存在者は「己れの現存在において目的自体である」(428)。これは微妙な仕方で、意志対象自体が意志しているというイメージを創り出す。私の意志が向かってゆく先は私の意志が発するところである。

 道徳性の領域は、かくして意志が能動しているのか受動しているのか容易に決めがたい領域となる。他律(Heteronomie)であれば、能動線の出所は<そこ>と定めることができる。この他律の受動−能動性は、「他なるものが能動するとき私が受動する」という形式を取るが、自律(Autonomie)は、能動体と受動体がともに私である、というふうになっている。言はば命令するようにして命令され、命令されるようにして命令する、そういう事態が道徳的意志に生ずる。

 この事態に類比的なのは<尊敬>という感情であろう。尊敬は<傾向性>(能動)と<恐怖>(受動)との中間にある。尊敬は受動=能動的感情なのである。

 しかし、一なるものの受動=能動性をもってして、道徳の固有性を考えることができるだろうか。たとえ私が私以上の超越者と関わっていたとしても。

 というのは、悪への傾向性または<隷属意志>も何らかの意味で受動=能動であり、<誘惑>も尊敬と同じく受動=能動的であるから。

 従って、道徳性に反するものは自律に対する他律ではなくて、もうひとつの自律とも言うべきものではないだろうかという設問を立てることも可能と考える。仮に自律が<自動−規則>という形式だけを表示するとすれば、悪もまた自律的と言ってはいけないのだろうか。



【第三章】

 カントにとっては<自由>が道徳の根拠だということになるが、たとえ<自由>が<indifferens>の自由、無差別の自由ではないからといって、それが道徳的であることと、いかにして必然的な連関を持ち得ようか。

 それがそうであるなら、自由の法則性、法則的自由、自律といったものは、そもそもの最初から無謬であるということになるが、これはエデンの園の状況ではないだろうか。

 この意味での<自由>と、人間存在を受動体(感性)、能動体(理性)とに分断したときの、一方の能動性=自由とは同一のものと見なすことはできない。

 <べし>を説明するのは、第2章までは<自律=法則的自由>であったが、第3章の<定言命法の根拠>に関する説明では<感性>である(455)。ここでは、<べし>が、感性を持ち、それゆえ受動的に振る舞わざるをえない存在者=人間にだけ意味があるとなっているのである。つまり、<べし>というのは、人間を越えた根源的存在者には無意味な意味である。

 しかしこのことをまともに受け入れると、もともとは受動=能動であった自律の体験を、単なる能動に転換してしまうであろう。こうなると、「意志の自律に適合すべき・・」(454)などと表現されてしまう。

 第2章では、自律自体が<べき>であったのにそうなるのだ。

 またそうなると、道徳性の定在は能動界に位置するように現れる。さらに「自由による原因性」という考え方がこの能動性の印象をいやが上にも強めてしまうであろう。

 ところが、それこそ<意志>であり、理性の原因性であると見なされ、人間の能動性と考えられた<自由>は、あの道徳的洞察を含んだ<自律=自由>とは微妙な点で異なるのではなかろうか。

 というのは、責任性の概念の多義性から推論するのであるが、出来事を創始するという意味での<自由>に対応するのは、「誰の行為か」という問いに「答えうる」能力である<責任/Verantwortlichkeit>であろうし、これに対して、あの自然法的<自律の自由>に対応するのは、<目的の国>に存在する<掟>への<責任/Verbindlichkeit>であろうから。

 前者の自由は、道徳性に固有のものと考えるわけにはいかない。なぜなら、この意味での<自由>がなければ、悪もまた現実的な在り方を失うからである。換言すれば、善・悪いずれにも述語可能なのである。

 にも拘わらず、カントにおいては善意志がつなぎとめられている<自律=自由>と<理性の実践性としての自由>が連続しているのである。それが何故であるかは一個の謎として留まる。

 これ以上の追求は「応答する責任性=Verantwortlichkeit」と「自己をつなぎ止める責任性=Verbindlichkeit」と「罪責性=Schuldigkeit」の連関をさぐる道になるであろう。この道は人間にとって共同体とその規範が抽象的観念を形づくるのにいかに作用するのかという問いを提起するであろう。

 しかしこれは『道徳形而上学原論』の範囲を越えている問いであろう。



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