『差異と反復』第二章について






T カントからドゥルーズへ

 一方でハイデッガーのような自己触発性の示す<自同性>や、ミシェル アンリの言うような自己触発性の示す<内在性>という解釈があるが、他方で自己触発性の持つ<自己の自己との間の乖離>という解釈もある。

 ドゥルーズの『差異と反復』の中には自己触発などという表現は登場しない。ではあるが、カントのこの場面について語られているところが数箇所あり、それらはいずれも<カントの言う自己の分裂>に関わっている。

 少々長くなるが、最初の文を第一章から全文引用したい。

 「永遠回帰が最高度の思想であるのは、換言すれば、もっとも強度の高い思想であるのは、永遠回帰の極限的な一貫性が、最高度の点において、思考する主体、思考される世界、さらに保証する神のそれぞれの一貫性を排除するからである。カント哲学には、或る明確な契機、人知れず閃光を放った契機があり、それはカントにおいてすら継続せず、カント以後の哲学にはなおのこと引き継がれていない―――ヘルダーリンにおける「定言的転回」という経験と理念にはおそらく引き継がれている―――のだが、わたしたちは、カント以前とカント以後の出来事(結局は同じ自体に帰着する出来事)にというよりも、むしろそうしたカント哲学そのものの契機にこそ関心を寄せなければならないのである。というのも、カントが理性的神学を批判するとき、同時に彼は、一種のアンバランス、裂け目、あるいは亀裂を、つまり権利上克服できない正当な疎外(精神異常)を、<私は考える>の純粋な<自我>のなかに導きいれるからである。すなわち主観は、自分自身の自発性を、もはや或る<他>なるものの自発性としてしか表象することができず、したがって結局のところ、主観自身の一貫性、世界の一貫性、および神の一貫性と相容れることのない神秘的な一貫性を援用するのである。崩潰した自我として、<私は思考する>。換言すれば、「私は考える」の<自我>は、その本質において、或る種の直感的受容性を、すなわち、<私>がそれと比較すればすでにひとつの他なるものであるといった当のそれである受容性を含んでいる。総合的同一性が、さらには実践理性の道徳性が、自我、世界、および神のそれぞれの完全さを回復し、カント以後の哲学の諸総合を準備するなどということは、どうでもよいことだ。以上のように、わたしたちがほんの少し立ち入って考えてみたのは、思考の最高度の力の特徴たる正当な精神分裂病である。これは、概念によるすべての媒介やすべての和解を一顧だにすることなく、<存在>をダイレクトに差異へと開かせるものである。」(『差異と反復』、河出書房新社、P102。以下の引用はすべてこの訳から。)

 「カントが理性的神学を批判するとき」、これが一体どこの個所を指しているのかわからない。が、ここで語られる直観的受容性の話は演繹論における超越論的統覚意識の話として見られることが可能であるといちおう前提しておく。

 能動性が受動性であり、受動性が能動性であるということに説明原理を見るのではなく、自発的自己と受容的自己の間に「裂け目、亀裂」を見るこの見方は、自己触発について突き放したようなカントの記述に対する一つの説得的な表現である。なるほど、「カントにおいてすら継続せず」と言ってもいいだろうと思うのである。

 ところで、この分裂思考は、第三章でカント、ハイデッガー、現象学について言われる抗議と関係のないものではないだろう。カントに対しては「再認」について(P213)、ハイデッガーについては「円環」について(P204)、現象学については「受動的総合としての感性に基づく共通感覚」について(P215)、それぞれ、それらが思考の現実性に忠実ではないと拒否されている。思考の現実性は思考の外部であり、決して内部に回収されない核のようなものをもつ。決してたどり着けないこの核的部分に対して精神は<反復する>のみである。これが反復概念を使うときにドゥルーズが語っている通奏低音ではなかろうか。

 とはいえ、第三章で否定的に言及された現象学に由来する<受動的総合>は、第二章で徹底的に酷使され、それが<能動的総合>と係わり合いになる様が究明されており、この第二章はハイデッガーの『存在と時間』に対するドゥルーズ的応答であると見ることができる。

 というのは、ここでは現在と過去と未来がある種の仕方で価値づけられているのであるが、そうした価値づけというのはフッサール現象学というよりもハイデッガー存在論の方に近いと思うからである。

 目下のところ、自己触発性という謎の概念の使用を問題にしているので、『差異と反復』の詳細かつ具体的な受動能動論には立ち入らず、上のカントの分裂的なコギトがどういう風に規定され、かつどういう位置を占めるのかだけを見ておくことにする。




U 分裂する自己

 ここでの主題である自己触発のカント的形象は、『差異と反復』第二章の議論でその中心的な役割を発揮している。しかしそれが持つ役割というより、どのような規定が与えられているのか、それを予め見ておく。

 まずドゥルーズはカントのエゴをデカルトのエゴに対置させ、デカルトのコギトの<我思う、ゆえに我在り>の前半部を<規定作用=我思う>とし、後半部を<未規定なもの=我在り>としている。そして、カントのエゴは、この二つのものに加えて<規定されうるもの>を持つという。

 われわれはデカルトのコギトが単なる思惟だけではなく、人間活動全般の活動性だと解することができるので、そういう解釈からすれば、デカルトのコギトは能動性一般以外の何ものでもない。であるから、カントが付け加えたとする第三の次元たる時間性を<受容性>とするとき、当然デカルトが見ていなかったものは自己の受容性性格であるとドゥルーズは言っていると結論づけたくなるかも知れない。しかし、<未規定なもの>というのは、<規定されうるもの>でもまたあるから、規定されうるものが加わるというのは、<我考える>の能動性がそのまま<考えられる私の存在>の受動性である、ということではないということ、つまり、考えるという線において、両極にある自己はなんらか違うということを示す、とドゥルーズは考えているようである。

 次の引用でも、「さながら受動的自己が付け加わったという印象が持たれるかも知れないが、むしろ問題なのは、受動性と能動性が分裂してしまっている」ということが示されている。

 「思考の能動性が、受容的な存在者へと、つまり受動的な主観へと振り向けられるので、この受動的な主観は、その能動性を働かせるというよりは、むしろそれをおのれに表象するのであり、その能動性の主導権を手に入れるというよりは、それの効果を感じるのであって、結局、その能動性を、おのれのうちにおいてひとつの<他>なるものとして生きるのである。「私は思考する」と「私は存在する」に、「受動的、受容的な」自我を、すなわち受動的な位置(カントが直観の受容性と呼ぶもの)を付け加えなければならない。言い換えるなら、規定作用と未規定なものに、規定されうるものの形式を、すなわち時間を付け加えなければならない。」

 「とはいえ、「付け加える」というのはまずい言い方である。なぜなら、むしろ差異をつくることが、そして差異を存在と思考のなかに内化することが問題だからである。<私なるもの>には、一方の端から他方の端まで、言わば亀裂が入っている。<私>は、時間の純粋で空虚な形式によってひび割れている。この形式のもとで、<私>は、時間の中で現れる受動的な自我の相関項になっている。<私>の中の或る裂け目、亀裂、そして自我における或る受動性こそ、時間が意味するものなのである。こうして、受動的な自我とひび割れた<私>との相関関係が、先験的なものの発見を、あるいはコペルニクス的転回のエレメントを構成するのである。」(『差異と反復』P142)

 ところで重要なのは、この議論が登場する位置である。まるで時間と自己の話がこの後から始まるような印象であるが、最初の最初から、ドゥルーズは自己の分裂性を時間と自己の中に入れ込んで議論し、その長い議論のある場所に、上のカントの話がさながら<中間休止>のように挿入されている。

 時間の第一の総合と呼ばれる<生ける現在>の議論は、ドゥルーズの時間内部性を表現し、これを端的に時間用語だけで表現するなら、過去から未来へ向かう流れと言える。これは「時間が過ぎ去る」レベル、<土台>とされる。  時間の第二の総合は、時間外部的であり、「時間を過ぎ去らせる」<純粋な過去>とされる。これは土台に対して<根拠>と呼ばれる。  さらに時間の第三の総合は、発狂した時間、蝶番を外れた時間であり、「未来である限りでの未来}とされ、<無底>が暗示される。

 すべての土台である生ける現在から、叙述は徐々に、過去である限りの過去、もはや現在と流れの関係を取り結ばない過去へ、そして現在でも過去でもない、純粋な未来へと向かう。

 この道筋の中でカントの話は、第一の総合たる生ける現在、第二の総合たる純粋過去の説明が済んだ後、まさにドゥルーズの秘教たるニーチェの永遠回帰を糧にした未来性解釈が始まるその手前に挿入されている。

 さて生ける現在、純粋過去には、それぞれ<観照、習慣、要求>、<記憶、想起、忘却、エロス>、というような人間的心性の様態が配分されるわけだが、はじめの二つの時間の話には、それぞれ<受動的総合>と<能動的総合>の絡まりが記述されている。ところが、三番目の純粋未来にはそうした道具立てがない、ということは偶然のことであろうか。




V 受動能動の彼方

   三段の総合と呼ばれるカントの感性、構想力、統覚意識の議論では、総合は能動性の位置にあり、受動性は能動的総合とは対立している。ドゥルーズはそうした自我の構造を拒絶する。総合とは受動性が背景になっている、という現象学と共有する信念がある。

 ドゥルーズがカントに注目するのはただ一点、カントが自我の奥にある他なる自我を受動性として発見するときだけである。しかも受動的総合はこの議論とほとんど関係がないように見えるというところが不可思議なところである。

 受動的総合という概念は、現在の現在性(時間の第一の総合)の議論では想像力=観照=習慣がその活動場となり、これに対する能動的総合は記憶や知性の反省性格となっている(P121)。

 過去の過去性(時間の第二の総合)の議論においては、先に記憶の能動的総合と呼ばれたものの前提にさらに受動的な記憶の、すなわち絶対的な過去の受動的総合があるとされ、ここでは宿命だとか輪廻だとかがそうした受動的総合的純粋過去の諸水準の増大してゆく共存と解される(P138)。

 その次にカントの受動する自我とひび割れた私の議論があって、その後で、三番目の時間の総合たる未来の未来性が登場する。この時間性は<時間の空虚な形式>とされるが、これは「純粋な順序」つまり、<前>と<中間休止>と<後>である。

 この未来性に与えた表現は相当な量を引用しなければ再記述できないが、一言で言ってしまうなら、<循環性の否定>であり、己自身をずらしながら運動してゆく円環とでも言えよう。

 簡単に三つの時間的総合を再記述すると。  生ける現在はそれ自体として流れているが、この現在を流すものがなければならない。それは純粋過去である。しかし、純粋過去は表象の根拠でありつつ、諸現在の表象を循環的にしてしまう。そして第三の次元である純粋未来がこの錯覚を露呈するであろう。

 そこでこの未来性の視点から見られるとき、過去や現在は新たな装い、観点から考えられる。

 「もっとも根本的な変化の形式があるわけだが、この変化の形式は変化しないのである。<私>の亀裂を構成するものは、まさに、中間休止であり、またその中間休止によって、<これを最後に>順序づけられる<前>と<後>である(中間休止は、まさしく亀裂が誕生する点なのである)。」(P146)

 とするなら当然、受動性と能動性に引き裂かれた自己の亀裂を導入するカントの話が、この未来性から解釈された<過去=前>と<未来=後>の間にある<現在=中間休止>であるということになり、受動性と能動性の<間>になる、という風に解することができるのではないか。

  しかしドゥルーズは<間>という概念を使わないし、カントの話が受動性と能動性で記述はされても、それが前の受動的総合論とどのように関係しているのかは不明である。またあとに続く議論に対しては、ただ「自己の分裂=ダブル」と「時間の空虚さ」と「秘密の一貫性」なる語による接続があるのみである。

 すでに第一章でドゥルーズはカントの受動能動分裂議論で何らか残りつづける同一性のようなものを表現していた。それは「神秘的な一貫性」と言われたが、同じようなことを未来性の議論の只中でも言う。

 「彼ら【オイディプスとハムレット】は、行動のイマージュを彼らにとって大きすぎるものとして受け取っているかぎり、彼ら自身、過去の中で生き、過去のなかに投げ返されているのである。第二の時間は、中間休止それ自体を指し示すものであり、したがってその時間は、変身の現在であり、行動に<等しく―なる>ということであり、自我の二分化であり、行動のイマージュへのイデア的な自我の投射である(そのような時間は、ハムレットの航海によって、あるいはオイディプスの尋問の結果によって示されている。主人公は行動を起こすことが可能になるということだ)。未来を発見する第三の時間に関してはつぎのように言えよう。すなわち、その時間が意味しているのは、出来事や行動は、自我の一貫性を排除する秘密の一貫性を有しているということであり、その秘密の一貫性は、出来事や行動に等しくなった自我に背を向け、まるで新しい世界を孕むものが、多様なるものに目覚めさせる対象の炸裂によってもぎ取られ散らされるかのように、自我を無数の断片に砕いて投射するということである。」(P147)

 このような自我の複数性のイメージは、カントが死んだ他なるものと唯一の生きる統覚意識によって与えた自我のイメージをまさしく反対の像として彷彿とさせる。つまり失われた神の知的直観のイメージの再発である。多が多なるものでありながら、それでも一なるものに服属しないで、活動しているという形象である。

 しかし結局のところこの<秘密の一貫性>の秘密の開示はされたと言えるのだろうか。

 とりあえず、われわれはドゥルーズが与えたもう一つの規定を指摘しなければならない。それはかようにして行動の形象に接合された、いわば本来的な時間形象が、本来的でない過去と現在の形象を<条件>と<作用者>として駆逐するということである。

 「さてこうなると、現在と過去は、以上のような時間の第三の総合においてはもはや、未来の二つの次元でしかないのである。すなわち、条件としての過去、そして作用者としての現在。習慣の総合たる第一の総合は、過去と未来が依存している受動的な土台において、生ける現在としての時間を構成していた。さらに、記憶の総合たる第二の総合は、現在を過ぎ去らせる別の現在を到来させる根拠という観点から、純粋過去としての時間を構成していた。しかし第三の総合においては、現在はもはや、消去されるべく予定された当事者、作者、作用者でしかない。過去はといえば、それはもはや、欠如によってことにあたる条件でしかないのである。所産がその条件に対して無条件的な性格をもっていること、および、作品がその作者もしくは当事者に対して独立していることを、或る未来が同時に肯定するのだが、こうした未来を、時間の第三の総合が構成するのである。」(P153)

 キルケゴールが<前進的過去>と呼び、ハイデッガーが本来的過去とした<反復>の、その哲学のプログラムは以下のような様相を帯びる。

 「馬手でハビトゥスと戦い、弓手でムネモシュネと戦うこと―――【中略】―――記憶という根拠を、欠如による単なる条件へと変えること、またそればかりでなく習慣という土台を、「ハビトゥス」の破綻へと、作用者の変身へと変えること―――作用者と条件を、作品あるいは所産の名のもとに追放すること―――」(P153)

 そういうわけで、ドゥルーズの言説にあっては、受動的総合論が時間の価値論というようなものによって、限りなく不透明になる。結局は受動的総合としての現在=習慣は破壊され、受動的総合としての過去=根拠は無根拠化されるのである。それは時間の空虚な形式によるとされるが、この形式はもっとも形式的な表現によると、<時間の円環>の解きほぐし、直線化である。

 受動能動論としては、次のように言わなくてはならない。ドゥルーズの一つの志向性として、受動的総合の上に能動的総合を関係づけるという構造的受動能動体の構築がある。それはほとんどすべてを説明しようとする。そこでは受動的総合を遂行する主体は<幼生の主体>と呼ばれる。

 しかし、差異の哲学として、同一性に荷担する表象を拒絶するという根本的動機のもとに、受動性と能動性が円環を成すというようなハイデッガー的形象は否定される。あとに残るのは、受動性と能動性がばらばらになるということ、自己的には<幼生の主体>の<ひび割れ>であり、時間的には直線化である。

 おそらくりクールを参照したこの<ひび割れ>議論は、<秘密の一貫性>なるものを名称化せざるを得ない。しかしながらこの秘密の一貫性が何なのかということを、少なくともこれが出てきた場面である受動性と能動性という概念によって改めて問いにするということは、ドゥルーズにおいてなされることはなかった。それは「多様なるものが自己において炸裂する」亜神学のようなものにおいて、いつのまにか揮発してしまったといえよう。

 しかし、代わりに登場するのが、<条件=過去>と<作用者=現在>であり、これはまた作品や所産によって自己消滅するというならば、このことは、言ってみれば、この過去と現在に与えた命名が、それ自体受動と能動の分裂と消滅とを一瞬の内に表現しているとは考えられないだろうか。

 受動性と能動性、それは彼方というような形象と結びつきやすい。それは姿を見せるときにすでに消滅するような動向を帯びている。一方で静的な受動能動体を構築的に記述しながら、他方で受動と能動の極点でこの二つが自己消滅する、そんな動向において、まさにドゥルーズの受動能動性はカントのそれのダブルだったという印象である。

ixtlan@eleutheria.com    2001/12/07   



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