GNOSIS U           Boris Mouravieff


1972 les Editions de la Baconniere, Neuchatel(Suisse)


 −また我に言ふ。この書の預言の言を封ずな、時近ければなり。不義をなす者はいよいよ不義をなし不浄なる者はいよいよ不浄をなし、義なる者はいよいよ義をおこなひ、清き者はいよいよ清くすべし。 −視よ、われ報をもて速やかに至らん、各人の行為に随ひて之を興ふべし。
 −我はアルパなり、オメガなり、最先なり、最後なり、始なり、終なり...
 −われイエスは我が使を遣わして諸教会のために此等のことを汝らに證せり。我はダビデの根なりその眷属なり、輝ける朝の明星なり。
 −精神も精霊(1)もいふ。『来たりたまへ』。聞く者も言え『来たりたまえ』と、渇くものはきたれ、望む者は値なくして命の水を受けよ。                (『黙示録』 XII 10-17)
[P.7]

(1) ギリシャ語テキスト:νυμφη  スラブ語テキスト:HEBECTA(許嫁)  ヴルガダテキスト:sponsa

(訳注)上記引用の訳は『奮新訳聖書文語訳』(日本聖書協会)による。


 『グノーシス』の出版以来、著者と読者との間にひとつの交流が、直接に、あるいはエゾテリックキリスト教研究センターを介して始まった(1)。ここで一般的な興味からたくさんの質問が生じ来た。著者はそれらにこの第二巻の序論で答えるよう努力する。この対話を将来追求することはさらにうれしい。
                                        ジュネーヴ 1962年 6月24日
                                        エルヴェチック通り、34
[P.9]

(1) この書の終わりの注を見よ。



序   論


 グノーシス の最初の巻は伝統的教えのエクソテリックなサイクルに捧げられる。この巻はメソテリックなサイクルに関わる。第三巻はエソテリック本来のサイクルに応ずる。

 体系的な 伝統的教えにおいては、各サイクルは公共的な教えの三段階にそれぞれ対応しているのである。つまり
  1 エクソテリックなサイクルは最初のエソテリックな教えに対応する
    ようなものとして、学ぶ者に作業道具を与える。それは教義のいわ
    ばABCを構成している
  2 メソテリックなサイクルは、第二の教えとして、一般教養の要素を
    学ぶものに伝える。そして彼に方法を提供する。
  3 エソテリックなサイクルは最高の教えに対応する


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 公共的教育と同様、まじめな エソテリックな教え全般において、第一の教えはその本性からして、いつもほとんど画一的であると指摘しておいた方がよい。第二の伝統的教えは、その俗的類似物と同じく、最初の種別化を与えるものである。時代において古典的であるか現代的であるか、あるいはエソテリックな領域においてもまた 聖的 であるか 俗的 であるかという区別である。第三の最高の教えの方は二つのものに種別化されている。

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 一般的に、最初の教えを通過しなければ二番目に達することはおぼつかない、あるいは前もって第二の教えの内容に習熟していなければ最高の教えに向かうことはできない、ということが認められている。この段階づけは、人類社会の文化的エリートの活動的部分に向いている人物を自動的に選別する作用をしている。エソテリックな領域においても事態は同様である。

[P.11]


少なくとも理論的にはそうである。実践的なものにおいては、人はしばしば奇妙な現象にぶつかる。たとえば、代数学を学ぶことなしに、ニュートンの二項式の特性について議論することなどしない。そうでなければこの主題に向けられるあらゆる意見は価値のないものになるからである。エソテリックな領域においては、しばしば、この種の知識の基礎を前もって学ぶことすらせずに判断してもいいのだと、おうおうにして信じられている。

 おまけに、人はしばしば、エソテリックな知識について、真理 は単純なものでなければならないという一般的に認められる原理に基づいた 単純さ を要求するのである。そこで、人は真理への接近も単純でなければならないし、そこに導く方法もまた容易に習熟されると信じるのである。このテーゼは完全に 正しい のであるが、ただし、我々自身もまた 単純 であるということを条件にしてである。つまり福音的な意味で 義 juste であるとしてのことである。不幸にして、我々の987個の微少な 自我 moi の無秩序という事実からして、我々は単純ではない。そこで、我々の内的無秩序の腐敗した状態から、原初的な単純性に向かうためには、辿らなくてはならない長い道があるのである。無知の 僻地 から タボールの光 へと探求者を導くのは である。

 経験の教えるところによれば、一種の公準 axiomと受け取られたこの<単純性>の教義は、実践的には、学ぶ者を いのち に導く狭き門と からそらせる1。この反−真理 contre-veriteに押されて、かの者はこの門の前に立っていると信じているであろう。現実には、疑いなく完全に良き信念からであるが、かの者は、神のいやが上にも大なる栄光のために ad majorem Diaboli gloriam もちろん滅び2に至る道の途上にあるのである。

 この 単純性の教義 は、それ自体として正しいのであるが、誤って解釈され、我々の心をあまりに損なう罠であり、気づき、避けるべき危険なのである。

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 繰り返しておこう。東方の 正統的伝統 によるエソテリックな最初の教えはこの『グノーシス』の最初の巻がその手引きとなっている。それは 知識 のA、B、C以外のなにものでもない。ところが、しばしば人は『グノーシス』は難しい読解の書であった、ということを言う。テキストが特殊な語を使用しないとはいえ、この指摘はある程度根拠がある。すなわち、扱う材料がそれ自体単純ではない。難しい材料を苦痛なしに学ぶことができると主張することができないのは理の当然である。また他の人は説明の明快さを引き合いにだしている。このあきらかな矛盾は、この著作が限られた公衆あてのものであること、その本性、教育、エソテリック文化に対する個人的経験により、あらかじめ方向づけられた読者あてのものであるという事実によって説明される。しかし『グノーシス』の伝播は予想を大きく上まわった。この著作がそこに反響を見いだしたエリートは広範囲なものであることが明らかとなっている。

[P.12]
1 マタイ、VII、13-14; ルカ、XXIII、24
2 マタイ、VII、13

 しかし『グノーシス』の伝播は予想を大きく上まわった。この著作がそこに反響を見いだしたエリートは広範囲なものであることが明らかとなっている。

 この 序論 は一般的レベルの問題を越える人たちに向けて書かれており、とくに 目的仕事 へ連なる質問に向けてのものである。この二つの点は内的に関係しており、いわば同一の問いの二つの面のみを形づくっている。

 聖ルカによる福音書に引かれたとても古い格率が問題を提起する。「働く者はその報酬にふさわしい。3」この格率は「神の王国は近づいた」5ことを人々に知らせるために「狼の群の中に羊」4を入れるがごとく、70人の弟子を使わしたという文脈に置かれている。

 エソテリックな領域においては、俗界の出来事におけるがごとく、人は従事している仕事のために働くことで報酬を得る。しかしながら、外的 な生、影響<A>のもとにある生は働くことなしに糧を得る可能性を残しておく。たとえば思弁のように。あるいはまたあらゆる種類の罰せられることのない濫用のように。さらに他には多かれ少なかれまがいものであるやり方によって。しかし人間的掟によって決められた限界を超えることはない。このように影響<A>の領域にあって働く人間たちには、一般法則によってかなり大きな寛大さの余地が残されているのである。この俗界の子らは光の子らよりも巧みである ということはまさに彼らに言われているのである。忘れてはならない。イエスは不実な摂理 economie に関する有名な寓話の最後にこの結論を置いた6。これに対して、エソテリックな領域においては、働く者が自分で望む結果に値する量と重要性を持つ仕事を満たさなければ、純粋な真なる、従って 美しい ものは何も得ることができない。逆にこのエソテリックなレベルでは、いうまでもなく、自分自身のために人が得る結果の重要性は、なされる奉仕 services といつも質的量的に等価である。

 ここに強調したいのは、純粋な真なる、従って 完全なる ということである。というのはいわゆるエソテリックといっても 不純な 結果を手に入れることも可能だからである。それらは 間違った一過性 のものである。

 オカルティズムの広大な領域について一言言っておこう。俗界の子らは光の子らより巧みであるが、目に見える世界を越えて彼らの巧みさを適用しようとする。我々はこれを<現象主義的神秘 mystique phenomenaliste>と呼んでいる。これについてはあとでまた触れることにしよう。

[P.13]
3 ルカ、X、7; マタイ、X、10
4 ルカ、X、3
5 ルカ、X、9
6 ルカ、XVI、8(スラヴ語テキストによる)

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 したがって、もしも探求者が 個人的な 、よって 不純な 満足をそこに直接求める欲求に押されて、不十分で不満足な否定的位置から出発し、エソテリックな領域に接近するならば、この道において彼は遠くまで進むことができないだろう。固執すればそれは失敗である。というのは出発点における概念の誤りが彼を無自覚にもこの<現象的神秘>へと導いてしまうからである。その能動的な active 形にある場合については、この著作の第一巻に触れておいた。7
 学ぶ者は、真の満足、福音が語る 報いを、エソテリックな原因に仕えることなしに発見することはできない。
 実践的結論に先立つものを注意深い読者は引き出すだろう。すなわち、ます最初に真のエソテリックな仕事を発見することである。それはこの世界で成就される。この仕事において有益 utile であり、またそこで能動的役割を取ることである。
 ここに刈り取る者の寓話の意味がある。それはこう言われている。

刈り取る者は支払いを受け取る。そして永遠の生のための果実を積み上げる。種を蒔く者と刈り取る者がともに喜ぶためである...私はあなた方を刈り取りに遣わす。それはあなた方が働かなかった分を刈り取るためである。他のものは働いた。そしてあなた方は彼らの仕事に入った。8
 (「刈る者は値を受けて永遠の生命の実を集む。播く者と刈る者とともに喜ばんためなり...我なんぢらを遣わして、労せざりしものを刈らしむ。他の人々さきに労し、汝らはその労を収むるなり」日本聖書協会,文語訳,JL63)

 この巻の第五章で、我々はエソテリックな角度で見られたアダム的人間の歴史の進化について、一般的外観を与えることにする。
 地の上の有機的な生 はその頭にアダム的人間をもち、絶対II、キリスト、神の子の庇護のもとで進化する。それは人間の間で活動する agit 。それは有益でありうる人間、つまりこの行為において能動的部分 part active を果たしうる人間の間で活動する。
 それは影響<A><B>を区別することによってである。探求者は<刈り取る>者や者たちとの関連で、これを自分に課すのである。したがって、もし彼が自分が活動する agit ことを良く理解するならば、 彼自身もまた彼らの仕事に入ることを試みることができる。これまで何度もこだわってきたが、今一度繰り返そう。それは 有益 utile でありうるという厳しい条件においてである。エソテリックな事柄においては、えこひいきとか、寛容とか、大袈裟とか、さらには慈善的制度 institution de bienfaisance とかが存在しないからである。それらには影響<A>の範囲を超えない態度がある。エソテリズムにおいては他のものより以上に、当然のことだが、人は彼が値するものに値するのである。

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[P.14]
7 『グノーシス1』P.74
8 ヨハネ、IV、36-38

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