『自我の超越』




T カントからサルトルへ

 ここで追いかけているのは、自己触発の形象なのであるが、それはまた受動性能動性の脱臼というものにも関係している。このことが最も明瞭に見て取れるのは一見してキルケゴールに従うハイデッガーではなく、サルトルである。(その『自我の超越』に注目するドゥルーズが同じく受動能動の脱臼状態(『差異と反復』)、あるいは受動能動の彼方にある意味(『意味の論理学』)に拘るということは、意義深く見える。)

 『自我の超越』はカントの自我論、つまり実体としての自我の拒否論から始まる。そしてカントが人間精神の英知体に唯一認める<自発性>の領域をフッサールの超越論的意識に求める。

 「この地平では、現われが絶対なのだから、可能的なものと現実的なものとのあいだに、もはや区別はない。また障碍もなければ限界もなく、意識を意識自身からかくすいかなるものももはやない。そのとき意識は、意識の自発性の宿命とでも呼び得るものに気づいて、とつぜん不安になる。この絶対的な、癒し難い不安、この自己恐怖こそ、わたくしたちには純粋意識を構成しているもののようにおもわれるし、これこそ、さっきかたった神経衰弱的な混乱の鍵をあたえるものなのである。」(『自我の超越』、人文書院『哲学論文集』所収、239)

 もはや何ものにもつなぎとめられない自発性、能動性は精神の病の構成契機なのだが、同時に<純粋意識>をも構成する。とはいえ、この部分は叙述があらかた済んでからのもので、当初はこうではなかった。



 サルトルがフッサールの超越論的意識に見ていたものは、<我>の人称性も<自我>の実体性もない、まさに純粋能動意識であるが、それがそうであるのはしかし、<対象>への志向性というおきまりの格言が持つ受動能動体が保証する平安な領野においてのことである。

 確かに自己触発という表現は出てこないにせよ、次のような表現は他の哲学者なら自己触発と呼ぶかもしれない事態を示していよう。

 「意識自身が自分で自分を統一づけるのであり、しかも具体的に、過去の意識の具体的現実的な把持(retentions)である<横>の指向性の作用によって統一づけるのだ。したがって、意識は絶えず自分自身へと投げ返すものであって、<一つの意識>について語ることはとりもなおさず一切の意識についてかたることになるのだし、この特異な特性は、他の点で意識が<我>とどんな関係を持つにしても、もともと意識それ自身に帰属するものなのである。フッサールは『デカルト的省察』において、時間のなかで自分を統一づける意識というこうした概念を、完全に保有していたようにおもわれる。一方、意識の個性も、あきらかに意識の性質から生まれるものだ。意識は、ただ自分自身によってしか限界づけられない―――スピノザの実体のように。」(184)

 こうした意識が<非反省的意識>とされ、それに対する<反省意識>が、いわばこの根源的受動能動たる自己触発性から、ハイデッガー的に言えば<頽落>する。

 ハイデッガーにおいては、実存と非実存の共通項が時間における受動(事実性)能動(超越)体として記述され、実存は「将来的既在的瞬間」として、非実存は「予期的忘却的没頭」とされ、かくて同じ受動能動性が、未来の先取りとしての予期や、過去の事実性が誘う忘却や、現在の世界内部性への没頭によって<頽落>する。

 サルトルにあっては、超越論的意識の自己触発的運動が、我やエゴの構成によって「退化する」。したがってここには「退化した受動能動についての論」があることになる。

 もっともサルトルは自発性の退化というだろう。ただここではその前場面として、超越論的意識があり、その意識は「自己についての意識」であり、「己自身によって限界づけられる」というその限界づけ「られる」相を、私はサルトルがそれ以上言及しない<受動性>とみなしているのである。




U 反省的自己意識の二重性の拒否

   サルトルの記述では、大雑把に言うと根源的なものとしての<意識=非反省的意識>があり、つぎにこの意識に反省作用が付け加わって、対象としての意識が<我><自我><エゴ>として構成される。ところが、この構成されたものが逆に意識の方を構成するという仮象が現われ、これが<偽自発性>だとか<退化した自発性>だとか、<受動と能動の不合理な総合>と呼ばれることになる(第二章)。

   はじめに登場する根源的意識には存在性がない。それはこう言ってよければ存在を逃れる(逃れようとする)意識であり、浮遊しており、軽い。ただ対象がないわけでも、自己に関する意識がないわけでもない。ここでは「私がこの椅子についての意識を持っている」と表現される(196)。存在が登場するときには、<措定的>とか<超越的>とか形容される。

 「私が読書していたあいだは、書物についての、小説の主人公についての意識しかなく、この意識には<我れ>など住まわず、この意識はただ、対象についての意識でしかなく、また自分自身については非措定的な意識でしかなかったのだ。」(190)

 この場面では対象への没頭によって、「私のための場所はなく」「私は消えうせ」るが、それは「意識の構造そのものからおこること」である。

 これに対して、デカルトや『デカルト的省察』のフッサールは、ある意味でモノとなった意識を、不透明な厚みをそなえた現実の対象と同じような意識を、つまりは自我を仮想した、とサルトルは言う(193)。超越論的意識がいつのまにか、自我とおなじ性質を持つようになってしまった。サルトルの設定では、自我とはまさに世界の中にある存在者であり、それは意識の存在様態を持っていずに、むしろ真理の存在様態を持つ。無限の理念的な統一体としての自我、不透明な、重い実在なのである。

 サルトルは反省における<反省する我>と<反省される我>の受動能動的統一体のようなものは認めない。  どうしてそうなるのかというと、反省という形での回顧ではない回顧が事実<非反省的回想>として存在していると考えるからであろう。

 「非反省的意識の非反省的回想がすべて私に<自我>のない意識を示しており」(191)

 「非反省的地平には<我れ>は存在しない」(192)

 「<我れ>は反省に対して、反省された意識としてはあらわれず、反省された意識をつうじてあたえられる」(194)

 このようなサルトルの見方は、観照や行動のさなかにある意識と、あとからそれを振り返る意識との相同性という仮定にもとづいている。意識は現場面で捉えることがサルトルには可能なのである。

 「反省する意識」という能動性にひっぱられた「反省される意識」という受動性が登場し、さらにはフィンクのようにエポケーによってあたえられる第三の我れが登場する言説もあるが、サルトルはそうした設定を「ただ端的に解決不能な問題」と言う。

 「反省する<我れ>と反省される<我れ>とのあいだには、それら二つとも意識の現実的要素であってみれば、交流ができるなどとはみとめられないし、ましてやそれらが、ついにはただ一つの<我れ>にまで合一するなどとは、なおさらみとめられもしない」(195)

 意識というのは非反省的地平では反省される対象ではない。それが反省されるときには、別の対象が、<我れ>として現われる。サルトルが自我に与えた規定は、意識の自己対象化場面=反省において登場する第二の対象ということである。ということは、かの退化という形容が意味するものは、その根底では対象化という事柄を示している。

 それは非反省的意識という根源的な場面での非反省的意識の地平にも、またその意識が関与する対象という地平にもない新しい対象である。この新しい対象は反省的意識のノエマ的相関者であり、<エゴ>と言われる。その<エゴ>が行動の統一として現われるとき、<我れ>と呼ばれ、状態や性質の統一として現われるとき、<自我>と呼ばれる。ここまでが第一章の話であった。

 さて非反省的意識という場面では、他の人であったら<自己触発>とでも言うべきような事態が書かれていることは先に見た。ここで私は幸福な受動能動と表現したいのであるが、それは意識が対象に素朴に向かっていると見られるからである。ここにおける能動性は、「私が意識している、机を対象として、私を反省せずに」という形での、ほとんどあるかなきかの能動性であり、またその能動性は自然に対象と合体し、「救われるべきピエール」という形で、対象は自然に自己の能動性と合体し、私は「救われるべきピエール」という形象に自然に受動している。もっともサルトルがこういう風に受動性能動性を語っているわけではないのであるが、私にはそう見えるということである。意識とは何かについての意識である、というこの「について」が意味するものは、意識が自然に対象に向かうその自然な能動性、対象によって自然に受動する能動性の表現ではないだろうか。

 このような自然な「対象関与における自己の自己による限定」から一種の地獄下りのようにして<エゴ>が、受動性と能動性との、サルトルによれば「不合理な総合」が登場する。だが、最初に非反省的意識の軽やかな受動能動が設定されている(ように見える)おかげで、その地獄下りから這い上がる道があらかじめ照らされていたという風に考える。




V 自発性を隠蔽するエゴ

 あたかも、意識の自発性、能動性が、徐々に受動性に巻き込まれていくように、『自我の超越』の記述は進む。
 我れも、自我も、エゴも、サルトルの非反省的意識の透明さに対しては、不透明なものとなり、それはちょうど<もの>の持つ不透明さとか、<もの>の持つ射影的な特性を持つ。
 ここで能動性が受動性と合体する様をサルトルは<魔術的>と形容する。たとえば憎しみという感情は受動体として記述される。そして、その受動体はいつしか能動体として仮構される。

 「実際、どんな場合でも反省は、反省された意識の自発性については謬ることはあり得ず、それは反省的確実性の領域をなしている。それゆえ、憎しみと、嫌悪という瞬間的意識とのあいだの関係は、憎しみの持つ諸要求(原初のものであること、根元であること)と反省の持つ確実な所与(自発性)とを同時にうまく配合するような具合に構成されており、したがって、嫌悪の意識は、反省に対しては、憎しみからの自然発生的な流出のようにあらわれる。」(『自我の超越』、 208)

 ここでは「嫌悪の意識」とよばれ、それまで「反発の意識」と呼ばれているのが、かの非反省的意識の側に配されている。その領域では現われることと在ることが合体している薄明の自発性の領域である。これが反省意識を通じて、<憎しみ>へと<対象化>されるとき、今度は、その対象の方が自発的であり、能動的であるということになって、たとえば、「憎しみによって私は嫌悪する」ということになる。だがこれは、憎しみ(対象)を機会に、憎しみを「犠牲にして」、嫌悪(自発性)が自分自身を生み出す、ということなのだ。それゆえサルトルはこの反転を「魔術的」と称する。

 「自我と意識の関係も、もっぱら魔術的な言葉でこそ語られねばならぬ」(208)

 憎しみという心の<状態>つまり感情を、サルトルは意識からの<流出>と捉え、この状態を<自発性のノエマ的統一>とし、それが<意識の流れのノエマ的統一>たる<行動>と関係するときに、<対象的な受動態の統一>という<性質>を媒介にする。

 こうした言い方は受動能動性に関してすっきりしない。なるほどサルトルは「わたくしたちの状態および行動の自発的な超越的統一化」としての<エゴ>の構成を「その資格においては、仮説ではない」と言ってはいる(216)。

 しかし、話の流れは、<状態>の自発性の統一であれ、<エゴ>の自発的な統一化であれ、このような<自発性>ないし能動性が、何かしら第二次的なものである、ということに貫かれている。究極のところでは、<エゴ>というのは受動的なものである。

 「しかしながら、この自発性は、意識そのものの自発性とは、混同されてはならない。実際、<エゴ>は、対象であるからには受動的なものである。」(219)

 このように、対象であることと、受動的なものであることを、サルトルは同じ事態として捉える。その裏には意識こそが能動性のありかであり、ほかの心的な実体はそれから比べれば真の能動性をもっていず、それが及ぼす他の現象への関係は、「不可知的な自発性」と呼ばれることになる(219)。



 少し長いが、サルトルの受動能動性というのを考えるとき、次の一文は欠くことのできないものであると思われるゆえに、引用しよう。

 「<エゴ>とは、反省意識によって把握された、しかし同時にそれによって構成された一つの対象なのだ。それは統一の実質上の中心点で、意識はそれを構成するのに、現実の製作がとるのとは逆の方向をとる。つまり現実に第一のものであるのは意識であって、その意識をつうじて状態が構成され、そのあとで、その状態をつうじて<エゴ>が構成されるのであるにもかかわらず、自分をのがれるために<世界>のなかに埋没した意識によって順序が逆にされたため、意識の方が状態から流出したものとしてあたえられ、状態の方が<エゴ>によって製作されたものとしてあたえられるのだ。その結果として意識は、自分自身の自発性を対象としての<エゴ>の中に投影し、その<エゴ>に絶対に必要な創造力を、その<エゴ>に賦与するのである。ただ、その自発性は、一つの対象のなかにあらわされ、実体化されたものであるから、合いの子的な、退化した自発性になってしまうが、でもそれは、受動的になりながらもその創造力を、魔術的に保持している。そこから、<エゴ>の概念の深い非合理性がうまれてくるのだ。...
 このようにしてわたくしたちは、世界のなかの対象でありながらも、意識の自発性の記憶のようなものをとどめている魔術的な諸対象によって、まわりをとりかこまれていることになる。それゆえ、人間は人間にたいして、いつでも一個の魔法使いなのだ。実際、一方が他方を自発的に創造するような二つの受動体のあいだのこうした詩的創造関係こそは、魔法の基礎そのものであり、<分有>の深い意味である。それゆえ、わたくしたちはまた、自分の<自我>をかんがえているときはいつでも、自分自分自身に対して魔法使いなのである。
 このような受動性のために、<エゴ>は他から影響をこうむり得るものである。意識の方は、自己原因であるから、何ものによってもはたらきかけられることはあり得ないが、これに反して、<エゴ>の方は、ものを作り出しつつ、自分の作り出したものから反動を蒙る。それは自分の作り出したものによって、<まきこまれる>のだ。ここで関係の倒錯がおこるわけで、行動とか状態が、<エゴ>の方へともどってきて、それを性質づけるのである。こうして私たちは、またも分有の関係へともどってくる。<エゴ>によって作り出された一切のあたらしい状態が、エゴによって作り出されるその瞬間に、<エゴ>に色をつけ、色合いをつけるわけで、<エゴ>はその作用によって、いわば呪縛され、それを分有するのである。」(220-221)

 サルトルの眼には、意識、超越論的な領野、絶対的な存在領域とは純粋な能動性の領域であった。

 「こうした超越論的領域は、絶対的な存在領域であって、つまり、けっして対象となることなくみずから存在へと自己を決定している純粋自発性の領域である。」(235)

 しかしながら、この純粋自発性はそれ自体として単独に存在しているものとはみなされない。というのは、先の引用にもあるとおり、「自己原因」「みずから自己を決定している」などの表現から伺えることである。また彼が心理学者たちに文句を言う際には、「自分自身を作り出す自発性という観念は受け入れることができなかった」と非難する(236)。

 つまるところ、この「自己原因」性こそ、サルトルに抗してその受動性の影をおびた<純粋受動能動>であると私は呼びたいのであるけれども、サルトルにしてみれば、このレベルでの能動性には一切受動性の影をみたくはないということなのであろう。

 彼は意志すら対象であり、意識の反対局面にあるという。意識の自発性は何ものにも先立たれることはない。たとえ狂気を生ぜしめるレベルであろうとも、である。そして、ついには<エゴ>について、まさにサルトル的としかいいようのない機能が付されることになる。

 「<エゴ>の本質的な役割は、おそらく意識に意識自身の自発性をかくすところにあるのだろう。」(238)

 われわれはこのような議論の、その到達力を知らない。なぜに自発性を隠す必要があるのか、もはや形而上学的心理学とでも呼びたくなるような一つのテーゼである。

ixtlan@eleutheria.com    2001/12/24   



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