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カントにこのイメージを過度に見ることは気がひけるのだが。なんといってもカント自身は自己が自己を触発するということにあまり頓着していなかったように見えるので。 自己触発のイメージは、それが関係していると思われる超人間的直観の規定と分離することができるだろうか。 確かに自己触発は、感性と悟性に分離した人間の心という設定に根を持っているのであるけれども、そもそもはこの人間が人間以外のものとの対比において考えられていたことは否めないだろう。 「しかしこの直観は、私たちに対象が与えられるかぎりにおいてのみ生ずる。だがこのことはこれまた、[少なくとも私たち人間には、]その対象が心をある種の仕方で触発することによってのみ、可能である。」(B33) 感性や直観という形で対象から触発されるのは人間に限られるということであり、もしかしたら人間以外のものは対象と別様の関係を持つかもしれないということがまじめに考えられている。 その人間とは別物の知性的存在者とその認識様式をカントは第二版で加えられた部分に書いている。 「おのれの直観がたんなる自己活動である場合に、言い換えれば知性的である場合に」(B68) このようにして、まずは、人間以外の知性的な直観が「端的に」能動的であるということが示される。つまり知性的直観とは受動的能動そのものであり、光あれといいながら万物を創成する神の直観であろう。 カントにあって、主観とは能動者であるが、それは感性という受動性と対になった有限者であった。対は対であって、あくまでも合一はしないのである。神的な部分、カントが<英知体>と呼ぶ部分(B158)はあくまで能動性であって、それが受動性と直接に合体してしまったら正真正銘の神的存在になってしまう。 つぎにこの人間的主観の内部で多が一と分離する。 「おのれ自身の意識(統覚)は自我の単純な表象であり、だから、この表象によってのみ主観におけるすべての多様なものが自己活動的に与えられるとすれば、内的直観は知性的となるにちがいない。」(B68) この仕組みは、自我のうちに、死んでいる多なるもの(諸表象)があること、そして生きているのは唯一の自我意識であるということを含意している。 「人間においてはこの意識は、主観の内にあらかじめ与えられる多様なものについての内的知覚を必要とし、だから、この多様なものが自発性なしで心の内に与えられる様式は、知性的直観とのこのような相違のために、感性と呼ばれる。」(B68) 「自己意識によって同時にそこではすべての多様なものが与えられるような或る悟性は、直観するにちがいない。私たちの悟性は思考することができるだけであって、感官において直観を求めなければならない。」(B135) 能動しているのは一者だけであり、この一者が死んだ多なる表象に向き合い、なんとかしなくてはならない、これがカントが与える人間的な心の風景であった。 ところで、一方物自体は、「その場所のうちに現在しているもの、あるいは場所の変化とは無関係に諸物自身のうちで作用しているもの」(B67)のことでもあるのだから、内的になっていて見えない能動性ということが物自体にふさわしい形容である。 片方に外的対象としての物自体が、他方に内的対象としての物自体があって、この内的対象に向き合っている内的感官にとっては、対象とは自己のようなものであるから、この対象が自己を触発するのは、自己が能動でありかつ受動であるということにほとんど等しい。(ほとんどというのは、先にも述べたように、もしも能動性(悟性)がそのまま受動性(直観)であるならば、それは人間以上のものになってしまうということである。) ここから、この自己の内なる対象としての自己にとって、それが関わっている項目が二つ出てくる。一つは、<内的感官>の形式が時間と解されるゆえに、時間自体である。 「この直観の形式は、或るものが心のうちに措定されないかぎりでは、何ものをも表示することはないのであるから、心がおのれ自身の活動によって、つまりこの活動の表象をこのように措定することによって、したがっておのれ自身によって触発される様式以外の、言い換えれば、その形式からみた内的感官以外の何ものでもありえない。」(B67) そしてその内的感官=時間を規定する活動性が主題になるときには、後になって構想力の超越論的総合と呼ばれる。 「それゆえ悟性が、構想力の超越論的総合という名称のもとで、悟性がその能力に他ならない受動的な主観へとおよぼす働きは、私たちが正当にも、内的感官がそれによって触発されると言いうるような、そのような働きである。」(B153) 受動能動とは受動的感性と能動的悟性に分断されていると自己を認識するカント的認識者が見る認識の理想像である。働くことがそのまま見ることにつながるような世界、実践することがそのまま知であるような世界。プラティコ-グノーシスの世界。 人間はそのような世界から追放されている。カントはおそらくそうした有限性を、人は神ではないという有限性を淡々と認め、それがために、淡々と自己触発について語る。そこにはなんの熱狂も、神秘もない。「このさいすべての困難がもとづくところは、いかにして主観はおのれ自身を内的に直観しうるかということだけである」と彼は言うが(B68)、実のところこの事態が困難であるのだろうか。 純粋直観に有限性の証である空間と時間を指定し、さらに空間を外指示的直観、時間を内指示的直観に分類したがために、自己触発などというようなことが言われることになる。なぜなら外がわから自己を触発するものが空間によって保証されるなら、内側から自己が触発されることを時間が示すだけのことであり、この内側(内的感官の対象)なるものは、定義からして「自己の内」にあり、自己の内には自己以外に何が住んでいるというのか。だから当然、自己は自己によって触発されるのである。それから後は、触発する者を物自体としての能動性と見なそうが、触発する仕方を構想力と呼ぼうが、触発される仕方を時間性と呼ぼうが、事態はたいして紛糾しなかった。 |
| ixtlan@eleutheria.com 2001/11/30 |
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