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ハイデガーのカント解釈では、純粋直観は構想力「である」ということになり、かつ構想力は時間「である」ということになり、かつ時間は自己「である」ということになり、そのような混濁の中から自己触発が解される。自己触発概念は拡大し、人間存在の根源的規定にまでなってしまうだろう。 『存在と時間』で現存在(人間)の構造を示す極性的概念であったところの<事実性>と<超越>は、『カントと形而上学の問題』(これは『存在と時間』第二部とみなされる)でもその意義を受け継ぎ、背景的信念として機能し続ける。 個々の議論を上空飛翔しておおざっぱに見るならば、ハイデガーにとって、受動性が仮託された<事実性=有限性>と能動性が仮託された<超越>は同じ地平にあるものであり、これらは<等根源的>とされる。 この信念に沿って、純粋直観の<受容性>が<有限性>や<抵抗性>と解され、一方の統覚意識の<自発性>との間に設定された超越論的構想力が、事実性や超越という極性の媒介となっている。つまり事実性(受動性)と超越(能動性)の間の媒介(受動能動性)となっている。 「純粋直観は自らその本質上、それ自身から形象を形成的に与える純粋構想力であるが故にのみ「根源的」でありうる。」(『カントと形而上学の問題』、理想社、P.156。以下の引用はすべてこの訳から) 「悟性および理性は、自発性という性格をもつが故に自由であるのではなく、むしろこの自発性が受容的自発性、換言すれば、超越論的構想力であるが故に自由なのである。」(P.170) カントにおいては<再生産的構想力>と<生産的構想力>という風に、それ自体がさらに受動能動性を使って分けようと思えば分けられた構想力が、つまりどちらかといえば、能動性に超越論性を見ることもできる議論の中にあった構想力が、ハイデガーでは、<受容的自発性>という根源的なる<受動能動性>としての構想力という風になっているのである。 そして触発概念はそれが当然であるかのように、自己触発性として予め素描され、受動能動性という文脈の中に置かれている。 「自らを服従させつつ直接に...に帰服することは純粋受容性である。しかるに法則を自由に自己に予め与えることは純粋触発性である。両者はそれ自身において根源的に一つである。そして更に実践理性の根源が超越論的構想力にあるというこのことのみが、何故に尊敬において法則や行為的自己が対象的には捉えられず、当為や行為としてまさに一層根源的な、非対象的かつ非主題的な仕方で顕になり、また非反省的、行為的な自己の存在を形成するか、というその理由を理解させるのである。」(P.175) かくて、ハイデガーはカントの道徳性に唯一残された感情的要素である<尊敬>についてもまたその前提を超越論的構想力に見て、これが受動能動的感情であることを指摘する。 構想力は感性と悟性を結ぶ媒介者である。しかしカント的認知では、構想力とは「多様なるものの総合の統一」という三段階の二段目であった。したがって統覚意識がカテゴリーを使って現象の多様なるものを統一する過程での最終項目ではない。ところが、ハイデガーではこの総合というものが、統一よりももっと中心的な位置を占め、それは感性側での直観にまで拡大され、また時間性そのものと関係させられる。 カントにとって一方、時間は現象の総体的形式であり、それが結びつくのはカテゴリーであり、現象の形式たる時間と悟性論理の形式たるカテゴリーをなんらか接合する道がつけば、いかにして経験が認識されるかということの最終的な、たとえ形式的ではあっても究極の認識論が完成する。 ところがハイデガーは時間の三次元である、将来と過去と現在を、カント的構想力がその中に位置する三つの認識作用(直観における把捉の総合、構想における再生産の総合、概念における再確認の総合)につなげる。それに先だっては構想力が実はそれら三つ「である」というような状況におかれて、いわば時間の三次元はすべて超越論的構想力の仮名であるということになる。 「総合の様態が三つであるのは、それらの様態において時間が現れ、そしてそれらの様態が現在性、既在性、将来性としての時間の三様態の統一を表すからであろうか。」(P.192) まず直観における把捉の総合については次のように言われる。 「経験的直観は今において現前する存在者に直接に関係するが、しかし純粋把捉的総合は今、すなわち現在性そのものに関係し、しかもこの...への直観的関係はそれ自身においてこの関係が向かうところのものを形成する。」(P.194) つぎに構想における再生産の総合については次のように言われる。 「再生の様態における純粋総合は既在性そのものを形成する」(P.197) この二つの時間形成的な相は、第三の再確認の総合に比べれば見やすい。一体この概念が、あるいは純粋統覚ないし純粋思惟がいかにして時間性を持ちえるのだろか。 ハイデガーの解釈によれば、先に言われた把捉の総合や再生産の総合の基礎には、「その自同性に関して存在者を合一する作用(総合)が指導的なものとして」存在しているということである。そしてこの指導性が予め存在者を自同性として保持するが、それが同じように自同性を保持しているはずの<再生産の総合>と区別されるのは、「予め保持しうること一般の地平を探索する」という点においてである。自同性の単なる可能性ではなく可能性一般を保証するのが、この概念における再確認の総合であるというのである。 「この総合の探索は純粋なものとしてこの予めのもの、すなわち将来性の根源的な形成である。かようにして総合の第三の様態もまた本質的に時間形成的なものであることが明らかになる。」(P.202) しかもそれだけではない。『存在と時間』は現前存在に<頽落した>現存在の時間性から、実存の時間、つまり将来性の優位をもぎとろうという試みであったが、この『カントと形而上学の問題』でも、やはり将来(未来)は優位を占めている。その優位は今度はカントが三段の総合の最後にあたえている概念の再確認の、その最後という位置に重ねられている。 「いまや純粋総合の第三の様態の時間性格が明らかになったのみでなく、純粋予像というこの様態は他の二つの様態と本質的に共属していながらも、これらの様態に対してその内的構造の上から見て優位をさえ示すのである。この一見してまったく時間に背を向けたカントの概念における純粋総合の分析において、時間は第一次的には将来から時熟するという時間のまさしく最も根源的な本質が現れて来るとしたらどうだろうか。」(P.202) このようにして、純粋直観が構想力であり、構想力は時間であるというテーゼが示され、問題の第三十四節「純粋自己触発としての時間と自己の時間性格」が登場することになる。 第三十四節では、ほとんど唯一の(といえる)カントの言を手がかりに<時間と自己の自己触発>という事態が言及される。 「空間と時間は、アプリオリな純粋直観の多様なものを含むが、それにもかかわらず、私たちの心がそのもとでのみ諸対象についての表象を受け取り得るところの、私たちの心の受容性の諸条件に属しているのであって、したがってそれらの諸条件はそれらの諸対象の概念をいつでも触発しなければならない。」(『純粋理性批判』B102) これをハイデガーは次のように言い換える。 「空間および時間は常に対象についての表象の概念を触発しなければならない」(P.204) そして、この時間の触発がまずは「自己告知としての触発」という文脈あるいは語脈から解される。「すべての触発はすでに眼前にある存在者の自己告知である」 ところで、「時間が触発するというとき、時間は一体どこから来るのであろうか」に続く文章は、われわれが通常なら意味するだろう自己というものではなくて、この触発概念に仮託された<自己告知>という意味をあてにしながら展開している。 「時間はそれ自身から継起の景観を予め形成し、かつ形成的受容としてこの形観そのものを自己を目指して保持するという仕方でのみ純粋直観である。この純粋直観は、この直観において形成される直観されたものをもって自己自らに関わり、しかもその際に経験の助けを必要としない。時間はその本質上、自己自身の純粋触発である。」(P.204) 上の文章に登場した<自己>を一体だれが常識的に謂われる自己だと見なすだろうか。これは明らかに時間自体が時間を触発している、その時間の自己である。しかし、またそれはわれわれの自己でもあるとハイデガーは言うのである。 「時間は純粋自己触発として眼前にある自己に対する能動的触発ではない。むしろ時間は純粋なものとして自己自身に関わるということの本質を形成する。しかるに自己として関わられうることが有限な主観の本質に属する限りにおいて、純粋自己触発としての時間は主観性の本質構造を形成する。この自己性に基づいてのみ有限存在者はそれがあらねばならないもの、すなわち受容に依存するものであることができる。」(P.205) この文章は、時間の自己触発性が受動能動性として自己の本質を「自己自身に関わること」であるとするというふうに理解している。その意味では決定的な箇所である。「能動的触発ではない」と言いつつ「受容に依存する」と言われているが、もともとこの能動性がなければ触発概念にこだわる必要などないのであって、つまりは、能動であり、かつ受動である自己というのがあいもかわらずハイデガーの注意が向かっていることなのである。 ただ、先には超越論的構想力の受動能動性が時間性の「あった」(既在)と「あらん」(将来)の受動性と能動性に接木されていたのに対し、ここでは時間が<自己>性の了解を通して、かえって自己性の方が時間性に従属し、時間の受動能動性が自己の受動能動性の根源にあるというふうになっている。 こうした受動能動性の道行きがひとつの調子を、こう言ってよければひとつの宗教的情熱をキルケゴールの影響下で形成するところまで行かなくては『存在と時間』は生成されなかったであろうと思う。しかしそういう宗教的な側面についてはまた別の機会に追求するとして、カントとの関連で見た場合、ハイデガーがこれはカントの言いたかったことだ、というふうに言ってはいるものの、それはカント的受動能動に対して何らか部分的な感じを受けるということは指摘しなければならない。 純粋直観が構想力に還元され、構想力が時間に還元され、時間が自己を還元する、といういくつかの強引な解釈が狙っているのは総じて受動性と能動性の融合と見なしうる。ハイデガーのように受動能動性をある一つの形象にまとめあげるという作為がカントには存在しない。受動性と能動性は統一されることもあるが強いて統一されず、統一もあるが分割もあり、統一や分割の統一はもちろんない。そうした「どうでもよさ」においてカント的受動能動は「拡散」していると言える。ハイデガーはカントの拡散した受動能動性を、構想力の受動能動性、尊敬の受動能動性、時間と自己の受動能動性というふうに、構想力から自己までの凝縮した語りの中心的においた。そうした傾向性はすでに『存在と時間』が示していた受動能動性の延長にある。 |